小波で壊れる舟だから

 咲き乱れる紅い華。
 その真紅の花弁は犇めき合うように咲き乱れ、その形の良い花弁を歪ませる。葉脈は蕩ける蜂蜜の艶を帯びて、ゆったりとした鼓動の間隔で仄かに光を放つ。花弁の奥から頭を垂れる雌しべと雄しべは、妖精の鱗粉を思わせる花粉を撒き散らす為に、自ら揺れ鈴の音を奏でて華を揺らす。
 鈴木 樹はその様を、クリスマスのハンドベルのようだと思った。
 幾千、幾万と咲き誇る真紅の華の演奏は、年末にテレビで放送されている第九を彷彿とさせた。美しさも華やかさも荘厳さも踏みにじって、圧倒的大多数が歌う事で生み出されるひたすらの迫力。勿論、誰もがプロであると思う。だが個人の歌声を数という記号に置き換え、演奏を踏み躙る程の音量は彼らが大切にした優美さを蹂躙することに酔いしれていると思った。
 少しの衝撃で花弁が散るほどに儚い真紅の華は、樹が歩くだけで軽やかな鈴の音を響かせて散って行く。華は幻。花が咲き葉が茂り茎がまっすぐ伸びようと、それは大地に根付いては居ない。普通なら柔らかい土に生え茂る草花の常識を裏切り、この真紅の華はタイル張りの床の上に生えていた。樹が床に足を滑らせても、陶器のツルッとした面が水平に隙間なく敷き詰められている。
 真紅の華の演奏に、ざざっとイヤホンの雑音が割り込む。
『いつき…ど…したの?』
 愛らしい幼馴染の声に、樹は『ミオ』と優しく声を紡ぐ。
「フロワロの演奏があまりにも綺麗でね。ちょっと聴き入ってたんだ」
 まぁ! 南雲 澪(ナグモ ミオ)が笑った声が耳に心地よく弾ける。
『2020年の東京タワーを再現したゲームの中で、そんな余裕を見せるのって、私が知る限り樹しかいないわ』
 今は西暦2100年。進化したバーチャルリアリティを体験するゲームの中で、最高と名高いこのゲームの名は『セブンスエンカウント』という。舞台は2020年のドラゴン侵攻を忠実に再現した東京タワー。プレイヤーは武器を手に、ドラゴンを倒しながら最上階を目指し、ボスとなる竜を倒すゲームである。
 そのあまりの現実の再現度は80年前のヘッドバイザー型ではなく、今では筒状の機械にプレイヤーが入り込んで体験することで音のリアルさ体に感じる温度や香りに至るまで再現されている。また、体に装着したセンサーでプレイヤーの筋肉の伝達信号をキャッチし、ゲーム内では自らの体を動かすように自然に振る舞えるのだ。
 樹は刀を手に、ゆっくりと破壊されて荒廃的な東京タワーの中を進みだす。祖父から貰った鈴の音と真紅の華が奏でる音色がハーモニーになって空間に広がって行く。窓から見下ろせば真紅の華に埋もれた東京の街。空は厚い雲が垂れ込め、華の光を反射して夕焼けのような色に染まっていた。
 虚空を突く動作をすると、指先に半透明のウィンドウが展開される。そこには、現在の自分の位置、敵である竜の位置、などの様々な情報が表示される。親指と人差し指をつまむように近づければ位置情報が拡大し、逆に広げれば広範囲や別の階層を表示してくれる。敵のシンボルに触れればその敵の情報が細かく表示される。
 情報はリアルタイムで、敵が通路を壊せば位置情報で通路が通れなくなるよう更新される。敵のシンボルは移動し向いている位置が矢印で示された。ここまで詳細に表示できるのは澪の情報処理能力が高いからだ。『セブンスエンカウント』は敵であるドラゴンと会敵し戦闘をするプレイヤーと、索敵や補助をするオペレーターの二人三脚のゲームだ。プレイヤーの強さもさることながら、オペレーターの能力が高ければ奇襲や援助を行い戦闘を有利に進めることができる。
 ウィンドウの右下に、膨大な数字の羅列がある。樹の現在の獲得点数だ。
 その数字を見て、樹は不満げな声を漏らした。その真意を察して澪が小さく笑う。
