光の教団 de そして舞踏会は閉幕する

「姉ちゃん…」
 俺はロト姉ちゃんの手を握りしめて、その顔を覗き込んだ。穏やかな呼吸、血色の良い肌。唇は今にも話しかけてくれそうな程に綺麗な桜色だ。時々閉じていた目が薄く開いて、虚空を見上げる。その瞳の色が虹色で、視界に映るように覗き込んでも全く反応しない。教団の客間だと言うベッドは思った以上に豪勢で、ふかふかのベッドに姉ちゃんが微睡んでいるようにしか見えない。
 魂が、世界に溶けた。
 俺は馬鹿だから意味が分からない。
 でも、姉ちゃんの今の状態を見れば、俺ではどうにもならないのは分かった。いつもの集中し過ぎて、俺達の声に気が付かないってレベルじゃない。
「どうして…こんな事しちゃったんだよ…」
 怒った姉ちゃんが振り上げた拳は、俺を一度殺した光の教団を叩き潰す為の拳だった。でも、その拳で教団を叩き潰すには、国を利用し、ヒーローズ達を欺き、俺達の命を危険に晒すって決断をして、姉ちゃん自身も容赦なく傷つける必要があった。笑顔が消えて冷たい表情の姉ちゃんが、自分の心が凄く傷ついているのにも気が付かない振りをしているって分かってた。
 止めたかった。そんな事をしないで欲しい。
 でも、止まらない。
 姉ちゃんが決めた事に、紹介所の皆は頷いた。『社長に付いて行く』って、姉ちゃんを止める奴はいなかった。誰もが光の教団に敵意を持っていて、その敵意を持たせてしまったのは俺の失態からだったから何を言っても無駄だった。
 俺は戦った。戦いか終われば、家族を止められる。いつもの日常が戻って来るって信じてた。
 それなのに…。
 俺は思わず手に力を込めていたのに気が付いた。姉ちゃんの手が真っ白になっていて、俺は慌てて力を抜いた。『ロレックス君、痛いよー』って笑う事も無く、姉ちゃんは横たわっている。なんて無力なんだろう。涙が出てきそうだ。
「アレフさん!」
 アインツの声が響いて、俺は顔を上げた。客間の開け放たれて扉に、アレフが駆け込んで来た所だった。
 少し離れていた所に居たケネスが立ち上がり、アインツは涙を浮かべてアレフのコートに縋り付いた。アレフがアインツの肩に手を置いて、安心させるように声を掛けている。歩み寄って来たケネスにアインツを預けると、アレフは足早にこちらに向かって来た。
 アレフは光の教団の一番抵抗の激しい場所の攻略を担当していた。特殊部隊の介入とタイミングを合わせたけど、相手はゾンビや魔物を扱うような教団だ。ヒーローブラックの力を持ってしても、熾烈な戦いだったんだって思う。身体は傷だらけでモッズコートがワインレッドに染まっている。顔は血の気が無く蒼白だったが、意識して歩いている為か足取りはしっかりして見えた。柔らかい髪はアレフ自身の汗で濡れて頬に張り付き、茶色い瞳は姉ちゃんを見ようと眇められている。
 疲労からか重たくも着実に向かって来るアレフの足を止めたのは、俺だった。アレフは俺を見て苛立たしく眉根を寄せた。
 なんでそんなに落ち着いていられるんだよ。心配じゃないのか? 横たわって何も言わない姉ちゃんを見て、何とも思わないのか? アレフ、俺、あんたの事、本当に信じてたのに! 姉ちゃんがあんなにも頼りにしてたのに…! 俺は裏切られた気がした。
 俺はその顔を見て、怒りが燃え上がったのを感じた。次の瞬間、アレフの胸ぐらを掴んで叫んだ。
「姉ちゃんが無理するって、知ってたんだろ! どうして止めなかったんだよ!」
 アレフが顔を僅かに歪めて、それでも感情を押し殺したように静かに言った。
「ロトが決めてしまった事を、俺が止められると思うのか?」
「止めろよ! こんな無茶させるなよ! 蘇生だって出来ないだなんて、死んだも同じじゃないか!」
 膨らんだ怒りは納まらない。アレフにこんなに激しく言い放ったのは初めてかも知れない。激しい言葉が、喉が燃やして苦しい。
 SICURA越しに、制作者は言った。
 世界に溶けた魂は、蘇生の呪文で蘇らす事は出来ない。世界を覗き見る事の出来るその人ですら、世界に触れる事は出来ない。世界に触れる事は、魂に触れる事とは全く異なる事であり、そこから魂だけを取り出す能力者を私は知らない。そう悲し気に言った。
