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■ 物語の終わりはいつだって「めでたしめでたし」編 ■



 久々に訪れた祠は、想像以上に昔通りだった。
 洞窟の天井が崩れた所から差し込む光は大岩の周囲を照らし、細やかな草花が殺風景な祠を彩っている。もう大岩に刻まれた文字は天井から垂れる水滴に苔むし、月日が経ってもう読めなくなっている。文字の内容を知る人はメルサンディにはおらず、この祠の存在は誰からも忘れ去られたはずだった。だが、入り口から大岩に到るまでの間は、連日踏み固められた硬い地面で歩きやすい。
 誰かが足繁く、毎日と言って良いほどに来ているのだろう。
 俺は大岩に背を預け、柔らかい日差しを浴びながら考える。一体、誰が来ていたんだろう。メルサンディ村からこの祠までの距離は、決して近くはない。魔物との脅威を肌で感じながら毎日のように足を運べる村人は、いなかった筈だ。特に魔物が襲来して以降、収穫の為に村を出る者には俺やルアムが必ず護衛として付き添っていた。
 それよりも、この祠の存在を知っている者が生きているだろうか? 俺は目を細める。何十年、いや、百年。俺が見つめた榛色の髪の彼女の背中を二度と見送ることができなくなったのは、いったい、いつの頃だったんだろう。
 久々だ。
 鳥のさえずり。川のせせらぎ。麦の穂が風に撫でられて奏でる音色。
 俺は指一本動かすこともできず、流れ込む音色、日差しの照らされるままに感じていた。俺の存在が薄く消えかかっている。ザンクローネという戦士の姿を保つことも、もう出来ない程に力を失っている。それでも『俺』という個が消えていないのは、俺がまだ誰かに知られているからだ。
 かさりと足音が聞こえた。
 体を起こすことは、べちょべちょのパン生地から手を引き抜くほどに重かった。苦労して体を起こし、顎を引き、重たい目を開ける。開けた視界に見えたのは、レンダーシアの外の大陸に暮らすプクリポという種族。猫の耳にボサボサの髪を結ったちょんまげ頭。目が覚めるような赤い毛皮の上に、腰布をどうしてこんな滅茶苦茶なチェック柄に染めちまったんだろうって服を着ていた。腰には爪を、背には弓を、旅人らしい荷を無駄なくまとめて背負っている。
「よう、ルアム」
 俺の声にいつも笑顔で応えるルアムの表情は固かった。まるで、見知らぬ他人を見るように、警戒した視線を向けている。
「どうしてこの祠の存在を、お前さんが知っているんだ?」
 ルアムは返事をしなかった。オーブンから漏れる熱みてぇに、思ったことをどんどん口にするような奴なのにな。ルアムは赤と青紫の瞳を眇めて、悲しそうな声で言った。
「兄貴、死んじまうのか?」
 さぁ、どうだろう? 俺はどう答えるべきか迷った。なぜなら、本当に死んでしまうと俺ですら思うのだ。そしてそんな問いを掛けるルアムは、知っているのだ。俺が死なない理由、俺が死にそうな理由が。
「メルサンディ村に戻ったら驚いたよ」
 そうルアムがとつとつと、ここに来るまでの経緯を語り出した。

 ルアムはアイリを無事メルサンディ村に送り届けてくれた。そして、英雄をミネストローネにするんだと歌うトマト供を追って、ここまでやって来たのだ。ここに来る予定だった魔女の刺客は、ルアムの手でトマトジュースにしたらしい。
 それよりも、ルアムが驚いたのはメルサンディ村の惨状だった。
 村の広場にあるザンクローネの石像は倒され、村人達は英雄を憎み魔女を讃えていた。難を逃れた吟遊詩人パニーノだけが、ことの一部始終を語ってくれたそうだ。
 それは魔物達の襲撃の前兆である、魔障の匂いを含んだ黒雲が村の上空を覆った時だった。村人達は俺やルアムのいない中で、最大限の警戒をしていた。男達は武器を手に身構え、女子供は丈夫な貯蔵庫に身を潜めた。
 そんな黒雲から悠然と舞い降りた魔女グレイツェルが、女王のような自信たっぷりの笑みで村人に語りかけたそうだ。
『メルサンディ村の者の信じる心がザンクローネの力の源。だから今日は、そのくだらない心を消しに来たの』
 村人達の驚きようを、パニーノはありとあらゆる言葉で表現した。
 それはそうだ。村人の知らない事実。自分達がザンクローネという英雄に守られていたとばかり思っていたのに、実は自分達がザンクローネの力の源であったと誰が想像できるだろうか?
