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■ 不思議の国症候群編 ■



 悪戯うさぎを追いかけて、井戸から飛び出した先で女の子と鉢合わせ。女の子は驚きのあまり気絶してしまった。
 ザンクローネさんはうさぎ達を追いかけるといって、女の子は置いてけぼりだ。流石の兄さんも『お客さんを放ったらかしは、流石のザンクの兄貴でも良くねーと思うんだよなー』と口を尖らせた。
 強い日差しを優しく森の木の葉が透かし、森を抜けてきた風は涼しげに草花を揺らして行く。柔らかい草の絨毯の上に寝かされた女の子は、肌触りのいい麻のワンピースで手ぶら。肌の色は雪原のように白く、手足は骨と皮のようにやせ細っている。艶やかな腰まである黒髪が、青白い顔色を作り物のように引き立てていた。どう見ても旅人の装いじゃない。きっとメルサンディから散歩がてら足を伸ばしてきたんだろう。
 日がちょっと傾いてきて、森の空気が少し肌寒くなったと感じた時、女の子が気がついた。呻いて覚醒しようとする女の子に飛びつこうとする兄さんを、クレルさんがたしなめた。
「ルアムさん。驚かせてはダメですよ」
 赤毛玉がクレルさんの足元でちぇーって拗ねだした。全く、大人気ないんだから。
 薄く目を開いてぼんやりした彼女は、すぐさま苦しげに胸を押さえて咳き込んだ。ぜぇぜぇ、ひゅーひゅーと苦しげな呼吸は見ていられない。赤毛玉から猫耳がぴょこんと出ると、赤い瞳が僕を見る。僕は兄さんの手に透ける自分の手を重ねて、ホイミの呪文を唱えた。淡い光がはらはらと彼女の胸元に散ると、苦しげな呼吸が落ち着いてきた。
 女の子を支えていたクレルさんが、水筒にお茶を注いで女の子に差し出した。
 メルンから下ってくる冷たい清流で冷やした水筒の中身は、優しいハーブティーだ。すっと喉の奥に抜けていくハーブの香りに、女の子が良い匂いと微笑んだ。数口飲んで気持ちも落ち着いてきた女の子は、僕達に小さく頭を下げた。
「気絶してしまった私を介抱してくださって、ありがとうございます」
「しかたねーよ。ザンクの兄貴がいきなり飛び出てくるんだもん。そりゃー、ビックリするだろ!」
 兄さんの言葉に女の子も、こくこくと頷く。
「そうですよね! 私もザンクローネがいきなり現れて、驚きすぎ…ゴホッ!ゴホッ…!」
 大声を出して息巻いたからだろう、女の子は胸を押さえて咳き込んだ。クレルさんが背をさすり、兄さんはホイミを掛けるべきかオロオロする。でも直ぐに咳は止まり、女の子は微笑んだ。
「心配させてすみません。私はメルサンディのアイリと申します。お手数でなければ、送っていただけませんか?」
「もちろん! こんな所で野宿なんて、オイラもクレルもゴメンだぜ! オイラはルアム!」
 よろしくな! そうにっこりした兄さんに、アイリちゃんは目をまん丸くした。そんなアイリちゃんを見つめながら、僕は内心首を傾げていた。メルサンディでアイリって名前を聞いたことがなかったし、病弱で家から出られなかったとしても僕や兄さんが知らないわけがない。それに…ザンクローネさんを呼び捨てにする村人が、メルサンディに居ただろうか?
 クレルさんが穏やかに自己紹介し、アイリちゃんを立たす。歩き出した二人の後に続こうとした兄さんが、僕に振り返った。
 僕と同じ疑問を感じているんだろう。困惑した表情で僕を見上げる。
「なんか、変だな」
『気をつけていこうね。兄さん』
 だな。僕らも歩き出す。
 黄金の麦の穂と青空で二分されたメルサンディ穀倉地帯が、森を抜けた僕らを出迎えている。レンダーシアに到着してから、天気が良くても薄曇り。晴天なんて本当に久々で、日差しの暖かさに体が火照ってしまいそう。手を翳し太陽を見上げた僕の手の平を、強い日差しが貫いていた。
 山の稜線も畑のなだらかな丘も、風車の建つ位置から道と畑を仕切る柵の位置まで見慣れた世界だ。違うことは、沢山ある。麦がまだ収穫されてなくてぷっくりと膨らんだ実に、穂が重たげに頭を下げていること。天気がとにかく良いこと。そして僕らの知るメルサンディでは一生懸命修理されていた風車が、風を受けて元気に羽を回しているってことだ。
 畑仕事に精を出す村人たちが、『アイリちゃん、天気がいいねぇ!』『おや、旅人さんいらっしゃい!』と声をかけてくれる。素朴な布の服に、日差しよけのツバの大きい麦わら帽子は、僕らもメルサンディ村で良く見かける村人達の仕事着だ。
 やっぱりレンダーシアは人間の大陸らしく、プクリポを見て珍しがる人はいる。でも、僕も兄さんも声を掛けてくる村人は誰一人知らなかったし、村人達も僕達のことを誰一人知らなかった。
 アイリちゃんのゆっくりとした歩調に合わせ、時々木陰で休みながら、時間をかけてメルサンディ村に到着した。
 大樹を中心とした森に抱かれた長閑な田舎村。木を組み合わせた童話に出てくるような佇まいの家は、窓を開け放ち花を飾り、煙突からもくもくと良い香りの煙を吐き出している。畑では収穫間近のまんまるポテトが、種を植えたばかりの畑は肥料を撒いたようでここからでも黒く見える。