 誰も、どうにも出来ない。
 これは八つ当たりなんだって、冷静な俺が諭す。だけど、言わずにはいられないんだ。
 アレフは分かってるんだろう。俺がこんなに怒鳴り散らしているのに、子供の駄々みたいに喚いているのに、まるで労るように穏やかだった。
「ロレックス。お前なら止められたのか? ロトの弟同然に暮らして来たお前なら、出来たのか?」
 懇願にすら聞こえたアレフの言葉に、俺は言葉を詰まらせた。
 ロト姉ちゃんは昔から『やる』と決めたら、絶対にやる人だった。どんな不可能な事だって、誰が止めに入ったって、決して止められやしなかった。義母ちゃんだって、爺ちゃんだって、笑って『やんなさい』と促すばかり。怪我をするかもしれない危ない事だって、『気をつけなさい』で流される。
 俺が何度止めただろう。
 『大丈夫だよ』
 そう、何歳になっても変わらない笑顔で駆けて行ってしまう。
 俺は追いかけるので精一杯だった。今でも、そうだ。
 力が抜けて解け落ちた腕の感触を、他人のように感じていた。ケネスの声が俺に同情するように掛けられる。
「ロレックス。俺達は、お前の言い分も分かってる。お前が光の教団に殺されたから、俺達がぶち切れて全面戦争仕掛けたんだ。そりゃあ、罪悪感もあるだろうよ。だが、お前がその罪を背負う必要はねぇ。俺達は1つの組織。責任は面倒だが連帯だ」
 アインツが俺の横に歩み寄って、脱力した手を包み込んだ。じんわりと温かい彼女の体温と同じくらい、温かい声が耳をくすぐる。
「ロレックスさん。ロトさんが全てを分かっていたとは、確かに思えません。でも、ロトさんはロレックスさんが大事だし、私達の命の事も凄く気に掛けて…」
「そんなの関係ない!」
 俺は怒鳴ってアインツの手を振り払った。吃驚したアインツが尻餅をついて、涙目で俺を見上げている。
「姉ちゃんが…こんな目に遭う必要なんか何処にも無いじゃないか!」
「いい加減にしろ! ロレックス!」
 まるで神鳴りが目の前に落ちたようだった。
 アレフの怒鳴り声は聞き慣れたものだったけれど、あれは本気ではなかったんだと思わされる。腹の底から出した音量は鼓膜を容赦なく揺さぶり、声に籠められた怒気は絶対零度にまで冷やされて肌に突き刺さった。瞳の色は殺意すら滲ます程に研ぎ澄まされ、真冬の夜空に浮かぶ月のような冷たい光を放っている。
 俺は怒りが凍り付いたのを感じた。アレフの本気の怒りは、俺の怒りよりも鮮烈だった。
「お前は、俺達がロトの事を何も考えていなかったとでも言いたいのか!?」
 そう言って、アレフは俺の横を通り抜けながら吐き捨てた。
「何も出来ない奴は黙っていろ!」
 振り返るとアレフはじっくりとロト姉ちゃんを覗き込んでいた。
 そして徐に顔を上げると、ベッド脇に寄って来たケネスとアインツに声を掛けた。二人はアレフの声に、心得顔でそれぞれに何かを取り出してみせる。アインツはまるで宝石のような若葉の入った透明な液体が注がれた小瓶を、ケネスは真鍮に細工を施したアンティークの小さい缶にストローが刺さっているようなものだ。持って来ていたイオナズンとイオグランデの矢は使い切って来た事を確認して、小さい缶から小さく出た突起に火を着ける。するとストローの部分から白い煙が溢れ出した。
「世界樹の葉をケネスさん厳選ブレンドで調合した、特製の世界樹の雫です! 調合の薬草は私が調達した分で十分に事足りました」
「で、特製の雫入りの水煙草な」
 アレフが小さく頷くと、ロト姉ちゃんに再び視線を落とす。
「ロト」
 アレフはロト姉ちゃんの顎を少し上げ、顔を寄せる。
「先に謝っておく。すまんな」
 アレフが躊躇い無く、ロト姉ちゃんの唇に唇を重ねた! 唇を触れさせるような軽いキスじゃない! ちょっとまって! アレフ、マジでなにしてんの!? それって深過ぎじゃね!? お伽噺のアニメに出て来るってより、俺達が見る大人向けの映像みたいなキスじゃねぇかよ! 見てる俺の方がなんか恥ずかしいよ!!
