緩く考えるシリーズログ1
■ 『ハコの開きのDQ小説における魔法概念』について緩く考える ■
□ 人は魔法が使えるらしいが、何が原因なんっすか? □
さて、ハコの開きにおいて精霊ルビス伝説はDQ3の遥か昔の時代と設定されています。その為、最初にイーデンに住う精霊達の力について考えていきます。
精霊ルビス伝説の主人公、ルビスは火炎の一族の族長となるべき存在。気性が激しく感情が昂ると放熱し、状況によっては生物が蒸発するほどの光を伴う熱を放ちます。親戚には稲妻をあやつる者がおり、狐の尾を持つ者は狐火を自由自在に生み出しています。
それは呪文を伴わず『メラすら出ないDQの黒歴史』と批難される一因でもあります。が、精霊という立場では、無意識に等しい行為で呪文の効果に似た力を行使する事ができるという事になります。
ハコの開きにおいては彼等精霊が人々と交わる事で、魔法の資質が満ちたという設定にあります。
その為、人間は呪文という言葉を使わなくても魔法が行使できるという資質を持つということになります。道具という媒介を用いれば呪文なしで魔法が使えるのは、これが理由です。
□ つーか呪文って必要なんっすか? □
必要ですよ。
イーデンの精霊は何千種とありました。それらの資質が満ちるという事は、一人がいくつもの属性の精霊の血を受け継ぎ、何種類もの属性の魔法を行使できるという事態も当然起きます。
仮に火と水の魔法の資質を受け継いだ者がいたとして、精霊のように無意識に行使するのは難しいはずです。相殺されて力として具現化させることができません。その一つの属性の力を発動させる為に、自らを集中させる手段として言葉を用いた。それが呪文の起源だと考えています。
呪文に採用された言葉は、神話の時代に用いられた秘術から引用されています。これは精霊ルビス伝説でラリホーを使った黒竜が自ら『秘術』と発言したことから設定に利用させていただいています。
□ じゃあさ、精霊ってなんなのさ? □
精霊ルビス伝説では『稲妻の主』や『鋼の主』と力ある者を呼びます。つまり自我のある精霊はその属性の長であり、自然現象のような自我のない精霊はその精霊の眷属であると推測されます。
なので自我のある精霊たちと交わって資質を得た人間も、眷属である現象の力を扱わねばなりません。人間にとっては自我がなかろうと精霊の存在は上位の存在であった為、その風習が根強く残って総合して現象すらも『精霊』と呼んでいるんだと思います。
また眷属である存在が具現化し、呪文の力として行使されるため自分自身が所有している属性の資質の呪文だけが行使できます。得意不得意はこれから発生しています。
>□ で、呪文が使える者と使えない者の違いって何? □
呪文が必要な者は、その者が持っている属性の力が喚起され呪文を行使する事ができます。必要でない者は、呪文など使わなくても生きていける現状なので魔力も素質も寝たまんまです。ロレックスが魔法が使えないのも呪文の制御がへたっぴなのも、必要としていないからです。
どんなに勉強しようと、必要としない限り得られないのが魔法であり呪文なのです。
□ あとさー、魔法使いと僧侶の違いって何さ? □
ハコの開きにおいて補助の呪文は、魔法使いも使うことができます。
僧侶が扱う力は『祝詞』と呼ばれる言霊で、補助系統の呪文によく似ているが絶大な効果をもたらす力を行使します。そしてここで出るのが『ミトラ神』。僧侶が信仰し仕えている神様です。
元々、ミトラは全てを生み出した存在であります。かの存在の影響を受けぬものはいません。
僧侶と神官は『神の言葉』を借りる事で人々の中に眠る資質を鼓舞し力をあたえ、『神が生み出した存在を賛美』する事で行使されるべき力を退け神が生み出した存在を守護する事ができます。
僧侶とはミトラ神の存在に同調し賛同する者であり、同調するが故に『神の言葉』に力が加わり(無宗教者には説得力という言葉がピンとくるでしょう)、ミトラの生み出した存在に干渉することができます。祝詞の行使は高い徳である必要があり、その為に僧侶としての修行が不可欠となります。