『今の樹の難易度なら、ランキングで一番上の点数になるよ』
「この難易度ならね」
 スコア詳細を開けば、現在の樹の難易度のハイスコアランキングが表示される。一般公開された『セブンスエンカウント』では『for beginner』『de facto standard』『casual user』の順に難易度が設定されている。樹が現在プレイしているのは最高難易度の『casual user』だ。不動の一位であり続け先月殿堂入りした樹の名前はもう公開されているランキングにはないが、公開されているランキング一位の点数を樹は既にこの時点で超えていた。
 だが、非公開の『セブンスエンカウント』にはもう一つ、隠された難易度が用意されている。
 『test run』
 一般公開する前のテストモードであるが、内容は『casual user』とは比べ物にならない。そのために『test run』のハイスコアは樹の叩き出したハイスコアとは桁が3つほど違う。敵であるドラゴンは強ければ強いほど、討伐した時の得点は高くなる。樹の上に立つランキングに名を連ねた者の強さを、樹は点数から感じ取ることができた。
 樹の上に立ち続ける名前。
 その名前の持ち主こそ、樹がまだ見ぬ先輩達だった。
 『セブンスエンカウント』には一つの噂がまことしやかに囁かれていた。ランキング殿堂入りを果たした凄腕のプレイヤーを、『セブンスエンカウント』の開発会社が社員として採用するという噂。
 その噂は、本当だった。
『樹!』
 澪の言葉よりも早く、樹は敵の存在を感知していた。澪の索敵は同じフロアに徘徊する全ての敵情報を網羅していたし、迫り来る敵の足音は現代技術の粋を凝らした音声技術が現実さながらに再現する。巨大な敵の挙動はフロアの床を振動させ、その咆哮はガラスを震わせヒビ入らせる。
 軽い音が響いて砕けたガラスの隙間に、押し入るように強風が吹き込む。真紅の華フロワロの甘ったるい匂いを含んだ風は生暖かく、華を乱暴に振り回し騒音を撒き散らす。
 樹の目の前には古の恐竜を彷彿とさせる生き物が迫ってきていた。80年前のドラゴン襲来以前の常識であれば、ティラノザウルスと呼ばれるような巨大な顎、二足歩行を可能とした屈強な後ろ足と退化した前足、バランスを取るために巨大化した尾、そしてそれらすべてを覆う鱗。それは確かに恐竜と呼ばれる生き物に酷似していた。
 とある学者は言った。『かつて世界の覇者であった恐竜は絶滅したのではない。一時的に地球を去り、ドラゴンとして再び戻ってきたのだ』と。
 樹は目の前に迫る竜の名を知らないし、澪が教えてくれても覚える気もなかった。
 ただ、ゲームにおいて高得点になるというのだけ、分かっていれば十分だ。
 風が樹の長い黒髪をゆるりと巻き上げた。祖父が『樹は姉に似ている』と顔をくしゃくしゃにして喜んでくれるので、樹の髪はもう腰まで伸びていた。まっすぐな絹糸のような黒髪、都立高校の制服は白とアクセントにライムグリーンのリボンが際立つ。動きやすさを重視して膝上のスカートの下に、澪にオシャレだからとリボンと同じ色のハイニーソックスを履いている。靴は、無骨なまでの運動靴だ。
 無造作に肩幅に広げた両足から、大地を通して振動が樹を突き上げる。体が跳ね上がってしまそうなくらい、床が抜け落ちそうに思うほどに強く、巨体が床を踏み荒らしている。逃げ遅れたウサギもどきが、竜に踏み潰され湿った音を響かせた。
 樹はまるで携帯電話でも取り出すような何気なさで、腰に下げた刀に手を沿わせた。少し体をひねり、手が鞘を水平に握り込む。刀の鞘飾りに固定されたお守りの鈴が、真紅の華の奏でる音よりも澄んだ音色を響かせる。
