色硝子の硬度

 人間という生き物は大変弱い。魔界の常識である。
 羽もなく、尾もなく、角もない。身体的な個体差がある悪魔にとって、それらが無いことは大した問題ではない。角がない一族は当然いたし、尾は裾の長い衣の下に隠れることは赤子が考えたってわかることだ。羽がないことは少なからず困ることだが、治安の良い地域では羽をわざわざ使う必要のない生活を送れる。
 魔力がない。これは由々しきことだ。しかも人間には家系魔術も存在しない。どの血筋どの地域の出身であろうと力はなく、悪魔から見れば人間界とは恐ろしい程に均一にのっぺりとした無個性の草原が広がっているのである。
 だが、魔力がないことに限れば、如何様にもできる。力の付与は簡単だったし、家系魔術を持っていないが故に相性の問題に悩まされることはない。火炎系家系魔術の悪魔に、氷系の魔術を施しても相殺されて付与できない、なんて問題は起きない。実験にはこれ以上もない逸材だか、それは次の問題から候補から外れ魔獣などに奪って替わられてしまった。
 人間は、脆いのだ。
 その脆さは焼き菓子に例えられるほどだった。指先に力を入れれば脆くも崩れ去るような肉体。少しの力を注いで浸せば蕩けてしまう精神。しかし、その肉体は美味であり、魂は極上の甘露と言われていた。
 サリバンは孫として迎える子供を決める前から、この弱さを克服するにあたりどう教育を施すかを思案していた。
 当然、教育を施すのは自身が理事長を務める学校に通わせて、自分の孫の成長を眺め自慢しまくるためである。誰彼構わず『僕の孫は凄いでしょ!』って言いたいのだ。しかし、それを言う為のハードルは高い。
 人間はとにかく脆い。
 魔王に最も近いと言われる三傑に座するサリバンが、強化の魔術を施すことは容易い。しかしそれに溺れてしまい傲慢になったり怠惰になれば、周囲の評価がどうなるかは高みから悪魔を見てきたサリバンが良くわかっている。さらに人間の体は弱いので、魔術の反動で怪我をすることも十分に考えられる。孫が怪我をするなんて、とんでもない!
「孫自慢って、とても難しいんだね」
 今更、唸っている。
 しかし、サリバンは伝統ある悪魔学校の理事長である。彼の学校に在籍する教師は、理事長が選りすぐった一流の教師達だ。彼らの教えによって世に出た生徒達の輝かしい活躍は、我が子を見るようでサリバンの頬も自然と緩む。
 だが、孫は別だ。
 そういう声は、方々から聞こえていた。
 正直、他の三傑が孫自慢が苛烈を極めて、サリバンはちょっと引いていた。ただでさえ、自分の子すらいない独身である。悪魔は自分に関わらぬ事にはとんと無関心な性質が強いので、赤子や子供が可愛いと思える感性があるだけ上等だ。血眼になって写真を舐め回し、血泡を吐きながら孫の可愛さを喉も裂けよと張り上げ、熱弁のあまりに叩きつけた拳で建物が崩壊する。その阿鼻叫喚といえる三傑の大騒動が、時期魔王について真剣に討論されていると13冠に勘違いされている。ただの孫自慢ですと知れたら、真面目な悪魔は白目を向いて昏倒するだろう。
 三傑のうち二魔が『どっちの孫が可愛い?』を、『どっちも可愛いと思うよ』と適当に流していることもあった。
 だから、サリバンは半信半疑であった。
 孫ができたら、変わるのか。
 結論は、変わった。
 彼が迎えた孫は、大変可愛らしかったからだ。孫としての贔屓目を抜いても、素直で向上心がある。特に『おじいちゃん』と呼んでもらった時には心臓が高鳴ったし、親愛の笑みは心のメモリーに保存してサリバンの脳内エフェクトできらっきらに飾り立てられている。こんな可愛らしい孫は魔界中探してもどこにもいないと、大声で宣言できる。
 可愛い孫には旅をさせよというし、己の手を離れて成長する姿は見たい!
 同級生達と楽しい学校生活を営んで欲しい!
 あぁ、入間くん。入間くん。君に、僕の学校で学んで欲しい。そんで、僕の孫を自慢しまくるんだ! 孫馬鹿が溢れてやや暴走気味である。
 そうなれば、担当は誰にしようと理事長は考え出すのである。
 なにせ、学校最高責任者の孫だ。学校で一番の教師を担当にしたいと思うのは、理事長の特権だ。悪魔学校の教師は誰もが素晴らしかったが、その中で一番を選ぶのはなかなかに難しい。一様に教育熱心で生徒思いであるが、魔当たりや相性の問題もある。さらに生徒の資質を見抜き適切な指導を行えるかも、それぞれに差がある。それを補うように教師達にも新任教育係制度があり、互いに生徒を導く意思を共有している。
 細長い指が教員名簿をめくっていく。出身や来歴、指導生徒の成績などが事細かに記された極秘資料だ。写真の顔を見て、それぞれの教師の評価を反芻する。誰に孫を預けても問題ない、素晴らしい教師陣だとサリバンは改めて思う。迷うなー。迷っちゃうなー。と鼻歌まじりにゆっくりと選別する。
 そして夜が明ける頃、サリバンの手元に残った資料が一つになった。その資料に記された名前は『ナベリウス・カルエゴ』。写真は射殺さんばかりに鋭い目つきの、いかにも厳しそうな男性悪魔である。完璧主義で厳粛を通り越して近寄りがたく、生徒からも教員からも畏怖されている教師だ。孫を甘やかすなら魔当たりの柔らかいバラムくんにお願いすればいいのにな、と思うサリバンだったが結局手に残ったのは彼だった。彼もまた悪魔学校の教師であり、教育熱心で生徒思いだった。彼の指導で成績を伸ばした生徒は数知れず、生徒の資質を見抜いて伸ばす力は学校屈指と教師陣では評価されている。
 備考欄には『受け持ち生徒全員に専用ノートを作り、指導プランを考えている』とタレコミまである。いいなぁ。入間くん専用ノート作って考えてくれるの、嬉しいなぁ。見たいなぁ。孫馬鹿が考えることは、いつでも孫中心である。
「よし! 入間くんの担当はカルエゴくんにしよう!」
 本来なら会議を通して決めることだが、理事長のはしゃいだ声はもはや決定事項だった。