寄せ植えた紫陽花
鏡に映った自分が嬉しそうに笑っている。
今日のお化粧は控え目。本当に化粧しているか分からないくらいの、ナチュラルメイク。でも、良いの。だって彼は、まだお母様のお化粧箱を覗き込んで『貴方はまだ化粧なんかしなくても十分に可愛いのよ』と嗜められるより前からの知り合いだもの。少しだけ血色が良く見える口紅の上に艶やかに見えるグロスを乗せて、頬が赤くなるのが分かるくらいにファンデーションは薄く。
こんなお化粧、お見合いの時にはした事無い。
やっぱり彼は特別だ。彼だけが本当のあたしを求めている。
服も控え目。真っ白いロングワンピースに薄いレモン色のレースがふんわりと覆っていて、ほんのりと柔らかい色に落ち着いている。爪はネイルなんて要らない。綺麗に磨いて、艶を出す透明なマニキュアを塗るだけで良い。髪は綺麗に透いてブロウして、華美過ぎない程度に結い上げた。
覚えてるかな?
結い上げた髪に挿した簪は、彼が選んでくれた美しい硝子細工で作られた青い薔薇が咲いている。無名だが一流の職人が手掛けた硝子細工はまるで宝石のようで、あたしの金色の髪に良く似合ってる。胸元にはお母様の形見の、シンプルなダイアのネックレス。
もう少し飾り立てたほうがいいかしら? あたしは姿見の前で一回転。
うん、このくらい。あたしは頷いて、鏡の中の自分に話しかけた。
「さぁ、あたし。頑張るわよ」
出掛ける前の儀式。
最近は理想の令嬢を演じようと、つまらなそうな顔をしていたけど今日は違う。そう、彼と会うんだもん。
そろそろ時間だ。丁度ノックをされて迎えに来た、社員に声を掛けながらあたしは立ち上がった。
母を早くに亡くし、母の代わりに父の同伴者として社交界に出ていたあたしの動作は洗練されていた。歩く姿も立ち姿も、他国の王の前に出ても恥ずかしくない。あたしは、会社グループの華で顔でもあった。社長である父に代わって商談をまとめ、繋がりを築いた事は数知れない。
役立てる事は、確かに嬉しかった。
でも、そこに本来のあたしは必要ない事が辛かった。
出迎えると、そこには彼がいた。
でも、いつも会うようなジーンズとシャツにモッズコートを羽織った出で立ちでも、ボサボサの茶髪に不機嫌そうな顔つきでもない。何度か見かけた事がある、営業の装いだそうだ。シルエットが美しく見える黒に見える紺のスーツを着こなし、ワインレッドにオレンジのラインがシンプルな趣味の良いネクタイを締めている。後ろに撫で付けた髪は軽くワックスで整えてある。伊達眼鏡を掛けた視線は刺々しさを抑えて、凛々しい表情を浮かべている。
ふふ、あたしを猫被りって言っておきながら、人の事言えないじゃない。
あたしの視線の意味を察して、彼は目を細めた。微笑んだように見えるけど、その瞳の光は不機嫌に瞬く。
「ご機嫌麗しゅう、アレフィルド様」
「本日もお美しいですね、お嬢様」
すっと差し出した手を取り、格式張った一礼を披露してみせる。その様子をグループの女性社員が熱い溜息を吐いた。
どうぞこちらへ。社員の先導に従って、あたし達は並んで進む。高級ホテルのふかふかの深紅のカーペットは、ヒールの音も底の堅い革靴の足音も何もかも吸い込んでくれる。どこからか響いて来るピアノの生演奏は、絶妙な大きさで恋人達の囁きを打ち消してくれた。
腕を少し引かれる感覚に顔を上げると、アレフが不機嫌そうな眼差しを向けて小さく囁いた。
「よくも巻き込みやがって、覚えてろよ」
「お父様が会いたいって言ったのは、本当よ」
あたしがアレフの腕に軽く腕を絡ませ微笑んで答える姿は、端から見れば恋人達の囁き合いに聞こえるだろう。
父は大きなグループを束ねる企業の社長だ。あたしが遅い子供だったから、もう、引退を囁かれて何時会長に着任するのか注目されている。でも、注目されているのはお父様が社長の椅子を譲るだろう、あたしのお婿さん。あたしの結婚相手は、この巨大グループのトップの地位が約束されていた。
嫌だった。
皆、その地位が欲しくて言い寄って来るんだ。苦痛で仕方がなくて、アレフの胸を借りて泣きじゃくった回数なんて数知れない。あたしの結婚なのよ。あたしの気持ちを、どうして誰も大切にしてくれないの?
