さも愉快そうな貌

□ 早朝 □

 ナベリウス・カルエゴは、空になった容器をじっと見つめた。透明なガラスに張り付いた色白い指がくっきりと見える。見つめたからと中身が満たされることはなく、鋭い視線は空になった容器を見ている訳ではなかった。
 どうするべきか。乳白色の使い慣れた整髪料がないなら、この鏡に写っている癖毛が放置されることを意味する。視線が鏡に向けられれば、柔らかな癖毛の男性悪魔の顔が映っている。細い指が多く垂れた前髪を下から掻き上げて後ろに追いやったが、次の瞬間にはふんわりと崩れてしまった。
 鏡の中の悪魔は、ため息を零した。
 教師には似つかわしくない髪型だと、カルエゴ自身が思っている。昔は髪を伸ばして結んでいたが、煩わしく切ってしまったのを悔やむ。結ぶほどの長さのない髪はふわふわと自由奔放で、黄緑色の問題児を連想させた。
 しかし、こうなった原因はカルエゴ自身の油断だ。あまりにも生徒が不出来で、泊まり込みの指導を急遽決めたのは彼である。生徒の課題作成に泊まり込みをする為に必要最低限は揃っているはずだったが、こんなタイミングで切らしてしまうとは予想外の出来事だったのだ。買え置きは当然なく、授業に必要なものを中心に置いている悪魔学校の売店にも売っていない。
 今日が休日なら何の問題もなかったが、今日も通常授業と放課後には音楽祭に向けた生徒指導がある。自分と生徒。選択は迷いようがない。なぜなら、彼は厳粛な教師なのだから。


□ 朝礼 □

 悪魔学校では教員室に入ってきた相手に、挨拶するのが慣わしである。朝であれば『おはようございます』、日中であれば『お疲れ様です』。それはサリバン理事長の時代よりももっと昔、学校創立時からの伝統でもある。教師が一丸になって生徒を育てるという気概が伝わってくる。
 今日ほど、その伝統が煩わしいと思ったことはない。カルエゴは歯噛みした。
 流れるような聞きなれた声が詰まると、周囲が何事かと顔を上げる。こちらを見れば何かを喉に詰まらせたようにびくりと体を震わし、目を逸らせず凝視してくる。瞬く間に教員室全体に伝播した何とも言えない空気を、一番遠くの席にいた新任が勢いよく踏み潰す。
「わ! カルエゴ先生! どうしたんですか、その髪! 悪周期ですか?」
 突撃してきそうな勢いの頭部を鷲掴み、カルエゴはバルス・ロビンを押し付けた。ロビンの興味丸出しの好奇心が、緑の髪を新緑のように鮮やかに色付かせている。
「新任! 粛にできんのか!」
 もう、カルエゴの髪型が気になって仕方がないロビンの耳に、苛立ちを隠さず荒げた声など届くはずもない。マルバス・マーチが哀れにも震え上がり、顔を真っ赤にしてフリーズするモラクス・モモノキを一瞥する。
 そんな中にブエル・ブルシェンコが首を傾げるように近づいていく。回復魔術が使える悪魔は己の能力を生かす為、他者の不調に聡い。探るような視線を感じたカルエゴは、否定するように手を振った。
「ブエル先生。私の体調に問題はありません」
「そうなのですか? カルエゴ先生も泊まり込みと聞きましたが…」
 同じ一年生を担任する者同士、行事のスケジュールは同じだ。音楽祭は一年生最後のランク昇格のチャンスであり、一年間共に過ごした生徒達の個性が最も強く表現される。一年生全クラスの担任達は、生徒と一蓮托生とばかりに泊まり込んでいた。ブエルの受け持つクラスも大変な状態なのに、カルエゴの担当する問題児クラスの状況など想像するのも恐ろしい。ブエルは自分の家系能力を駆使してはいるが、胃に穴が空いているだろうと自己分析していた。
 純粋に体調を心配しているブエルに、拒絶する程カルエゴも子供ではない。小さく息を吐き、白状する。
「使っていた整髪料を切らしてしまいまして」
 なるほど。納得したように頷いた顔が彼自身の机に向けられると、徐に引き出しを開けて片手に小瓶を持って戻ってくる。品質の高さに定評のあるブランドの整髪料だ。差し出された瓶に未開封のラベルが貼り付けられているのを見て、細やかな悪魔だとカルエゴは感心してしまう。
「もしよろしければ、私の整髪料使いますか?」
「お心遣い感謝します。しかし、ブエル先生のお手を煩わすほどのことではありません。バラム先生に買ってきてもらうよう、頼みましたので」
 本来なら調達の手段など明かす必要などないのだが、未開封の代理品を渡そうとする配慮に対しての礼儀と返す。自業自得にここまで気遣われることすら、ブエルに対して無用の手間を掛けさせているとすら思う。カルエゴは自分のことは気にしなくていいと、突きつけねばならなかった。
 元同級生の腐れ縁のバラム・シチロウとは、気の置けない仲であることは教員に知れ渡っている。魔インに整髪料を買ってきて欲しいと文面を流せば、程なくして了承の旨が返ってきた。商品情報や販売している店を伝えれば、出勤のついでに買ってくると言ってくれた。少し遅くなると言っていたが、買いに行けないカルエゴにとって些細なことだ。そこまで説明する義理はないが、その程度は想像できる情報は提供した。
 ブエルは『それならば』と、瓶を引っ込めた。
 そんな一連の様子を眺めていたダンダリオン・ダリは、椅子の背もたれにぐっと寄りかかって笑いかけた。ストラス・スージーが椅子の影から、ふいふいと微笑ましく眺めている。
「髪型変えただけでそんなに反応されちゃうなんて、カルエゴ先生は愛されてますね」
 そんなダリの顔面に『泊まり込み申請書です』と、カルエゴは書類の束を押し付けたのだった。その時の顔を唯一見ることができたスージーが、ふいーと笑みを深めた。