魔法とは行使であり、祝詞は干渉です。それが魔法使いと僧侶の違いです。
ハコの開きでは呪文として短縮し戦闘で実用化した経緯があるものの、僧侶はミトラの言葉である祝詞の力をもって人々の支えと守護を担う存在だと位置づけています。
□ そういえば、魔力ってなんだっけ? □
魔力は先祖である精霊の力をどれだけ強く受け継いでいるかが一番大きな意味合いではありますが、受け継いだ精霊の力を発揮するために必要な力の総称と位置づけています。資質(これがないと魔法は使えない)、体力(体調が万全じゃないと力出ない)、気力(やる気がないと本領発揮は無理)、魅力(精霊と仲良い方が協力的)、など諸々を含んでいます。これらが一つでも欠けると資質があっても、呪文の威力は相当変わってきます。あまりにも魔力が不足していれば資質があれど、魔法は使用不可能です。
また魔力の流れを五感と等しい感覚で感じる者、魔力を道具や天候と同調させて力を行使する者は精霊の血の濃さではなく、本人の資質が大きな意味合いを持ちます。
ちなみに魔力には許容量が設定されており、それは種族で変わってきます。人間と竜族で魔法の力量が変わってくるのは、この許容量が違うからです。許容量は肉体的要領と魂の要領の二種類の要領が設定されています。
□ 今さらだけど、賢者っている? □
悟りの書の執筆者はシフィルという名の最初の賢者です。
しかし賢者とは呪文が使える使えないに関わらず、万人が言葉通り『賢き者』であると認める存在を示します。
■ 『道具による呪文発動』について緩く考える ■
□ 先ずは皆様に軽く説明をするべきで
それなりに歴史を重ね不思議のダンジョンに置ける道具による呪文発動について考えます。
ドラゴンクエストキャラクターズによる不思議のダンジョンのキャラクターとして操作するのが、トルネコさん、ポポロ君、少年時代のヤンガス君の三名。
彼等はダンジョンを攻略するにあたって、様々な道具を駆使します。弓矢や遠投用の石、武器や盾、魔力を秘めた巻物と杖、食料等々。
原作で見られる武器による呪文発動はありません。例えば原作で道具として使うとギラの効果がある炎の剣ですが、少年ヤンガスでは炎の苦手な魔物1.5倍ダメージ、炎が得意な魔物にはダメージ半減という事で特徴が反映されています。
杖には使用回数があります。『バシルーラの杖(3)』等という形で回数が示されており、振る度に回数が減り0になると振ってもバシルーラの効果が発動しなくなります。しかし0になっても、投げつけて当てると消失する代わり効果が発動します。この使用回数は特定の方法で増やす事が出来ます。
巻物についてですが、巻物の使用の仕方は大きく分けて二つ。読み上げる方法と床に置く方法、極一部に投げつけて当てて効果が発動するものが存在します。イオの巻物というポピュラーな呪文から聖域の巻物という不思議のダンジョンのみ登場のものまで様々。何故かポポロ君は読めず同じ歳の頃だろうヤンガス君は読めるという設定が存在する。
今回は巻物と杖に絞って考えて行きます。
□ どうして巻物が読めないのか
巻物とは魔法の資質のない人でも呪文が使えるアイテム。読むと魔法陣のようなものが足下に浮かび呪文が発動するため、魔法陣が仕込まれているのでしょう。聖域の様に乗って効果を現すものもある為、巻物に魔法陣が描かれその上に乗るという事も推測可能。
しかし、ここで論点に上げるのはポポロ君が巻物を読めないという事です。作中では年齢が低いためと説明されていますが、ヤンガス君が読めるのだから納得いかないじゃないか。(ポポロ編で初めてモンスター同伴システムが追加された為とか、そんなロマンのない話はしませんよ)
当然だがポポロ君の父親であるトルネコ氏は巻物を読む事が可能。しかも白紙の巻物に書き込む事が出来るので、彼は呪文が全く使えないが呪文の知識や魔法論理をかなり勉強している点が窺える。しかし魔法の資質がないトルネコ氏が読んで発動し、書き込んで発動させる事も可能なため、巻物を扱う事に魔法の資質は必要なしという事が解ります。