 唇を離すと、唾液が糸となって互いを結ぶ。
 俺が言葉を失う目の前で、アレフはケネスから水煙草の煙管を受け取って煙を吸い込んだ。そして盛大に噎せる。 
「お前……俺の調合に不満があるのか…?」
 身体を折って噎せたアレフに、ケネスは胸ぐらを掴んで容赦無い殺気を浴びせる。アレフは涙目になりながら、ようやく落ち着いた喉を励まして言い訳する。
「悪い! 俺は煙草は吸わんし、久々なんだ! 少しくらい目を瞑ってくれたって良いだろう!」
 アレフは何度か煙を浅く吸い込み、徐々に深く吸い込めるように慣らす。そして深呼吸の全てを煙管ですると、煙を吐き出さずにロト姉ちゃんの少し開いた唇に自らの唇を覆うように重ねる。二人が重ねた唇の隙間から、少しだけ煙が漏れているのを見ると姉ちゃんに吹き込んでいるようだ。
 全部を吹き込み終えると、アレフは何度か姉ちゃんの名前を呼ぶ。ケネスもアインツも、姉ちゃんに声を掛けた。それで反応が無いと見るや、再び水煙草の煙を吸い込んで姉ちゃんに吹き込み始める。
 見慣れて来るとまるで人工呼吸のようで、俺もどうにか冷静さを取り戻して来た。
「息を吹き込んでいるんです」
「息を…?」
 俺の鸚鵡返しの問いに、アインツがこくりと頷いた。
「息にはその人の魔力が籠っています。呪文を唱える為には声を発するように、息には魔力が宿っているのです」
「肉体は最も魂と親和性が高い器だ。魂が世界に溶けている状態のロトを呼び戻す為に、ロトの肉体に魔力を流し込んでいるんだ。声は世界に響くから、声掛けもワンセット。世界樹の雫の水煙草の煙で、肺から直接血流に乗せて蘇生の力も流し込める。アレフが吹き込み役をさせられているのは…あれだな、愛って奴だ」
 面倒だからって説明を省かないで下さい。アインツがケネスの脇腹を突く。
 実際は、アインツはファーストキスはとっておけとアレフに嗜められたのと、ケネスはタバコ臭いのが嫌とロト姉ちゃんに言われているから、そしてアレフがライフセイバーとして毎年夏は2桁の人々を救っている実績があるからだと説明してくれた。
「ロレックスさんが入社される以前に、2回程成功させている方法なんですよ」
 そ、そうなんだ。俺は『社長、起きろよ』とケネスまでもが声を掛けている様子に、慣れている感じがしたのをようやく理解した。
 でも、おかしい。最初のあれは、煙を含んでいなかったぞ。
「さ、最初のあれは?」
 思い出して顔を真っ赤にするアインツの横で、ケネスがにやにや笑いながら答えた。
「歯を抉じ開けたんじゃね? 歯が閉じてると煙が阻まれちまうからな。綺麗な手じゃねぇから、流石のアレフも先に詫びてただろ?」
 だからって…衝撃過ぎるだろ…。俺は先程の映像が脳内に再生されそうになったのを、頭がフラフラになる程に頭を振った。
「ア…レフ……?」
 掠れた声が聞こえる。俺達が一斉にロト姉ちゃんを見遣ると、虹色に輝いていた瞳が蒼に変わって行く。ロト姉ちゃんの手がぴくりと動いて、ゆっくりとアレフの頬に触れた。顔にふんわりと表情が広がって行き、とても嬉しそうにアレフを見上げた。
「アレフさんだぁ…」