『私が服従する喜びを教えてあげる』
 魔女が手を掲げると、村の上を巨大な魔法陣が覆った。
『みんな私の下僕になりなさい』
 降り注いだ魔力は次々に村人を襲った。外に立っていた男達は切ることもできない魔力の前に、抵抗ひとつできず倒れ込んだ。地に落ちた魔力は蜘蛛の形になって、貯蔵庫の奥にするりと滑り込む。教会の神の守りも突破され、村の中に魔女から逃げおおせる場所はどこにもなかった。パニーノだけは逃げた拍子に井戸に落ちて、メルンから滲み出た清流が守ってくれたそうだ。
 パニーノがどうにか井戸から這い出ようとした時、轟音と地響きに驚いたそうだ。井戸からそっと顔を出せば、熱に浮かされたような村人達が村の英雄の像を倒した所だった。紫色に不気味な光を帯びた瞳は魔女グレイツェルを見上げて、口々に叫んだという。
 魔女様、万歳!
 英雄を殺せ!
『そう、メルサンディ村に英雄なんていらないわ』
 吐き捨てるように魔女は言い、姿を消したという。

「今、村人達は武器を用意して、ザンクの兄貴を殺す相談をしてる」
 苦虫を潰したようなルアムの表情だが、俺も真っ黒焦げの炭パンを食ったような顔になってんだろうな。なんて悪夢だ。俺を死ぬまで苦しめると言った魔女の憎しみを、俺は改めて感じた。
 兄貴。俺をそう呼んでは慕ってくれるルアムの声に、俺は顔を上げた。
「オイラと相棒はメルサンディ村を襲う魔物達から村人を守るために、この地に残ってる。それは、兄貴も知ってるよね?」
 あぁ。俺は頷いた。
「こことそっくりの場所で、メルサンディの守護精霊が村人と共にある限り死なないって知った。魔女のネーチャンの行動やパニーノのおっちゃんが伝えてくれた言葉を考えれば、ザンクの兄貴が守護精霊だろうって思うんだ。守護精霊を殺すために、村は襲われていた。違う?」
 真剣な赤と青紫の瞳が、俺を覗き込む。
「兄貴、全部話して欲しいんだ。一人で抱え込まねーで、オイラ達を頼って欲しい」
 先日の魔女の言葉の通り、俺はルアムに重要なことを伝えねぇで手伝わせていた。魔物の正体、魔女の存在。俺とメルサンディ村の関係。ルアムはちょっと村を守ってくれるだけの存在でいてくれれば、それで良かった。
 振り返れば、俺は誰かに頼るということを忘れていたのかもしれない。守護精霊として大岩に宿っていた時は、メルサンディ村の人々の信仰が頼りの綱だった。だが、ザンクローネとして実態化し村を直接守るようになった時から、俺は湯水のように湧く信仰を当たり前に思っていたんだろう。村人の信頼は確固たるもの。全てを一人で解決できる力が、傲慢となって魔女に付け入る隙を与えちまったんだ。
 今、俺を信じてくれる村人はいない。
 ルアムの力を借りなければ、この祠から出ることもできないだろう。深入りさせるつもりはなかったが、もう運命の糸はルアム自身でも解けないほどに絡みついちまってる。断ち切る方法は、魔女と俺の確執を解決させるほかに有り得ない。
 だが、勝つ見込みはない。ルアムを無駄死にさせちまう。こんな良い奴を道連れにできるわけがねぇ。
「そうだ、兄貴。これやるよ」
 思考を引き裂く強烈な刺激的な匂い。顔面に押し付けるように差し出されちゃあ、思わず目が痛くて涙が出てくる。だが、それはとても懐かしい匂いを放つ、真紅の丸パンだ。
「いつもこの祠の掃除に来てくれてる姉ちゃんが、お供えしてるパン。今日は来れないだろうから、持って来た」
 俺はルアムからパンを受け取って、一口頬張った。
 一切れの丸パンは赤々と熱を蓄える炭のようで、頬張った口の中を最高温度のオーブンに変える辛味が迸る。噛みしめるほどにオーブンの中で香ばしい香りを放つメルサンディの小麦の甘みが、舌を痺れさせ脳天に突き抜ける辛味を包み込んでいく…。
「懐かしいぜ。こんなパンチの効いたパンを作る奴が、あいつ以外にいたとはな…」
 大岩に宿った精霊であった昔、このパンはよくお供えされていた。