知識があれば使えるというなら、ヤンガス君は知識があったのか。そんな話になります。
彼は父親がパルミド周辺 でかなりの勢力をもつ大盗賊ヤンパー氏。ヤンガス君の家はパルミドの中にあるというのに、戦利品というお宝の山です。彼が幼少の頃から巻物を読む機会があり、知識があったといえなくもない。しかし、ヤンパー氏は息子に盗賊家業は早いと盗賊のイロハを教えてはいません。これは抜きん出た知識を持つトルネコ氏が息子に武器商人としてのイロハを教えていないのと同じです。しかもトルネコ氏は不思議のダンジョン攻略を4終了から数年後には開始しているので、ポポロ君が巻物に触れた事がないという説明は無理がある。ヤンガス君とポポロ君は、知識の面では同じラインに立っていると推測出来ます。
しかし、ヤンガス君は他の二人とは違う点があります。彼は大人になると呪文を習得する事が出来るのです。ということは、彼には微弱であっても魔法の資質があるという事になります。彼は将来幾つかの回復呪文を覚える為、彼には資質が無い者にはない感覚で巻物の中身を読む事が出来るのでしょう。
やっぱり巻物を読むには魔法の資質があると割と簡単に読める。
しかし、魔法の資質がなくても十二分な知識があれば資質がなくとも読む事が可能。
そのような結論を得る事が出来ます。
点字のように我々は凄く勉強しても読み取る事は難しいですが、目が見えない事で他の感覚が鋭敏になった指先の触覚なら読み取る事が出来る。例えは不謹慎ですがそんなものなのだろうと稲野は思います。
□ 巻物を床において使うと発動する不思議
ポポロ君は巻物が読めませんが『使う』事は可能です。
先ずは文法的な話ですが『読む』と『使う』では意味合いが全く異なります。具体的に説明すると某忍者漫画の口寄せの術で巻物を使う描写がありますけど、巻物は口寄せの術の媒体や補佐の機能でしかなく用いる人物はその巻物の中身を読んだりはしません。また聖域やニフラムのように読むのでは効果が発動しない巻物があるため、巻物とは本来読んでも良いが読まずとも使える為のものだったと考えます。
ここで出て来るのが白紙の巻物の設定です。この巻物はいろんな特性があるのですが、特筆するべきはその巻物にトルネコ氏が書き込む事で別の巻物として運用出来るという事。魔力の資質のない人が白紙の巻物に限り書き込めば、その巻物は本物の呪文の発動する巻物になる。この事から巻物には予め呪文が発動する為の魔力が籠っている特別な紙かなにかを使用していると思われます。
巻物を開いて自分の足下(自分が巻物の上に乗る)、そして『使う』。これがポポロ君の巻物を使うために行う動作です。巻物を開くと巻物は起動状態になり、魔法の資質がある人や呪文への理解がある人は読み上げる事で、資質のない人で知識も不十分ならその上に立つ事で発動するという事になります。ちなみにポポロは一度置いて使うため1ターン余計に掛かってしまいます。
しかも使うの指向性は乗った存在が指定するという訳ではなく、聖域の巻物はその巻物の上に魔物を吹き飛ばして載せると魔物が消し飛びます。つまり巻物はそこに書き込まれた呪文の効果を只管発動する道具であり、拡げただけで発動するのを防ぐ為の安全装置の役割として上に乗るなりの条件の下で発動する道具であるという事なのでしょう。使用したら使えなくなるのは、紙に宿った魔力が 消えるだけではなく使用により巻物の状態が損なわれるという事で説明出来そうです。しかし濡れても乾かせば使えるとか、なかなか凄い紙を使っているようで す。
□ 杖の使用回数は減るのは何故か
原作では無制限に使用出来る杖ですが、不思議のダンジョンでは使用回数が定められています(システム的都合とかロマンのないry)。これは拳銃に籠められた弾数みたいなものだと解釈できるとおもいます。また、賢者の石(不思議なダンジョンでは主に練金アイテムであり、原作のベホマラー効果はありません)を用いると使用回数が増えるため、杖の中に籠められた魔力の強さが使用回数に反映されていると思われます。