 両手と顔の魔物にめちゃくちゃにされた様子は、全くない。人々の顔だって、魔物に酷い目にあったような怯えはない。
 何もかもそっくりで何もかも違うメルサンディ村で、ただ一つ同じものがあった。
「ザンクの兄貴の石像だ」
 兄さんが入り口からすぐ見つけたそれは、ザンクローネさんの石像だ。丈夫な石材で作られた戦士の像は、不敵な笑みを浮かべて村の外の脅威を見つめてる。
 その石像の足元は、人だかりになっていた。その様子に足を止めた兄さんの後ろから、アイリちゃんが声を掛けた。
「ラペットさんが紙芝居をしてくださるんですよ」
『かみしばい?』
 僕が鸚鵡返しに聞くのを、兄さんはうまく独り言のように説明してくれた。
「ちょっと大きめの紙に物語の絵を描いて、裏に書いてある物語を読み聞かせてくれるんだ。大道芸の前座とかで使うことも結構あるんだよなー。すげーじゃん! 大人気じゃん!」
 そうしてたったった、と子供達の輪の一番後ろに陣取る。子供達は『なんだこいつー!』とか『かわいいー!』とか言いながら兄さんをグリグリ撫で回し、あっという間に馴染んでしまった。背が丸くなってしまった老人は、白髪の抜け落ちてしまった頭のてっぺんをシワシワの手で撫でて僕らに笑いかける。
「やぁやぁ、アイリちゃん。きょうは しゃんぽに いけりゅ ほど、ちょうしが いいん だねぇ」
 やべぇ。ピリッポの噛み芸を超えそうな、ナチュラルで壮絶な滑舌の悪さ。って、兄さん聞こえちゃうよ。
「たびびとしゃん たちも みて きんしゃい。アイリちゃん の じいちゃん メルサンディ むら が ほこりゅ どうわしゃっか パンパニーニ のけっしゃく 『小さな英雄ザンクローネの物語』 の かみしばい だよぉ!」
 僕と兄さん、そしてクレルさんが互いに顔を見合わせた。
 瞬く間に子供達の拍手が湧き上がり、困惑する僕らそっちのけで紙芝居が始まった。
 ラペットおじいさんの紙芝居の絵は、正直とても上手だった。
 紙芝居に描かれたザンクローネさんは、本物そっくり。ぼさぼさに溢れた焦茶色の髪を真紅の鉢巻で止め、小麦色の肌と不敵な笑みがまるで本人を見てきたかのようにそっくりだ。鎧の装飾も、腰巻も、違うと思うことすらない。僕は絵のことはよく分からないけど、以前メルサンディに訪れていた芸術家のピペちゃんが綺麗で高価そうな絵を描くなら、おじいさんは子供が好きそうな絵を描く感じだ。
「メルサンディを おしょった てと かおの こわーい まものは、ラスカ の あにぇ ミシュア を しゃらって いったのじゃ」
 子供達がミシュアお姉ちゃん可哀想と涙目の先で、紙芝居は進む。
「ザンクローネは もう たしゅけては くりぇましぇん。ラスカは いを けっして あにぇの ミシュアを たしゅけりゅため まものを おって くりゃい ちかしゅいどうへ むかったんじゃ」
 ぼさぼさとした黒髪にまだまだ小柄な村長の息子ラスカが、地下水道を進む絵が現れた。絵は地下水脈の薄暗い雰囲気たっぷりで、その絵だけで震える子供達がいる。
 兄さんがニヤニヤしながら『オイラだったら、ここで怖い演出盛ってビビらせちゃうなぁ』って紙芝居の進行を見守っている。
「ミシュアは ちかしゅいどうの おくふかくに たおりぇて おった。ラスカが かけよって だきあげりゅと きをうしにゃって いるだけじゃ。ラスカは ほっと したんじゃ」
 クレルさんが眉根を寄せて『知っている話でなければ、とても聞き取れないわ』と呟いた。
 子供達のホッとした雰囲気は、次の瞬間凍りつく。
「だが ミシュアを さりゃった ての まものが しゅぐ しょばに ひしょんで おった! まものは ラスカに おしょいかかったんじゃ!」
 今にもラスカを引き裂こうと迫る手の絵。それがさっと引かれて、ラスカと手の間に黄金色の光と大きさも分からない人影が割って入る。
「しを かくごした ラスカの まえに ふしぎにゃ たびびと が あらわりぇた。ふしぎにゃ たびびと ルアムは ラスカに いったんじゃ」
 ルアム!? 僕と兄さんは顔を見合わせ、クレルさんも驚いた表情で兄さんを見た。
 きっと、アイリちゃんが驚いた原因は、これなんだろう。
「ザンクローネは しんで にゃんか いない! しゃあ、ラスカ! おおごえで えいゆうを よぶんだ!」
『 助 け て ! ザ ン ク ロ ー ネ !』
 子供達の元気な大合唱が、メルサンディの広場に弾けた! 兄さんが『いいねいいねぇ!参加型えんたーていめんと!』と、大喜びだ。
「しゅると ふしぎにゃ たびびとの もつ おうごんの いしが かがやき、 ひかりの にゃかから メルサンディの えいゆう ザンクローネが あらわれた のじゃ!」
 子供達の大歓声に負けないよう、ラペットおじいさんも声を張り上げる。歯がところどころ抜けた口が、威勢良く開け閉めされてちょっと笑っちゃう。
