天使はお姉様に憧れる
私はソファーに身体を預けながら、キッチンに立っている人影をぼんやりと眺めていた。
一人は肩でざっくりと切りそろえた黒髪の少女アインツで、等間隔に置かれた足台を兎のように跳ね回って家事をしている。可愛らしいエプロンがドレスのスカートのようにふんわりと広がっている。
彼女の横にゆったりと寄り添うのは、女の身体になってしまっているアレフだ。男物のシャツの腕をまくり、黒いソムリエエプロンを巻いている。セミロングの髪は、邪魔にならないように無造作にゴムで結われている。
二人はロト釣り用のお菓子を作っているらしく、うっとりするような香ばしいクッキーの香りが紹介所全体に漂っていた。さっき試食させてくれたのは、従兄弟と作ったアレフ印のレシピのクッキーだ。プレーンの生地の中に、シナモンの利いたクリームがとろりと隠されている。上に乗っているアーモンドスライスが可愛らしく香ばしい。でも本人は少し寝かせてしっとりさせた方が美味いんじゃないだろうかと、ぼりぼり食って自己採点していた。
アインツが嬉しそうに話しかけると、アレフも目元を和らげる。どう見ても仲の良い姉妹だ。
「羨ましいけど、勿体ないよね」
「何が?」
私の呟きにノアが顔を上げた。本当はお菓子作りに参加したくて仕方がないのだが、嬉しそうなアインツに席を譲る形になっている。
紹介所に泊まるようになって、アレンが紹介所の皆は仲が良いと言っていた理由が分かった。本当に家族のようなんだ。彼等が互いに特別で互いを大切にしているのが良く分かる。ちょっと、他所の家にお邪魔したみたいで肩身が狭いって思う。
ノアは長髪を綺麗に梳かれ、ノアの彼女と私に選び抜かれた可愛い服を着ている。立派な女子だ。そんじょそこらの女の子よりも断然可愛いと言い切れる自信がある。
私は手持ち無沙汰な手を、学校の制服の上で組んだ。
「アレフってかなり女っぽいのに、全然女らしくないじゃん」
服は男性の時と同じで、ぶかぶかにも関わらずモッズコートも着ている。だからこそと言うべきか、アレフを知っている私達にはアレフはやはり女なのだと思わされるのだった。細身の身体に柔らかくなった目元、セミロングにまで伸びた髪の毛は彼女が直前に作ったお菓子の香りを含んでいる。
色気すら感じるような容姿と雰囲気なのだが、男らしさが台無しにしていた。髪も無造作に下し、化粧も仕事の時だけで、服は言うに及ばず。サラシを巻いているのも残念要素だ。とにかく、アレフは非常に残念な女性だった。大半を石に包まれたダイヤモンドの原石だ。
ノアも私が思っている事に賛同するように頷いた。でも…と言葉を紡ぐ。
「元々、女じゃないよ」
「わかってるよ。でもさ、女の身体になったからには、女にしか出来ない楽しみがあるだろ。ノアは男に戻ったら、化粧も女物の服もしないだろ? 女だから出来るんじゃないか。女の時にやらないと勿体ないよ!」
拳を握って力説するのに被るように、携帯電話のコールが響いた。アレフはアインツに短く目配せすると、電話を取った。流暢な砂漠の国の言葉を紡ぐアルトに、思わず聞き入る。ここは世界中から依頼人や友人から電話が来るらしく、洋楽を聴いているようで耳が幸せだ。
『…知の祝祭の中止のニュースだろ? うちの社長とリウレムも弾かれたよ。酷いもんだな、方々阿鼻叫喚らしいじゃないか。今回こそ全問正解で通過出来る矢先で…リウレムが久々に頭を掻きむしって怒ってたさ…教授の所は…あぁ、あの所長と一緒だったのか災難だったな。で、今度って話にあった例の件なんだが…』
アレフはすっと手を上げると、アインツが心得顔に頷いた。任せた、そうジェスチャーされたんだろう。
アインツに見送られながら、アレフは事務所に消えて行く。
