鴉と猫の一週間
■ 悪巧み捗る 木曜日 ■
魔界の星とも言われる絢爛豪華なダークパレス。黒曜石の壁に黒真珠をあしらった黒鉄の窓、黒い天鵞絨を吊るす柱は夥しい人間の骨を積み上げている。何もかもが停滞している魔界ではあるが、この場を支配する主の力の強さと、人間界に近い為に黒雲に時々稲光が走る。真下に広がる荒波の飛沫すら漆黒の大海の底には、我々の主が切り取った大陸が沈んでいると言う。
「デス・アミーゴ、ちょっと来なさい」
天鵞絨の奥から声が聞こえる。裏声のような高さを持つ艶やかな声だが、拒否を認めぬ冷たさがある。俺は深いワインレッドの絨毯を転がるように進んで、天鵞絨の手前で膝を折った。お腹が使えて上手く屈めないが、主は気にも留めなかった。
「貴方って、呪いとか使えたわよね。どんな呪いだっけ?」
「人間を動物の姿に、動物を人間の姿に変えてしまう呪いです」
俺の答えに、背後に控えていた魔物達の嘲笑が響いた。『俺なんて人間共を石化させる雨を降らせるってのに、ぱっとしない能力だなぁ!』そう笑うのはあめふらしか。後でそのベロ引っ掴んで、縄跳びにしてやるからな!
主の問いに嘘や誇張は死を意味する。だけど、ピエロのような身成でこんな能力じゃあ、確かにぱっとしないだろう。背後に怒りはすれど、俺は思わず顔が熱くなる。
「五月蝿いわね! 静かにおし!」
俺が怒ったんじゃないぜ! 俺達の主が声を荒げ、嘲笑が稲妻に打たれて呻きに変わる。
「うっふっふ。ねぇ、デス・アミーゴ。バラモスって知ってる?」
天鵞絨の闇に地獄の業火から拾って来た、紫の炎が灯るキャンドルに照らされて主の姿が見える。銀色の髪、青銅の肌、にんまりと微笑んだ口元は紫のルージュが引かれている。全体から漂う抗い難い妖気を香水のように纏わり付かせ、血の様に赤いマニキュアが塗られた指先がワイングラスを弄ぶ。
俺が『オルゴ・デミーラ様の余りの美しさに、忘れてしまいました。その程度の者でしょう』と畏まった。
可愛いわねぇ。含み笑いから満足そうな笑い声が漏れる。
「根性ねじくれたイイ趣味してる奴よ。見た目はあたしの趣味じゃないけどね」
にいっと笑みが深くなる。
「恋人達に悪戯したのよ。男は夜は人に昼は馬に、女は昼は人に夜は猫になる呪いを掛けたの。仲睦まじい恋人達が触れ合えるほど近くにいながら、手の届かない嘆きと悲しみは魔界中に実況中継されて動画ランキングの上位を一時期かっさらう程人気だったわ」
主は立ち上がり、すらりとした足でステップを刻み、背に生えた翼を翻す。ぱちんと指を鳴らし俺を見る。
「アンタに、それと同じような事をしてもらいたいのよね」
「つまり、特定の人物を、特定の時間だけ動物にする呪いを掛けるって事ですか?」
そうよ。その通り。
上機嫌だった主が、すっと表情を凍らす。冷徹な表情の主に、俺を含めた魔物達が震え上がった。
「あの忌々しい異次元戦隊、ヒーローズの構成員で恋人同士の二人がいるでしょ?」
はぁ? 俺は内心首を傾げる。女神の加護を受けた敵がいる事は知っているが、俺は情報に疎い。目を白黒して、迂闊に頷く事も出来ない俺に主は気が付かずヒステリックに声を荒げた。
「アタシ好みのイケメンの男に、べたべたくっ付いている女! 見ているだけでも腹立たしいわ! リア充は須くイオナズンで木っ端微塵にされるべきよ! …でも、アタシって優しいから、男にはチャンスをあげようと思うの。女と別れるって事を考えさせてあげるってチャンスをね…」
そしたらー、『俺が愛すべきはオルゴ、お前なんだ。ようやく気が付く事が出来た…』って告白しにくるわ!あぁ、唇に塗るのはどんなリップカラーが良いかしら。あぁ、でも彼はきっと色なんかに拘らないわ! 有りのままのアタシをぎゅっと抱きしめてくれるのかしら。だめよ、アタシが抱きしめて愛でて あ げ な い と ね … !