「えいゆう ザンクローネは ほうけん かりんとう をふりかじゃし、まものを あっというまに けちょんけちょんの バッキバキの メコメコーっと やっちゅけて しまったんじゃ! そして しゅるどい めで ひとにらみすれば まものは おびえて もりのおくに にげていったんじゃ」
 けちょんけちょんの バッキバキの メコメコー。ラスカがよく話していたな。
「こうして ラスカと ミシュアは ザンクローネと ふしぎな たびびと ルアムの たしゅけに よって、なかよく メルサンディむらに かえりゅことが できたのじゃ …めでたしめでたし」
 最後は夕暮れの中、姉と弟が手を繋いで帰る絵が描かれている。
 拍手が響き子供達が散って行く中、僕と兄さんとクレルさんは呆然と立ち尽くしていた。
「いかがでした? 私のおじいさんが書いた童話を紙芝居にしてくださったんです」
 アイリちゃんは小さく咳き込んで息を整えると、嬉しそうに微笑んだ。
「おじいさんが書いた物語と同じ名前の旅人に出会えて、とても素敵な偶然だと思うんです。おじいさんが生きていたら、とても喜んだでしょうね」
「お爺さんが、生きていたら?」
 クレルさんが僕と同じところに引っかかったようだ。僕が兄さんに突いて質問しようとしたことを、彼女が訊いてくれた。
 アイリちゃんはちょっと寂しげに微笑んで言葉を紡ごうとしたが、強く咳き込み始めた。クレルさんがケープを肩に掛けてあげると、空を少し見上げた。夕焼け色の空の下を流れる空気が、大分冷えてきたんだ。
「先にアイリさんをお家に送りましょう」
「だな! アイリの家はどこなんだ?」
 こちらです。アイリちゃんの案内でやってきたのは、僕らが知る限りでは村長のガッシュさんと息子のラスカ、祖母で僕もちょっと苦手なコペおばあちゃんの家だ。メルサンディの一番奥まった一番大きな家は、ミシュアさんが旅立って静かになった以上に静まり返っていた。明かりがつき始めた窓部の人影が動くと、扉が開け放たれる!
「アイリお嬢様!」
 家からまろび出た恰幅が良すぎる女性は、玄関の段差を転げ落ちる勢いでアイリちゃんに駆け寄った。福与かな顔にある二つのどんぐり眼から、どばっと涙が溢れです。無事でよかったと、触り心地の良さそうな二の腕にアイリちゃんが抱きしめられるまで、あっという間だった。
 アイリちゃんの家のお手伝いさん、ルーデさんは涙と鼻声で酷くなりながら、地面に頭を擦り付けそうな勢いでお礼を言いつづけた。お礼を言い続けるのを三人がかりでどうにか止めたら、そのぽっちゃりとした手からは想像もつかない勢いで家の中に連れ込まれる。兄さん曰く『勢い余って腹を掴まれて、胃が飛び出るかと思った』だそうだ。
 もてなされたのはテーブルから落ちそうなくらい沢山の、メルサンディの郷土料理だ。コペおばあちゃんに負けないくらいふかふかで香ばしいパンに、しゃきしゃき野菜のサラダは宝石みたいに光ってる。清流で獲れた魚の香草焼きに、ピリリと辛味が聞いた鳥つくね。三人がもう食べれないと言っても、口に押し込もうとする勢いのルーデさんに兄さんが階段駆け上がって逃げ出す始末だ。
 アイリちゃんを部屋に無事送り届けて、ようやく一息。湯気の立つホットミルクを、皆がゆっくりと啜って溜息みたいな吐息を漏らす。
「ごめんなさい。私が無事戻ってきて嬉しかったんです。…ふぅ。もう一歩も動けません」
「アイリが嬉しそうなの、ルーデのおばちゃん滅茶苦茶嬉しそうに見てたもんなぁー。もう、オイラ、入り口の宿まで歩かねー。転がるー。クレルの姉ちゃーん、変なところに転がって行きそうだったら助けてー」
 お腹がぱんぱんになった、ぷくぷくプクリポがコロコロと床を転がっていく。本物のボールみたいに転がるものだから、アイリちゃんもクレルさんも愉快そうに笑う。
「あぁ、こんな楽しい気分になったのは、とっても久しぶり!」
「アイリのねーちゃんが嬉しそうで、オイラも嬉しいぞ!」
 ころころ赤毛玉に、アイリちゃんも楽しげに笑った。赤毛玉はぷくぷくプクリポになって、首がなくなりそうなむっちりとした頭を傾げた。
「なぁなぁ、アイリのねーちゃん。不思議な旅人ルアムって、もっと大活躍するのか? オイラ、アイリのねーちゃんのじいちゃんが書いたお話、読んでみたいなー!」
「勿論です! そこの本棚に赤と金の背表紙の本が3冊並んでいるので、借りて行ってくださいな」
 クレルさんが本棚を調べると、赤と金の背表紙の本はすぐに見つかった。赤と金の装丁。表紙には黄金色に色づいた美しいメルサンディ村、ザンクローネさんが剣を構える凛々しい姿、おどろおどろしい魔物と小さなラスカ、そして金の光の中に不思議な旅人の人影がある絵がそれぞれに描かれている。絵を描いたのはラペットさんだろう。紙芝居で見た時より、ちょっと丁寧な絵だ。
 他にも『竜の王と開拓の勇者の物語』や『聖夜の使いと天翔ける箱舟』『春風のフルートと小さな勇者』『世界一の武器商人トルネコシリーズ』と僕がアストルティアで見かけた沢山の童話が集まっている。兄さんに頼んで頁を捲って読んだけど、こんなに集まっているだなんてすごいなぁ!
