禁断の幻はやがて燃え尽きる

 悪魔学校新任教師バルス・ロビンは、ちょっとした本の樹海と塔が聳え立つ割り当てられた机を目指していた。集中すると脇目も振らぬ質の彼にかかれば、『片付けよう』と決めれば静謐な湖面の机上になり、『授業の準備をしよう』となれば樹海と塔の異郷が生まれる。それを理解しているために、誰も新任教師に片付けろと言う者はいない。
 きょろりと大きい瞳が、教育担当の教師の背中を探したが丁度居なかったようだ。その代わり、教師統括のダンダリオン・ダリが椅子の背を傾けながらこちらを向いた。にこりと魔当たりの良い笑顔を浮かべながら、新任教師に陽気に声を掛ける。
「ロビン先生。授業はどうだった?」
「イルマ君の使い魔に怒られちゃいました」
 てへ。そんな感じの笑みを浮かべて、髪をかく。そうして触覚のような癖毛が、ひょこんと揺れた。
「イルマ君の使い魔は言葉を喋るし、博識だし、ゴルゴンスネークとケルビーを素手で叩きつけたし、僕が知る使い魔とは思えないくらい優秀なんです。あんな使い魔を召喚したイルマ君って、本当にすごいですよね!」
 それは心の底から純粋な賞賛で、ぱぁっと職員室が明るくなる。太陽のような笑顔に緑の髪がエメラルドのように輝いているが、己が輝いているばかりで照らされている周囲には全く意識が向いていない。つまり、ロビン以外の教職員が思いっきり笑いを堪えている事に気がつけていない。
 新任教師ロビンは、つい最近ようやく出勤したのである。その為に、入学式にも教職員紹介にも、ランク査定によるクラス編成と担当クラス会議にも参加していない。だから、ロビンは知らないのだ。
 理事長の孫イルマに召喚されてしまい、使い魔契約をしてしまったナベリウス・カルエゴのことを。
 誰もロビンに言わないのは、単純に面白いからだ。無邪気で恐れを知らぬ新任教師が、厳格で近寄りがたい教育担当のカルエゴに突撃する様だけでも面白い。面白いものがもっと面白くなるなら、それが己に害として及ばぬなら、とことん面白くなって欲しいと思うのが悪魔なのである。
「ダリ先生。ちょっと聞いても良いですか?」
 ロビンはダリの後ろの席である、彼の教育担当の椅子に座るとくるりと椅子を回して向かい合う。ダリも『質問して良いか?』と言われたので、聞く姿勢になる。教師も日々学ばねばならない。新任であろうとなかろうと、学びの機会を奪ったり逃したりはしてはいけないのだ。
「イルマ君の使い魔に言われたんです。『使い魔を恐れろ』って。正しいと思うんですけど、よくわからないんですよね。どうして、使い魔を恐れなくちゃいけないんですか?」
 『使い魔は相棒』という認識のロビンには、『使い魔を脅威の対象として見ろ』という真逆の意味が飲み込めないのだろう。ただでさえ使い魔として召喚される魔獣は、召喚した者よりも弱いものである。一年生が呼び出す魔獣の種族がどんなに強くとも、その種族の中では経験不足な若者である場合が多い。一年生であっても悪魔の生徒が、魔獣に遅れを取ることはない。だから危険ではないと思っていた。そう、ダリは分析する。
 だがゴルゴンスネークとケルビーが暴れたのを見て、生徒を退避させようとしたとは報告に聞いている。だから恐れろと言われたことを『正しいと思う』と認識しているのだ。
 ロビンは視線を落として、腰掛けた椅子の座面を撫でた。きいっと椅子が軋んだ音がする。
「カルエゴ先生は使い魔を一番使える先生だから、聞きたかったんですけど…。居ないしなぁ」
 もうカルエゴ先生は君に教えたよ。とは言わず、ダリは新任教師に語りかけた。
「ロビン先生は、ケルベロスを使い魔にすることが、どれだけ難しいか分かってるかな?」
「それはもう!」
 大きな声で肯定すれば、流れるように説明が飛び出す。
 ケルベロス。三つの頭を持ち、ありとあらゆる悪魔を噛み殺す顎を持ち、あらゆる魔獣を切り伏せる爪と怪力を持つ。天駆ける有翼族すら追い落とす跳躍力を持ち、魔界中を嗅ぎ分けるとされる嗅覚で捕らえられぬ獲物はない。魔界と人間界の境界線に広がる魔境を住処とし、魔界から人間界へ向かおうとする悪魔を尽く食い殺す獰猛な性格だ。その為に地獄の門番とも称され、人間界と魔界を悪魔が簡単に行き来できない要因の一つとされている。群れで狩りをすることもあり、高ランクの悪魔でさえ真っ向勝負を躊躇う強大な魔獣だ。
「そんな強大な魔獣を従順に従わせるなんて、カルエゴ先生はすごいなって思います!」
「あのケルベロスはカルエゴ先生が一年生の時に召喚してから、ずっと契約更新しているそうだよ。従順もそうだけど付き合いが長いから、カルエゴ先生の感情に反応して出てくるくらいだ」
 えーーー! ロビンは勢いよく椅子から立ち上がる。
「それって、もう唯一無二の相棒じゃないですか! やっぱり、恐れる必要ないですね!」
「そんなケルベロスを一番恐れてるのは、主人であるカルエゴ先生自身なんだよ」
 ダリは迫った小さい鼻先を指先で押して、ロビンを再び椅子に座らせる。
「ケルベロスは強大な種族だ。そして頭が3つある特徴から、行動が読みにくい種族でもある。ケルベロスがちょっとした好意で、スキンシップをしようとしたら…どうなると思う?」
 瞳が仄暗い色を帯びる。にんまりと歪んだ唇がうっすらと開き、覗いた八重歯が残虐を語ろうと滑っている。
「牙に触れただけで腕が胴体と離れ、その爪に引っ掛けられただけで致命傷も十分にあり得る。勢いよく飛びつかれたら内臓破裂、伸し掛かったら全身複雑骨折。存在の強さの差がありすぎて、カルエゴ先生以外の命が脅かされるんだよ」
 新任教師の顔からざっと血の気がひいた。その顔を満足そうに見たダリは、にっこりと笑みを浮かべた。
「ね。恐ろしいでしょう?」
 こくりとロビンは頷いた。頷いた瞬間に迸った閃光は、不幸なことにロビンには分からなかった。気がついた時には、突然背後から派手な音が響いて、椅子の下に転倒した彼が探していた教育担当がひっくり返っている。『あ、カルエゴ先生』と言おうとした言葉の半分も呟く暇はなかった。
 長い手が伸びて、新任教師の頭を鷲掴みにする。整髪料で撫でつけた黒髪が、金色の光に蹂躙される。ばちばちと爆ぜる光は瞬時に3つ頭の魔獣となって、新任教師の顔を威嚇するように睨め付けている。
「新任…なぜ、私の椅子に座っている…?」
 ひぃ。喉から悲鳴になり損ねた息が漏れる。
 新任教師バルス・ロビン。教育担当から使い魔との関係を叩き込まれるのは、この直後のことである。