うわぁ。俺だけじゃなくて背後で控えてる連中も、ドン引きだ。
主の激しい妄想が終わって俺が命令を下される頃には、背後の魔物の半分が瞼に目を書いて寝こけていた。
ちくしょう、おぼえてやがれ。
■ 厄介始まる 金曜日 ■
「ほーら、カラスかっちゃーん! パンをお食べー! ってあいたぁ!!」
ヒーローズの基地、ロイト邸にレックの悲鳴が上がった。
突かれた腕を擦って涙目になっている、その道では知られたミュージシャンの目の前には一匹の鴉がいる。ジパングでは何処にでもいるような、尾から嘴の先まで真っ黒い鴉だ。今まで近くで見る機会はなかったけど、濡れ羽色の艶やかな黒は美しい。鴉は椅子の背もたれに足を掛け、やや茶色掛かった瞳でレックを睨みつけている。
レックは千切ったパンを乗せた手の平を、ぐっと鴉に突きつけた。
「怒んなって! 朝飯沢山食って来たって聞いてるけど、昼飯を我慢するのは良くねぇぞ!」
時刻はもう直き夕方。日差しは傾き橙色の光が、窓から長く伸びていた。ここに来てから水しか飲んでいない鴉を、レックは心配そうに見つめている。
鴉は少し間を睨みつけていたが、ひょいっとレックの腕に乗って手の平のパンを食べ始める。腕に乗った鴉に、レックがおぉ!と歓声を上げて私を見る。ぐっと腕を突き出すと、鴉が翼を広げてバランスを取る。
「やっべ! アドル、これ超カッコ良くね!? 今度俺のライブにゲスト出演ってあいたぁ!!」
懲りないなぁ。私は呆れて笑う。
再度腕を突かれレックが悲鳴を上げ、思わず振り回した腕から鴉がひらりと舞い上がった。家具を器用に避けて羽ばたいた鴉は、美しく滑空してアレンの肩に着地した。アレンはちょっとドキドキした様子で、澄まし顔で毛繕いをする鴉を見ている。
昨日、私達は出現した魔物を倒す為に出動した。出動した場所は、丁度アレフとロトが営業の為に訪れた場所に近かった為に、戦闘現場に二人が居合わせる事になった。だが、紹介所の面々はそれぞれに強い。ましてや、戦えないロトの隣にいるのは、命を引き換えにしたってロトを守るだろうアレフだ。私も、他のヒーローズも彼等の事を意識せず魔物と戦う筈だった。
変な魔物だってのは、思った。
ピエロみたいなメイクに、ピエロの服で着膨れた胴体に申し訳ない程度の短い手足が生えていた。綺麗なボールのジャグリング、身体に沢山風船付けて、ふわんふわんと舞い踊る。最初駆けつけた時は、大道芸か何かに思われて人だかりが出来ていたよ。そして目の前に現れたヒーローズに、魔物は仰々しいまでに慇懃に私達に頭を下げた。
魔物を退治しようと息巻いていた私達は、呆気にとられた。油断した。
それが大きな隙になったのは、今でも後悔する。気が付いた時にはアレフがロトを庇う為に飛び出し、アレフとロトは魔物の呪文を受けて倒れてしまっていた。そして淡い光がアレフの身体を包んだと思った次の瞬間、男の姿はそこになく一匹の鴉が横たわっていた。
そう、この鴉。アレフなんだ。
本人は鴉の時の記憶も意識もしっかりしているという。その言葉を裏付けるように、鴉は私達の言葉を理解していて賢かった。口数が少ないのも反映されていて、滅多に鳴かない。家にいるのを気兼ねしてか、庭の木かロトの研究室に当てられた和室の窓枠が定位置だ。口が利けない分、嘴が早いのが玉に傷だったが。
わいわいと賑やかなリビングの戸が開いた。
「アレフさん」
とことこと入って来たのはロトだ。小柄な彼女が鴉と私達を見回して、少し不安そうな声を上げた。
「もうそろそろ時間っぽい」
鴉がロトの前に降り立って見上げると、ロトは鴉の前にしゃがみ込んで頭を撫でた。鴉は不服そうだったが大人しく撫でられている。そして鴉とロトの身体が淡く光りだした。輪郭が解け光が広がって行く。
目を細めているうちに、光は納まった。