□ 出席 □

 カルエゴ先生がいつもと違う髪型をしている。そんな噂は電光石火の速度で学校内に知れ渡ったし、誰もがいつもと違う厳粛な教師を見ようと殺到した。もはや問題児クラスが使用する『王の教室』前は、話題の中心を一目見ようとする野次馬で黒く埋め尽くされている。
 学校の教師の中で最も厳格な教師は、ある意味、教師という姿を完璧に体現した存在だった。すらりとした長身は悪魔学校の教員服を見事に着こなし、威厳ある振る舞いは魔界に数ある学校の中でもこの学校が一流だと内外に示す。隙のないハイランクの悪魔は、能力とて優秀などという表現で片付けて良いものではない。生徒の能力を伸ばす教師として当然優秀だったが、たかが悪魔学校の教師に収まる存在には惜しいと方々から言われる。
 そんなナベリウス・カルエゴは、全ての生徒から畏怖に似た感情を抱かれる存在だった。一年生の最初の授業でありその後も毎年更新される為に行われる授業、使い魔との契約の監督は全てカルエゴが行なっているからだ。カルエゴに関わらずに卒業することは不可能なのである。
 最近話題の問題児クラスに対する絡みに慣れた野次馬達は、思い出した。位が高い者への畏れと敬意を。
 カツカツと靴底が石畳の上で均一な音を響かせ、こちらに向かってくる。黒いノートを片手に翻る教員服は、確かにカルエゴ先生だと野次馬の誰もが思う。
 しかし、その髪型は野次馬の誰もが見たことのないものだ。
 整髪料で撫でつけられた髪はそこにはない。艶やかで柔らかい髪は、様々な色が光の加減で混ざり込む美しい濡羽色。それが一歩一歩進むごとにふわりふわりと空気を含み、厳つい表情の上を撫でるように落ち着く。
 似合っているいないの判断は誰にもできなかった。ただ、厳粛で陰湿な教員からは、最も遠いものだということだけは理解できた。
「粛に」
 その場の誰もが気がついた時には、教師は『王の教室』の扉の前に立ち野次馬達を見回していた。誰も一言も言葉を発せず、身動き一つしなかったが、教師の言葉は心の内を押し付けて、この場を本当の静寂に沈めてしまった。
 風も凪ぎ、耳すら痛い沈黙の中で、爆ぜる音がする。肌を叩くような痛みに顔を顰めようとした生徒達は、周囲が黄金色の光で満たされているのに気がつけただろう。そして耳元に獣の荒い息遣いが聞こえる。鼻が利くものは獣臭さすら感じられたかもしれない。
 若くとも悪魔。誰もが本能的に気がついた。
 地獄の番犬。ケルベロスが、見えずともここにいる。目の前の教師が『よし』と一言言うだけで、この場の全ての首が掻き切られるだろう。圧倒的力の差に、喉が焼けるように乾く。
 当の教師は鋭い視線で野次馬達を見回し、懐中時計に目を落とした。
「各自、速やかに教室へ向かうように。出席に遅れるな」
 踵を返し『王の教室』へ消えていく。見送った生徒達は腰を抜かしてへたり込み、彼らの上に始業の鐘が鳴り響いた。