 地響きのような足音の合間に、竜の荒い息遣いが混じり始めた。
 樹は目を眇めた。視界は狭まり、夕暮れ泥む世界のように薄暗くなる。竜が放つ強烈な音が遠ざかる。響くは、樹の祖父が与えてくれた守りの鈴の音だけ。
 鈴は細かく振動するような音を響かせる。まるで耳鳴りのように終わりの見えない、音の連なり。跳ねるように響く音は等間隔であったのに、テンポが乱れた。そう、竜が私を襲う距離を無意識に調整したのだと、樹は音から察した。
 一際大きく鈴が鳴った。
 瞬間、樹は刀を抜き放ち、確かな手応えを感じながら抜き斬った。
「すごい! 流石だよ、樹!」
 澪の歓声を聞きながら、樹は小さく微笑んだ。
 祖父がいつか役に立つかもしれないと教えた、抜刀術は免許皆伝にまで極まった。まさか、ゲームで役に立つなんて樹を含めた誰もが想像もできなかったろう。女にとって一生役に立たないかもしれない技術を褒める澪の言葉を、樹はくすぐったい思いで聞いていた。
 ふと、視界が霞む。ざざっとノイズが走った世界の中で、鮮明な蒼があった。豊かすぎる長髪は踝まであって体を覆っており、背を向けられた樹からは髪以外の特徴は何一つ見出せなかった。だが、その細い足首は女性だ。
 樹は戸惑いを隠せなかった。
 『セブンスエンカウント』は最大4人でパーティを組んでプレイするゲームだ。だが、仲間以外のプレイヤーと一堂に会する開かれたオンライン空間は、この東京タワーのエントランスのみ。この竜が闊歩する空間で単独でプレイしている樹が、他プレイヤーに出会うことはありえない。NPCもこのフロアには配置されていないのは、何度もプレイして把握している。
 誰だ。樹の問いが鈴の音になって響く。
 サラサラと絹糸のような青い髪のカーテン越しに、振り返る。白く生気とはかけ離れた陶磁器のような肌、唇は肌に溶けてしまいそうなほんのりとした桜色を載せ、頬も真紅の華の照り返しを全く受けない。瞳は暮れかかった夕暮れのような菫色に似合った、深い憂いで涙ぐんですら見える。服装は奇抜な若者ファッションで賑わう東京でも見かけない、まるで映画に出てくる想像上の衣類のようで着心地の良さそうな服ではなかった。第二の皮膚のようなタイツのような紺の上に、幾何学模様が折り込まれた布を何枚も重ね着して、達磨のような着膨れ具合だ。
「来る…」
 女性の声は電子音ではなかった。悲しみを吐息に混ぜた、悲嘆を紡いだ言葉。
「この地球の命運を分ける、大きな転機…」
 地面が揺れた。真紅の華も窓から見える外の景色もフロアの床も全てが、砂嵐のようなノイズに飲み込まれて行く。この揺れはシステムで再現されたものじゃない。樹は自分の本来の肉体から伝わって来る振動に、冷や汗が吹き出すのを感じていた。強制終了プログラムを起動させようと、虚空に指を伸ばす。
「どうか、選択を誤らないで…」
 女性は懇願するように樹を見ていた。ノイズも彼女を飲み込むに至らなかったのに、樹と彼女の間を強制終了の闇が乱暴に落ちて遮った。
『異常振動を感知。サービスを一時終了し、扉の開閉が手動に切り替わります。係員の指示に従ってください』
 電子音声の案内を聞きながら、樹の意識は真っ暗闇の中で覚醒する。座り心地の良いリクライニングシートに身を預けていた上半身を起こし、正面に手を伸ばして触れた壁を押すと光が闇を切り裂いた。
 機体が遮っていた音がなだれ込んでくる。まるで地震のような揺れは不気味なまでに長く続き、天井から照らす照明は落ちてくる不安を煽りながら右往左往している。人々の悲鳴が絶え間なく続き、尋常じゃないつん裂く泣き声も響いている。
 そして、樹がゲームで聞き慣れた竜の咆哮。