 クレルさんが手にとって隙間が空いた空間に、ぺとりとノートが倒れた。何だろうと手にとったクレルさんに、アイリちゃんが言った。
「それは『小さな英雄ザンクローネ』の4巻目になるはずのお話でした」
 アイリちゃんが悲しげに目を向けた先には、アイリちゃんと眼鏡を掛けたお爺さんが並んだ一枚の肖像画が飾られていた。
「その話を書いている途中で、おじいさんは亡くなってしまったんです」

 ■ □ ■ □

 アイリちゃんを送ってくれたお礼ってことで、僕らはメルサンディ村の入口の宿屋に泊まらせてもらうことになった。どうぞと通された部屋は、メルサンディ村の護衛として滞在する僕らに当てられた部屋と同じ場所で同じ間取りだ。違うのは、兄さんの食い散らかしたビスケットやクッキーのカスが落ちてないことくらい。
 男女で別の部屋になるべきなんだけど、もうお客さんが使っていて一部屋しか用意できないと断られた。でも、クレルさんも兄さんも気にしない。異種族同士の結婚は禁忌とされているのはレンダーシアも一緒で、絶対にありえないと笑われた。
「クレルの姉ちゃん。どう思う?」
 アイリちゃんが貸してくれた『小さな英雄ザンクローネ』は、挿絵が多く用いられた読みやすい童話だった。子供も飽きない程度に短く、言葉遣いは優しい。僕らが部屋に着いて読み始めて、読み切るまでそう時間は掛からなかった。
 クレルさんは背中まである榛色の髪を揺らし、燻んだ桜色のローブの膝上に置いた本に目を落とす。たれ目気味の瞳を眇め、形の良い眉を寄せる。女性では低めの声色は、苦悩に満ちたように苦しげだった。
「1巻は平和な村に足の魔物が現れた、と始まっています。足の魔物に踏み潰され何人かの村人が亡くなっているのも、駆けつけたザンクローネ様が足の魔物を両断して倒してくれたのも鮮明に覚えています。物語の通りです」
 僕らも村に初めて訪れた時に聞いた話だ。村人であるクレルさんが言うのなら、間違いはない。
「2巻目のお話はルアムさんもご存知のはずです。顔の魔物に食べられた時の村人達の悲鳴は、今も耳にこびりついて昨日のことのように鮮明に蘇るほどです」
 僕らが護衛を引き受けて暫くして突然、顔の魔物がメルサンディを襲った。目の前で何人もの村人が恐ろしい顔に食べられてしまうのを阻止できなかったことを、兄さんは泣いて悔しがった。僕だって悔しくて悔しくて堪らなかった。
 でも村人達にとって、さらに辛いことが起きた。
 顔の魔物とザンクローネさんが、相打ちしたんだ。
 僕らの知るメルサンディ村の人々の、ザンクローネさんへの信頼は絶対的なものだった。それは、ザンクローネさんが積み重ねた無償の親切の結果だ。誰を何回助けようと、飾り気のない真っ直ぐな性格は見返りを求めなかった。村人が彼を慕わないわけがない。村人達の悲しみや悔しさは、竃の火を消したように酷かった。泣き疲れて精神的に疲れ果てた人、絶望と無力感に抜け殻になった人。僕らはそんな村人をたくさん見てきた。
『3巻目は丁度、ピペちゃんやラチックさんが村にやってきた頃だね』
「ピペのじょーちゃんやラチックのあんちゃんが書かれてないけど、不思議な旅人の姿もよくわかんねーし。3巻目は微妙だな」
 クレルさんは小さく首をかしげる。
「しかし、不思議な旅人とルアムさんの名前が一致するのは、偶然なんでしょうか?」
 兄さんはまだまだパンパンに膨らんだお腹の上に腕を組んだ。うーんと唸ってから、クレルさんの問いに答える。
「実はオイラの名前は、レンダーシアで大昔に使われていたんだ。オイラの両親は旅芸人一座の一員でね。レンダーシアで生まれたオイラに、レンダーシア所縁の名前をつけようって名付けたんだ。今風だと人間と思われるから、聞いただけじゃ人間と間違えられない程度に大昔の名前からとったんだ」
 初耳だ。僕の名前も由来があるのかな? テンレス兄さんと再会したら聞いてみよう。
『…ってことは、『小さな英雄ザンクローネ』の物語は、昔の伝承を参考に作られたってこと?』
 僕の問いに兄さんはうーんと体を傾け、ベッドに転がる。
「昔話になぞらえて作られたのなら、メルサンディ村の南の祠には守護精霊の石碑があります」
「オイラがクレルの姉ちゃんを毎日送り迎えする祠だな」
 はい。クレルさんが頷く。