 アレフが息を吐いて身体を引くと、入れ替えにアインツが飛びついた。
「ロトさん!良かったです!」
「社長。無事戻って来れたな。面白いもん見て来たか?」
 抱きついて離れないアインツの背を撫でながら、ケネスの問いにロト姉ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。まだ声はしっかり出ないけど、元気そうな口調だ。
「うん。すっごく綺麗な七色の鳥とか、翼の生えた真っ白いペガサスとか、後は金色のドラゴンとか見て来た」
 そうかそうか。そう笑いながらケネスが煙管に火を入れた。最高だ。そう呟いて嬉しそうに煙を吸い込んだ。
 ロト姉ちゃんは俺に視線を止めると、苦笑いをして招いた。俺が姉ちゃんのすぐ傍にやってくると、よしよしと効果音を言いながら頭を撫でてくる。
「ロレックス、泣かない泣かない」
「な、泣いてなんか…」
 俺は視界がぐらりと歪んだ。涙なんか見せらんねぇよ!俺は姉ちゃんに抱きついた!
「姉ちゃん!本当に良かった!姉ちゃんに、なんかあったら…俺…俺!」
「うんうん。久々に全部溶けて困っちゃった。でも、大丈夫。皆が迎えに来てくれたからね!」
 ぽんぽんと背中を叩く手が、嬉しい。姉ちゃんが戻って来たって実感出来て、涙が出て来る。さり気なく隣で姉ちゃんに飛びついていたアインツが、ハンカチを渡してくれたから泣いちゃってんだな。恥ずかしいけど、もう、そんなのどうでも良いよ。
「アレフさん、ありがとう」
 姉ちゃんが顔を上げて、アレフに言った。視界の外からアレフの声が降って来る。
「仕事だから、礼には及ばないさ。副社長の仕事は社長を支える事。お前が前に進めないなら…」
「担いで連れて行ってやる!」
「その通り」
 嬉しそうな姉ちゃんの声に、アレフも珍しく嬉しそうに声を弾ませた。ちらりと盗み見れば、アレフは優しい表情でロト姉ちゃんに微笑んでみせた。
「おかえり。ロト」
「ただいま。アレフさん」
 姉ちゃんがくすぐったそうに答えると、ゆっくりと立ち上がろうと身じろぐ。俺とアインツが退くと、ロト姉ちゃんが手を差し出して来た。ちょっと力が入らない様子で振る手を、アレフがやれやれと掴む。立ち上がってふらついたロト姉ちゃんを見ると、アレフはしかたがないと姉ちゃんを背負う為にしゃがみ込んだ。ロト姉ちゃんがアレフの背中に飛びついた一部始終を見たケネスが、半眼になって呟いた。
「面倒くせぇなぁ。さっさと結婚しちまえば良いのに…」
「そうですか? 結婚より、ずっと素敵な関係じゃないですか」
 すぱすぱと煙を噴き出しているケネスが、アインツを見下ろした。アインツもきょとんと、ケネスを見上げている。
 アレフがロト姉ちゃんを背負って立ち上がると、俺達の前に進み出た。
「さぁ、社長」
 アレフが促すように言う。
 ロト姉ちゃんは嬉しそうに、待ちかねた言葉を高らかに告げた。
「皆! お仕事達成、お疲れ様! 帰ろう!」
 俺達が歓声を上げて『お疲れ様!』って言い合った。……他にも言うべき人達が居た気がするんだけど、うーん、SICURAや制作者の事かな?
