すべてはみかけだけのこと

 怯えた顔。それは見慣れたもので、大抵の存在が見上げる為に顎を上げ瞬きを数回すると息を飲む。そして顔から血の気がざっと落ちて青ざめると、目を逸せなくなって凝視する。それは生存本能が脅威の情報を収集していて、弾かれたように駆け出すのは収集した情報の結果と肉体が連動した結果だとバラム・シチロウは分かっている。
 だからって、傷つかない訳じゃない。知識をいくら掻き集めても、傷にならない程度に受け流せても、向けられた感情はボディーブローのように響いてくる。
 シチロウは憂鬱だった。
 彼と出会うまでは。
「エギー先生の学生時代って、どんな感じだったの?」
 膝の上でシチロウを見上げた子供達は、問題児クラスの男子達だ。シチロウに存分に撫で回されて、髪や服が乱れているを通り越してボロボロである。梟の型の悪魔であるカイム・カムイに至っては、女子ではなく男に撫でまわされたことで瀕死の様相である。白目を剥き、だらしなく開いた嘴から魂が抜け出ているのではないかと心配になる。
 シャックス・リードの問いにシチロウは目を瞬いた。彼らが聞きたがっているのが担任の学生時代だとは分かっていたが、エギー先生なんて可愛らしい愛称で呼ばれているのかと微笑ましく思う。
「カルエゴ君は全然変わらないね」
「つまり、陰湿ですげぇ厳しいってことか」
 アンドロ・M・ジャズの言葉に、うんうんと頷くのはガープ・ゴエモンである。
 見た目や触り癖で生徒達から恐れられていたシチロウだが、担任のカルエゴが同級だったのを知った問題児クラスからは恐怖感が薄れていると感じていた。さらにウォルターパークの一件でカルエゴに一気に懐いた感のある4魔は、好奇心に負けてシチロウの元を尋ねたのである。捕捉され撫で回されてしまったとしても、担当教師の過去は魅力的な情報であるようだ。
 納得したような4魔組に、シチロウはぱたぱたと手を振った。
「違うよ。カルエゴ君は優しいんだ」
 はぁ!? そんな声が膝の上で弾ける。大きな口を開けて、大きな声で『嘘だ嘘だ』と賑やかだ。まるで餌を持ってきた親にアピールするようで、カルエゴ君が可愛がるのわかるなぁと気持ちが暖かくなるシチロウである。
 こんなに懐いているのに、あんなに可愛がっているのに、違う嘘だと否定する言葉を異口同音に言うのだから生き物は面白い。虚為鈴が反応しないのだから、心底そう思っているのだろう。
「とてもそうは思えぬでござるよ」
 不満そうに糸目を歪めるゴエモンに、シチロウの口元を覆うマスクから笑い声が漏れた。
「カルエゴ君はね『触っても良いか』って聞いたら『良いよ』って言ってくれたんだ」
 そう言ってくれたのは、僕の知る限り彼と入間君くらいかな。そう、シチロウは過去に思いを馳せる。
 ゆらりと視線の先に膝の上の子供達と変わらぬ歳まわりの、バラム・シチロウが立っていた。まだまだ幼さの残る体格であったが、同年代の悪魔に比べれば恵まれすぎた体格だ。長身で筋肉質、さらに鱗に覆われた手に鳥類の特徴を残した足と、外見だけ見れば上級生に劣らない。マスクを付け、ふわりとした髪質は首まで伸びている。子供時代の彼はどこか暗い眼差しで、じっと同級生を観察しているか絵本を読んでいた。
 当時のシチロウは生き物が気になって気になって、疑問が溢れて仕方のない気持ちを持て余していた。耳の形、目の位置、尾の形、筋肉のつき方、ありとあらゆる生き物の構造が不思議で神秘的だった。疑問で思ったら図鑑を舐め回すように眺め、触って確認できそうなものは出来る限り触って確かめた。しかし、野生の生き物は捕捉されるのを拒む。逃げ出すそれらを追いかけ、捕まえて撫で回した。形を損ね殺めることだけは絶対しないと誓ったが、それ以外は大抵しただろう。
 それは獣達に対してだけ。