 クレルさんは毎日欠かさず、メルサンディ村の南にある祠に掃除と祈りに向かう。魔物が出る場所に女性一人じゃ危ないって、朝送って夕方迎えに行くのだ。祠は苔生した大岩と、素朴だけど色艶のいい草花を洞窟の隙間から差し込む日差しが照らしている。大岩には文字が刻まれていたけれど、なんと書かれているかまではわからない。村人達も忘れてしまった守護精霊が、大岩に宿っているんだそうだ。
 クレルさんの言う通り、守護精霊がザンクローネさんの原型って話はありえそうだ。
「でも、逆に考えてみれば、誰かがこの物語の通りに村を襲わせているとも考えられます」
 なるほど。その方が偶然よりも納得しやすい。頷く僕を見上げた兄さんは、最後の一冊である4巻目を手に取った。
「ちょっとブレちゃーいるけど、この4冊目が未来に起こる事なのかもしれねーな…」
 兄さんの小さい手が表紙を開くと、ちょっと癖があるが丁寧に書いたんだろう文章が現れた。

 いたずらジャーミィといたずらバーティは、ジャムとバターが大好物。
 ザンクローネはジャムとバターを仕掛けて待ち伏せて、いたずらウサギ達を懲らしめました。
 『ザンクローネをやっつける為に、魔女様がやってくる』
 『魔女様の手にかかれば、メルサンディ村はあっという間に滅んじゃうよ』
 ウサギ達の言葉を聞いたザンクローネは村を守る為に、魔女の森の奥深くへ行くのです。
 魔女の森の館へやってきたザンクローネは、魔女の罠にはまり殺されてしまいました。
 もう、メルサンディの村人が彼を呼んでも応えることはありません。

「な、なんだこれ…」
 兄さんが声を絞り出し、ノートを振り上げた!
「ザンクの兄貴が、死ぬわけがないだろ!」
『兄さん! ダメだよ!』
 僕は慌ててノートを持った兄さんの腕に、自分の腕を重ねる。叩き付けようとする兄さんの力を如何にか留めると、兄さんは力なくノートをベッドの上に置いた。赤い瞳がうるうると涙目になる。
「ルアムさん、アイリさんのお爺さんは物語を書いている途中で死んでしまわれたのです。きっと、続きがあったんですよ」
『クレルさんの言う通りだよ、兄さん。落ち着いて』
 僕らの声掛けに、兄さんは大きく深呼吸を繰り返して落ち着いた。尖った目でノートの文字と睨めっこ。
「いたずらウサギは、ザンクの兄貴が追いかけている黄色とピンク色のウサギ達のことだろうな。コペばあちゃんの水車小屋にしびれくらげを詰まらせようと頑張ってたし、いたずらの常習犯なんだろう」
「この物語は、未来に起こることなんでしょうか…」
 クレルさんの言葉は的確だ。今までのことも大体は物語の通りに進行しているし、今もザンクローネさんはウサギを追いかけている。ザンクローネさんが魔女に殺されるというのは、近いうちに起こる予言みたいなものだろう。
 兄さんは首を横に振り、にっこりと笑って見せた。
「でも、ザンクの兄貴を死なないで済む方法なんて、簡単だよ。魔女の所にいくなー!ってザンクの兄貴に言えばいいんだもん。兄貴だって死ぬような場所に、自分から飛び込んだりしねーでオイラ達を頼ってくれるよ!」
 さぁ、クレルの姉ちゃんも疲れただろ? 寝よう寝よう! そうベッドの上でボールみたいに跳ねながら兄さんは笑う。
 クレルさんは南の祠に送る途中から、ザンクローネさんを追うのに付いてきてもらったからとても疲れているはずだ。兄さんの『おやすみ』に返すと、横になってすぅすぅと眠りだした。
『本当に『行くな』って言って、行かないでいてくれるかな?』
 兄さんの渋い顔を見れば、ザンクローネさんが死なないで済むようにするのはとても難しいんだってわかってるみたい。ザンクローネさんが、死ぬからって逃げて隠れたりする人じゃ絶対ない。『大丈夫だ』って笑って、行ってしまうだろう。
「ザンクの兄貴は死んじゃいけねーんだ」
 兄さんは真剣な顔で、僕を見返した。
「この物語は、誰もが笑うハッピーエンドじゃねーとダメなんだ」
 兄さんらしい言葉に僕はふっと笑う。僕の笑みを見て、兄さんもホッとしたような笑みを浮かべた。
 クレルさんやアイリちゃんみたいな、旅慣れていない人と一緒の時は兄さんも気を張っている。僕と一緒だから気が楽って笑うけど、疲れるんだろうな。兄さんもおやすみと囁いて、布団の中に潜ってしまった。
 開かれたノートが風に吹かれて、ぱらぱらとページがめくれた。真っ白いページが月の光を受けて輝いている。

 □ ■ □ ■

 宿屋の朝ごはんもこれから準備しますって時間に、部屋の扉がノックされた。