茶色い髪の下で不機嫌な表情を貼付けた男と、夜空のような漆黒の毛並みに真っ青な瞳の猫が向かい合って居た。アレフは膝を付き、猫に手を差し伸べる。
アレフは昼の間鴉の姿になり、ロトは夜の間猫の姿になる。
「ロト」
にゃーん。アレフに抱かれた猫が鳴いた。
■ 毒舌光る 土曜日 ■
御ミサの準備が一段落した教会を、俺と猫のロト姉ちゃんとアレフが訪れていた。
神父が神の御心を解く為に立つ場所に分厚い聖書を置いたサトリは、じっとアレフとロト姉ちゃんを見て首を横に振った。緑色に美しい刺繍を施したマフラーが身体の動きに合わせて舞う。
「この呪いは僕では解けそうにない」
柔らかく曲がる事を知らない本人の性格そっくりの針みたいな金髪を掻き、緑の瞳を眇める。その緑は二人を見つめていながら、その奥にある別の世界を覗き込んでいるかのようだった。日に焼けた事のない白い手を翳し、説法を説くように朗々と言葉を紡ぐ。
「他所の土地の神の怒りから来る呪いであったり、他人の怨念から来る呪いであるならば、僕の管轄内だ。人を呪わば穴二つ。呪いを仕向けた相手を逆に呪い返してやる自信がある」
「神様の前で物騒な事言うなよ」
神をも怖れぬ物言いに、俺は顔を顰めた。
この腐れ縁とも言える親友は、神父と名乗っていいのか疑わしい程に言動が過激だ。隣に立つアレフは『それは頼もしい』と感心すらしているようで、眉を少し跳ね上げるに留めた。
「ポルトガではこれに似た呪いの被害者がいるそうだな。教会はどこまで把握してるんだ?」
これは紹介所の善意と言うか、通すべき筋と言うべき問いだった。
リウレムさんやSICURAを通せば、態々問わなくても情報を得る事は容易かった。実際、ポルトガの呪いの被害者の情報はリウレムさんからだ。しかしリウレムさん曰く『所詮、情報はただの記号。一度、サトリ君に視てもらいなさい』との助言で俺達はここに居た。
実際、神職は呪いの解呪も行なっている。サトリが解呪の専門ではないにしても、教会に呪いが解けるかどうかの判断は出来る。実際出来なかったと言う返答も、大きな情報だった。
「本来なら部外者に漏らすべき情報ではないが、二人の呪いは酷似してる。まぁ、おっさんやSICURAに腹の中探られる前に、お前等が知って良い人種って事で特別に教えるよ」
くれぐれも、僕から聞いたって公にするなよ。サトリは小さく付け加えた。
「呪いの被害者はポルトガのカルロスという男と、その恋人のサブリナ。カルロスは昼間は馬に、サブリナは夜に猫の姿になる。神にも人間にも由来しない呪いで、やはり教会では解呪できる代物ではなかった。そうなると、魔物の呪いが疑われる。教会側は呪いの元凶をバラモスだと突き止めた」
「バラモス?」
俺が首を傾げる横で、アレフが短く舌打ちをした。見上げると険しい顔で、姉ちゃんを抱いていない手で顎に手をやる。
「特別な手段を踏まねば遭遇すら出来ないだろう。厄介だな。ポルトガも教会も、その二人の為に人命を散らせぬと放置しているという訳か」
アレフの言葉にサトリが頷いた。
二人の会話から、バラモスって奴がとんでもなく強い奴だってのは分かった。アレフがこんなに眉間に皺を寄せてるんだ、紹介所の面子で挑んでも簡単に勝たせてもらえる相手じゃないだろう。
「じゃあ、ロト姉ちゃんもアレフもこのまんまなのか!?」
「いや、ロレックス。俺達はバラモスから呪いを受けている訳ではない。俺達に呪文を浴びせた奴は、弱過ぎる事はないだろうが非常に強い手合いではない。それを踏まえれば、俺達はまだ呪いを解く望みがあるだろう」
アレフの言葉にサトリは話が一区切りついたと思ったようで、聖書のページを繰り出した。明日の説法に用いる一説を探しながら、こちらも見ずに相槌を打つ。全く、アレフもロト姉ちゃんも気にしないからいいけどよ、そんな態度で何度面倒な事になったと思ってるんだろう?