また杖を投げつけると効果が現れる事も、打ち出す程の魔力がない状態でも杖の中に魔力が残っており多少に当たる事で呪文として発動すると思われます。
原作の使用無制限については条件付けが厳しいため今回の考察では考えきれませんでした。魔法が使える人間が持つ事で、杖の魔力が充填されるという方法もあり かとは思いましたが、魔法使いや僧侶が棺桶行き等常に魔法が使える人間が居る状態は無理です。不思議のダンジョンの特殊性という仮定もありますが、これもありそうで不安定です。
□ 杖の魔法弾はなぜ反射するのか
杖を振ると魔法弾とここでは言いますが、魔法が弾丸状になって振った方向に飛んで行きます(何故弾丸状なのかとか、何故見えるのかはシステム的都合とかロマンのない話は(ry。この魔法弾ですが、特定の条件で弾き返す事が可能です。マホカンタみたいなものだと思って下さい。
不思議のダンジョンの中には水晶の塊みたいなのが点在し、それに向かって杖を振ると跳ね返って自分に戻ってきます。雷の杖を振ると痛いですが、ホイミの杖とかを自分に使いたい時に有効。鉱物の関係から乱反射しないのか疑問には思いますが、ミラーアーマーとかも存在しますので乱反射の可能性には敢えて触れません。(ただしミラーアーマー等が確実に反射しない理由が、敵の呪文と垂直でない為に敵に真っ直ぐ反射されないとかそういう理由はありとか思ってる)
DQにおいて呪文はマホカンタ等の呪文を呪文によって反射させるという方法以外に、鏡面や光等を反射する素材を用いるものには反射してしまうということが設定にあります。しかしマヒャ ドなど呪文が展開されてしまうと属性攻撃という事で反射が不可能という事になる。という事は元々杖を振ると光の弾が魔物に飛び、魔物に当たると呪文の効果 が示される不思議のダンジョンですが、この光の弾は魔法が発動する直前の魔法の状態を表しているのではないかと推測出来るのです。
つまりマホカン タや呪文を稀に反射する防具は、呪文は発動直前の魔力を反射している。魔力は光として高速で対象に向かい、使用者が想定した対象に到達した瞬間呪文として効力を発揮する。しかし、到達する前に光がマホカンタや反射する防具で跳ね返されてしまう。反射した光は使用者の手から離れた力の為、使用者の意図に関わらず呪文となり発動し使用者にダメージを与えてしまう。という事が考えられます。
■ 『DQ3から1に至る伝説の伝わり具合』について緩く考える ■
□ 公式における伝説の伝わり方について
ゲームは制作順の都合と言うロマンの無さがあるので、公式小説版を基準に考えて行きます。
高屋敷氏は1から3の繋がりをかなり綿密に組んでおり、それが公式として公認されたという前提で書きます。で、肝心の公式公認小説の設定です。
勇者とロトの名前はセットで用いられ、人々に知られています。
勇者ロトが倒した『大魔王』ですが、ゾーマの名前はミリとも出ません。ガライとかが度々出て来て昔の事を語ってくれるのですが、その時も『大魔王』とは言えゾーマの名は出ませんでした。
さらに驚いたのが、アレフガルドの中央の城。
元々は精霊ルビスを信仰する神殿を、ゾーマが乗っ取り、倒された後に再び精霊ルビスの神殿として再利用されています。そんな曰く付きの神殿が1では、大魔王ゾーマが昔使ってましたって記述がすっぱりとないのです。
しかし一般人が知り得るロトの伝説の範疇では『大魔王が現れて世界を滅茶苦茶にしたけど、勇者ロトが倒してくれて平和になりました』程度の話であるようです。大魔王の名前や、大魔王の拠点としていた場所、勇者達が大魔王を倒す為の旅の内容は殆どありません
□ ロトの伝説の内容が必要最低限しか伝わらなかった事について
勇者ロトが冒険の最中にお世話になっている者に、迷惑を掛けない為に伝えるべき内容を制限した。
この説は雨雲の杖を受け取る事になる賢者が、勇者ロトの命の恩人であるからです。他にも王者の剣を鍛えた職人も対象になるでしょう。恩人達が安穏な生活を続けて行く為に、勇者ロトが敢えて語らずにいた事だったと思います。