 悪魔に対しては行えなかった。悪魔は強く拒んだし、その拒絶はシチロウに痛みとなって響いたからだ。虚為鈴の能力で拒絶が本物だとわかれば、強いることはできない。
 知りたいのに調べることができない。それは若い悪魔にとって、とてつもないストレスだった。
 悪魔学校に入学する頃には、どんなに気になったとしても触ってはいけないものだと諦めていた。辛いことだったが、拒絶の言葉が突き刺さるよりも遥かにマシなことだった。そんな中、同級生の男の子が言ったのだ。
 若き日のシチロウの前に、ゆらりと同じ年のくらいの男の子が現れる。柔らかな癖毛がふんわりと、射抜くような鋭い視線の上に覆いかぶさっている。名家の出身で、同級生で最も成績の良い、シチロウには同級生以上の関係などなかった子。
 『なんで、欲を我慢するんだ?』不機嫌そうに眇めた目で、問いかけてくる。『お前は悪魔じゃないか』と声変わりする前の高い音が、シチロウの気持ちを追い立てる。
 すっとシチロウが手を伸ばす。同学年でも頭一つ飛び抜けたシチロウが手を伸ばし迫るということは、とてつもない圧迫感があった。それを恐れて誰もが逃げ出す。だが、男の子は動かない。じっとシチロウを見上げて、腕を組んで黙っている。
 『君に』
 喉が焼ける。マスクの内側が真夏の空気のようで、あまりにも水を蓄えた空気に溺れてしまいそうだ。そう、その時の感情をシチロウは今でも鮮明に覚えている。
 こんなことを言って、嫌われてしまわないだろうか? 今にも逃げてしまわないだろうか? 臓器が口から出てしまいそうな不安が、込み上げてくる。
 あぁ、でも、許してくれるかもしれない。希望が闇の中で一筋光っている。同じ歳の悪魔の子。頭が良くて、力が強くて、誰よりも自分自身に厳しい彼が不思議だった。彼だけじゃない、クラスメイト全員が不思議で、謎に満ちて、触りたくて仕方がない。見て知るには、もう限界なんだ。触れて、調べて、もっと、もっと知りたい。
 『触っても良い?』
 逃げなかった男の子は、眇めた目を瞬いただけで柔らかい前髪が揺れた。組んでいた腕を解くと、ゆっくりとシチロウが伸ばした震える手に指先を向ける。分厚い手袋越しに小さい感触があった。触れられた。触れ合った。視線がかち合う。彼の深い黒い瞳が美しかった。たったそれだけの行為が、許されたと感じた。
 鼓動が跳ね上がり、歳の割には発達した胸板が弾け飛びそうなくらい心臓がうるさい。
 『触りたければ、触れば良いだろ』
 その瞬間、シチロウのタガが外れた。
 大きく開かれた腕は瞬く間に男の子の背中に回り、その華奢な体を腕の中に閉じ込めた。どんな俊敏な獣すら捕捉してきた速度に、驚く暇もないだろう。柔らかくてふかふかして、良い香りのする髪を撫でる。翼を仕舞う器官の凹凸を確認し、腕を、足を、身体中を撫で回す。
 あぁ、体のことなんか分かってる。本で読んだ。知ってるんだ。触っただけじゃ、知りたいことが全くわからない。
 なんて、なんて不思議な悪魔なんだろう! どうして僕を受け入れてくれたんだろう。どうすればその謎が分かるの? だめだ、触れただけじゃあダメなんだ。でも、今触れて分かることは全部知っておきたい。許されたことが悦びとなって、理性を溺死させ、混沌とした衝動が突き上げる。
 凄まじい勢いで叱り飛ばす男の子の声など、その時のシチロウには全く届かなかった。
「だから触って良いよって言われた時、あんまりにも夢中になりすぎて、打身だらけにしちゃって怒られたなぁ」
 我に返った時には『しまった』と青ざめ保健室に駆け込んだが、男の子は不機嫌そうな面持ちのまま隣にいた。謝れば『悪魔が欲に忠実で何が悪い』と言うだけだった。
 今でも同じ会話を繰り返す。触って今も解決しない不思議の意味を探っている。
 にっこりと笑みを浮かべるシチロウを、腐れ縁の男の子の教え子達はぽかんとした顔で見上げていた。