 起こした兄さんが扉を開けると、肩にショールを羽織ったアイリちゃんが立っていた。寝起きではない、しっかりと身支度を終えて目覚めているアイリちゃんが、眠っている人を気にして小声で囁いた。
「朝早くにすみません。でも…でも、どうしてもルアムさんの所に行かなくちゃと思って…」
「どうかしたのか?」
 いつもはその小さい体のどこから出るのかって大声の兄さんも、音量控えめで おちょぼ口だ。
「ザ、ザンクローネが…い、家に来て…」
 ザンクローネさんが来ているんだ! 僕と兄さんが顔を見合わせた前で、ぶるぶると震えているアイリちゃんが気迫を込めて言った。
「焼いたパンをつまみ食いするんです!」
 ずこっ。兄さんが芸人魂のこもった見事なズッコケを決めた。

 まだすやすや寝ているクレルさんには、『アイリねーちゃんの家に本を返しに行ってくる。朝ごはんは食べてて!』と書き置きして、僕らは足早にアイリちゃんの家に向かった。向かっている間に朝日が昇って森が一気に輝き出し、家の窓は開け放たれてパンを焼く香りが漂い始めた。井戸の水を汲む人々に挨拶をして通り過ぎ、ちょっとした坂を登って到着だ。
「あらまぁ、アイリお嬢様! あらあら、昨日のお客様も! アタシったら寝ぼけちゃったみたいで、パンが全然足りないんですよ! 朝ごはんはもう少し後にお願いしますね!」
 爆裂拳のような鮮やかな手つきで、パンをこねる姿がちょっと怖い。ルーデさんの後ろにある布が被せられたキングスライムみたいなのは、発酵中のパンなんだろうか…? どれだけ作るつもりなんだろう…?
 階段を登り二階のベランダへ出ると、朝日を浴びて黄金色に輝く麦畑と人々が生活するメルサンディ村が一望できる。そんな特等席の手すりに、パンを抱えた見慣れた影…。
「ザンクの兄貴!」
 兄さんが駆け寄ると、人影はくるりとこちらを向いた。おう、ルアム。そう、朗らかに笑うザンクローネさんの顔はパンの食べかすだらけで、兄さん顔負けだ。右手にコッペパン、左の小脇にロールパンを持つ姿が、なんだか火燐刀を持つ姿よりも似合ってる。
「アイリのねーちゃんの家のパン、勝手に盗み食いしちゃダメだろー!」
「人聞き悪ぃな、ルアム。俺は味見をしてやってんだよ。あ・じ・み!」
 悪びれもなく言い退ければ、あむっとコッペパンを頬張る。いやはや、コペ婆さんに負けずとも劣らぬ見事なバターと塩加減って、もぐもぐ口元を動かしながら感想に忙し様子。これがまた幸せそうに食べるんだから、怒る気も失せるってもんだ。
「もう! そのバターロールはラペットさんへの差し入れなのに!」
「そうなのか? わりーわりー、美味すぎてもうメルサンディを守るための糧にしちまったよ!」
 ぺろりと失敬したパンを食べきったザンクローネさんが、お腹を叩いて満足そうにげっぷする。
「それはそうと、ルアム。ウサギどもをおびき寄せる、ジャムとバターを集めるのを手伝ってくんねぇか?」
「ふつー、ウサギは人参じゃねーの?」
 首を傾げた兄さんに、ザンクローネさんはちっちっちと指を振る。
「全く、わかっちゃいねぇな。とにかく、手伝えって。ウサギは二匹もいるから、逃がしたくねぇんだ」
 そう言うが早いかベランダの手すりから飛び降りたザンクローネさんだったが、次の瞬間舞い戻ってアイリちゃんに笑いかける。
「アイリ。帰ってくるまでに、余ったジャムとバターを塗って食べる用に食パン焼いておくんだぞ。美味しいの期待してるからな!」
「もう! 勝手を言わないでください!」
 はっはっはー!楽しみにしてるからなー!そんな声がどんどん遠くへ言ってしまう。
 ザンクローネさんの遠くなって行くのだろう見えない背中を見送って、兄さんはしょんぼりと背を丸めた。
「兄貴…オイラはまだ朝飯食ってないんだけど…」
 そんな兄さんの背中に、アイリちゃんが優しく声をかける。
「今、焼きあがったパンでサンドイッチを作りますね。少し待っていてください」
「本当!? 嬉しーぜ!」
 家の中に消えて行ったアイリちゃんを見送った兄さんは、僕に向きなおった。
「相棒は、村に残って欲しいんだ」
『どうして? 二人一緒の方が早く決着がつくんじゃないの?』
 兄さんは冥王ネルゲルと戦った時と比べても、格段に強くなった。バギの力を応用した動くの素早さは、一流の武道家や盗賊に引けを取らない。力も技量も一流には届かなくても、強敵を前に怯えもしないで飛び込むし、命の危険が伴うような危険な撹乱も決して断らない。兄さんの強さは、素早さと度胸だ。