きゅっと掴んでしまったと自覚したとき、アレフの指がそっとあたしの指先に触れた。
「今日は嫌な話ではないんだろう? そんな顔をするな」
即座に離れて行った指先だけど、アレフの優しさが嬉しい。軽くアレフの腕に頭を預けると、アレフは無言でそのまま支えてくれた。
最上階へ登るエレベータの心地よいベルの音が響くと、社員が優雅な手付きでドアを押さえどうぞと会釈した。ガラス張りのパノラマからは、主都の摩天楼が広がっている。強い日差しに輝く銀と、闇のような影に二分された世界を、スモッグが霧のように漂っている。出迎えたレストランの支配人は背筋を伸ばして緊張した面持ちだったが、アレフが小さく手を挙げると少しだけ愛想を崩した。
貸し切られた店内には、お客さんの姿は無い。
いま、この店の主となっている初老の男性が、この店で最も見晴らしの良い席に座っていた。恰幅の良い中年の男性が控えている。彼等が視線をこちらに向ける前に、あたしはアレフの腕から身体を離す。
初老の男性、巨大グループの社長である父が顔をこちらに向けると、アレフさんは礼儀正しい一礼をした。
「初めまして、アレフィルドと申します」
「君の事は娘から聞いているよ。小学生の時から仲良くしてくれているのに、挨拶が遅れてすまないね」
お父様は軽く自己紹介をし、アレフに席を勧めた。アレフはさり気なく椅子を引いてあたしを先に座らせてから、失礼と断ってからあたしの隣の席に着いた。
談話は当たり障りの無い話から、徐々に弾んで行く。
お父様の経済の話から製造まである幅の広い内容に、アレフは静かに参加して行く。穏やかな相槌で同意し、こういう話には余り参加しないあたしでも差し障りの無い内容の話題をなにくれと振ってくれた。実際は知識も十分あるんだけど、普段は男性を立てるようにって口を挟まない。アレフは、一流企業に勤めた経験からその事を良く分かってくれていた。思わず弾みそうになる会話に、お父様が表情を和らげたのが分かった。
フルコースの料理が、デザートをだすタイミングになって来た時だった。
「娘は君の事を話す時は、本当に嬉しそうなんだ。いつも縁談を断るばかりの娘が、君となら婚約して良いと言う程だ」
あたしが結婚しない事はグループでは有名で、あたし自身が社長になるんじゃないかって話も当然出ていた。ふわふわとグループのあらゆる部署に顔を出して囁いた言葉は、令嬢のお告げと呼ばれる成功の予言ともてはやされている。
社長令嬢には本命がいるって噂は勿論あった。その本命がアレフである事も割と有名だった。
そりゃそうね。だって酷い縁談の翌日には、愚痴って苛立ちを発散する為にアレフを呼び出すんだもの。腕を掴んで買い物に付き合わせて、映画にも一緒に行ってもらって、移動手段は電車とかバスの公共手段。5桁は居るだろう社員の目に触れない訳が無い。
お父様も最初は会社の存続の為と縁談を設けていたけれど、最近はあたしにとにかく結婚して欲しいと思っているみたい。きっとウエディングドレスを着たり、孫を抱きたいって普通のお爺ちゃんみたいな要求があるのかもしれない。
お父様はアレフを真っ直ぐ見つめて言った。
「君に会って私も決心が着いた。良ければ、娘を貰ってやってはくれんか?」
アレフは深呼吸を1つして、お父様に頭を下げた。
「申し訳ございませんが、お断りさせて頂きます。お嬢様の婚約に伴う、一大グループの社長の椅子に座る事は出来ません」
「皆はその椅子を目当てで二つ返事で了承なのだがね。君は面白いな」
下げた頭を上げるよう声を掛けると、お父様は好意的な表情で言葉を続けた。
「君が人材紹介所の副社長として、その会社でなくてはならぬ存在だという事は勿論理解している。娘の結婚で付いて来るだろう社長の椅子に、君が座る必要は無い。君が望んでいるだろう我が社で最も優れ部下達を思い遣れる人材を、その椅子に座らすつもりだ。君が我が社に所属する必要も無い。娘が幸せになる為に、婿になるだろう君に負担を強いる事はしない」
背中が軽くなった気がした。
「私の仕事は危険も多く含んでいます。お嬢様を幸せに出来る自信はありません」
「そんな事ありませんわ」
あたしは声を上げた。アレフの顔を見上げて、切実にみえるよう眉根を寄せて訴える。
