接吻なんかで近づけるものか

 食べ物とは生き物だった物だ。生きる為の全てが掛け替えのない程に美しく尊いからこそ、感謝の気持ちをもって真摯に向き合わねばならない。美味しく食べるために手間隙を惜しんではいけない。残してはいけない。そんなことをバラム・シチロウは己に課していた。
 本来ならば意識などしなくても誰もができる当然が、シチロウにはできなかった。
 美味しく食べる為の手間隙は、出来ることと出来ないことがある。
 残さず食べるためには、醜態をある程度覚悟しなくてはならなかった。
 その原因が過去のシチロウの未熟さが原因であったからこそ、食べるという日に何度も行う行為が戒めのように突きつけられる。唇から頬にかけて大きく肉壁を失い、ぽっかりと開いた口腔。それがシチロウの戒めだった。
 本来ならばしっかりと閉じられるべき唇は欠損し、穴の開いた頬から食事が零れ落ちる。咀嚼音は遠慮を知らずに響き渡り、獰猛な鋭い牙は頬に隠れることを知らずに脅威を見せつける。優しい性格は他者を恐れさせるのを避けたがった。苦痛には感じてはいけない。寂しさを感じてはいけない。それは己の糧になる生命への侮辱だと、シチロウは思っていた。
『隠れて食事をしてるのか?』
 ふわふわした癖毛の同級生が、眉間にシワを寄せて幼き日のシチロウを睨め付けている。
『生き物に詳しいのだから、それぞれに食事のスタイルがあることを知っているはずだ。それなのに、自分の食事の姿を気にするのか。理解に苦しむな』
 軽食を包んだ紙袋を持って隣に座る。家族以外で初めてマスクを外して食事する姿を見せる、他人だったろう。不思議で、とても居心地の良さを感じる同級生の隣。生命の神秘に劣らぬ奇跡だと、今のシチロウなら思える。
 悪魔学校に入学して、ありのままの自分を受け入れてくれる同級生や先輩がいて苦痛は和らいだ。歳を重ねれば重ねる程に、物わかりが良くなるのか苦痛を己に納得させられるようになる。研究にのめり込めるのも、苦痛を遠ざける良い方法だった。
 それでも、全く感じなくなったわけではない。
 問題児クラスの生徒達を守った達成感は満たしてはくれるが、あの賑やかな輪の中に入れないのは寂しい。一流ホテルのバイキングは美味しい物がいっぱいなんだろうなと思えば、興味がないのは嘘になる。だが生徒達の楽しそうな顔が、嫌悪や恐怖に歪むのは耐えられない。そうなれば、我慢しなければいけないと言い聞かせるしかない。
 ルームサービスの内容は流石一流ホテルといった、高級なラインナップだ。一流のシェフが作るフルコースや、モーニングやアフタヌーンティー、ここを貴族が利用することが伝わってくる。普段シチロウが口にする食事より桁が二つほど違いそうな気がするが、サリバン理事長やオーナーのご好意で無料らしい。
 何にしようかな。現金なもので、美味しそうなものを食べれるとわかると気分も上がる。
 シチロウがルームサービスの冊子をめくっていると、ノックもなしに突然部屋の扉が開いた! 乱暴に開かれた扉が壁を叩く音は、ノック代わりとシチロウに告げたが爆音に近い音にびくりと冊子を落としそうになる。
 振り返れば同級生のナベリウス・カルエゴが不機嫌を隠さず部屋に入り込んできた。流れるようにバイキング会場が騒がしくて食事どころじゃないとか、彼らの先輩が絡んできて不快だとか言い訳を恨みがましく吐いてくる。
「カルエゴ君、ご飯は…」
 少食な彼にしては早すぎではないだろうか? きちんと、食べてきてないでしょう? そうシチロウが言おうとして、カルエゴが足を止めた。正面ではなく斜で立ち止まった同級生は、シチロウに振り返って彼自身の手元に視線を落とした。引っ張られるように視線を向けたシチロウは、マスクから情けない声が漏れるのを他人事のように聞いた。
「座れ。食べるだろう?」
 台車の上に山盛りの食事。ホテルの従業員に頼んだのだろう、バイキングの人気メニューが一通り綺麗に盛り付けられている。シチロウに向かい合うように座ったカルエゴは、シチロウの手から冊子を摘み上げるとアルコールドリンクの頁を繰り始めた。
「俺はワインを頼むが、シチロウは何を頼む?」
 一緒に食事をする。遠回しに言った内容に、シチロウは思わず笑いが溢れてしまう。なんだ? べつに。あぁ、学生時代に戻ったようなやりとりだと、シチロウは懐かしく思う。互いに教師として忙しくなって顔を合わす機会が減ったが、変わらぬ同級生の態度は嬉しかった。
 自分の欲が第一で、自分とは関係のない他者への情はひどく薄い。自分がメリットを得られないなら、動かない。シチロウは入間にそう言ったばかりだった。
 だが、ごく稀にいるのだ。自分に得がなくとも心を砕いてしまう悪魔が。
 それは恋愛感情よりも儚い。恋愛は自身がどんなに拒絶的な意識を持っても、種族としての本能に逆らえないものがある。恋は盲目と表現されるそれは、強固に自身を縛る。だが、恋など必要ない。あっさりと解消することもできるほどに軽く脆い感情。
 だからこそ、恋ではなく、愛と表現するには尊大な、魔界では表現にないそれは尊かった。
 触れるよりも、表現するよりも、伝えるのが難しい。でも、それに気がつかれたら、おしまいだ。悪魔は本当に自分中心の生き物だから、自分に利益を与えてくれる存在を手放したりしないんだよ? 君は変なところで鈍感だから、分からないんだろうね。
 そんなんだから、懐かれてしまうんだよ? カルエゴ君。
 シチロウはカルエゴと食べる食事が、とても、とても好きだ。