 それに僕の弓の技術や視界が加われば、強みはもっと増す。僕らは冥王を打倒した後に現れた漆黒の手から逃げた時の経験から、力を合わせて戦う方法を練習して磨いてきたんだ。
 それに…
『僕が村に残ったって、何もできないじゃないか』
 僕は幽霊みたいな状態なのは、相変わらずだ。物に触れることも、誰かに気がついてもらうこともない。こうやって喋れて、体を借りれるのは兄さんだけなんだ。
 僕の拗ねたような言葉に、兄さんは首を振った。
「クレルの姉ちゃんの言う通り黒幕がいるとしたら、それって4巻目で初めて出てきた『魔女』って奴だと思うんだ。メルサンディは魔女の手に掛かれば一瞬で滅ぶ、そうウサギ達が言うんだろう? 物語では兄貴も殺されたことになってるけど、メルサンディに暮らしてたアイリのねーちゃんのじいちゃんが村が滅ぶ終わりなんか絶対書かねーよ。きっと、兄貴を救う裏設定があったはずだ」
 兄さんの言葉に、僕はハッとする。
 メルサンディ村を襲った足と手と顔の魔物達は、物語に沿って登場しザンクローネさんに討伐された。でも、それが黒幕の思惑が絡んでいるとしたら、そいつはザンクローネさんを殺す以外の目的を抱えていることになる。それは、物語を追えば純粋にメルサンディ村を滅ぼすこと。今回は初めて『魔女が英雄を罠にはめる』というザンクローネさんを直接邸に狙った展開になっているんだ。
 でも、ザンクローネさんは黄金の宝石になって傷を癒すことができる。物語に罠の種類や助けるための設定が少しでもあれば、ザンクローネさんの手助けができるだろう。
「相棒は村に残って調べて欲しいんだ。それに魔女が村に何か仕掛けたら、相棒がすぐにオイラの所に飛んできて知らせてくれるだろう? クレルの姉ちゃんを残して行くし、相棒が残ってくれた方がオイラは安心なんだ」
 もう、空は曙色から青空になりつつあった。鳥が歌い、虫が鳴き、風が地上の全てを撫でて、太陽が世界を目覚めさせる。そんな中、僕らは小さく頷いて決意を確かめ合った。

 アイリちゃんの紹介で酒場でバターを、ジャム作りの名人からジャムを買った兄さんは足早に宿に向かった。クレルさんに数日間、ザンクローネさんとウサギ退治に出かけると言いに行ったんだ。一週間経っても戻ってこなかったら、僕らが知っているメルサンディ村で登録した『招きの翼』で戻ると良いと置いて行く。『招きの翼』は古にあったとされる『キメラの翼』を元に作られた、指定した場所に飛ぶことができる一回限りのルーラストーンみたいなものだ。
 残されたクレルさんは、南のローヌ樹林帯の落葉商店に向かう村人を見つけて馬車に乗った。彼女が日課にしている祠の掃除に行くんだろう。何もできないけど、一人にさせるのは不安だ。馬車の荷台に僕も乗り込んだ。
 いつも彼女が向かう寂れた祠はこのメルサンディの村人も知らないみたいで、『こんなところに、祠があるんだなぁ』と感心していた。昼過ぎには戻ってくるからと、風車のそばを待ち合わせ場所にして馬車を見送る。
 祠は雑草がクレルさんの胸元まで鬱蒼と茂っていて、人の手が長く入っていないのがわかった。苔むした大岩は変わらず祠の奥に鎮座していて、蔦が覆い木の根が絡みついていた。クレルさんが蔦を払った時、苔の一部が剥がれ大岩に刻まれた文字が見えた。

『 メルサンディの守護精 この石に宿らん
    我らの祈りが 尽きぬ限り
  メルサンディ村は 彼とともにある 』

 ザンクローネさんは沢山の危機を、村人の声援で乗り越えてきた。黄金の石に姿を変えた彼が、ラスカの声に力をもらって蘇ったのを僕らは見ている。この言葉が正しいなら、ザンクローネさんはメルサンディ村が滅びなければ死なないって事になる。
 ザンクローネさんを殺す事に、メルサンディ村は無関係じゃなかった。
 …黒幕はこのことを知っているんだ。
 黒幕は何が狙いなんだ? 村なのか、英雄の命なのか、今の段階では見極められない。
 クレルさんは入り口から大岩までの道の草を踏みしめて倒し、大岩の周りの蔦を払ってざっくりと見栄えを整えた。こんなに荒れ放題なんだ。綺麗になるのに何日掛かるやら。最後にザンクローネさんの鎧の色のような真っ赤な丸パンをお供えして、彼女は南から戻ってきた村人の馬車に再び乗って無事にメルサンディに戻れた。こんな風にしてくれるなら、きっと彼女の日課である祠の掃除も一人で行っても大丈夫だろう。
 それよりもこの事実を、早く兄さんに伝えるべきだ。