「アレフィルド様。私は貴方をお慕い申し上げておりますわ。そう…どれくらいかは貴方が一番ご存知の筈…。ねぇ、アレフィルド様。私が嫌いですか?」
彼は言葉を詰まらせた。
断る事が出来ないような場であるからじゃない。心が揺れているからだ。アレフはあたしの事が嫌いじゃない。それは彼にとって好きと同じ事だった。そしてただ娘を貰って欲しいと言う願いは、アレフにとっての断る理由を全て無くしてしまった。
押せば、彼に結婚すると頷かせる事が出来る。
でも、あたしはしなかった。
「ごめんなさい。不躾な問いでしたわ」
あたしは本当に残念そうに唇を引き締め、視線を斜に投げた。お父様もあたしの態度に少し残念そうに目を細めて言う。
「性急な話だったな。勿論、良く考えてくれたまえ。娘の良いと言った男を、私も想像以上に気に入ってしまったとだけは言っておこう」
お父様はやはりあたしの父ね。
アレフの心の揺れを、あたしの駆け引きを、確かに見抜いていたみたい。もしかしたら、互いに猫を被っているのも分かっているのかもしれないわね。
「では、宜しく頼む。アレフィルド君」
アレフの表情が引き攣った。なにが宜しく頼むなんだ、そう思ってるんだろうね。
親の公認だよ? 娘の事に決まってるじゃない。
■ □ ■ □
ホテルの入り口を見下ろす緩やかな階段を下りながら、あたしはアレフに囁いた。
「人材紹介所を作る前のアレフだったら、きっとオッケーしてたね」
「俺は一生独身でいるつもりだって、言ってるだろ」
嘘つき。
アレフとリウレムと、そしてあたし。幼い頃から大人になった今も 付き合いがあるあたし達は幼馴染みといえる関係だろう。
だから分かる。
昔、貴方は私との婚約を受けようと思っていた。望まない婚約に泣きじゃくるあたしに、貴方が心の底から同情していた。貴方と結婚したい、それを望んでいると言う言葉を何度言っただろう。回数を重ねる度に、貴方はあたしの言葉を真剣に受け止めるようになっていた。
アレフは優しい。望まれる事を叶えてやれるなら、なんだってやってやるって思ってる。そう、結婚だって。
でも、ある日を境に、言葉は受け入れられなくなる。
「そういえば、アレフの所の社長さんって女性だったよね」
アレフがある女性に声を掛けられて、人材紹介所を作るという話になった。依頼人の希望を叶える為に、なんでもやる。曖昧なまでに広大な仕事内容だったけど、狭い括りの仕事に満足出来なかった彼が望んでいた仕事だったんだろう。
彼が目を輝かせて『面白い職場だ』と笑ったのが、なんだか悔しかった。
でも、仕事だけじゃないんじゃない?
あたしの問いにアレフの目に、明るい光が灯った。幼馴染みでないと、日常を共にしていないと分からない程度の微かな光だ。でも、その光の意味は大きい。
「ロトか? あぁ、女っ気は全く無いがな。…それがどうかしたのか?」
うーん。強敵ね。
あたしはライバルさんが、思った以上にアレフの中で大きい事を確信した。でも、アレフは自分の事には鈍感だからね。そんな事、分かってないだろうけど。
彼とライバルさんが立ち上げた紹介所は、住み込みで働く不思議な会社形態だった。ライバルさんである社長さんは、あたしよりちょっと年下。まだまだ若い時だったから経営不振に精神的に参ってしまって、彼女を支える為にアレフは公私を混ぜたと話していた。その結果、その会社はアレフにとって家のようなものになってしまったんだろう。
アレフにとって、家族と認識したものは命より大切だ。
あたしが押さなかったのも、アレフが家族の存在を鑑みず結婚を了承しないと思ったからだ。血縁者がいない彼だからこそ、家族と思っている存在に祝福して欲しいと思っている。あたしはそのアレフの意思を察して、押さなかった。そして、アレフは変に鋭くてあたしが理解した上で無理強いしなかった事を分かっている。
良い女でしょ? 惚れたんだから、嫁にしないと勿体ないよ?
一段先を降りているのを確認し、あたしはわざと階段の上で足を滑らした。身体が崩れ、前に倒れる。
アレフは直ぐに反応した。階段から落ちそうになるあたしを、抱きとめようと腕を広げる。あたしは彼の腕に手を掛けて、すっと首を伸ばした。軽く唇を重ねる。
「…っ!?」
アレフが凍り付いた。効果は抜群ね。
お先に失礼。
姿の見えぬライバルさんに、あたしは微笑んだ。