□ 昼休み □

 当然ながら問題児クラスは、暴動もかくやと言わんばかりの大騒ぎだった。全く授業に身が入らず、宿題が当初の3倍に膨らんだ者まで現れたのは自業自得だ。そう思いながら、担任は綺麗に片付けられた己の机の前に立った。
 厳粛な教師の机の上は、見事に整頓されている。席を立つ時には、その机の上には書類一枚置き去りにはされないし、綺麗に拭かれて顔が映るほどだ。ストラス・スージーやバラム・シチロウ、マルバス・マーチのように特殊な授業ゆえに準備室という名の個室が与えられているわけではないので、ナベリウス・カルエゴの私物はここか更衣室のロッカーの中しかない。それでも厳粛さゆえに、教員室のものは生徒に関する物ばかりで、カルエゴの私物は数える程度しかない。
 その数える程度の私物の一つにサボテンがあるのは、教員室の7不思議の一つになっているが。
 昼休みだというのに、一年生の担任達は殆どが教員室に留まっていた。
 理由は一つ。音楽祭に向けた泊まり込みに関係した、保護者への対応のためだ。家庭の事情で急遽連絡してくる保護者、必要な物を持ち込みたいという申請など、泊まり込みに関して細々と対処せざる得ないことが起きる。その為に一年生の担任は教員室に詰めているのだ。昼休みだが各々が雑務に追われて忙しなく過ごしている。
 問題児クラスには理事長の孫である入間も在籍している。過保護を通り越して溺愛しているのを、教員全員が把握していた。なにせ、サリバン理事長に捕まって孫自慢をされた日には、その日にやろうと思ったことは全くできなくなるからだ。
 そんな孫が学校に泊まり込む。何もないはずがない。カルエゴは『カルエゴ先生、理事長がお呼びになってますよ』という、同僚の声に腹を括って立ち上がらざるえなかった。

