萌えは唐突、想せよ乙女

 駅前から少し離れた緑豊かな公園へや住宅街に続く静かな道に、わたくしのお気に入りの喫茶店があります。
 古民家を改築した喫茶店は、珍しく紅茶の専門店。この近隣では有名な名水を毎日汲んで来て、お客さんに提供する時に沸騰直前に湧かして下さる。シンプルで美しいガラス製のティーセット、ジパング風の陶磁器、エジンベアやダーマのアンティーク、レヌールの銀のティーセット、好きな食器を選ぶ事が出来ます。砂糖やミルク、お菓子やケーキの器も、選択したものに合わせてくれるのです。
 木目の美しいテーブルに一輪挿しの花瓶と季節の花、レースのランチョンマットの上に慎ましくセットされたティーセット。鼻孔をくすぐる紅茶の匂いでさえ、写真でも伝わるような素晴らしい一枚絵の空間です。穏やかに流れるクラシックに耳を傾ければ、自然と心が解れてきます。
 今はわたくし以外のお客さんの姿も無く、老年を迎える店長の男性もカウンターの前で本を呼んで過ごしています。
 そんな静かな喫茶店の窓際が、わたくしの指定席。
 ここから、人々の姿が良く見えるのです。仲良く駆ける子供達、塾に向かう学生達、赤子を抱いて歩くお母様方に、犬を散歩する老夫婦、仕事帰りの男性に、手を繋いで歩く男女まで。学校の宿題を終えて、彼等の姿を見つめ、考えに浸る時間が至福の時間でした。
 ネタ帳に書き込んだ様々な断面が、繋がって1つの物語になっていく。
 わたくしは香り豊かな紅茶を口に含み、温かさが胃の中にころころと落ちて込み上げて来る熱気を溜息とともに吐き出しました。
 喫茶店の扉が唐突に開く。りぃんと澄んだ音が、店内の隅々にまで響き渡りました。
「席を貸してくれませんか?」
 そう入って来るなり響いたのは、夜の深淵のように深く響くバス。素敵な声色にわたくしは思わず、ネタ帳から顔を上げました。
 バスの声の主はスーツ姿の男性。日に焼けた精悍な顔つきに、細淵の鉄のフレームの眼鏡を掛けています。ワックスで堅すぎずに整えた髪は、白いワイシャツと黒いスーツにとても似合い、誠実な印象を与えてくれます。
 男性が抱えるように連れているのは、小柄な若い女性。出る所が零れてしまいそうで羨ましい体格がスーツに隠せていません。ブロウをしても跳ねる黒髪でしたが、艶やかでとても綺麗。大きな蒼い瞳がくるくる動いて、明るく可愛い印象を振り撒いています。
 なんて素敵なスーツの男女!
 わたくしは胸の高鳴りが、店全体に響き渡るのではないかと思いました。
 職場の同僚、上司と部下、それとも取引相手同士なのかしら!? さまざまな関係が脳内を駆け回って行く!
 でも、妄想は長くは続きません。女性の顔は引き攣っているのに気が付いてしまったのです。女性は足を庇うように歩き、入り口に最も近いわたくしの向かいの席に腰を下ろしました。
「大丈夫だよ」
 ソプラノが痛みに震えている。震える睫毛に余裕の無い表情、脂汗にしっとりと濡れた肌。そんな女性に、男性はやや棘のある口調で言いました。
「社長、嘘は止めてください。歩けなくなったのに、何が大丈夫なんですか?」
 そう言いながら羽織っていた薄手のコートを脱ぎ、社長と呼んだ女性の膝に掛ける。
「足を診ます。ストッキングを脱いでおいて下さい」
 男性はワックスで磨かれた床板を心地よい音を立てて進むと、喫茶店の店主に丁寧に頭を下げた。その動作の1つ1つが洗練されていて、溜息しか出ない。舞踏会で、パーティーの会場で、高貴な女性をエスコートするにはもってこい。あぁ、とっても素敵な男性。
「久々だね、アレフ君」
「ご無沙汰してます。申し訳ないのですが、湿布と冷やすものを頂けないでしょうか?」
 店主は皺のある顔をくしゃりと微笑ませると、朗らかなテノールで言いました。
「あぁ、良いとも。妻も君が顔を見せたら喜ぶよ」
 奥へ消えて行った二人を見送り、わたくしは残された女性に視線を向けました。痛みに桜色のリップが艶やかな唇は真一文字になり、コートの下で靴を脱ぐのに苦戦しているのか辛そうに唸っています。
「大丈夫ですか?」
 わたくしの声に女性は顔を上げて蒼い瞳でこちらを見ると、ちょっと無理をした笑みを浮かべました。
「うん、大丈夫。ちょっと足を捻っちゃっただけ…っ!」
 手伝いたいですが、流石に同性でも見ず知らずのわたくしが手伝ってはイケナイ気がします。
 男性が戻って来ると彼はテーブルに湿布と氷が入ったビニール袋を置いて、女性の前に膝を付きました。女性が身じろぐと、コートの裏地がサラサラと音を立て真っ白い素足が差し出される。跪いた男性が日に焼けた手でその足を、まるで壊れやすい花でも掬い上げるように下から支えた。眼鏡の奥の茶色い瞳が、女性の足をじっと見遣る。女性も息を詰め、震える瞳で男性を見下ろしている。
 ど、どうしよう…!