 榛色の髪の娘。彼女の信じる心がパンの形になって、今も俺を支えてくれているのをはっきりと感じた。俺がザンクローネという英雄になったのも彼女のおかげだ。彼女が頑張れって言っている気がした。ルアムの手を取って、全てを救えと黄金の大地が訴えている。
 パンの辛味に少し後ずさっていたルアムに、俺は語りかけた。
「ルアム。俺の昔話を、ちょっと聞いて行ってくれ」

 お前さんのいう通り、俺はこの大岩に宿った守護精霊だ。
 メルサンディ村が出来た大昔から、ここは穀倉地帯でな。豊穣や安全を祈って大岩が祀られるようになった。今は残っちゃいないが、初めての麦穂を奉納する祭りとかしてくれてな賑やかだったんだぜ。
 魔物は今以上にはいてな。村人達の深刻な悩みは、作物を荒らしたり盗んだりする魔物だった。畑仕事の最中に襲われて死んじまうことも少なくない。村人達は大岩に宿った守護精霊に熱心に、魔物から我らを守ってくださいと祈りに来ていた。
 だが、大岩は魔物を退治したり、村人を守ったりなんかしねぇ。
 村から遠いこの祠、そして大岩に宿った守護精霊の存在はいつしか忘れ去られてしまった。
 忘れられ存在が希薄になって微睡んでいた俺の元に、一人の村娘が毎日訪れるようになった。
 彼女は雨の日も風の日も一人でやって来て、祠を掃除し、お供え物をして、祈って帰って行った。俺はその娘の熱心さに心打たれて、どうしてもお礼が言いたくなったんだ。気が付いたら、俺はザンクローネという人間の戦士の姿になっていた。娘の信仰が、俺に力を与えてくれたんだ。
 俺はあまりに嬉しくなっちまってな。明日まで待てば娘に会えるっていうのに、メルサンディ村に行っちまったのさ。それは精霊がしてはいけない禁忌だったんだが、人間の姿を得るまで力を付け自由になった俺は有頂天になっていた。
 村に向かっていると、娘は魔物に襲われていた。俺は娘を助けるために剣を振るい、易々と魔物を倒した。娘は助けた戦士が大岩に宿る守護精霊だと直ぐさま見抜いて、その垂れ気味の目元を細めて喜んでくれた。俺は彼女の笑顔が見れて、彼女を助けることができて今までにない幸福を感じたよ。世界で一番の幸せもんだと思った。
 …へへっ。今でも思い出すとニヤケちまうな。
 娘を助けたところを見た村人が、俺に魔物退治を依頼するようになった。村人に頼られるのが嬉しかった俺は、頼まれるままに魔物を退治し何時しか英雄と呼ばれるようになった。村人達からの信頼は、俺に精霊の禁忌を気にするまでもない力を与えてくれた。
 俺は足繁く村に通い、娘は日課のように祠へ向かう。すれ違う俺達が久々に顔を合わせた時、娘は驚きの提案をしてきた。
 娘は『私と共に村を棄て、遠くの場所で一緒に暮らそう』と言ったんだ。
 俺は断った。どんなに力をつけても、俺はメルサンディから離れることはできないんだ。今思えば、冷たく突き放しちまった。あんなに献身的に祠を守って来たあいつに、なんて酷い仕打ちをしちまったんだろうと後悔するよ。
 だが、もう彼女に二度と謝ることはできねぇ。
 あの娘は…クレルは姿を消しちまったんだからな…。

「クレル?」
 ルアムがパッと顔を上げた。その顔には驚きが滲んでいる。
「ザンクの兄貴が人間になる切っ掛けを作った姉ちゃんって、クレルって言うの? 榛色のサラサラ髪で、目がちょっとタレ目?」
「あぁ、そうだが…」
 タレ目気味とは言ったが、髪の色はルアムには言っていないはず。困惑する俺の目の前で、ルアムはうつむき考え込む。その瞳の色が赤と青紫に忙しなく変わっていく。しばらく、ブツブツと独り言を繰り返していたルアムは、ふと悲しげな顔で俺を見た。
「さっきのパン。クレルの姉ちゃんが作ってくれてんだ」
 何を言っているんだろう。クレルが生きていた時代は、ザンクローネがこの世界に存在し始めた百年も昔の話だ。どんな人間であれ生き遂せる年月じゃない。
「それどころか、この祠の掃除を毎日してくれたのもクレルの姉ちゃんなんだよ。オイラ達がメルサンディの護衛に来た頃から、一人で祠に向かうから危ねーって送り迎えしてるんだ」
 なんだって…?