そのような経緯で、勇者ロトの旅の内容が殆ど後世に残らなかったのではないかと考察します。
□ 大魔王の居城が完全に隠蔽された事について
元々、精霊ルビスの神殿でした。その事実は変わらずとも、どうして大魔王が使用した記述は残らなかったのか、が主な焦点。
それは人々の信仰の拠り所が穢されたとなる事実を隠蔽し、人々の心の安寧を計ったのではないかと推測されます。事実、竜王の城として人々に知れ渡った城は、2で廃墟と成り果てています。
3から1にかけて『アレフガルドに再び危機が訪れる』という予言があります。その為に、人々の心を束ね、脅威に備える為に信仰が必要であった。その為に、大魔王が使った曰く付きであっても、精霊ルビスの信仰とその信仰の器となるべき大神殿が必要であったと考えます。
後の世代に完全隠蔽してみせた、3のラダトーム国王の実力は半端ないようです。
□ ゾーマの名前が後世に残らなかった事につい
さて、ここは『勇者ロト』の存在も引き合いに出します。
小説版での3勇者の名前はアレルさんですが、勇者アレルがゾーマを打倒した時にラルス国王より『勇者ロト』の称号を与えられます。勇者ロトは『アレフガルド創世記に、邪悪な暗黒の覇者からアレフガルドの大地を守った伝説の勇者の名(小説ドラゴンクエスト3 P214)』とあります。
私はアレル、もしくはゲームのプレイヤー自身である勇者がロトの称号を受け取った事によって『3の物語とアレフガルド創世記の伝説が融合してしまった』と考えています。
その為にゾーマという大魔王の名前の重要性は失われ、ただ単に『大魔王』として後世に残ったのではないかと思います。また、その関係で1の時代の人々は勇者ロトが3の主人公であるのか、それとも創世記の勇者であるか分からないのではないかと思います。
■ 『公式の二次創作』について緩く考える ■
『ドラゴンクエスト30thアニバーサリー 小説ドラゴンクエスト1.2.3 復刻BOX』発売を記念いたしまして、私がゆるーくDQ小説関連について語っていきたいと思います。
今回の復刻ボックスの関係で高屋敷先生のロトシリーズについて語っていくことにいたしましょう。
小説ドラゴンクエストは、おそらく公式のゲームの二次創作の初の小説出版だったのではないかと思います。この後にはテイルズなどの様々な小説もしくはノベライズが続く道を切り開いたということで、当時はとても画期的というか冒険だったのではないかと思います。
ここはドラゴンクエストのこだわりというか、執筆者がすごいです。
脚本家として名を馳せる高屋敷先生が執筆に携わっています。この先生が携わった脚本がガンバの冒険とかルパン三世とかキャッツ・アイとか、今年はDAYSという作品の脚本に関わるなど、日本人なら誰もが一度は耳にしたことのあるビッグタイトルです。
ちょっと小耳に挟んだのですが、先生はゲームに関して良い印象を持っていなかったとかなんとか。しかし、世界初の家庭用テレビゲームでのロールプレイングゲームが発売して少し経ったという時代。ゲームは稚拙なもの、プレイすると頭が悪くなるなどの誹謗中傷の嵐の中で、お仕事をお受けしてくださった事は大変寛大であったとおもいます。この方ならばクオリティは保証されたも同然と、持ちかけられた話だったかもしれません。
さて、ロトシリーズを執筆された高屋敷先生。脚本家としての面が文章からにじみ出ております。
おそらく、小説を読んだ人であればあるほど、小説とは少し違うと思うのではないでしょうか。小説家ではなく脚本家の着眼点で作られた物語は、確かに文面からも小説家とは違うと思わざる得ません。街の描写にはまず人口が示され、箇条書きに近い淡々とした描写を連ねます。世界観の提示が先に来る描写、小説として読むと物足りない心理描写ですが、書いている方が脚本家であるなら納得の描写であります。
しかし、この高屋敷氏は何がすごいかというと、展開設定が凄いのです。高屋敷先生は、一人旅のDQ1において同行者というオリジナルキャラクターを起用し、2・3においては因縁のライバルキャラや独自設定を設けております。それを軸に物語を描く。
