亡国の帝王
47度目の満月の夜『星降りの夜』
天空から多くの星々が舞い降り、その星々に願い事をすれば一つだけ願いが叶うと言われています。その年は異世界から来た少年が、連れ去られようやく再会した姉と元の世界に戻る事を願いました。
だからといって彼が去った世界が寂しくなる事はありませんでした。その後も少年は青年になり、その腕前を上げる為に訪れていたのですから…。
□ ■ □ ■
今やアッテムト鉱山を中心とした大地は死の大地だ。鉱山の深部に空気を取込む筈の穴からは、内部から発生した毒々しいガスが吹き出ている。その黒いガスは空気より重く、周囲を山々に囲まれ谷底に位置するアッテムトの町を黒い水の中に沈めるかの様に溜まっていた。僅かに残った命を救おうと汚染された水であろうと治癒に使おうとする治癒師。もはや鉱山に潜る事も出来ず大地を掘り将来の己の姿を埋めて行く男。生きる可能性のある人々は尽く逃げ去った後なのか、残った人々は建物の影の如く緩慢に動いていた。
己は無感動にその結末に向かう行方を睥睨した。
金でも採れないかと戯れに訊ねてきた鉱夫の願いを己は叶えた。それは色褪せるにはまだ早い最近の記憶である。金脈を掘り当てた事が知れ渡ったアッテムトは、一攫千金を望む多くの人間が瞬く間に押し寄せた。食べるものも不足し清潔すら保てず病気すら蔓延する中でも、人間の欲望は勝り死者の亡骸を踏みしだき集まり続けた。
異変は人々の歓喜の絶頂にひっそりと現れた。
坑道の深い闇の中で、乾いた咳が響き始める。一人一人と奥深くで金を掘っていた男達が死んで行ったが、誰も顧みる者は居なかった。炭坑は舞い上がる砂埃を多分に含んだ空気が充満していて、おまけに補強する間も惜しんで掘り進む為に崩落が深刻だった。誰が何時死んでも可笑しく無い、熟練の鉱夫の言葉も手伝った。空気が淀んだ坑道の熱気と汗の匂いが充満する中で、遺体は腐って行ったがそれすらも新たに掘った土砂に埋めて蓋をしていく。それでも匂いは消えない。酷くなる。酷くなる。
ついに誰かが墨のような物を吐いた。驚いて振り返り苛立つ者が怒鳴りつけようと息を吸い込んだ僅かな静寂の中、その音が耳に付いた。その音は何か空気が押し出されるような小さい小さい音だった。不安が脳裏を掠め、人々は明かりを見て悟った。空気が黒い事。それは周囲が暗闇であるからとか、砂埃が舞っているからではない。黒く垂れ込める毒を己等が吸い込んでいる事を…。
とっさに逃げた者は賢明であっただろう。
欲望に取り憑かれ、留まって掘り続けた者は愚者であっただろう。
しかし、運命は賢者も愚者も殺すだろうと思った。好奇心の強い魔物が欲望の最果てを覗きに行けば、そこには人間にとって絶望が魔物にとっては希望があったからだ。地獄の帝王と呼ばれ、竜の神と天地を分つ争いをしたというエスタークがそこに封印されていた。魔物達は己の下にやってきて封印を解き、この世を魔物の天下にして欲しいと願った。
それを叶える為に、ここに居る。
広大な空洞には上下に貫く無数の柱によって支えられていた。今の時代では決して見る事の出来ない異質な建造物の数々が、夥しい植物の根に覆われている。何気なく漆黒の革靴の底で土を払えば、見た事の無い不思議な鉱石を敷き詰めたタイルが覗く。鉱物は光を蓄えるのか自ら発光するのか定かではないが淡く光り、夜目の利かぬ輩でさえ躓く事無く後から続く。
周囲は高温と言うべき熱気に包まれており、後続が心得顔でフバーハを掛けてくれたのを感じた。粘り気さえ感じる黒い空気は羽のある者が払い、己の毛皮の重厚なマントは羽のような軽さを留めている。このような未知なる領域に不安を感じ声を出すだろう小心者でさえ、息を殺し破裂寸前の心臓を壊れ物を抱くかの様に踞り進む。無言の行進を押しつぶすような気配が歩を進める度に理解出来るのだろう。
己も脳裏を掠める死のイメージを払拭出来ずに、手の平が汗ばむのを感じた。
微かに吹く風が銀髪の前髪を揺らした。その風が上から吹いて来る事に気が付き見上げると、驚きに身が竦んだ。
