ラベンダーの香りを振り撒く

 最近、ロトの機嫌が最悪だ。その原因に俺は納得せざる得なかった。

 ここはジパングでも屈指の高級ホテル。本日はそのホテルを借り切って、盛大な披露宴が催されていた。財閥、政界、企業、この国の中核を集めたような様相だ。今回、発表された事は、このジパング全体に多大な影響をもたらす程の事だった。
 俺は傍らにぴったりと寄り添うカグヤと離ればなれにならぬよう気を配りながら、このパーティの人波をワイングラスを片手に流れていた。俺のような新しい企業にとっては、滅多にないチャンスだ。様々な企業の社長と言葉を交わし、秘書同士名刺をやり取りさせ、時には商談を持ちかけられ、甘い話をちらつかされる。
 報道記者も呼ばれていて、スキャンダルを嗅ぎ付けようと目を光らせている。
 華やかな分、闇は濃い。
「こんにちわ、ゾーマさん」
 明るい口調で声を掛けられ振り返ると、あまりの闇の濃さに辟易した眼差しが緩むのを感じた。
 そこに立っていたのは、紹介所の非常勤職員であり外務省に勤める公務員のリウレムだ。黒いスーツに真っ白いマフラーといつもと変わらぬ出で立ちである。スマートフォンが入っているのだろう胸ポケットが仄かに光って、SICURAが『いるぞ』と主張している。
「新社長就任披露宴に呼ばれたんですね。流石ですね」
「リストの順番では末端だったろうよ」
 まさか。そう、リウレムはレモンの香りが付けられた水のグラスを片手に朗らかに笑った。
 本日の集いは、ジパング屈指の老舗企業グループの新社長就任披露宴だ。この老舗グループはこのジパングの礎を築いた企業としても知られている。多くの職人を束ね、職人達に正当な評価と報酬を与え、そして職人達を育てる事に尽力を注いだ。ジパングの信頼はグループの一族の歴史とも言えた。
 アレフとリウレムは、そのグループの一族の直系の令嬢と幼馴染みらしい。
 友人として幼馴染みに呼ばれたリウレムは、利害関係を勘ぐる必要のない穏やかな空気を醸していた。その穏やかな空気に、俺はそっと息を吐き弱々しく微笑んだ。
「息が詰まるな。まるで毒の沼地だよ」
「トヘロスがご所望なら、呼んできましょうか?」
 他国の伝説で勇者を魔王の瘴気から救ったと言う呪文を例えて、リウレムは手を挙げた。
 しずしずと進み出てきたのは、金髪にレースや光沢のある布地を美しく配したドレスを纏った美女だ。ふんわりとカールした蜂蜜色の髪に、青い薔薇の簪が添えられている。上品な動作の一挙一動が洗練され、控え目なルージュの口元の自信が堅固なるものだと分かる。エメラルドに金の縁取りの瞳は吸い込まれそうだ。こちらが膝を折るべきと悟らせる、威厳ある女王のような新社長だった。
 その一歩前には眼鏡を掛けワックスで髪を整えた、アレフが付き添っている。彼はスーツではなくタキシードを来て、女王のエスコートをしていた。
「お初にお目に掛かります。ゾーマ様。私の自己紹介は…不要でございますわね」
「今日の主役である、新社長に名前を覚えて頂けるとは光栄の極みです」
 新社長は一幅の絵のような微笑みを浮かべると、緑の瞳に悪戯っぽい光を宿した。
「機会がありましたら、公人ではなく私人としてお会いしとうございますわ。ねぇ、アレフィルド様?」
 そうアレフに耳打ちした令嬢に、アレフは『はいはい、そのうちな』と小さく囁き返した。そして茶色い瞳が誰かを見つけたようで、すっと顔を上げる。
「本日のお呼び立ては、婚姻発表だと思いましたのに残念ですわ」
 ゆったりと歩み寄ってきたのは、ジパングの隣国の民族衣装に身を包んだ男女だった。鮮やかな紺色に金糸の竜を宿した男と、深紅に銀糸の花々を飾った女性だ。二人共背が高く、浮き立つ程の美男美女だった。
 男は精悍な顔立ちと武術を嗜む覇気を宿していたが、漆黒の短髪と日に焼けた肌に輝く金色の瞳は親しき者に向ける優しさが滲んでいる。女性は長い緑の髪と深紅の瞳、色の黒い指先で親し気に姫君の白い手を握った。彼女等は親友なのだろう。
 男はアレフとリウレムそれぞれに、目配せ的な挨拶を交わすと、俺に握手を求めるように手を差し出した。
「初めまして。私はロン・ワン。連れは秘書のイトニーだ。大陸で商いをしている」
「ソフトハウスの会社を運営している、ゾーマだ。隣にいるのは秘書のカグヤ」
 早速カグヤとイトニーが挨拶を交わして、名刺のやり取りを始めた。