 樹が状況を把握しようと視線を巡らす僅かな合間に、澪が駆け寄ってきた。淡い黄緑色にすら見える色素の薄い髪色、絹糸にすら思える細い髪は腰を超えて伸ばされて二つに結わかれている。手足も骨が浮き出ている程に細く、胴体も肉付きが薄い。彼女の顔は青くはないが血色を欠いて白く、唇も桜色とは言い難い儚い色彩を色付きのリップで覆っているに過ぎない。それでも瞳は、樹を心配する思いで精一杯見開かれている。
「澪、大丈夫か?」
 頷く幼馴染を見ながら、樹は動き出す。セブンスエンカウントのプレイヤーの中で、樹は機体から出てくるのが早い方だった。続々と扉が開け放たれる場内を尻目に、開発会社ノーデンスのスタッフの誘導に従いながら早歩きで進む。駆け足をすれば澪が疲れて動けないのを、幼馴染の樹は心得て居た。
 世界でも屈指の災害に対応した国である日本は、地震や津波程度では統制を欠く程に混乱したりはしない。だが、人々は我先にと駆け、澪を壁際に庇って進む樹は、何度も押され何度も転びそうになった。出口の光が迫っていたが、その前には出口を通り抜けれぬ人々が大挙して押し寄せて黒々とした壁を作っていた。
 『早く行け』と誰かが言えば『行ったら死んでしまうと』悲鳴が返ってくる。ガラスを指で引っ掻くような雄叫びに一斉に身を低くした影の向こうに、翼を広げ滑空する巨大な姿が横切った。
「ワイバーン…」
 樹は呻いた。それはゲームの討伐記録では3桁に迫る竜の姿そのものだった。
「ここから逃れようとする人間を食っているのか」
 日向に白く炙られたタイルは、夥しい鮮血で赤く染まっている。もっとも出口に近い者は、逃げたり弾き出された者の末路を目の前で見てしまったからか、抵抗する表情は鬼気迫るものだった。顔からありとあらゆる液体を撒き散らし、嫌だ、押すなと泣き叫ぶ。
「ここ以外に逃げ道はないのか?」
 横に立つ澪に問いかけると、澪は携帯端末を操作する。澪の携帯端末は彼女自身が改造した結果、量販店や専門店で扱う物とは全く違う。彼女が言うには『秋葉原でこれと同じ物を買おうとしたら、桁が一つ違うんじゃないかなぁ』だそうだ。その白魚の細い指が画面を撫でると、まるで一斉掃射のように文字が画面の中をかっとんで行く。自ら光っていそうな蛍光色の瞳が瞬きすると、澪は悲しげに眉根を下げた。
「お台場から東京への臨海線が地下を走ってる。でも、地下鉄に行くまでは陸路しかないわ」
 百合鴎は空を舞うワイバーンから逃げ果せる経路にはなり得ない。ゲームの展開が正しければ、陸路を征く竜の方がいないとは言い切れない。ここを籠城の拠点にするのは難しいが、リスクを侵して臨海線を目指すのは無謀と言えた。80年前のドラゴン襲来で地下避難経路を作ってもよかったと思うが、ここ一帯は元々埋立地だった為に作れなかったと思われる。
「SNSの反応を見ると、東京方面は竜の姿は見えるし襲われてるけど逃げ場は多いみたい。シェルターの案内が出てるわ」
 澪がお台場のシェルター情報を言わないのは、既に満室及び封鎖の状態にあるからだった。
「ノーデンス社員向けの避難情報は?」
 2020年の竜襲来後、世界では竜襲来時のために避難準備を義務づけている。大手企業は各会社にシェルターを設備し、対竜用の武装は『YKL開発機構』が広く配置されているそうだ。樹の携帯端末がバイブレーションで震え、澪が送ってくれた情報が届く。この出入り口から少し離れた所に、対竜用の武器が置かれている。ちょっとした消火器感覚だ。
「一応、西・東棟で9つずつ地下シェルターが用意されてる。まだ受け入れ可の状態のが5つ残ってるよ」
 かつては国際展示場だった名残なのか、シェルターの量は一つの建物としては多いくらいだ。樹はにこりと不安顔の澪に笑いかけた。
「よし、シェルターを目指そう…!」