「入間くんが泊まり込みするっていうから、必要なもの持ってきたんだ!」
 そう、毛髪一本生えていない頭のてっぺんから出たような、明るく楽しそうな声にカルエゴは嫌な顔を全く隠さなかった。目の前には馬車と同じくらい縦と横幅のある、ぱんぱんに膨れ上がったリュックサックらしきものが転がっている。中身は着替えなどもあるだろうが、お菓子の類もだいぶ含まれている。しかも横にちょこんと苦手を通り越して嫌いな先輩が立っているのだから、心穏やかに保つことなど無理な話だ。ピンと耳が立ち、しっぽが振れる様は嫌な予感しか感じない。
 息子と修練に勤しむ同級生のためにと、食料を運び込んだガープ家に匹敵する量だ。食料は学食を担う調理部がありがたく回収していったが、こちらはそうはいかないだろうとカルエゴは嘆息した。魔界の上下関係は絶対である。
「理事長、泊まり込みの持ち込みは必要最低限です。購買部で購入できるものは、そちらで随時購入してもらうことになっています」
 えー。でもぉ。くねくねと粘る上司に、カルエゴは『規則です』と鋭く言い返す。
「んもぅ、カルエゴくんは頑固なんだから。オペラ」
 はい。短く返事が返ってくると、大股で理事長の補佐はカルエゴの前に近寄った。学校の規定のカバンより少し大きめ程度のリュックサックを手に、真っ直ぐ見上げてくる。受け取れと無言の中に込められた意味を察し、カルエゴはリュックサックを受け取った。
 理事長なのだから直に渡しに行けばいいのに、と思う担任である。
「じゃあ、オペラ。あとはよろしくね」
 そう言うが早いか、颯爽と理事長室を出ていく後ろ姿に、カルエゴもオペラも一礼する。ばたんと扉が閉じる音を聞きながら、カルエゴも『それでは、私も』と理事長の後に続こうとする。そんな細い肩を、ぽんと触れる手。まるで挨拶のような仕草だったが、カルエゴはびくりと体を強張らせるのが精一杯で動けなくなる。
 しなやかな指先を彩る赤が、肩を撫で、ふんわりと落ちる髪に触れる。声は心なしか弾んでおり、尻尾が空気をかき回すだけでカルエゴの柔らかい髪はふわふわと揺れる。
「カルエゴくん、懐かしい髪型していますね」
「整髪料を切らしてしまいましたので…。離していただけませんか?」
 懐かしい。そう言われて、確かに先輩はこの髪型を久々に見るのだろうとカルエゴは思う。この髪型は、カルエゴの学生時代に近いものだった。担任として指導する子供達と同じくらいの年頃だった彼は、確かにこんな髪型だった。
 前に回り込んだ厄介な先輩は、理事長補佐としては見せぬ幼さすら感じる無邪気さでカルエゴを見る。面白いおもちゃを見つけた。表情筋のぴくりとも動かぬ無表情だが、瞳や耳やしっぽに、そして雰囲気にオペラ先輩の感情が全て乗る。それに包まれてしまったら、逃げ出すことは無理だ。逃げ出して、もっと酷い目に遭ったことなど数知れぬ。後輩として叩き込まれた感覚は、もうおしまいだと理解させた。
「おや、きみは私にこんな大荷物を持って帰れって言うんですか? せめて馬車に積むくらいは手伝ってくれたって良いじゃないですか」
 困っているような発言だが、表情筋の全く動かぬ顔には微塵も困った様子はない。声も紙に走り書いた台詞を棒読みにしたようだ。それでも押し寄せる、楽しいという感情が熱を帯びてくる。こちらはちっとも楽しくなどないと、カルエゴは精一杯の大声で拒絶した。
「先輩だけで持てるでしょう!」
 カルエゴが羽交い締めにされて、髪をもみくちゃにされるまであっという間。オペラが満足するまでは決して解放されないのはわかっているが、どうしても嫌だからもがく。それでも押し付けられてしまうのだから、尚更面白くない。カルエゴのプライドの問題だった。
 この先輩はどうして俺の髪を撫でくりまわしてくるんだと、カルエゴは心の底から疎ましく思った。


