闇夜の幻影に怯えれば

 住み込みで働く紹介所の夜はとても静かだ。
 周囲が住宅街というのもあって、近隣の住宅は寝静まり職員の居室からも物音1つしない。鼾がとにかく煩いロレックスは、可動音の煩わしいサーバールーム並の特別な防音が部屋に施されて遮断されている。近くの森のように鬱蒼とした公園から、虫達の囁きが風に乗って耳を撫でる。夜気はひんやりと冷えて、薄暗い月明かりに暗くなった闇に溜まった。
 俺は庭に置かれた簡素なベンチに腰掛けて、煙管の煙を吸った。肺の奥まで満ちて行く香りを堪能し、ゆっくりと吐き出した。
 平和な国だ。俺は熟思う。
 戦争の影もなく、上空を過ぎ去る戦闘機を見上げる人々の顔は『またか、煩いな』程度。テレビで放送される映像に、明日の我が身と思う者はおるまい。戦争の恐怖を生まれた時から感じた事のない人々を、俺は呆れながらに尊く思う。
 ジパングは最も荒ぶる地の神々が住まう国だ。大地の神のお膝元はとにかく揺れる。火の神は火山の噴火を齎し、地の神が海の神を投げて津波を起こす。ジパングの民は戦争の怖れは知らないが、何時来るか分からぬ神の怒りと背中合わせで生きている。大規模な天災のない国の者は気が狂う事だろう。それはそれで、他国の戦争に震える者と同じくらいの対価を払っているように俺は思えた。
 この国の、この紹介所に暮らして大分経つ。こうして一所に留まったのは、放浪を始めて最長記録だ。
 手に弄んだ煙管から立ち上る紫煙が身体に纏わり付く。煙とともに視線を上げると、サーバールームに明かりが灯っていた。
 今日はリウレムが出社していて、ロト共に『魔法の迷宮』『不思議のダンジョン』『宝の地図』等から通話が出来るシステム構築に励んでいるそうだ。それらの地域は空間が歪んでいる関係で電子のやりとりができない。依頼にはまだなっていないが、有名なダンジョンマスターあたりが奥さんや子供とテレビ電話で話したいと零したのを聞いたのだろう。
 それとアレフが個人的にピラミッドの新霊廟の調査団に参加しようと動いているので、それも絡んでいるのだろう。あんな幽霊だらけの空間に良く飛び込めるものだと、感心する。アレフの長年の夢らしいので、口出しはせんがな。
 まぁ、あの二人なら完成出来るだろう。
 俺は小さく笑みを浮かべて、煙管の中で燻る煙草を灰皿に棄てた。紹介所の建物の中は禁煙だ。
 サンダルを脱ぎ、リビングの窓を閉じて鍵を閉めカーテンを閉める。俺は自室を目指してリビングを横切った。
 ふと、視界の隅に何かが横切るのが見えた。
 リビングを見遣るが、誰もいない。当然だ。これ程静かな空間で、物音を立てずに歩く事は不可能だ。第一、なんの気配もしなかった。
 煙草に惑わし草でも混ぜていただろうか? 俺は首を傾げながらも、進もうとした。
 階段の影に人影が消えて行った。小さい、子供くらいの人影だ。
 ……………。
 嫌な予感に冷や汗が吹き出るのを感じた。呼吸が荒くなり、心拍数が上がる。
 だが、落ち着け。俺は自分に言い聞かす。
 アインツの可能性だってある。足音が聞こえないのも、階段を登らずにそこに居るのかもしれない。だが流石のアインツも眠っている時間だ。彼女が俺を待ち構えて驚かすなんて、今まで一度たりともなかった。
 渦巻く想像で地面に縫い付けられた足の裏から、床板を伝って冷気が這い上がって来る。ちらりと背後を見遣っても、地下階に降りる階段や薄明かりに照らされた廊下が見えるばかり。そうだ、誰もいない。
 俺は階段に歩み寄り、ちらりと上を見上げた。誰もいない。
 階段を上がり、それぞれの居室を繋ぐ廊下を見渡せた。そこにも誰も
 いた
 サーバールームで見かける、アレフやリウレムの子供の姿ではない。第一、彼等はサーバールーム内だけの存在で、紹介所内を立ち歩く事は出来ない。
 血の気のない青白い肌が、月明かりを透かして輝いていた。髪はジパング古来の美女をイメージしたような、真っ直ぐな長髪で前髪が真っ直ぐ真横に切りそろえられている。唇は紫の紅を差し、目は吊り上がり爛々と光を讃えている。窓はどこも開いていないのに、ワンピースがフワリと舞った。
 思考が凍った。
 重量を伴わず、音もなく、気配もなく、やや透けた子供がこちらに向かって来る。
 何故下がったんだろう。俺は思わず階段を踏み外し、本能的に手摺を掴んだ。
 顔を上げると一人の男が俺を見下ろしている。赤い髪と瞳の男。煙管を銜えた口元が三日月の形に開いた。
 驚いて見開いた目が乾く。喉を悲鳴が走り抜けて、拍子に手が滑った。赤毛の男も天井も階段も何もかもが目紛しく視界に映る。階段を転がり落ちている、そう他人事のように思えた。強い衝撃が襲い意識がもぎ取られるのを、俺は安堵した気持ちで受け入れた。