 ゲームと現実が溶解して一つになって行くのを、樹は駆けながら感じていた。
 走る感覚は『セブンスエンカウント』よりもはっきりしていて、対竜装備であるブレードの重さも感触も振る速度もゲームで馴染んだものと全く同じだった。樹と共に逃げてきた集団の中にはセブンスエンカウントのプレイヤーも多く、樹と同じ感覚を味わっている者も少なからずいたようだ。
 ナビの上手い澪と、セブンスエンカウントの殿堂入りランカーであった樹は、いつの間にか先頭を歩いていた。
 澪は携帯端末を駆使して、ノーデンスの防犯カメラの画像を見ることに成功したようだ。あぁ、と悲嘆を声にして漏らす。
「外はワイバーンがいて、いっぱい死んでしまっている。中にもリトルドラグが入ってきてるよ」
 殿を任されている屈強な男達が、対竜装備の銃を構えて背後を警戒しながら笑う。
「リトルドラグくらいなら大丈夫だろう」
「防火扉も閉めながら逃げてきてるからか、今の所追っ手も来ないしな」
 そう、ゲーム内では恐るべき強敵である竜だが、その行動パターンが生物的なものに由来するものは多い。それはゲーム内だけではなく、80年前に襲来した竜の動きや澪のナビゲートでも証明されている。壁があればそれを突破せず迂回するし、竜達の感覚センサーに引っかからずにいれば、やり過ごすこともできる。
 強引に突破する竜が現れない限り、防火扉は避難する者達を守る壁になってくれる。樹は小さい安堵を胸に秘める。
「貴方、バッテリー少なくなってるわ。あたしの充電機を使いなさい」
「でも…」
「良いから。貴方が一番ナビ上手いんだから、遠慮しないで」
 そう背後で澪と一緒に逃げてきている女性の声を聞く。
 樹は階段を下りきり、廊下を見る。廊下はがらんと静まり返っており、竜の陰はおろか人影も見えない。足音をできるだけ立てずに進めば、一番近いシェルターにたどり着いた。まるでテレビで見た銀行の金庫のような重厚感のある鉄の扉は、ぴったりと閉められている。
 樹がひやりとした不安を感じる前で、男達が扉の前に駆け寄った。シェルターは内側からでしか開かない仕組みだ。案の定『開かない』と声が響く。男の一人が乱暴に扉を叩いた。
「まだ満員じゃないだろうに! この腰抜けどもが!」
「静かにしろ!竜が近くにいたらどうする!」
 男を制止し取り押さえる人々の奥で、不安そうな力のない人々が樹を見ていた。樹は険しくなってしまった顔を和ませ、微笑んで見せた。
「シェルターはここだけじゃない。他を当たろう」
 樹の言葉にその場の誰もが頷いた。
 3つ目のシェルターにたどり着いた時、薄く開いた扉の向こうにいた男は「ここは、後5人で満員です」と囁いた。不安と恐怖に身を竦めながらも、扉を開け続けていた勇気ある男性に頭を下げつつ樹は振り返った。
 樹が率いる人々の数は増えつつあった。
 行く先々で逃げ遅れた人を回収し、他に逃げ惑っている集団と合流したりしていて、もはや一つのシェルターに収まらぬ人数が集まっている。停電が起きても、空気が汚染されても、数ヶ月は生きていけるよう設計されたシェルターの前提は『規定人数以内の人が中にいる』事である。シェルターに人が入るスペースがあったとしても、規定人数を超える人を押し込むことを無理強いすることはできなかった。
「子供達を先に入れよう。年齢が幼い子から5人だ」
 男達も樹の言わんことを理解していて、人波に消えて行く。すすり泣く女性が引き連れてきたのは、赤子から小学校低学年だろう子供達5人だ。子供達は親と離れるのを嫌がり、親は我が子を折れんばかりに抱きしめた。扉の前に押し出された子供達に、樹は膝を折り優しい声で告げた。
「頑張って生き延びる。約束しよう」