 破綻しかけた財政を立て直し、見事に復活を成し遂げた王公社の社長である。隣国の歴史に添うように存在した、世界屈指の老舗企業だが近年その存亡が危ぶまれたと聞く。そのエピソードだけで一冊の本が出来るだろうと笑うだけで、本人はその詳細には一切触れない。だが、隣国の根深い闇が絡んでいるのは間違いない。
 強過ぎず弱過ぎない絶妙な加減で握手を交わすと、ロンは無邪気な笑みを浮かべた。
「アレフの友人だって聞いている。彼は良い奴だろう? 今の私がいるのも、彼が首を賭けてまで、我が社に降り掛かろうとした陰謀をに立ち向かってくれたからさ。結果、彼は会社を辞めざる得なくなってしまって申し訳なかったが、流石、ただでは立ち上がらんな」
 友人の事が誇らしい、そう言葉の端々が語っている。
 アレフは『お前の選択が正しかったからだ』と照れくさそうに、ロンの脇を突いた。くすぐったそうに笑ったロンは、そういえばとリウレムに負けない長身で周囲を見遣った。
「アレフ。お前の社長は何処にいるんだ? 折角、ジパングに来たんだから会いたいな」
「ロトは来ないぞ」
 アレフは素っ気無く言う。
「なにせ、この客層は俺の担当だからな。ロトが足を運ぶ必要はない」
 その言葉に一同が目を丸くした。
 確かにアレフの顔の広さは目を見張るものがある。彼自身が一流企業時代で、紹介所で、個人の伝手で築いた人脈はこの会場を網羅している。実際、新社長の隣にいるアレフは、自分の人脈を広げるような交渉は何1つ行なわなかっただろう。それはもうする必要がないからだ。
 しかし、なんだろう。言葉にはし難いが、異様なインパクトのある台詞だったな…。
 一同ぽかんとした間に、名曲『結婚のワルツ』が流れ始める。中央が開かれ、一流のダンサー達がしずしずと階段を降りて来る。先頭を飾るエリック・オリビアのペアに続き、腕に覚えのある一流が階段を下った所で一礼していく。会場からは世界長者番付の殿堂入りを果たした、トルネコ・ネネ夫妻も進み出てきた。
 本日の主役は、アレフを見上げて微笑んだ。
「では、アレフィルド様。宜しくお願いしますね」
「勿論ですとも、お嬢様」
 慇懃に畏まってみせて、互いににやりと笑みを浮かべる。幼馴染みだからこそのやり取りだろう。
 アレフのエスコートで中央に進み出ると、華やかな舞踏会が始まった。一流の踊り手達の華やかさや、企業を運営してきた熟年夫婦の愛情の滲み出るステップに観客を決め込んだ参加者達は一様に溜息を吐いた。もう、黒い話題などこの場でやり取りする事はないだろうという程に、舞踏会は会場を魅了していた。
 その中央で踊る二人は、本当に見事だった。
 世界大会で優勝を飾るペアに勝るとも劣らぬ、いや、この時は誰よりも輝いている。
 手を添えるだけで羽の様に軽々と舞う姫君に、男は力強さと今にも壊れそうな薄氷に触れるような柔らかさを添える。互いに動きを周知しているからこそ出来る、不意打ちのアドリブは人々の目を惹き付ける。次はどんな見事なステップを、ターンを見せてくれるのか目が離せなくなってしまう。そして女性は悪戯っぽく、男性は楽し気に微笑む。ふわふわくるくると舞うそれは、お伽噺の王子とお姫様の舞踏会を連想させた。
 ロトとの特訓を思えば、アレフの腕は相当上がっている。
 勿論、パートナーである新社長の力量があってこそだ。だが、それ以上に互いが練習を重ねてきたのが、俺には分かった。おそらく、ロトとの練習量の比ではあるまい。
 俺の隣でロンと秘書のイトニー、リウレムが私語を交わす。
「このイトニー、お嬢様の幸せを応援したいですわ」
「あのアレフが誰かの下に付くって事も想像出来なかったが、上に立つのが女であれほど信頼して惚れ込んでいるとなるとなぁ。あのお姫様が社長になってやると、やる気も出る筈だ。なぁ、リウレム」
「互いをライバル視するには、知恵も力も愛情も申し分ないでしょうね」
 この披露宴の映像は動画サイトに、リアルタイムで中継されていると聞く。ヒーローズの子供達や、代理達、紹介所のメンバー、そしてなによりロトが見ているだろう。画面に向けた表情がどんなものなのか、知れるのはSICURAくらいのものだ。
 これがアレフを将来の婿同然に振り回す新社長の戦略ならば、もう少しアレフにはしっかりして欲しいものである。
 最近、ロトの機嫌が最悪だ。その原因に俺は納得せざる得なかった。