巨大な彫像だと思っていたものは、巨大な魔物そのものだった。まるで完全な肉体美を再現したかの如く堂々たる体躯は、見上げる我等を蟻の様に思わせる。床に突き立てられた三日月刀はどれくらいの年月を経たのが想像もつかぬのに、欠け一つ見られず周囲の物を映し込む。巨大な口が時折覗けば、尖塔の屋根と同じ大きさの鋭い牙が整然と並んでいる。瞑目し眠っているだろうに、その存在感は芸術のように優美だ。
エスターク様だ。エスターク様だ。細波の様に眠りし帝王の名が響き渡った。周囲の魔物達が歓声を上げ、中には涙して平伏す者も居る。
己もまた安堵するのを感じていた。
地獄の帝王と恐れられたエスタークが実在したのは確かに驚くべき事だった。目の前にして実感するは、かの存在は果たして本当に魔物達の味方となり得るかという事。過ぎたる力は願望を叶える力にはならず、自らを滅ぼす厄災と化す事がある。偉大なる助力が得られると思慮深い者でさえ勢いに呑まれているとなれば、増々危険だと思っていたからだった。しかし、目の前の存在は深く眠り付き無力。危険を遠ざけ力を貸し与えてもらう為の様々な方法を模索する時間が与えられるだろう。
己が僅かに息を吐いた時、僅かに空気が震えている事に気が付く。体が危険の為に思考を無視して猛然と跳躍した。衝撃波が走り、多くの悲鳴が破壊音の中に呑まれてしまう。素早く視線を巡らせれば、帝王は変わらず鎮座して大地の鼓動のような単調な寝息を立てている。
「全く。エスタークは寝相が悪くていかんな」
聴覚が声を捉えた。まるで陽光が燦々と降り注ぐ中『あぁ朝か』と呟くような、この場に似つかわしく無い響きを持った独り言。己が空中に静止し見下ろすと、エスタークの足下に立つ一人の青年が居た。
青い装束に金の柄の長剣を携えた青年は、こちらを見上げて不敵に微笑んだ。その肌は陶磁のように滑らかで白く、その髪は細く柔らかい銀色である。この暗色と淡い蛍光色の織りなす空間の中で、青空のような目の覚める青い衣は卸したてのような鮮やかさ。瞳は紫電を帯びたような力強い光を散らし、自ら発光するかの様に感じられた。男としては小柄な青年は、王者の様に悠然とそこにいた。
「君等が来たから眠りが浅くなったのだろう」
青年は色も厚みも薄い唇を持ち上げ、微笑んだ。
目の前で死に足を掴まれ引きずり込まれんとする魔物達の喘ぐ声を聞き、内蔵をぶちまけ尚死にきれぬ醜態を目にしても嫌悪一つ滲ませない。この長らく見つかる事の無かった金脈の下に封じられていた遺跡。そこに眠る帝王の足下に、人間が居る事すら有り得ない話である。しかしその魔性を帯びた微笑みは、多くの魔を見てきた己ですら背筋に寒いものが走るには十分なものを秘めていた。
「エスターク、少し黙っていろ」
それは知覚するに一苦労する程、刹那の出来事だった。
青い青年が剣を抜いた瞬間すら目に留められず、己が目にしたのは剣を抜き放ち地獄の帝王と呼ばれた巨体を壁に打ち付けた姿だった。稲妻が至近距離に落ちてきたかのような轟音と衝撃が、空中にありながら襲って来る。青年の頭上には一部屋に相当しそうな巨大な岩石が雨霰と降り注いだが、青年はまるで小雨の中を歩くような足取りで己の前までやってきた。
対話の姿勢を見せている青年の前に、警戒を怠らぬも地面に舞い降りる。
未だ寝息を立てて眠る帝王を一瞥すると、青年は愉快そうに微笑んだ。
「少しでも放っておくと直ぐに野生化してしまうのが悪い癖だな。でも勇敢でよく戦ってくれる」
まるで我が子を評価するような慈愛に満ちた響き、子守唄を眠そうに謳う様な声色であった。己は青い青年が何者であるのか、問うてみたい気持ちに駆られた。その言葉の端々から感じるのは、エスタークを良く知り、そして人の形をしておきながら魔に近い存在に感じたからである。そしてこの力量。何から問いかけるべきか、言葉すら慎重に選んでしまう。
その時、青年は己に視線を向けて言った。
「君等はエスタークの力を借りにきたようだな」
そして待ち望んだ恋人が現れた様に、朗々と青年は謳った。
答えは出たかい?