 子供達を押し込んで扉が閉まる。バタンと絶望的な音を耳にしながら、樹は足を止めた。
 受け入れ可能のシェルターは2つに減っていた。
 外に逃げる可能性は、やはり低い。たとえトラックなどで全速力で道路を駆けたとしても、空を飛ぶワイバーンの翼に追いつかれる可能性は高かった。巨大になれば健脚となる竜の種類が多いことは、ゲームでも実感している。
 さらに地下鉄を利用して逃げるとしても、地下鉄の高さと幅でそれなりに大きな種類の竜が立入れる。大きければそれだけで敗北のリスクが増すのだ。もう、地下鉄から東京へ逃げるという選択肢も魅力を失っていた。
 そうなれば、籠城だ。どこが安全なのだろう。地上は硝子を破って侵入される可能性を考えれば危険極まりない。防火扉を溶接し、地下の細い廊下で巨大種を制限すればリトルドラグ程度の相手で数日を凌ぐ事ができるだろう。その間に自衛隊が来れば、助かるかもしれない。
「残り二つ。ここにいる全員はまず入らないだろうな」
 樹の言葉を代弁するように、男の一人が言った。樹も同意するように頷く。
「その二つも別棟だ。入れたい子供を中心に移動しても、地上階に出るだけで大型の竜に遭遇する確率が増す。とても危険だと思う」
 『じゃあ、死ねば良いというの!?』そんな悲鳴を、他の誰かが塞いだ。
「籠城しよう。助けを待つんだ。澪、最適な場所はどこだか探れる?」
 澪は携帯端末を操作して、瞬き一つで樹を見上げた。
「多分、ここが一番良いと思う」
 樹は頷き、そして眉根を潜めて上を見上げた。蛍光灯が明滅を繰り返し、カチカチコチコチと音を立てた後にブンと消えた。そして足元から仄かな光が湧く。悲鳴と動揺からくる騒めきが、空間を支配する。
 フロワロだ。深紅の華が咲き、金色の花粉が暗闇を照らし出した。
 樹は目尻が切れてしまいそうな程に目を見開き、光が浮き立たせる人々の絶望しきった顔を見た。セブンスエンカウントを強制終了して1時間が経とうとしている。竜の襲来時、必ず咲き乱れるという真紅の華が大輪の花弁を広げ床を壁を天井を覆って行く。
 先ほど子供達を送り出した母親たちが、シェルターの扉に縋り付くのを男達が静止した。
「シェルターの中も華が咲いているだろうが、竜の爪が届かないならまだ安全だ」
 それは事実であり、気休めでもあった。2020年の竜襲来の時に真紅の華が放つ花粉の毒性を摂取させることで、今日を生きる人間は真紅の華に耐性があるとされている。しかし漆黒の華は強い毒性で死をばら撒いた過去があり、害がないかは今の樹達には判断できはしない。だが、即死しないなら、今しばらくは生きていられるだろう。
「とりあえず、竜の出入りを防ごう。防火扉の裏には防竜壁が落とせる箇所がある。手分けしてそれらを落とし、籠城の構えを整えよう。ここに残る者は真紅の華を踏み散らして欲しい」
 樹の言葉に人々は動き出した。出来る事をしなくては気が狂ってしまうと言いたげに、自分に課せられた仕事に齧り付く。樹もセブンスエンカウントのハイスコアを叩き出すプレイヤーだからこそ、彼らの先導に立つ程度の冷静さがある。樹は対竜用のブレードを手に、澪に並んだ。
「澪。食料を調達してくる。確か、レストランがあっただろう。ルートを設定して欲しい」
 トイレと水道はまだ生きている。必要なのは籠城するための食料や、防寒の為の布を手に入れなければならない。そのルートが安全かどうか、決死の覚悟で探らなくてはいけないのだ。
 樹は澪の転送してくれた画像を見ながら、『セブンスエンカウント』プレイヤーの男性達に声をかけて歩き出した。

 ■ □ ■ □