「邪魔したな、サトリ」
アレフは『行くか』と俺を促して、踵を返す。
サトリが俺の名を呼んだ。ちょっと待っててと、二人を待たせてサトリの真横に駆け寄る。サトリはアレフのように眉間に皺を刻んで、鋭い目をさらに細めて声を潜めた。読唇されないよう口元を隠し、俺にだけようやく聞こえる言葉で囁く。
「ロレックス、僕の目に間違いがなければ、ロトは嬉しそうに見えるのだが…」
猫はアレフの腕の中で大人しくしている。大きな手にじゃれつき、胸元に頭を擦り付け、腕に尻尾を絡み付かせる。猫の事がよくわからなくても、嬉しくて仕方がないように見えるだろう。猫の時は人間以上にべったべただ。
俺はサトリに同意して頷いた。そして俺も口元を隠して小声で話す。
「ロト姉ちゃん、今はアレフと一緒に寝てるんだ」
は?
サトリが目を丸くした。そりゃそうだ、今の状況じゃなければ何事だって思うよ。
「初日はロト姉ちゃんも自分の部屋で寝てたんだけど、部屋の扉がぴったりと閉まってて出られなくなってさ。部屋中の物叩き落として、大きな音を立ててアレフとケネスが駆けつけてったんだ」
人間の姿に戻った姉ちゃんは、心細かったと珍しく涙目で訴えた。初日だったって事もあって、人間の姿に戻れるかもわからず、ずっと誰にも気が付いてくれないじゃないかって不安で仕方がなかったんだろう。その経緯を簡潔に話して、俺はため息を吐いた。
「以来、アレフと一緒に寝てるんだ」
本当は同性のアインツに頼みたいところなのだが、その騒動の日に仕事でケネスと出国していった。
今は猫を抱きかかえ、アレフは寝ている。アレフの寝顔が可愛くてよーく見てるんだとロト姉ちゃんは嬉しそうに言うけど、姉ちゃん猫の姿じゃなきゃその状況ってかなりどうかと思うぜ。とは弟分として言える訳もない。俺の鼾はうるさいから、さすがの姉ちゃんも『弟でも一緒はちょっとねー』と笑うんだ。正直、傷つくぜ。
「ロレックス。いい加減、あの二人を神の御前に引っ立てろ。僕が誓いの言葉を聞いてやる」
無茶言うな。俺はぼやいた。
■ 雨も滴る 日曜日 ■
紫陽花の美しい季節だ。梅雨の雨がしとしとと大地に降り注いでいる。
気温は涼しいと感じる数値だったが、霧雨が煙る湿度の高い空気は体に霧吹きで水を掛けているように濡らした。俺は葉が生い茂る木で一番滴が落ちてこない場所を見つけると、そこで羽にこびりついた水滴を払った。鴉の羽は水を弾かない。
しかし、羽が整ってないとソワソワするな。俺は翼の風切り羽を毛繕う。
日中は鴉の姿になる呪いを受けて、一番困ったのは紹介所の業務が完全に停滞した事だった。
とはいえ、俺とロトが動物になってしまう時間帯が、逆転した方がいいとは考えられない。この呪いを解く方法を探したり編み出したりするのは、ロトの分野になる。日中、しっかり探してもらって、夜中は寝てもらった方がいい。
無力化したも同然の強敵。つぶすなら、絶好の機会だ。今の状態じゃあ、ヒーローズに守ってもらうのも止む得ない。
守ってもらうなんて勘弁願いたいが、鴉の姿じゃあ仕方がない。
俺は膝を折って足で掴んだ枝の上に腹を乗せると、ロイト邸を見下ろした。薄暗い梅雨の陽気で室内が暗いのだろう、リビングに明かりがついている。時々子供達が俺の様子を見る為か、窓辺からこちらをうかがっていた。
嘴の先に滴が落ちた。鼻に雨水が入って、首を振る。手がないって不便だ。
フェイは動物が家の中に入る事に対して、良い顔をしなかった。
それはそうだろう。家に動物が入り込むということは、それなりの汚れと痛みを覚悟しなくてはならない。俺はその表情を見てから、なるべく家の中に入らないよう努めた。子供達にも弄られずに済むし、結果的には良い事だった。
しかし、鳥って難儀だな。俺は水で重くなってきた体を震わせて、羽の水を払った。
昔、養護施設の子供達は捨てられた犬や猫を拾ってきた。その中に鳥も含まれていたっけ。『可哀想だから』と、雨に濡れた猫をタオルで拭いてやった子がいた。みんな捨てられた子供達だったから、同情が強かったんだろう。俺も必死な子供達と食事を削って餌をやり、里子探しに奔走したものだ。
ようやく眠気がきて、目を閉じる。
少し寝て、日が暮れるのを…
「おい」
驚いて目を開けると、真横に和傘を差したフェイが座っている。子供くらいの体重でも折れてしまいそうな細い枝だったが、自称座敷童のフェイは重さもないかのように腰掛けている。見れば手も見事な刺繍がさりげなく施された和服も、センスのいい帯も雨に濡れている気配がない。傘を手にずっとそこにいたかのようだったが、フェイはこの場に直接あらわれたんだろう。銀色の髪に滴ひとつなく、金色の瞳に鴉が映り込んでいる。
何の用だろう?