その問いは己には全く理解出来なかった。生き残っていた魔物達を振り返ろうとしたが、背後には満足に返答出来そうな魔物の気配はない。今の一撃で死したか、それとも逃げたか。それでも己は魔物達から様々な事を聞き、地獄の帝王の事も全て調べ上げて尚伝説以上の事を知らない。竜の神と戦い封じられた邪悪なる帝王。それ以上を知る者は魔界に置いても居らぬだろう。
青年は答えに窮する己を見ても、気分を害する事は無かった。
「覚えていないのか。それだけの永い年月が経ったのだろうな」
感慨深そうに青年は視線を虚空に向け、そして剣を納めた。
「魔物達の権利を守る為、俺はモンスターマスターとして神に戦いを挑んだ」
青年は謳う。
魔物達には本能的に強くなろうとする意思があり、それを手助けする為にモンスターマスターという存在が居た事。彼等は異世界を巡り、魔物を従え、多くの出会いを取り持ち、凄まじい力を持つ魔物達を生み出した。時には魔王と呼ぶ程の力を得た者も居た。
魔物達は願望を叶え、良くマスターに仕えた。荒ぶる者を鎮める為に魔物は力を貸し、その力を得る為の機会をマスターは与えていった。
ある人間が声を上げた。マスターの下を離れ野生に帰って行く魔物達が、人間を襲うのではないかと危惧した。それは津波の様に世界中に到達し、ついに神すら動かした。
モンスターマスター達は声を荒げた。魔物達の願望を、権利を剥奪するのかと。
青年はエスタークを生み出し最前線で神と争った。戦いは永く続き、まさに神話の通りの激戦を重ねた。モンスターマスター達が引き連れた魔物達も次々に倒れては生み出され、勝機も敗北も見えず戦況は果てしなく続いた。誕生の瞬間すら見届け育てた魔物の死を見つめ、モンスターマスター達は肉体的によりも精神的な疲労の色が濃厚になってきた。
彼等が最後に選んだのは、この世界の事はこの世界の魔物達が選択するべきだろうという事だった。
そして大戦は休戦へ向かう。エスタークは封印され、モンスターマスター達はこの世界から去った。休戦とは名ばかりで、結果は青年を始めモンスターマスター側が大敗した形になっていた。
「魔物達は何を望んでいるのか。その答えを俺達は待っている」
青年は言葉を切った。まるで夢物語を目の前で見せられていた心地になっていたのか、己の思考が一気に現実に引き戻される。
そして紫電の瞳が己を見つめている。長い銀色の睫毛が幾度か瞬くと、薄い唇が淡々と言葉を紡いだ。
「お前のその力は幻だ。お前に縋る魔物達の意思は果たして本物か?」
その言葉の意味に己の体が硬直するのを感じた。
進化の秘宝。それは完成されたものである。多くの者の願いを叶えてきた。強くなりたい者は力を手に入れ、美貌を手に入れたい者は望みの姿になった。若くなりたいと望めば若返り、病から逃れたいと望めば病を消し去った。未完成なものを誇らしげに研究しているのとは違う、完璧な力。それを有しているのに、この青年は真っ向から否定する。
静かに言葉を聞くばかりの己に、青年は言葉を続けた。
「我々の力はお前のような魔法ではない。エスタークは俺の何もかもを費やした集大成だ。こいつが生まれるまでに何百という魔物達を育てたし、こいつがここまで育つのに途方も無い時間を掛けた。本物の力を借りて果たした夢など、自ら得た現実に比べれば砂上の城も同じ。そんな答えを求める事を我々は望んでは居なかった」
「なら、どのような返答なら満足したのだ?」
その言葉に、青年はそうだな…と遠くを見た。
「俺達の力なんて要らないとでも言って欲しかったかもな。まぁ、俺達の事も忘れてしまっては言い様もあるまい」
告げた青年の顔は寂しげに微笑んでいる様に見受けられた。
神に敗れこの世界を去ったモンスターマスターと呼ばれる者達。もし彼等が勝利していたとしたら、現在がどのような姿になっているかは想像もつかない。しかし彼等は魔物達の為に戦い、魔物達の未来を案じていたのだろう。青年は語らずに居るが、古の伝説に縋る程堕落していると知り落胆しているのだろう。
青年の背後にはいつの間にか青い淡い光が渦を巻いていた。この世界ではあまり見る事の出来ない旅の扉。先程までは無かった筈だったが、扉の渦から発する空気に青年の銀髪が吸い込まれる様に揺れる。渦の奥には見た事が無い魔物の影らしきものが見え隠れしている。
「エスタークはどうなる」
最後になるだろう間際に、己が問うていた。
我々ではどうにも出来ないだろうとは、この時点で全て判りきっていた。寝返りで殺されてしまうのでは、寝起きの機嫌が悪ければ今の魔物達では滅ぼされかねない。力ある魔族の軍勢でさえ押さえ込む事は出来ないだろう。
エスタークを生み出した青年は、その問いにひょいと首を竦めてみせた。
「寝るだけ寝てるさ」
見上げる青年の顔が曇った。
「人間が眠っているこいつを、悪と判断して殺しさえしなければな」
その表情は青年を最も人間らしいと感じさせるものだった。青年は人間を信じていない。しかし滅ぼす事が出来ないのだと、己の事の様に理解した。
その表情も一瞬で、青年は地獄の帝王の足をポンと一つ叩いて旅の扉を潜ってしまった。残ったのは淡い光が漂う中、寝息を立てて眠るエスタークのみ。その寝息すら先程に比べれば酷く穏やかだ。
帝王は何者にも干渉されず眠り続ける事だろう。
そうしたいと、己は思った。