「よく考えれば、日中の魔物の襲撃の時は祠にいる。アイリちゃんがさらわれた時は、宿に残ってもらってる。夜宴館での魔女との戦いの時は、庭先で待ってもらっている。僕等は魔物や魔女の登場の時、彼女がどうしているのか把握していないんだ」
 青紫の瞳が真紅に変わり、キッと尖った。
「ヒデーよ、相棒! クレルの姉ちゃんが魔女な訳ねーだろ!」
 そう言って、ルアムの涙がこぼれそうなほど目が潤みだす。
「だって! そうだとしたら、どーしてザンクの兄貴を苦しめるようなことするんだよ! クレルの姉ちゃんが『私が魔女です』って言うのを、オイラの猫耳で直に聞かねーと信じねーぞ! 姉ちゃんがそんなこと、するわけねーじゃん!」
 ルアムの大声は祠の中で盛大に反響した。ぜぇぜぇと肩で息をするプクリポは、その小さい体からは想像もできない大声を張り上げた。
「オイラ、クレルの姉ちゃんを探しに行ってくる!」
「おい! ルアム!」
 同じ名前で特徴が似てるが他人かもしれない。だが今の所一番魔女の正体らしい娘のところに、単身乗り込むのは危険だろ! 俺が止める間もなく、ルアムはメラの火の玉みたいに祠の出口に向かって飛び出しつつある!
 ぷぎゅ!
 だが、入り口で見事に転んだ。鞠みてぇにぽよんぽよんと転がって戻って来たルアムは、ふるふると頭を振る。そんなルアムを甲斐甲斐しく娘の手が抱き上げた。
「ごめんなさい。ルアムさん。大丈夫ですか?」
 娘を見上げた俺は驚きに声を失った。
 サラサラと背中まである榛色の髪。垂れ気味の目元。その鼻筋や口元も、目に触れた瞬間に鮮やかに脳裏に浮かんだ面影と重なりぴたりと一致する。桜色のゆったりとしたローブの足元に見え隠れする歩き方まで、どうして忘れていたんだろうと思うほどに記憶の通り。
 クレルだ。背を向けて二度と戻らなかった彼女は、今、振り返って俺の目の前にいる。
「クレルの姉ちゃん! 無事だったんだな! ごめんよー! 村や家を探したんだけどいなくて、ここにいるかと思ったんだ! ここにくるまでに、魔物に追いかけられなかったか? 怪我とかしてねーか?」
 丸い尻尾が弾むように、ルアムはクレルの腕の中でちょろちょろと動く。その満面の笑みに、クレルは愛想を崩す。
「大丈夫よ。心配させて、ごめんなさい」
 眉尻を下げて微笑むクレルに、ルアムは安心した様子でクレルの肩に頭を乗せた。
「あー、よかった。ったく、相棒もザンクの兄貴も疑り深くてしょーがねーよ。姉ちゃんが綺麗だからって、魔女だーなんていうんだぜー? 姉ちゃんみたいに良い人が、魔女なわけねーじゃんなー?」
 くりんとあざとく首を傾げたルアムに、クレルは優しい声色で答えた。
「いいえ、ルアムさん。私が魔女グレイツェルなんですよ」
「そうそう、クレルの姉ちゃんが魔女グレイツェ…ルェエッ!?」
 いやぁ、メルサンディにやってくる大道芸人でも、ここまで見事なズッコケは見たことがねぇな。ルアムは驚きのあまりクレルの腕から転落し、ぶにゃんとか妙な声を上げて地面に激突した。むくりと顔を上げたルアムは信じられないとばかりに、悲痛な声を上げた!