俺はフェイを見上げたが、生憎、暗いと良く見えない。
「こんなに震えて、寒いんだろう?」
寒い? 震えてる? よくわからないな。
鴉の姿だと人間の感覚とは違うようで、俺は体温調整がいまいち上手くできていなかった。
フェイの腕が腹の下に差し込まれた。思わず乗ってしまった真っ白い腕から、俺は飛び降りる。不満げに呻くと、かぁと響く。
「良いから来い」
差しだしてくるフェイの手から逃れるように、俺は枝を渡る。お前は、嫌なんだろう? 家のお前は自分の家に帰ってくる家族の事は何でも受け入れても、一時の居候は一時だと考えているんだろう? それでいいだろ。俺も立ち入らないから、踏み込んでくるな。お前の迎えたい家族の為に、家を汚したくない気持ちはわかる。鴉一匹の事なんか気にするな。
フェイが金色の瞳で俺を見る。リビングの明かりのような温かみのある光だ。
ふいっと俺は羽をはばたかせ、別の枝に乗った。丁度滴がたくさん落ちる場所だったようで、しなった枝の水滴と雨粒が降り注いであっという間にずぶ濡れになる。全く、最低だな。
水滴を払おうと動きを一瞬止め足を踏ん張ると、がっしりとフェイが胴体をつかんだ。
お、おい!やめろ!身動きが取れないだろう!足をばたばた動かす俺を、フェイが覗き込んだ。
「全く、手が焼ける」
お前が勝手に手を焼いてるんだろうが!
うぅ! 振りほどけない! 想像以上にがっちりつかまれていて、俺は完全に身動きが取れなくなった。フェイは和傘を肩にかけ、ひょいと木から降りた。芝生の庭を横切り、リビングにいたノアがフェイと捕まれている俺に気が付いて窓を開けた。
真っ白いフカフカのタオルを上からかぶせられると、フェイは想像以上に慣れた手つきで体をぬぐった。ドライヤーまで掛けてくる。あぁ! もう! やめろ! 羽があっちこっち動いて、むずむずする! 落ち着かない! 俺はやられたそばから嘴で毛繕う。タオルとドライヤーから解放され、ようやく羽が落ち着いてきた俺はそっと息を吐いた。
……あったかいな。
やっぱ、外は寒かったのか。
俺が落ち着いたのを見て、フェイが言った。
「今日は中にいろ」
すっと姿が消える。
何か食べる?ノアが聞いてきたような気がしたが、俺はタオルの上に腹を落として首の羽毛に顔を埋めた。微睡んで眠りに落ちるのに、時間はいらなかった。
さっきは寝るのにも一苦労だったのに…。
■ 家主が帰る 月曜日 ■
今は子供達は出払っている。そうゾーマが教えてくれたんだ。
本当は帰って来る理由はないのだけど、ゾーマが『フェイがアルに会えなくて寂しがっている』と言ってくれたし、丁度、子供達が家にいないのなら ちょっと帰っても良いかな。でもやっぱり、今はゾーマが紹介してくれた子供達が使っている家だもの。寛いでいる時にお邪魔しちゃなんか悪いから気後れしちゃうな。
「アル、自分の家だろう?」
僕の心を見透かしたように、ゾーマが笑う。傘を差してゆったりと歩く姿は、まるで雑誌の特集の一頁目のよう。緩く結んだ青い髪が、雨水にキラキラと光ってる。ゾーマは隣にいるのが僕で申し訳なく感じてしまう程の、爽やかな笑みを浮かべた。
「フェイにとっては、家の主はアルに変わりは無いさ」
そう…だよね。僕は自信なさそうに頷いて、歩きなれた道を行く。目を瞑っていても辿り付けるだろうね。
しとしとと薄日の差す中に降る梅雨の雨。朝から降り続くいている為に、この一帯に住んでいる親戚達も家に引き蘢っているんだろう。一番奥にあるロイト本家まで、親戚の誰とも会う事はなかった。見慣れた家を見上げ、門を開けて中に入る。紫陽花が満開で、紫や赤や白と様々な色を花に溶かしていて咲き誇っている。
僕は玄関に目を止め、首を傾げた。
玄関の軒先が雨を遮り、来訪者はここで傘を畳むだろう。僕は傘を畳もせず傘立てを見た。
僕が驚きで釘付けになった視線の先のそれに、ゾーマが微笑みながら言った。