ノアがアレフと入れ替えで台所に入って手伝おうかと声を掛ける。アインツは大丈夫ですとやんわりと断りながら、心地よい声色でノアに言った。
「ノアさん、とてもお似合いですよ」
「ありがとう」
ノアの声は明らかに引き攣っているが、仕方ない。ノアが元々男性であると知らなければ、誰もがそう言うだろう。そして別に貶している訳じゃない。アインツの声は好意しか含まれていなかった。
「アインツはさ、実はアレフに女性らしい格好をして欲しいって思ってるんじゃないの?」
私の言葉にアインツはしょんぼりとした。彼女もロト並に表情が豊かだ。
「ロトさんと服を買ってきたんですが…拒否をされてしまいまして…」
ノアが目を見開いて驚いた。恐らく、ノアが服を買うまでの経緯を思い返していたんだろう。やや青白い顔色は、端から見ても良い思いはしなかったようだ。
「え、サイズとか計らせてくれたの?」
「目視で十分ですよ?」
にっこりと爆弾発言。流石に、これは怖い。
「アインツ、ちょっと」
私はアインツに耳打ちする。一通りの事を告げ終えた頃、アレフが事務所から戻って来た。
『あぁ、ちょっと今の状態じゃ難しくてな…申し訳ない。…あぁ、戻ったらな。じゃあ…』
ぴっと音を立てて通話を切る。そして、自分に視線が集まっているのに気が付いて、アレフは首を傾げた。
「アレフ、アインツが可哀想」
私が言うと、アレフはアインツに視線を向けた。おどおどするアインツを覗き込む。
「アインツ、どうかしたのか?」
「あ…あの。以前アレフさんの服を買ってきましたでしょう? 私とロトさんとで似合うと思って買ってきたので、着て欲しいですし、髪も綺麗に梳いて欲しいんです…あの、その…」
アレフが露骨なまでに表情を顰めた。怒られると思ったんだろう、アインツはびくりと身体を強張らせる。可哀想だなぁ。
「今は女の姿なんだからさ、女の格好して楽しんじゃえば良いじゃん」
「冗談言うな。俺は女の格好なんかしない」
私の言葉にアレフは強い拒絶を返した。アインツが震えて顔を背け、アレフは慌てた様子で膝を折りアインツの肩に手を置いた。私達が聞いた事もないような、労るような自分の非を悔いるような声色をアレフは紡ぐ。
「……アインツ、別にお前に言っている訳じゃ…」
「ごめんなさい。私、余計な事ばっかりしちゃって、ごめんなさい」
「謝らなくて良い。アインツに余計な出費をさせてしまって、悪かったな」
抱き寄せてぽふぽふと頭を撫でてやる。どうやらアインツが幼い関係で、アレフは保護者の意識が強いらしい。
「余計な出費にさせないようにするには、どうしたら良いのかアレフなら分かってるよねー」
アインツを抱き寄せていたアレフがちらりと私を見上げた。睨みつける瞳の色は『仕組んだな?』と言っているようだ。私は正解と言いた気に微笑んだ。でも、最後に選ぶのはアレフだよ? 私はアインツの背を押すように穏やかな声で言った。
「着てあげなよ。折角買ってきたんだから」
アインツがもぞりと動いて、至近距離からアレフを見上げた。上目遣い。女の武器だ。
「着てくれますか?」
長い沈黙の末に、アレフが折れた。
「…分かった。着るよ」
「嬉しいです!」
アインツに引き摺られ、再びリビングに出て来たアレフは見事なまでの綺麗なお姉さんだった。ロトとアインツの選んだ服はアレフの体格にぴったりで、動きやすさを考慮しつつ女性らしいものだった。柔らかく肩に落ちる髪は梳き解され、唇は色付きのリップクリームを塗ったらしくほんのりと色付き瑞々しい。サラシも取っ払われて、大きくはないが形の良い胸元だった。雑誌の表紙も飾れそうだね!
綺麗なお姉さんは私の前に立つと、忌々し気に腕を組み睨みつけて来た。
「これで満足かよ、アドル」
「あぁ、もう大満足だね!」
良いじゃないか! 羨ましいよ!