ゲームとしてのドラゴンクエストは全部横に置いて、ドラゴンクエストという世界観を書き起こして文章化した話です。しかし、これは本当にすごいことで、独り言が多くなる一人旅を三人称で書くにあたっては単調になってつまらなくなる可能性が大いにあります。同行者がいることで三人称は華やかになり、旅が変化するのです。旅初心者をガルチラに笑われた、生きている勇者の姿は私の中ではとても印象に残っています。2の三角関係は生々しすぎて、もはやトラウマです。3は全職業が登場し、群像劇の色が強くなっています。
さらに因縁のライバルや敵キャラが存在することで、魔王を倒す一本道がライバルキャラや個性的なライバルの存在で太くなるのです。1のザドルータンが息子の死に叫んだ描写、竜王が死の間際に見せた悲しそうな眼差しは私にDQの悪は悪と断じ得ないと思わされました。しかし、顔に大きな火傷を負わされたチコの憎悪の描写はゾクゾクとさせられ、相容れぬことを感じさせる。ロトシリーズは特に魔王を倒し世界を平和にする旅の意味合いが強く、旅先で困り事を解決するようなイベントは3くらいから多く用意されています。その為に肉付けされた高屋敷先生の設定は、見事に魅力的にドラゴンクエストの世界を描いたのです。
小説ドラゴンクエストは世に先駆けたゲームのノベライズ。開幕から自由度振り切れた公式二次創作がぶち上がった訳です。
公式の二次創作として高屋敷先生がもたらした功績は、『二次創作は公式にとらわれず自由であるべき』という思想だったと思います。DQの主人公は個性を持たないゆえに自由に作者側が作ることができますが、当然公式の二次創作の主人公なので正統派勇者としての性格しか採用できなかったことでしょう。しかし、そんな主人公の周りを物語の観点から豊かにしていく為なら、公式にないキャラクターも、公式にない展開も、あってよいのではという考えを二次創作の世界に投じたと思います。
私がロトシリーズで高屋敷先生で本当に良かったと思うのは、これほどのプロだから、発言も、内容も、潰されなかったんじゃないかというところです。
これが駆け出しの小説家であったら、ただの公式のゲームを文章に書き起こすだけの面白くない話になっていたかもしれないし、二次創作が公式に囚われない自由な発想を得る事にもっと時間が費やされた事でしょう。
本当に私は高屋敷先生が小説を書いてくださったことに感謝しています。
物語に沿えば、内容は問わない。そんな自由度をファンが謳歌しているのです。
このお方の小説があったからこそ、私はDQの世界観、ゲームの世界観を小説に置き換える為には、必ずしも公式に従順でなくてもよいと知ることができたのです。こうやって言葉になったのは最近ですが、私の作品の根底は高屋敷先生の脚本家としての物語の構成があったんだと思っています。
小説に挿絵を入れるというので、いのまた先生を起用したことも一つの冒険だったかもしれません。
いのまた先生の挿絵から語らせていただきます。
公式ゲームでは鳥山明先生がキャラクターデザインをしております。その為、攻略本は鳥山先生に作風が似ている方が絵を描き、知られざる伝説も攻略本に倣っております。エニックスは早い段階で4コマ劇場を展開し、ダイの大冒険やロトの紋章といったコミカライズが連載されたり、DQは鳥山風でなくてもキャラクターデザインの特徴を押さえていれば大丈夫という、多種多様で自由な絵柄でDQを書かれているという一つの結果につながっていると思います。(この風潮は今のファンアートの土台を作と言っていいでしょう。お●松さんのようにキャラクターデザインを踏襲しないとダメみたいなジャンルを見ていると、その凄さを改めて感じています)
しかし、いのまた氏の画風はゲームで言えばFFの天野氏に寄った緻密な表現を得意としており、DQとは真逆の画風なのです。小説はゲームと対極を成すジャンル。そのための起用だとしたら、大当たりか大外れかの大博打だったのではと思います。