「留守番か?」
かぁ。小さく鳴く。
傘立てに留っていたのは鴉だった。嘴の先から尾の先まで、雨にしっとりと濡れて家にある漆塗りの黒よりも深く美しい黒を身に纏った鴉。瞳の色はやや茶色掛かっていて、賢そうな光を瞬く度に輝かす。寒いのか傘立てに掴まった足の上に、ぽってりとお腹を乗せて羽根を膨らませていた。
逃げない所を見ると、人に馴れているのかな? 僕の心の声が聞こえでもするのか、ゾーマが教えてくれた。
「子供達が一時的に預かっている鴉だ」
「触っても平気かな?」
ゾーマに聞いたつもりだったが、鴉が顔を上げて僕を見た。
人に育てられた鴉って凄く頭がいいし、人の言葉も分かるって聞いた事がある。飼い主を見分けて、肩に止まったり腕に乗ったりしてくれるんだって。この鴉は人見知りもしないのかな。
そっと手を伸ばして、羽根に触れる。鴉は目を閉じて大人しくされるがまま。大きな背をゆっくりと撫でると、冷たい羽根の奥に暖かい体温があって手の平にじんわりと熱が伝わって来る。わぁ、なんて可愛いんだろう!
夢中で撫でても鴉は平気だ。むしろマイペースに自分の羽根を繕って、逃げる気配もない。なんて賢いのだろう。
そこまで考えて、僕は首を傾げゾーマを見上げた。
「でも、どうして外にいるの? 家の中に入っちゃいけないの?」
「聞いた話だと、フェイが良い顔をしなかったのを見て家に入らなくなったそうだ」
ゾーマの嘆息を見上げ、鴉はふいっと羽根を繕う作業に戻る。
こんなに大人しくて賢い鴉が、家で暴れるなんて考えられないじゃないか…! しかもフェイに気まで遣ってるのか…!?
「フェイったら、頭が堅いなぁ…。 さぁ、おいで。 一緒に家に入ろう!」
僕の言葉に、鴉がびくりと見上げた。
差し出した手を鴉は見たが、ふいっと僕から背を向けて毛繕いを始めた。僕の誘いはお断り、家には上がらないぞって黒い背中が言っている。
「フェイ」
「なんだよ」
きっと玄関扉の裏で待ってくれてたんだろう。僕の声に間髪入れずにフェイが顔を出してくれる。
「フェイが虐めるから、鴉君が家に入らなくなっちゃったじゃないか」
「俺は中に居ろと言った」
フェイは悪びれた様子も無く言う。僕は吹き込む雨にしっとり濡れた鴉を庇うように、傘を差した。
「梅雨の雨にこんなに濡れているよ。可哀想じゃないか」
「こら、いくな」
振り返るとゾーマが、がっしりと鴉を掴んでいた。ばたばたと足を動かし、ゾーマを見上げてかぁと鳴く。ゾーマが手を離さないのを見てか、抵抗も長くは続かなかった。鴉が諦めたようにしょんぼりと力を抜けば、ゾーマは鴉を肩に乗せた。なぜだか、凄く様になる。
僕が鴉を見上げて手を差し出す。おいでと声を掛けると、鴉は一瞬躊躇ったが、とん、と僕の腕に乗って来た。そしてぎゅっと抱きしめる。鴉が吃驚したみたいで固まった。鼻腔をくすぐるのは優しい石鹸の香りだ。この鴉の事を大事に思っている家族の愛情が伝わってきそうだ。
「不器用な奴で本当にごめんね。でも、大丈夫。家に入って良いように、僕がフェイを説得するからね!」
「いや、だから、俺は中に居て良いって言った」
僕はフェイを睨んだ。
だって、鴉君は入らないじゃないか。
フェイの馬鹿。
■ 歌声響く 火曜日 ■
俺達は今、アレフとロトに呪いを掛けた魔物を追っていた。
しかもこの魔物が生み出した異空間は、それはもう戦いの場にゃあ勿体ないくらいご機嫌だ。人っ子一人姿が見えなくなった、本来の世界とは少しずれた異次元。見慣れたビル街には飛行船みたいなデカイバルーンが浮かんでいると思ったら、足下には風船で作る動物がちょこまか動いてる。味気ないコンクリートジャングルは、ご機嫌なネオンと明るいマーチの音楽できらびやかだ。
街全体がサーカスになっちまったみたいだぜ。モシャス大道芸を極めた世界的アーティストの舞台がこんな感じなのかもしれないな!