 ザンクローネさんも、どうして黙っていたんだろう。もしかしたら、彼が僕らに喋っていない事実は他にもあるのかもしれない。不安の隙間から頭を覗かせた不信感を、僕はそんなことはないと押し込んだ。
 ついに兄さんが出かけて二日目の日が沈み夜が訪れた。まだ、戻れないんだろうか。僕はアイリちゃんの家のベランダにやってきて、闇に沈んだ麦畑を見つめていた。メルサンディの村へ続く街道は、仄かに光る鬼灯の実が実る木が植わっていて、道がうっすらと照らされている。
 僕はじっと人影のない街道を見ている。これ以上遅くなったら、もしかしたら兄さん達はウサギに返り討ちに遭ってしまったんじゃないかって不安がこみ上げてくる。ザンクローネさんがいるのに、そんなことはないって思いたい。でも、最近のザンクローネさんは辛そうだった。誰も見てないところで、荒い息を繰り返し辛い表情で座り込んでいる。
 ただ、遅いだけなら良いんだけれど…。
 きぃと、扉が開く音がして、光がベランダに差し込んだ。振り返ると、ショールを羽織って暖かくしたアイリちゃんが扉を閉めたところだった。彼女は僕の隣まで進み出ると、不安そうな眼差しを暗く沈んだ麦畑に向けるのだった。
 ざざざざと強風が麦畑の麦を揺らし、メルサンディ村を駆け抜けた。僕もアイリちゃんも、思わず手をかざし風から顔を守る。目を開けて顔を上げると、僕らは絶句した。
 空に登った少しだけ欠けた月。その月を人影が切り抜いている。白い肌、金の瞳、白金のように色の薄い長い髪、魔法使いが好むような帽子に、箒ではなく夜を塗り固めたような玉の上に座っている。彼女の体のラインが強調された真紅のラバースーツから露わになった肌が、月の光に輝いていた。帽子のつばを少し上げると、色白く整った顔に紫の化粧を施した女性が笑っている。
「永遠の夜とともに、魔女グレイツェル 参りました」
 まるで恋人に話しかけるように優しく、艶かしく彼女は言った。
 魔女。魔女グレイツェルと名乗った彼女を、僕は愕然とした気持ちで見上げていた。
 そんな。だって。本にはうさぎを懲らしめて、ザンクローネさんが魔女の森の奥で殺されてしまうまでの間にメルサンディ村が襲われるなんて書かれていない…! でも、変だ。魔女は村を一瞬で滅ぼせるほどに強いらしい。なら、なぜ、今滅ぼさないんだ? 僕らに向かって『参上しました』なんてご挨拶、必要なのか?
 魔女の目が紫に光ると、横から呻き声が漏れた。がたんと倒れる音に振り向けば、気絶しているアイリちゃんがふわりと浮かび上がるところだった。アイリちゃんは魔女の手に持った紫とレースの傘が揺れるのに合わせて、ふわふわと魔女の周りに浮かんでいる。
『アイリちゃん!』
「『ザンクローネに来るなって頼めば大丈夫!』ぬいぐるみのように可愛いオトモダチと、まだまだ少年のオコサマは、考えることも可愛らしいわね」
『!?』
 金色の瞳がまっすぐ僕を見ていた。彼女は僕が見えているし、僕と兄さんの会話も聞いていたんだ。一体何時? いや、今はそれどころじゃない!
 口を開こうとした僕の前に、傘の先端が突きつけられる!
「ザンクローネの帰りを待ってパンを焼いて待ってあげるだなんて、いじらしいじゃない。それでザンクローネもこの子に気があるみたい。アタシ、妬いちゃうわ」
 だ・か・ら。魔女はニンマリと笑った。
「この娘をメルサンディ滅亡の宴の生贄にすることにしたの。ザンクローネは大して親しくもないのに、メルサンディに住んでいるだけってことで、この娘のためにアタシの元に来てくれるんでしょうね。キャハハ! 今から楽しみ! 罪深き英雄には、とっておきの料理でオモテナシしてあげなきゃね!」
 本当に楽しそうに玉の上で一通り笑った魔女は、嬉しげな表情を崩さないで僕を見下ろした。
「無力で可哀想な男の子。あなたに重要なお仕事よ。『娘を助けたければ、魔女の森の夜宴館に来なさい』って、ちゃーんとザンクローネに伝えるの。嘘をついて彼をアタシの元に来させないようにしたら、この娘がパンになっちゃうかもね!」
 次の瞬間、ぼわんと紫色の煙が立ち込め、風に吹き払われた時には魔女もアイリちゃんの姿もなくなってしまっていた。夜風に『キャハハハハ!』と耳障りな高笑いだけが何時までも混じっていた。
 魔女が現れ、物語は動き出した。


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