しかし、私はいのまた氏を起用したことは、とても大きなプラスであったと思います。ゲームから遠い緻密な絵は、文章のリアリティにうまく結びつきました。
ちなみに、稲野のいのまた先生は小説ドラゴンクエストです。はい。
ロトに続くは天空シリーズと、7の感想を語って参ります。
ロト三部作は高屋敷先生でしたが、天空シリーズは久美沙織先生が担っております。更に7は土門弘幸先生が執筆しております。まずは天空シリーズより語って参ります。
小説ドラゴンクエストは、久美沙織先生からって方は多いのではないのでしょうか。私も最初のプレイが5だった関係で、小説ドラクエは5であり久美先生からです。
久美先生はなんと言っても描写力。特に美しい煌めくものを宝石に例えることが多く、影響を受けたファンは多いのではないでしょうか。繊細に世界を描写する久美先生の文章は、挿絵を担当するいのまた先生と大変相性が良いです。
更に久美先生はキャラの描き方も上手く、4ではオムニバス形式を最大限に利用し魅力的なキャラクターをかき分けています。個人的にはトルネコの話はコミカルになり、ピサロが出てくれれば妖艶さを醸す文章の表現の書き分け。5の砂漠は本当にすごい…(風化する語彙)。6では主人公のイザがとても鼻が良いという設定やら、キャラの魅力を引き立てる表現が多い。久美先生によってライアンマーニャ沼に沈められた方も多いことでしょう。なんと罪深い。
高屋敷氏が脚本家の力を活かして世界観アレンジ設定で殴ってくるのに対し、久美先生は世界観からこのキャラに付属するだろう可能性を付加した説得力で殴ってきます。特に6のバーバラのマダンテの設定は、6の総合的な文章や展開統合力と相まって6を最高と評価する一因になっています。
現代の人々が想像する小説により近い形になった天空シリーズ。
久美先生のお力によって、より魅力的になったと言えましょう。(だからユアストみたいなことが起きるんだよって思ってる。監督が認めないのが悪いけど、それだけ5小説がよかったってことだと思ってます。だが、ユアストの5主はリュカってキャラじゃなかったけどな)
7の執筆は土門弘幸先生。実は稲野はこの方が電撃でデビューしたオーキ伝が結構好きでして、7の執筆に関わる前から知っていたりします。男の子主人公と戦う女の子のボーイミーツアンドハーレムみたいな感じでしたが、一気に読んで面白いし記憶に残る稲野的高評価の作家さんでした。
ちなみに7は豪華版ことハードカバー版がいのまた先生。文庫版がなくなり新書版が鳥居大介氏の挿絵となっています。その後、全ての小説ドラゴンクエストが新書版として新刷され、7以外の作品の挿絵は椎名咲月氏が描いておられます。
そんな土門先生はバトルものがデビューだった関係で、戦闘要素を厚めに起用していた印象です。転職システムはガボを魔物職で採用し、6で増えたのが更にバリエーションを増やした特技を積極的に採用しています。必殺技みたいな感じで技を叫べばどんな演出と技が出るのかを、プレイ済みの読者に託すことで文字数削ってたと思う。とても涙ぐましい。
7で最後になったのは、絶対公式が悪いから。
当時のドラゴンクエストでは最長の物語の7を上中下巻で完結させろとか意味がわからない。土門先生本当によく完結させたと思う。久美先生も6はかなり端折っていましたが、土門先生は8割強位端折る必要があったと思います。もはや同情してしまうレベルです。
7からではなく8から書かせてたら評価変わったのかなぁとか考えてしまいます。
7は公式小説ドラゴンクエストの最後の作品となりました。
物語が長くなればそれだけ巻数を出すからお金がかかるとか、漫画の勢いが増し小説の読み手が相対的に少なくなってきたとか、7が最後になった理由は色々あるんでしょう。世知辛い。
ドラゴンクエストの二次創作をするファンが、小説好きの層が厚いのは公式小説のお陰でしょう。ゲームと漫画は娯楽コンテンツとして相性は良いですが、ゲームと小説が結びついたのは小説ドラゴンクエストがあったからでしょう。
公式コンテンツとしては終了しましたが、芽吹いた思いは創作するファンへ綿々と受け継がれていくのだと思います。