ファルシオンのライブでもこんな感じでやりたいもんだぜ! バーバラは喜びそうだし、バルーンの上で座禅したチャモロが観客席の上で音楽を響かせてそう! そうだ、観客の皆でバルーンを飛ばして、1つになる感じもすげー良いんじゃね!? うわーやべー! ワクワクして来る!
「そっちに行ったぞー!」
イエローの声が俺を現実に引き戻す。俺と隣にいたブルーは頷き合った。
飛び出して来たのは風船みたいな丸い胴体。ピエロの格好の魔物は、転がるように俺達の前に追い込まれてきた! 待ち伏せていた俺達に ぎょっとしたけど、地面に転がるとぽよーんて空を舞う! ちょーヘンテコ! バックダンサーでもあんなのいねーよ!
「こらぁ!待て!」
ブルーが抜群の運動神経で、俺達の頭上を飛び越えようとしたピエロの胴体を掴んだ! ナイスキャッチ!
ぱぁん!
ピエロの胴体が崩れて大小様々なボールになる。驚いたブルーが、すげー量のボールに押し潰されそうになる!
「ぶっ飛べ!ベギラゴン!」
俺の声が鋭い閃光になって、ブルーに降り注ごうとしたボールが轟音を響かせて割れていく! 紙吹雪みたいになったボールの破片を浴びながら、アレンことヒーローブルーは耳を塞いで地面をのたうち回った。
「うひゃー!すげー音!耳が変になっちまうよ!」
「また逃げられちゃった?」
ピンクの声に俺は頷いた。ブラックズはアレフとロトを守ってもらう為に基地に残ってもらっていて、無理できないピンクは別として、俺とブルーとグリーンとイエローでこの異空間を駆け回っていた。捕まえようとすると、こうやって逃げられる。
SICURAのナビゲーションと、ヒーローズのスーツで運動神経をカバーしてもらっているけど、ずっと追いかけ回してるからブルー以外はだいぶ疲れて来てる。俺もライブ終盤、まだ頑張れるけどだいぶ疲れて来たぜ!って感じだ。
俺達の疲れを察してアドルが言った。
「ちょっと強引だけど、捕まえよう。ロトもアレフも可哀想だから、早くどうにかしてあげたい」
「どうやって?」
ピンクがバイザー越しからでも見える、大きく可愛らしい目を瞬いた。
「この空間の風船、全部割ろう」
「全部!?」
アレンが吃驚したように目を丸くする。その驚きっぷりに、ピンクは朗らかな声を上げて笑った。
「そう、全部。隠れたり逃げたり入れ替わったりするのに利用する風船が無くなれば、敵は裸も同然だ。こっちが俄然有利になる。ブルーの水の力でちょっと尖った雹を作ってもらって、グリーンの風ので嵐にしてもらって広範囲のバルーンを割る。私とレッドの声で風船やボールの中の空気を揺さぶる特殊な音域を作って、嵐で割れなかった分を壊す。それでもしぶとく残ったのはイエローの剣で物理的に破壊してもらう」
なにそれ!面白そう!
俺は炎の力でマグマのギターを生み出すと、思いっきりそれをかき鳴らした! 燃え上がるような激しい音が迸る! さぁ、みんな! 待たせたな!!俺はにやりと笑って、大きく大きく息を吸い込んだ。腹の中に燃えた情熱を吐き出すように叫ぶ。
「うっしゃああ!俺の歌を聞きやがれぇええええええ!!!」
俺のシャウトが太陽風になって空間を吹き荒れる。深紅の風は瞬く間に風船を焼き払い、ボールを割る。その中を悲鳴を上げて舞い上がったのは、あの魔物だ。『かんべんしてーな!』と懇願した魔物を助けてやったのは、グリーンとイエローだ!よっしゃあ、確保ぉ!
あまりに気持ちよくて、たまにはこんなに激しく情熱的なシャウトも良いもんだぜ!