 脳内妄想がそのまま現世に出てしまっているの!? あまりにも素敵過ぎる展開に、心の中のわたくしが歓声をあげまくっています。
「熱を持っていますね。直ぐに腫れて来るでしょう」
 手慣れた様子で湿布を貼り、氷の入った袋を湿布の上に乗せるように当てる。女性が詰めた息をゆっくりと吐いた。
「どうしよう。タクシー呼ぶ?」
「いえ、私がバイクを持ってきます。30分程で戻って来れるでしょうから、待ってて下さい」
 男性は立ち上がると、店主に一言断って出て行かれました。鞄を片手に足早に歩く背中が、曲がり角を曲がって見えなくなる。
 わたくしだけじゃなく女性も男性を目で追っていたみたいで、振り返ると目が合ってしまった。女性は蒼い瞳を細めて、少し余裕が出て来た様子で微笑んだ。
「あたしはロト。ごめんね、騒がしくて」
「私はフェイスと申します。良いんですよ、気になさらないで下さい」
 むしろ、素敵過ぎるお二人を見る事が出来てとても幸せです。こちらの方がお礼を申し上げたい気分です。
「お連れの方、お優しい殿方ですね」
 不躾にならない程度に、店長が呼んだアレフという男性の話題へ持って行く。
 あぁ、本当はもっと根掘り葉掘り聞きたいんです!でも、ここは現実の世界。そんな事は失礼ですわ!だめよ、フェイス。これは焦らしプレイ。この焦れったさも、萌えの為には必要な事なのよと言い聞かす。
「アレフさんは、あたしの会社の副社長さんなの」
「まぁ、ロトさんは社長なんですの!」
 ロトさんは自分が社長である事より、アレフさんが副社長である事に嬉しそうに笑ったのです。
 こんなに若い女性なのに、会社の社長をしているなんて凄い。それにロトさんが『アレフさん』とさん付けで、年上のアレフさんが年下の女性にあんな敬語で、互いに尊敬している態度がとても良い。上司と部下の関係で、年齢だって上下逆なのに同等だなんて…! あぁ、どうしよう! ドキドキして考えがまとまらない! こんな関係が現実にあるなんて…!
 もう、どうしていいか分からない!
 こんな時は、萌えるしか人は出来ないのね!
 萌えろと、神はわたくしに言っている!
 息をするように妄想を重ねただけあって、心の中のざわめきは全く表には出ないもの。わたくしは微笑みながら、ロトさんの向日葵のような笑顔を見ていました。
「アレフさんは、優しいけどちょっと難しい人だよ」
 そうロトさんは注文したアイスティーを口にしながら、渋い顔をした。
 事務所は住み込みの住宅も兼ねているそうで、家に帰ると今みたいに優しくないんですって。しかめっ面で、眉間に皺が寄ってしまうとか。でも、それって身内にだから見せる姿なんですよね。それをロトさんは許容してらっしゃるんでしょう?でなければ一緒に暮らしませんよ。
 仕事の話になれば、『いつも社長のあたしを支えてくれる』とにっこり。
 食べ物の話になれば、『アレフさんの作ったものって本当に美味しいんだ』ってお腹が鳴っちゃうみたいです。
 あぁ、もう! あまりの惚気具合に、わたくしは耐えかねて訊いてしまいました!