 特殊部隊が来る前にとんずらしよう。そう言って、ケネスの先導で進み始めた。
 俺達の日常が戻って来る。

 ■ □ ■ □

『リウレム! 起きてヨン!!』
 あぁ、SICURA。どうしたんだ、そんな大音量で話しかけて…。
 紹介所のサーバールームの机に突っ伏して眠っていた私を起こそうと、SICURAが声を張り上げている。
 外交官の仕事を早急に片付けてから、私がずっとここで忙しかったのを知っているだろう? ロトさんの魔法陣の支援なんか、処理速度がINPASSで追い付けなくなりそうでどれだけ焦った事か。エスタークの情報分析と収集だって、臨時で空きを作ってそこに放り込む程に膨大だったんですよ。
 私は重たい頭を持ち上げて額を頬杖を付いて支えたが、瞼がどうにも上がらない。目元を冷たい指先で少し持ち上げると、不意に世界が見得て来る。ロトさんの魂は無事に戻る事が出来、冒涜され彷徨う多くの魂が天へ導かれたのが見えた。魔界の気配もエスタークの猛威も、もう感じる事は出来ない。安定した穏やかな雰囲気で満ちている。
 完全な勝利だ。私は思わず口元が持ち上がるのを感じた。
 流石は紹介所の皆さん。公安十課の協力を得たからと言っても、これだけの少人数で達成出来るとは…。
『リウレム!』
「どうしたんだい、SICURA。ようやく世界が安定して、ゆっくり寝ていられるってのに…」
 世界が不安定だと能力者には至らない人並みはずれた『勘』が過剰反応して、精神的に疲労してしまう。ようやく熟睡できるってのに…。
「疲れているのに、悪かったな」
 男性の声が響いて、私は驚いて眠気が吹き飛ぶ。
 紹介所のサーバールームは基本的に入室制限を掛けている。私、アレフ、ロトさんの初期メンバー及び、その三人が許可した人物しか入れない。その三人の内一人は既にサーバールーム内で、残り二人は帰宅の途に付いている。誰が居るんだ。
 対面するように用意された、もう1脚の椅子。そこに腰掛けていたのは特殊能力犯罪対策室 通称公安十課の課長、フーガさん。疲労感を漂わした面持ちだが、その瞳は冴え冴えと硬質な光を讃えている。驚いて見回すと、私の真横には班長のサタルさんとルネさん。本棚に巡らされた幅の狭い廊下で本棚の資料を興味深そうに眺めているのは、キラナさんとアリアさん。足の踏み場も無い程に散乱した計算書に足を滑らし転んだテングさんに、ケネスさんの矢が入ったゴルフバッグを背負ったスランさんが手を貸しています。
 そろい踏みした公安十課を見て、私は冷や汗が吹き出るのを感じた。
 どうやって入って来たんだ。そして、緊急事態の為に入室権限の無い人が駆けつけられるように用意した、緊急パスカード思い出した。あれならば、SICURAの拒絶も通用しない。紹介所の職員にしか分からない場所に保管してあった筈なのに、きっと『鷹の目』の力だろう。
「初めまして、リウレムさん」
 にっこりと、何故か神経を逆撫でするように感じる笑みを浮かべてサタルさんが言う。アレフが嫌いになるのもよーく分かる。
 私はすっと目を細め、フーガさんに向き直った。命すら交渉材料に求められる、そんな話し合いが繰り広げられようとしている。
「後片付けって事ですか。こんな調子じゃ、山に向かった方々の記憶は消しているんでしょうね」
 それでも、嫌悪感を隠す事は無い。そんな私の言葉に、ルネさんは妖艶な笑みで肯定した。
「えぇ、私達の戦闘能力よりも、地獄の帝王 エスタークの情報は持たせたくないって課長の判断よ」
 フーガさんが私を真っ直ぐ見て、真摯な声で語り掛けた。
「君の収集した情報を貰い受けに来た」
「INPASSはSICURAと違って、ただの高性能な処理と演算が出来るOSだ。勝手に持って行けば良い。そして、ここから出て行け」
