終章 de 注文の多い依頼主

 なんとも不思議な依頼人であるとは思っている。
 その人物は平日の中頃を指定し夕食を作って欲しいと、数ヶ月前からほぼ毎週依頼を寄越していた。最初は一週間に一度だったが、最近は一週間に3日と日数が増えている。リピーターではあったが、俺も受けれる依頼に限界があるので増えるのは困る。だが、今の所は3日以上になった事はない。大丈夫だろう。
 それだけだったら、俺は不思議に思わない。
 お得意先のグランバニアさんの家は、長期出張が決まれば一週間通い詰める事になるだろう。男三人のサッカー観戦に不貞腐れるお嬢様の為に、一緒に水族館とかドライブに出掛けてやる事もある。問題は頻度ではない。
 依頼人は依頼の日時と、場所と、作って欲しい料理を指定していた。
 了承の返事を出せば返信してこないが、こちらがその日時は応えられないと別の日を指定すれば可不可の返事を返して来た。メールは使い捨ての簡単なフリーメール。
 その依頼人の指定する仕事場は毎回違っていた。
 都内の一等地の高層マンションの最上階である時もあれば、郊外の別荘であったり、貸し切りの飲食店の時もあった。鍵は管理人から渡され、誰もいないし指定された部屋で料理を作る。食材と調理器具は一流の物が既に用意されていて、俺はただ作るだけだ。料理が完成すると俺は部屋を出て行く約束だった。後片付けはしなくて良いと、最初のメールで言われたからだ。
 未だに顔を見た事はないが、金払いの良い依頼主だった。
 今回の依頼はカザーブの料理。依頼主は肉好きらしく、肉料理の美味いカザーブ料理の頻度は高かった。
 食材は王宮御用達やジパング牛のA5ランクと言える一流の物ばかりで、これで料理を作れば間違いなく美味い物が出来るだろう。俺もなかなかこういう食材に触れる機会がない為に、楽しい時間だった。自分の腕を存分に試せる。
 ビーフシチューを煮込み、パンを焼いている間にテーブルをセットする。料理を食べるのは1人。依頼主の為の席に、食器を並べ、花を生ける。今回は高層マンションで明るい照明で窓が反射してしまっている。俺は窓にシャツとジーンズにソムリエエプロンの姿が意識しなければ見えなくなる程度に、室内の照明を落とした。キャンドルがあるので、最後に点灯するようにテーブルに置いて置く。
「ふむ」
 俺は整った舞台を見て、1つ頷いた。
 結婚式場の仕事をした経験が、変な所で生きるもんだ。悪くない。俺は口の端を持ち上げた。
 身を翻しキッチンに戻る。
 水で引き締めシャキシャキと手を押し返すサラダは、ロマリアのチーズが複数のあったのを削って調合しオリジナルのシーザーサラダに仕立てる。パンは焼き立てをカットし、更にフライパンで香ばしさが出る程に焼いて硬めのクルトンにする。彩り豊かな野菜の色彩に、黄金色のチーズとクルトン、レモンの香りの良いドレッシングが輝いている。
 パンも良く焼けた。アインツが見たら喜ぶだろう、美しい狐色だ。丸い曲線に艶をだしたパンは、まるで琥珀のようだ。小麦粉も一級品だったが、バターの質が特にいい。焼き上がったパンの熱気は、うっとりする程に良い香りのバターの香りを纏っていた。胡桃を練り込んだパンも良い塩梅だ。
 デザートは果物を多めに手配してくれていた関係で、タルトにした。宝石のような果物の鮮やかさの下に、たっぷりとカスタードと生クリームの層を敷いている。切り崩せばクリームが蕩け出る程なので、正に一口大。マカロンサイズのタルトを7種類用意した。途中で味を替えられるように、酸味の強いジャムも添えた。
 メインのビーフシチューは我ながら良い出来だ。肉はほろほろと崩れる程に柔らかくなり、野菜も面取りをしたので煮くずれていない。ホワイトソースをあしらって中央に置けば、部屋全体に良い香りが行き渡る。
 キャンドルに火を灯し、これがアロマキャンドルでない事を心から嬉しく思った。アロマの匂いが混ざったら、折角の美味しい匂いが台無しだ。
「こんなものかな」
 俺は小さく頷いた。今日も良い出来だ。依頼主も喜ぶだろう。
 台所の隅に置いた荷物を掴み、ガスの元栓を締めた事を確認して玄関へ向ける。靴を履き玄関を開けて一歩踏み出そうとした時だ。
 背後に突然気配が湧いた。
 振り返る間もなく、肩に腕が掛かり視界を手が遮る。爪を鋭く伸ばしマニキュアで塗られているからか、指の太さよりも爪を含めた長さに細く見えた。鼻腔をゆっくりと満たして行く香水は誘惑を香りにしたよう。背筋を撫で上げるように香りは冷ややかな体温を帯びて、ひんやりとした廊下の空気と俺の背の間に留まった。
 依頼主だろうか。
 きっと、そうだ。
「いつも、美味しい御飯作ってくれてありがとうね」
 声は艶かしいが確かな男の声だ。囁くように耳朶に触れる感謝の言葉だが、こちらを圧倒するような言霊が宿っている。背後に立つ依頼人が体重を預けて来るが、俺はぴくりとも動けなかった。自分の唾液で溺れそうになる程だ。
「本当はこのまま連れて帰りたいのだけどね、貴方とのこういう時間クセになるのよね」
 頬を撫でていた息が生暖かくなる。血の匂いがする吐息だ。
 ぐっと背後から力を籠められる。人間とは異質な体温。身体に触れた場所からじわじわと侵蝕して来るような、受け入れ難いなにか。この感覚は見ずとも分かった。人間じゃないなんて生易しい物じゃない。こいつは魔族だ。相当力のある。
「また、アタシの為に作ってね」
 手が目元から離れると、とんと背中を押された。つんのめって数歩前に出ると、背後で玄関の戸が閉まる音が響いた。
 いきなり息が吸えるようになって、喘ぐように呼吸する。振り返るとぴったりと閉じた扉がある。開けて追うつもりは微塵もない。今の状況は余りにも不利過ぎた。動揺が冷静さを揺さぶって、俺の中から落としてしまっていた。腕一本動かすのも大変な程だ。
 腕を押さえ歯を噛み締めて、俺は自分を押さえつけた。
 また依頼が来るのだろう。本人が『また』と言ったのだ、決定事項だ。金が支払われるなら、俺は応じる。そうやって生きていかなくてはいけない。危険だろうと、やらねば、得なければ、生きていけないからだ。
 なんと言うものを掴んでしまったんだろう。
 俺は眉根を寄せて扉を睨んだ。
 まさか、魔族の胃袋を掴んでしまうとは…。