「お付き合いされているんですの?」
「誰と誰が?」
 話の流れから、ロトさんとアレフさんが付き合っているんですかって、訊いているって分かるでしょうに!
 それなのに、きょとんと何故聞き返して来るんですの!? まさか、ここまでの関係でありながら、付き合っていると言う認識も無いの!? こんな私的にも関わりが深いのに、上司と部下で終わってしまっているの!? やだ! 恋愛感情抜きで互いを大切に思っている関係、尊い!
 絶叫が心の中を大音響で揺らしていると、バイクの音が徐々に近づいてきました。
 窓辺から外を見遣れば、大型のバイクに股がったスーツの男性が丁度バイクを止めた所でした。ヘルメットを外すと、整えた髪が崩れてしまう。アレフさんはそのまま乱雑に髪を掻き回すと、先程とは違った雰囲気になっていました。ワイルドな感じで、こっちも素敵!
 りぃんと高い音1つ。ロトさんの顔が、ぱっと明るくなったのです。
 うわぁ、嬉しいのが凄く良く分かります!
「おかえり!」
 アレフさんは元気そうなロトさんを見て、小さく息を吐く。もう一度跪いて足の状態を確認すると、白い肌が腫れ上がっているのがはっきりと見えました。唇が真一文字に引き締められ、瞳が痛みを共有したかのように細められる。腫れていない方の足に靴を履かせ、アレフさんは立ち上がりました。
 コートを取りますよと一言断ると、ロトさんの膝に掛かっていたコートを腕に掛ける。
「さぁ、帰りますよ」
 差し出した手が、ロトさんが取りやすい位置にさり気なく来ている。
 アレフさんの手を掴んで立ち上がろうとしましたが、ロトさんは顔を顰めて座ってしまいました。
「しかたがないな」
 それはやや乱暴な色を含んだバス。これが彼の素の声なのだと直ぐさま分かりました。
 彼は身体をゆっくりと寄せると、彼女の背中に優しく腕を回しました。顔に互いの吐息が掛かる程の至近距離。蒼い瞳も茶色い瞳も互いを見つめ、蒼は信頼に茶は隠せない優しさに満ちている。その大きな手が彼女の華奢な肩を抱くと、彼が力を込めたのかスーツが包んだ肩が小さく揺れた。
「わ!」
 それはロトさんだけでなく、わたくしも声を上げちゃいました。
 だって、軽々とお姫様抱っこ!
 彼に抱き上げられたロトさんが、彼の腕の中で楽し気に笑いました。その様子を眉根に皺を寄せてアレフさんが見下ろしていました。どんなに致し方ないと選択の無い結果の行動であったとしても、彼がそれを選んだという事、そしてそれがロトさんの為に選んだって事は覆らない。むしろ彼女の為に、彼が不本意になってしまうとしても選んだ事が重要なのです! あれです、ツンデレです!
 もう両手で頬を抑えても、頬が真っ赤になっていて目が輝いてしまっているのが分かります!
 あぁ、どうしよう! 誰か、そうマリアンナと この感動を共有したい! 素敵過ぎる! 神様! 萌え死ねます! ありがとう! 本当にありがとう!
 アレフさんはわたくしと店主に軽く会釈をする。
「すみません、お邪魔しました。お礼は後日伺わせて頂きます」
 ロトさんがアレフさんの首に手を掛けて、にっこりと笑いました。
「ありがとうございました! またね! フェイスちゃん!」
 りぃんと高い音を響かせ、一組の男女が外へ出る。窓を見遣ればアレフさんがバイクの席にロトさんを座らせたところでした。落ちないように慎重に座らせ、アレフさんはゆっくりとバイクを押し始めました。動き出して慌ててアレフさんの服を掴むと、彼はロトさんが掴まりやすいように身体を寄せた。彼女は彼の胴回りに腕を伸ばして掴まり、嬉しそうに彼の顔を見上げているのが見えました。
「素敵…」
 あぁ、二人を幸せにしたい。
 現実しなかったとしても、せめて、わたくしの世界では…。