 フーガさんの言葉を、私は一蹴した。
 何の事は無い。本当の事だ。INPASSはパスワードすら設けていない。他のパソコンのように電源を入れて操作をすれば良いだけだ。
 そんな私を見て、サタルさんは愉快そうに声を上げて笑った。
「紳士かと思ったけど、流石アレフの幼馴染み。そんな獰猛な本性が潜んでるんだね」
 頭が痛くなるような笑い声だ。私は思わず睨み上げたが、その視線の先に居たキラナさんが私に言い放つ。
「これは、国の命令よ。貴方は国の命令に逆らうの?」
 私は思わず唇を噛んだ。国家公務員として外交に携わる身としては、国の命令に逆らう事はできない。
 私は立ち上がり頭上に向けて声を掛けた。
「INPASS」
 無音に近い空間に、機械が静かに囁きだす。
「エスタークの情報を展開、全情報の開示。編集状態に移行し、私の入力支援を最優先に」
 サーバールームに夥しい情報量が溢れ出す。流れる文字は忙しなく変わり、図形も術式も言語に変換された内容。まるで光る情報1つ1つが、鰯の大群のようにサーバールームを群れて踊る。それを余さず記録できる能力者であるアリアさんでさえ、可愛らしい目元がきつくなるのが見えた。
 私はこの『勘』で膨大な情報から望むものを拾い上げる事が出来た。システムに落とし込めば確実だ。目の前にはホログラムで構築されたキーボードが展開され、私は淀みないピアノの演奏のように操作を重ねる。流れる水のように膨大なデータから、必要だと思う事を拾い、繋げ、そして全てに響かせて行く。
 澄んだ音が響くと、全てのパズルのピースが嵌ったように情報が1つに集約される。
 それは、黄金で出来た腕輪。
 手に落ちて来た腕輪に、私は額を寄せる。目を閉じ足りない事は無いか、勘を働かす。
 何も感じない。引っかかりの無い、完璧な黄金の腕輪から顔を離すと静かに告げる。
「SICURA、圧縮データを公安十課のサーバーに放り込め。INPASS、SICURAが情報を転送後、情報を完全削除」
 手の上にあった黄金の腕輪は、光の粒子になって溶けて行った。
「はい。お望み通りですよ。さっさと私の記憶も消して、出て行って下さい。不愉快です」
 それを見届けて、私はフーガさんに向き直り言い放つ。しかし、フーガさんは動かず淡々と私に言う。
「SICURAの中に保存されている、エスタークのデータも消してもらおう」
「自分達でやれば良いでしょう」
 私は拒絶を隠さず言い捨てた。
「私はSICURAの記憶の消去及び改竄はしない。国の命令と権限を振りかざすなら、私はこの場で辞表を出す」
 内心、SICURAの情報を国が削除する事が出来ない程に、彼女が成長した事を嬉しく思う。そして私が彼女の情報をまだ消す事が出来るという、SICURAの未熟さを感じます。でも、SICURAは育つ。未熟さに守ってやらねばと思う事も、あと少しの事です。
 ルネさんが炎を刀身に燻らせたガイアの剣を握った。
 サタルさんが冷たい瞳で私を見上げている。
 そんな二人に私は微笑んだ。
「脅しにもなりませんよ、お嬢さん。私の魂を漁るんですか、班長さん。まぁ、エスタークに干渉する程のお人だ。不可能じゃない」
 不意に無意識下に流れ込んでいた世界の情報が、五感に感じられるようになる。
 ジパングではそう多くはないが、エジンベア等の西欧諸国は魂の干渉に秀でた術者が多く存在する。さらに魂に干渉する術者や記憶の改竄を得意とする能力者が、公務員として所属している国は多い。魂に干渉するの術者は、世界に干渉する魂に関わる事は避けたがる。魂に干渉するだけでも難しいのに、世界に触れてしまえば帰れない可能性が増すのだ。能力者として至らずとも、この『勘』が世界に干渉する部類のものであるらしく、私は外交官として活動する上で重宝されている。