 ■ □ ■ □

 体中が痛い。
 骨折は免れたが、完全に受け身もとらずに落下した為に全身打撲だ。口の中が切れていて、鉄の味が何時までもする。頭も強打したみてぇで、がんがんと痛みが響いた。朝日が差し込むリビングのソファーに、傷む身体を沈ませて俺は目の前の男を睨みつけた。
 ジパングでは二番目に謝罪の意味を込めた、土下座スタイルを披露しているのはリウレムだ。
「全くもって申し訳ございませんでした。二度としません」
 リウレムが深々と下げた頭を上げると、重傷の俺とリウレムの土下座の意味に付いて行けない職員達を見回した。
 さっきまでの謝罪が嘘のような変わり身の早さで、にこにこと笑顔を振り撒く。
「では、ご説明しましょう!」
 ぱん!と大きく響かせ手を叩くと、リウレムの真横にサーバールームから出て来る事のない子供達の姿が現れた。ロトやアレフは見慣れているが、それ以外のサーバールームに出入りする事のない職員が驚いたように子供達を見る。
 リウレムがもう一つ手を叩くと、子供達の姿がアインツとロレックスの姿になった。
 驚く本物達の反応に満足したように、リウレムが笑った。
「我々の子供時代のシミュレーションに、アバター実装しました! 流石に行動履歴を弄ると どうしても動作や返答が不自然になりますが、見た目だけならほら、この通り! 紹介所全体をホログラム投影対応に、実は改造済みでした!」
 悪戯大成功!そう言いたげな朗らかな笑顔は、更に言葉を紡いだ。
「ケネスさんを驚かすのは、もう少し先にしようと思ったんですけどねー。誤作動で動いてしまったようです。あぁ、楽しみにしてたのに!」
 次のターゲットは部外者にしないと!そう、次の一手を考え始めた悪戯好きに、俺は容赦無い殺気を浴びせた。
「おい、リウレム。俺の身体が痛くて動けないから、お前は今、生きてるんだぜ?」
「社長とアインツさんに、こってり絞られた後です。もう、本当に勘弁して下さい」
 リウレムは冗談めいた態度を引っ込めて、心底うんざりしたように平伏した。
 本気で怒らせれば、男共を圧倒する恐ろしさを誇る女子職員共だ。あの二人に本気で絞られたんなら、そりゃあ同情するしかねぇな。俺は殺気を納めて溜息を吐いた。
「ケネスって本当に幽霊苦手なんだな」
「ロレックスも命が惜しかったら、俺の目の前で心霊番組を見ない方が良いぞ」
 俺は渋々認めた。
 物理攻撃の利かない手合いは恐ろしい。俺は見えないが気配は察してしまうようで、恐怖がなかなか抜けない。知人のダンジョンキャットは『怯えてるから、寄って来るのよ』と笑ったが、無視出来るなら無視していたいと吐き捨てるので精一杯だ。
 逆にゾンビの類いは平気だ。殴ってどうにか出来る奴は、全く恐ろしくない。
「大丈夫です! 私が幽霊からケネスさんを、きちんと守ってあげますね!」
「はいはい、俺の天使様。期待してますよ」
 こんな大怪我に既になっていて、守ってあげますとか言われても困る。
 俺は大きく溜息を吐いてソファーに身を沈めた。アレフが『粥は食えるのか?』と台所から聞いて来る。
 全員動く気配がない所を見ると、俺を囲んで朝食食うつもりかよ。
 アインツ、お前は俺の真横に居座って、まさか食べさせるつもりじゃねぇだろうな? 赤ん坊じゃねぇんだ、辞めろと言いたいが腕が痛くて上げるのも辛い。大丈夫と熱々の粥が放り込まれない事だけを祈るとしよう。
 俺は小さく苦笑した。
 本当、平和だよ、ここは。