「嘘だろ!? 冗談だろ?」
 ルアムの声にクレルはにこやかに『いいえ』と答えた。そして、俺にぺこりと頭を下げる。
「この姿でお会いするのは百年ぶりね、ザンクローネ。魔女の姿では気がついてくれなくて、寂しかったわ」
「何故だ…」
 俺は絞り出すようにクレルに問うた。
「誰よりも村のために祈っていたお前が、何故、村を襲い村人を苦しめているんだ?」
「そうね。ルアムさんもその猫耳で聞くまでは信じないとおっしゃるのだし、少し昔話をして差し上げましょう」
 そう、桜色のローブの裾をつまみ一礼したクレルは、美しい声で語り始めた。それは俺が想像だにしなかった、メルサンディの闇の物語だった。

 メルサンディ村が今よりも実りも人の心も貧しかった頃、村人から『魔女の娘』と呼ばれる一人の娘がいました。名前はクレル。父も母も魔物に殺されて、魔女と呼ばれた育ての親である祖母と死に別れ、寄る辺なき孤独で惨めな娘でした。
 不思議な力を祖母が持っていたという理由で、娘は村人達の不満の吐け口にされているのを知っていました。
 娘は村人達の不満がなくなれば、罵られることも虐げられることもないと信じて、祖母が教えてくれた忘れられた守護精霊の祠にお祈りに行くようになりました。
 精霊様。精霊様。メルサンディの小麦がたくさん実りますように。
 精霊様。精霊様。村人達を魔物から守ってください。
 娘は毎日行きました。雨の日も。風の日も。メルサンディ村から祠までの長い道のり、魔物の影に怯えながら歩き、麦の影に身を潜めて、娘は祠に通いました。
 そんなある日、ついに魔物に襲われ殺されそうになった娘を、通りすがりの戦士様が助けてくださいました。
 娘は一目で、戦士様が祠の精霊様だとわかったのです。
 戦士様は村人の為に剣を振るい、魔物から村人を守ってくださる。戦士様は嫌な顔一つせず村人と共に汗を流し、その年の実りは大豊作となりました。上質な麦は王国や神殿へ献上され、商人が大金で買い上げていきます。メルサンディ村は娘の願い通り豊かになり不満は消えて行くはずでした。
 娘は精霊様が戦士様としてメルサンディ村にいるときも、欠かさず祠へ向かいました。
 精霊様。精霊様。メルサンディを豊かにしてくださって、ありがとうございます。
 精霊様。精霊様。村人を助けてくださって、ありがとうございます。
 娘は感謝の祈りを、村人の分まで大岩に捧げました。
 しかし、戦士様が魔物をいくら倒しても、魔物はどんどん増えて行く。被害は目立つほどに減りはしなかったのです。
 そして村に噂が立ち始めます。
 『魔女の娘が魔物を呼んでいる』
 噂は枯れた藁に火をつけるが如く燃え広がり、瞬く間に村人の誰もが信じるようになりました。村人達が娘の家に討ち入り、娘の髪を掴んで引きずり出しました。娘は見たのです。殺意と憎悪に燃える村人達の目を。娘の居場所はもう、村にはありません。
 娘は隙をついて村から逃げ出しました。
 精霊様にお願いしよう。私をこの村から連れ出して、助けてもらうんだ。村人達がこんなに酷いんだもの、大好きな精霊様も村人を見放して一緒に来てくれるはず! 娘は駆けました。松明を灯し街道を行き来する村人の目を盗み、馬に追いつかれないために魔物をも気にせず走り続けました。娘にとって、魔物よりも村人の方がすでに恐ろしい存在になっていたのです。
 娘はようやく祠にたどり着きました。村人でさえ知らない祠は、メルサンディ地方で一番安全な場所です。
 娘は精霊様に訴えました。
 精霊様。精霊様。私と遠くへ逃げてください。遠くの地で私と一緒に暮らしてください。
 精霊様は戦士様の姿で娘の訴えに答えました。
 俺は行けない。お前一人で行くがいい。
 娘は精霊様に拒絶され、失意のままにメルサンディを去ることを決めました。しかし、メルサンディ地方を抜ける街道には、村人達が待ち構えていたのです。娘は捕らえられ、精霊様の知らないところで激しく罵られ暴行を受けたのです。必死で娘は逃げましたが、追い詰められ谷底に落ちてしまいました。