「うん、レッドだけで十分だったね」
悪いな!アドル!今度は一緒にセッションしようぜ!
■ 日常戻る 水曜日 ■
朝日がカーテンを透かして差し込み、部屋の中が明るくなって来る。今日の朝ご飯の当番はロレックス君だ。朝のジョギングを終えて帰って来たのか、小さく玄関の扉が閉まる音がベッドに押し付けていた耳に届いていた。
昼間、鴉になってしまう呪いのせいで、アレフさんはこの時間にはもう起きていて朝ご飯を食べていた。鴉は雑食だから食べ物に困らなくて普通にお昼も食べれるんだけど、子供達が嬉々としてパンやお菓子を与えて来ようとするのが嫌だったから食い溜めするんだって言ってた。
でも、もう鴉にならない。
子供達があたし達に呪いを掛けた奴を捕まえて来てくれて、呪いを解いてもらったんだ。
でも、何でだろうね。レック君が『呪いを解かないと、お前の耳元でシャウトしてやるぜ!』って言って、頭を挟んで反対側でアドル君が『なんなら、コーラスでも良いんだよ?』と囁くのに魔物は震えてたんだけど…。ちゃんと呪いを解いてくれたから良いけど、何があったんだろう?
あたしの方を向いて、すやすや眠っているアレフさんを見る。
猫を抱きかかえる姿勢で慣れてしまったようで、前髪が触れ合う程の至近距離だ。思ったよりも長い睫毛の一本一本すら見える。いつも寄っている眉間の皺が無くなって、年下の男の子みたいで可愛いなぁ。
薄ら開いていた唇が引き結ばれ、瞼が震える。ゆっくりと開いた茶色い瞳が、ぼんやりとあたしを見た。
ぼんやりとあたしを眺める事、数秒。視点が定まって目が見開かれるまでに、深呼吸一回分。次の瞬間、アレフさんが跳ね起きた!
「なななんでロトが俺の横で寝てるんだ! …うわっ!」
余りの勢いにアレフさんがベッドから転落した。受け身を取り損ねたみたいで、強かに打ち付けた肩を押さえている。
そんなアレフさんをベッドの上から四つん這いになって見下ろす。アレフさんは慌てて、あたしから視線を外した。
「えー、だって昨日も寝てたじゃん」
「それはお前が猫だったからだろ! もう、元の姿に戻ったんだ! 自分の部屋で寝ろ! っていうか、おかしい! 俺は寝る時、1人だったのに…!」
うんうん。アレフさん一人で寝てたね。あたしは頭を抱えるアレフさんに同意する。
「アレフさんが寝てからこっそり入ったの。誰かが隣に居ると落ち着くなーって」
「冗談じゃない!」
アレフさんは立ち上がるとあたしの目の前に腰を下ろした。むんずとあたしのパジャマを掴むと、ちょっと乱暴だけどボタンを手早く閉める。あれれ、胸元開けてた?
「良いか、ロト! お前は嫁入り前の娘なんだぞ! 何かあったらどうするんだ!」
「アレフさんは変な事しないから大丈夫!」
あたしがけらけら笑うと、アレフさんは『大丈夫じゃない!』と叫んだ。
「誤解でお前の母親に殺されかねん!」
「お母さんはそんな事しないよ! ね、ロレックス君!」
騒ぎに駆けつけてくれたロレックス君は、フライパンを片手に廊下に立っていた。ベーコンエッグの良い香りをまき散らしながら、あたしの問いに動じず頷いてくれる。
「そうだね。全身複雑骨折くらいで済ませてくれるよ」
ロレックス君は真面目に答えてくれる。例えそれが、実に優しさのない現実であっても偽りなく言ってくれるので、アレフさんは頭を抱えた。それがおかしくって笑っちゃう! そんなアレフさんとあたしに、ロレックス君は笑った。
「姉ちゃん、兄ちゃん。痴話喧嘩は後回しにして、早く朝飯食ってくれよ」
アレフさんが、がばっと顔を上げた。
「ふざけるな! なにが痴話喧嘩だ! それと、俺を兄と呼ぶな!」
「やだー、ロレックス君。あたし達、夫婦じゃないよー」
あ、でも、朝方ベッドで並んでるのってそれっぽく見えるのかも!
ぷぷぷって笑ったら、アレフさんが笑うんじゃねぇって怒鳴るの! もう、そんな大声出さなくたって聞こえてるってば。あー、笑い過ぎてお腹痛い!