 1階まで吹き抜けた空間には、巨大な竜の影が真紅の華の光に浮かび上がり悠然と歩いている。小さいリトルドラグの素早い身のこなしが、絶え間ない真紅の華の交響曲を響かせていた。逃げ遅れた人間の姿はもはやなく、彼らが死んだだろう鮮血に染まった床が華の隙間に見える。
「やはり、かなり多くのドラゴンがいるな」
 偵察のために階段を上がりきった先で、床に屈み込みながら階下を伺う。樹と同じく『セブンスエンカウント』のプレイヤーである男達は、竜達から身を隠すように身を低くし武器を片手に樹の後ろから周囲を警戒する。
 日は暮れはじめ、ワイバーンの舞う影もガラス張りの壁に映り込むこともなくなってきた。しかしガラスが破られており、底冷えする夜気が樹達の顔をそっと撫でる。
 共についてきた使命感の強い警備員は、腰に掛けた鍵に手をやったようだ。
「この先にレストランがある。奥にはスタッフ専用のスペースも設けられている」
 樹の真後ろに警備員の男を付かせ、先に二人でレストランの中に入る。レストランはやはり相当の混乱があったようで、椅子もテーブルもなぎ倒され、食べかけの食事が散らかっている。それでも竜が踏み込んだ形跡はない。食料もおそらく冷蔵庫から失敬することができるだろう。樹は同行者に声を掛け、食材や調理器具を荷物袋に手早く詰めさせる。
 樹は鍵を持つ警備員の男と共にレストランを出て、華に触れないようにして奥のスタッフオンリーの表札のかかった扉に手をかける。鍵が掛かっていたが警備員の男が鍵を差し込めば、かちゃんと音を立てて扉が開いた。素早く入り込み扉を閉めると、華が咲き乱れてはいるが荒れた様子のないごく普通の休憩室がある。
「ひ、ひと?」
 踏み込んだ先で声が上がる。見れば、ロッカーと壁の隙間に女性が一人両足を抱えて涙目で樹達を見上げている。
「大丈夫か?」
「あ、あたしは大丈夫。ねぇ、それよりも他にこの制服を着た女の子見なかった? あたしとあの子は大親友だってのに、この大騒ぎでいの一番に逃げて行ったんだ。あたしは怖くてロッカー室でブルブル震えてるしかできなくて、ごらんの有様よ。ねぇ、見た?」
 樹と警備員の男は互いに短く目配せした。心当たりがない二人は小さく首を振る。
「ごめんなさい。私達は地下階で籠城しようと上がって来たから、この階の人達がどうなったかは知らないんだ」
「君も俺達と一緒に行こう。ここに一人でいるよりかは安心できるだろう」
 そう言って女性を立たせ、仮眠用の布団やクッションを手に戻る。男達もレストランに残された食材を全て防竜壁の向こうに運び終えた後だった。数日の籠城には十分な量だろう。樹が戻ろうと宣言し、全員に安堵の笑みが溢れた時、それは起こった。
 ウェイトレスの女性が、深紅の華を踏み抜いた。
 一際高い音が、吹き抜けた空間の隅々にまで響き渡った。
「走れ!」
 樹は男達を階段に押し込みながら叫んだ。
「地下の防竜壁を落としていい!逃げるんだ!」
 樹は吹き抜けを繋ぐ停止したエスカレーターを駆け上がってくるリトルドラグを向かい撃った。やや硬い皮膚を切り裂くと柔らかい肉を押しつぶすように、対竜用のブレードが食い込んで行く。対竜用ブレードは現代の技術で切れ味を最大に引き上げた刃で、『セブンスエンカウント』では最弱の防御力を持つリトルドラグはまるでバターを切るかのような手ごたえだった。斬り伏せられた大型犬ほどのサイズの竜を蹴れば、水っぽい音を立ててエスカレーターを転がり落ちて行く。
 死体を飛び越え襲ってくるリトルドラグを斬り伏せ突き落としながら、樹は素早く視線を左右に巡らす。隣の建物とをつなぐ連絡通路からは竜の気配はなく、上下階をつなぐエスカレーター以外にリトルドラグが上がってくる気配がないのを確認した。
 逃げれるか。そう身を翻そうとした時、殺意が樹を貫いた。
 空中を舞う翼竜と視線がかち合う。ふと緩んだ唇から、熱い息が漏れた。