 娘は体も心もボロボロになって、谷底から這い上がる力はありませんでした。村人の誰もに手を差し伸べてくれる英雄も、死に行く娘を助けに来てくれません。月も星も見えない暗い暗い死の淵で、娘は
「英雄を憎んで、村を呪って、本当に魔女になってしまいましたとさ…」
 言葉の余韻が消えるまでの間に、クレルの姿は魔女グレイツェルのものになっていた。

 俺はグレイツェルに抜きはなった火燐刀を突きつけた。
「救えねえな。いくら昔のメルサンディ村の奴らに苦しめられたとはいえ、今生きている村人には関係ないことだ。いかなる理由があろうとお前のしたことは許されねぇ」
 俺はありとあらゆる怒りで、自分が焦げちまうと思うくらいだった。村人達の悪意に気がつけずクレルを守れなかった不甲斐なさ、クレルがグレイツェルと名乗り関係のない村人を苦しめていること。その全ての原因が、俺にあること。
 どうして良いかは、わからない。震える切っ先をどうにかピタリと静止させようとする。
 例え原因が俺にあるとしても、グレイツェルの暴走は止めなくてはならない。村を襲い、村人を村人の意識とは無関係に操る行為を見過ごすわけにはいかない!
 そんな俺とグレイツェルの間に、ルアムが立ちはだかった。
「ダメだ! 兄貴! クレルを殺しちゃダメだ! 殺したら、村人のしたことが正しくなっちまう! クレルは何も悪かねーんだ!」
 何も悪くない。そう、クレルとして死ぬまでは、彼女は何も悪くない。
 だが、グレイツェルとして行ったことは、悪いことだ。魔女が奪った命の数を、魔女のせいで流された涙の数を、なかったことには絶対にできない!
 ルアムがゴシゴシと涙を拭い、魔女に手を差し伸べた。
「クレルの姉ちゃん! 村人のことを許せって言うのはひでーかもしれねぇけど、オイラと一緒に旅に出よう! 嫌なことも酷い目にあったことも忘れちまうような、素敵なことや良いことが姉ちゃんを待ってる! オイラがクレルをぜってー笑顔にしてやる!」
 魔女は嬉しそうに微笑み、膝をついてルアムの手を取った。
「ありがとう、ルアムさん。貴方は本当に優しいわ。祠へ一人で向かう私を気にかけてくれたのは、後にも先にも貴方だけ。私の正体を知っても手を差し伸べ、私を殺そうとする刃の前に立ちはだかり守ってくれる。クレルであった時、ザンクローネでなく貴方に会えたら、きっと…」
 ふっと、グレイツェルがルアムの唇に息を吹き込んだ。がくりとルアムの体が傾いたのを、魔女が抱き上げた。
「ルアム!」
「ふふ。本当に貴方のオトモダチはお人好しね。本当に…バカな子…」
 ふわりと球が現れ、グレイツェルが優雅に腰掛ける。ピクリとも動かないルアムを抱いたまま、魔女は満足げに微笑んだ。
「ねぇ、ザンクローネ。今はどんな気持ちかしら? 村人に憎まれ、心の支えだった美しい思い出に裏切られ、そして最後に友人を奪われて、独りぼっちの気持ち! キャハハハハ! 少しは私の苦しみを理解していただけたかしら?」
「ルアムを放せ! ルアムはメルサンディになんの関係ないだろう!」
 いいえ。ルアムの頬に顔を寄せ、魔女は妖艶に笑った。
「この子は貴方に極上の絶望を与えるのに、いてはいけないの。でも不思議な話ね。メルサンディ村の関係者でもないのに、貴方はこの子を救おうとするのね…。私は救ってくれなかったくせに…」
 魔女を乗せた球がふわりを舞い上がる。
「さぁ、永遠の夜の宴に馳せ参じられませ! 英雄様! 魔女グレイツェル、極上の絶望と無限の苦しみと永遠の死をもって、貴方をお持て成しいたしましょう!」
 魔女とルアムが魔法陣に飲まれ消えて行く。だが魔女の高笑いだけは、いつまでも耳に残っていた。


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