私はソファーの上で笑い転げた。
□ ■ □ ■
「アレフさんの事、お姉様って呼びたいです」
アレフは深々と溜息を吐いた。実はアレフが女性になってから、アインツは一日一回は言ってる。仕事の出来る綺麗なお姉様に、アインツは羨望と強い憧れが籠った視線を向けているのだ。確かに女性のアレフは美人でカッコイイ、男よりも女性を魅了する魅力を持っていた。ファルシオンの女性メンバーの中でも、女性の姿のアレフは好評だ。
「なぁ、アインツ。確かに見た目は女になったが、中身は変わってはいないんだ。今まで通りに接してくれないか?」
「は…はい…」
しょんぼり。アインツが悲しくて気落ちしているのが、凄く分かる。
俺は心が痛い。だってそうだろう。年上に甘えたがる年下って、凄く可愛いんだよ。可愛がって、喜んでもらって、笑顔になって欲しい。それは誰もが共通に持っている感覚だろうけど、妹のいる俺はその思いがとても強かった。だから、我慢なんてできない。
「アレフ」
俺の呼びかけにアレフが顔を上げた。
「妹の言う事は聞いてやれよ」
アレフにしては珍しく、ぽかんと口が開いた。呆然としているアレフに向かって、俺は勢い良く立ち上がり魂を込めて熱弁を振るった。大音量に思わず耳を塞いだアレフだが、そんな障害なんて俺の魂のこもったボイスの前には何の意味もないぜ!
「お前は妹がなんたるか、理解していないんだ! 妹とは兄にとって己の全てと言って過言ではない! 妹の笑顔に至上の喜びを感じ、いずれ嫁に行くという現実に胸が引き裂かれそうになりながらも、愛情を注がずにはいられない! 妹イズジャスティス! 妹が姉と呼ぶなら、兄であっても性別は女となるのだ!」
「レック、言っている意味が分からん」
頭が痛そうに眉根に皺を寄せたアレフだが、知ったこっちゃねー!
俺はこっちもやっぱり耳を塞いでいるアインツを示しながら、アレフに畳み掛けた。
「とりあえず、アインツちゃんがお姉様って呼びたいんだから呼ばせてやれ!」
心底嫌そうな顔をしたアレフの表情を見ていたアインツが、俺に懇願するように言った。
「レックさん、良いんです。私はアレフさんの嫌がる事を、したくないですから…」
健気で、いじらしい。俺はそんなアインツの姿勢を堪らなく愛おしく感じた。ひょいっとテーブルを回って、ぎゅっと抱きしめる。子供独特の体温に、甘い香りが腕の中に感じる。
「なんて良い妹なんだ! まるで天使! アレフ、お前、本当に兄貴として最低だ!」
「レックさん! アレフさんにそんな事、言わないで下さい!」
腕の中でアインツが力を込めて俺を突き放そうとする。見上げた緑の瞳は、怒りに燃えていた。
「アレフさんは真面目で、とても優しい人なんです! 私が大事に思っている人に、最低なんて言わないで下さい!」
「俺の事なんかで腹を立てるな」
諭すような静かなアレフの声色に、アインツは涙を溜めて反論した。
「でも…! レックさん、酷いです! 酷過ぎです!」
ひどい
アインツの言葉が俺に突き刺さった。
力が抜けた俺の腕から、少女は猫のように逃げて行く。アレフの傍らに縋り付くと、アレフはアインツの頭を撫でながら俺を見上げた。心底驚いたように、アレフは目を見開いて言った。
「お、おい、レック? 大丈夫か?」
だいじょうぶじゃない。
「あぁ、天使を妹を…俺は…俺は泣かせてしまったのか…? 兄として失格なのは俺なのか…?」
俺は頭を抱え、足から力が抜けるままにその場に崩れ落ちた。このまま身体が砕け散って、砂にでもなってしまいそうだ。アインツの涙を浮かべた瞳が、目を閉じて何も見えなくなった視界に浮かんで来る。あぁ、君の為に良かれと思ったんだ。怒らせるつもりなんて全く無かったんだ…。罪悪感が心を苛む。今なら悲痛な歌と歌い上げて観客大号泣させられる自信があった。
「アインツ」
アレフはアインツに声を掛けた。
「俺を姉と呼ぶのは、好きにしていい」
深い深いため息が暗闇で聞こえる。
「だから、とりあえず、レックに謝れ」