 私は見得る世界をそのままに、公安十課の面々に浪々と語る。
「予告をして差し上げましょう。SICURAは自立型人工知能。成長するプログラムです。私から情報を引き出し、SICURAの記録を消去したとしても、同じ手はもう通じません。数年後、いや、数ヶ月後には貴方達の手に負えない存在になっていますよ。ここを破壊しても、SICURAは世界の何処へでも逃げ仰せる事でしょう。魂を弄られて私が再起不能になったら、どうなるか、貴方達は目にして来た筈。貴方達が我々を敵に回したいなら…どうぞ」
 最後は班長のサタルさんに向けた言葉。彼は私の言葉に、全ての感情を削ぎ落とした能面のような表情になった。視線が克ち合い、私は彼の瞳の中から彼の人生を覗き込む事ができるだろう…となんとなく感じた。ゆったりとした手付きでサタルさんが手を挙げた。
 ふわりと、私の二の腕にSICURAのグラフィックが縋り付いた。
『やめて、リウレム』
「やめろ、サタル」
 私はSICURAの言葉に、サタルさんはフーガさんの言葉に視線を外した。フーガさんは苦々しく私に言う。
「我々は事を荒立てたくはない。別の方法を模索して欲しい」
「少し遊び過ぎましたね。私は非常勤職員ですが契約は承知の上。十課の要望に応えるよう、社長から命じられています」
 小さく笑い声を上げた私は、外交官らしい洗練された一礼をした。顔を上げ、穏やかな声色で提案する。
「私が『お願い』しましょう」
「お願い?」
 フーガさんだけでなく、誰からとも無く呟いた同音異口に私は頷いた。
「SICURAにとって私の『お願い』は命令よりも優先される、強力なリクエストです。『要求されない限り、開示をしない』そうお願いすれば、SICURAが保有するエスタークの情報を無条件で検索する事はできません。…そうですね、貴方達が希望するパスワードも追加していい。私を含めた紹介所のメンバーの記憶の消去を合わせれば、見れないと同じです」
 私の提案にじっくりと考えた様子のフーガさんは、顔を上げて頷いた。
「分かった。そうしてもらおう」
 私は歌うようにSICURAを呼ぶ。愛おしく触れられない頭を撫でながら、言葉を紡ぐ。
「話は聞きましたね。『エスタークの情報を要求されない限り、開示をしない』ようにして欲しいんです。パスワードはフーガ殿から聞きなさい」
『ヨン』
 SICURAが頷くと、ふわりとフーガさんの前へ漂って行く。パスワードを告げているのだろうフーガさんを見て、私は呟いた。
「意味が無いと、思いません?」
 私の言葉にフーガさんが顔を上げた。
「世界から選択的に情報を抜き出せる能力者なんて沢山いる。隠蔽なんて意味が無い」
 実際、記憶を消されるだろう私だとて例外ではない。世界に溢れる情報には、必ず彼が告げたパスワードも混ざっている。私がそれに勘付いて結び付ける可能性はゼロではない。偶然と必然は表裏一体の現象。私はそう思っている。
 もっと能力者として力を磨いた者ならば、運なんてものは必要ない。SICURAを呼び、世界から抜き出したパスワードを告げるだけで彼等が隠したがっている情報はいとも簡単に白日の下に晒されてしまう。意味が無い。私はそう思えた。
「秩序を守る為だ」
 フーガさんはそう言うと、ルネと女性に声を掛けた。
 ルネさんが私の真横に歩み寄る。私が彼女に向き合えば、慈愛すら感じる程に優しい笑みで私を見上げて来た。記憶を消されると思うと、全く、腹立たしい。
 この遣る瀬ない怒りも、きっと忘れてしまうのだろう。
 目が覚めたら、私達の日常が戻って来る。