「私は、ここで死ぬみたいだな」
 樹は悟っていた。覚悟もしていた。
 籠城の構えを敷く階段は、全て非常扉が下ろされている。防竜壁を落としていなくとも『壁』の存在は、多くの竜の侵入を妨げる。逃げる背中を見せ竜の目の前で扉を閉めたり、扉の前に立って気配を竜に悟らせない限り大丈夫。樹が逃げさえしなければ、『壁』の向こうは安全でいられる。樹は『壁』の向こうの人々の為に、大事な幼馴染の為に死ぬ覚悟を決めた。
「来い! ゲームのように殺してやる!」
 ガラス張りの天井を突き破った翼竜の鋭い一撃を、樹は床に張り付くことで避けた。だが樹の背中を、想像を絶するような密度が過ぎ去って行った。腕を掠めただけで腕だけでなく体ごと分断されてしまうような力に、樹は身体中から冷や汗が吹き出るのを抑えることができなかった。逃げたい。震える腕が体を跳ね上げ、足が踵を返して掛けるのを我慢できない。逃げれば、皆を危険に晒すのはわかっていた。でも、目の前の脅威は樹の理性を翼で吹き飛ばし、恐怖を具現化して襲いかかる。
 樹は立ち上がった。腰が引けて、足も体も小刻みに震える。これは『セブンスエンカウント』というゲームではない。死が、高校生の少女の鼻先に突きつけられる。覚悟が揺らぐ。
 逃げたい。逃げよう。そうだ、澪に、じいちゃんに、父さんと母さんに会いに…。
 りぃん。
 鈴の音が樹の思考を裂くように響いた。澄んだ、ワインのグラスを指先で弾くような高く長く余韻を残す音色。鈴の音は、邪悪を払う。邪悪とはね、悪い奴というだけではない。自分の弱さ、愚かさ、そして興奮を払ってくれる。祖父の言葉が樹の記憶から諭すように声を掛けてきた。
 私は、この竜に勝てないだろう。樹は対竜用ブレードを突きの構えにして、旋回しこちらに向かってくる竜を見据えた。あれほど風の音と華の鈴の音と竜達の咆哮で五月蝿かった空間は無音なほどに静まり返り、樹の携帯電話のストラップに付いている古めかしい鈴の音色だけが響いている。竜の動きは、まるで水飴の中でもがく昆虫のように緩慢だった。
 だけど、逃げて、皆を危険に晒すことは、最悪な敗北だ。
 樹は飛び上がった。顎を開け樹を一飲みにしようとする口腔を飛び越え、両眼のちょうど間の眉間らしい盛り上がりに垂直に刃が吸い込まれて行く。
 次の瞬間、音が、衝撃が、竜の巻き上げた風とともに樹を襲った。
 鼓膜が破られるほどの轟音は竜の悲鳴。衝撃は樹の体を容赦無く弄び、まろび転ぶ竜に巻き込まれ人形のように打ち据えられる事だろう。急所に穿たれた刃の激痛に、竜の胴体は床を粉砕しながら奥へ突っ込んで行く。このままでは壁に打ち付けられ死ぬだろうと、樹は一瞬の間に思うことはできたが、だからといってどうにかできることはない。ただ竜の暴力的な勢いに飲まれ、共に壁にぶつかって死ぬ。頭を庇う余裕すらない。
 ふと。
 樹の横から何かが触れた。それは優しい春風のように樹を包み込み、樹の体は横ざまに攫われる。手が柄から強引にもぎ離された激痛に視線を向けたのと、横から竜が激突したんだろう破壊音が響いたのは同時だった。
 なにが。樹が空の両手を呆然と見下ろしていると、右側がやけに暖かいのに気がついた。
「勇敢な人だ。尊敬に値するよ」
 言葉が降り注いで見上げれば、樹は同じくらいの青年に抱き上げられていた。榛色の髪の隙間から見える翠の瞳は、言葉通りの真摯な輝きを秘めて樹を見下ろしていた。着込んでいるのは自衛隊の隊服。樹は助けが来たのだと理解が、なかなかできずにいた。
 鈴の音が鳴り、祖父が言う。お礼はきちんと言わねばいけないよ。
「ありがとう、ございます」
 青年が笑った。場違いだと思うが、心の底から望んでいた表情だった。