□ 放課後 □

 バラム・シチロウが沢山の差し入れを持って『王の教室』にやってきた。問題児クラスの子供達が感謝の言葉を言いながら、差し入れのお菓子を覗き込んで喜んでいる。自然は自然のままという観念を持っているシチロウにはまるで小鳥の餌付けのように思えてしまうが、仄かな罪悪感が目の前の輝く生徒の笑みに消し飛んでしまった。あぁ、かわいい。自分にありがとうって言葉を言ってくれる教え子達かわいい。
 完全にでれっでれなバラム・シチロウ先生である。
 収穫祭の時に師匠として特別授業をした子には尊敬の念が混ざり、それ以外の子供達も恐れの色がなくなったのを生物を注意深く観察する目は捉えていた。腐れ縁と互いに言う仲のナベリウス・カルエゴは、厳粛で陰湿で近寄り難い性格だ。しかし、冷徹とは程遠い本質の上に乗ったそれらを見透かすだけはある、と問題児クラス達の慧眼に唸っている。
 カルエゴくんは本当に魅力的な悪魔なんだ。そういう思いを生徒達と共有しているようで、シチロウは嬉しくなる。
 『粛に!』という声などどこ吹く風の教え子達を見ながら、歩み寄ってくる同級生に向き合う。脇に抱えた頼まれた物が入った包みを一瞥し、カルエゴは小さく目礼した。
「手間をかけさせたな。すまない」
「全然。気にしないでよ」
 大きな掌を振る向こうで、らしくない失態に少し凹んでいる同級生を見る。欠片も大変に思っていないし、本気で気にしないで欲しいのだが、この同級生は厳粛ゆえに義理堅い。後日はすごくお高いお返しが来るんだろうなぁと、シチロウは思っている。
 それでも、こうして頼ってくれる。それが、シチロウにとって一番嬉しいことなのだ。
 一向に渡すつもりのない包みを睨んでいた視線が、つと上がる。磨かれたマスクに不機嫌そうな己の顔が歪んで写っているのを見て、さらに視線を上げる。視線が合って、ようやくシチロウは口を開いた。
「カルエゴくん。一年生の担任に集まって欲しいって、ダリ先生が言ってたよ」
 ふむ。担任は顎を摩る。音楽祭は一年生最後の行事とあって、収穫祭よりも大々的になりやすい。外部との調整も収穫祭の比較にならず、話し合い決めるべきことは山のようにある。一年生の担任が全員泊まり込んでいるのを良いことに、呼び出しは時間を問わない傾向がある。勤務終了だからと、お菓子やジュースの並んだテーブルの向こうに統括がいた時はカルエゴも叱り飛ばした。
 一体、何の話で呼び出されるのだろう。音楽チームの指導が遅延気味なのを思えば、必要とはいえダリの呼び出しは頭の痛い問題である。しかし、無視することは出来ない。カルエゴは重苦しい呻き声を口の中で転がした。
「行ってきなよ。僕が子供達を見てるからさ」
 特にすることなんかないけどね。そう、心の中で付け加えるシチロウである。
 出来ることは、怪我しないよう気を配る程度。カルエゴのように音楽の指導が出来る訳でも、ケロリのようにダンスに助言が出来る訳でもない。それでも大事な生徒達を預かる身である担任だからこそ、教師が子供達を見守るということは大事なことである。
 カルエゴは小さく頷いて、頼むと囁いて足早に『王の教室』を出て行った。厳粛な教師でありたい彼の生徒を預けられるほどの、信頼を嬉しく思いながらその背を見送る。校内でありながら教員服ではない背中は、シチロウにとっても新鮮だった。
 担任が席を外したからか、明らかに生徒達の気持ちは緩んだ。シチロウの差し入れを開けて、それぞれに食べ出す始末だ。ジュースが行き渡り、もう音楽祭の終わった打ち上げのような雰囲気になってしまっている。
「どうだい。音楽祭の準備は大変でしょ?」
 そう、最も近くに座っていた鈴木入間に話しかけると、入間は『はい』と力なく笑った。
「僕が素人なのがいけないんですけど、カルエゴ先生が厳しくて付いていくのがやっとです」
 開いたり握ったりする手は、痛みからか時々動きがぎこちなくなる。それをおくびに出さず入間は、ぱぁっと嬉しそうな笑みを浮かべた。
「でも、少しずつ上手になって、プルソン君とも合わせられるようになってきたんです」
 そう顔を見合わせる音楽チームのコンビの顔は、楽しさに光っているようだ。
 あぁ、そんな顔を僕は見た。上達する楽しさ、音が合わさる昂り、それらを噛み締める同級生の表情がそこにあった。さまざまな異なる楽器を握りしめ、誰もが同じ表情をしていた、昔のちょうどこの次期にシチロウは帰ったようだった。
「楽しいでしょ?」
 ぱっと入間とプルソン・ソイがこちらを向いた。
「カルエゴくんは、教えるのが本当に上手なんだ。僕らも、音楽祭が終わった時にはすっかり音楽が好きになっちゃったくらいなんだ」
 クラスは一つではなかった。収穫祭で個々に動いていたクラスメイトが、今度は音楽祭で心を一つにしようだなんてとても無理だ。なんて意地の悪いスケジュールなんだろう。教師になって熟思わされる。
 特に当時のシチロウには堪えた。若王に輝いてもクラスメイトに植え付けられた『変わった悪魔』の印象は拭えない。それが、とても悲しかったのを今でも苦く思い出す。
 音楽祭でオーケストラをやることになった経緯は思い出せないが、それも適当に音楽祭を終わらせる為に流されて決めたようなことだった。誰も優勝を本気で狙っていなかったし、魔術や勉強と違って音楽なんか今後一生関わることのない生徒が関心など示す訳が無い。合奏なら多少下手でも良いんじゃないか、そんな打算的な考えはシチロウの家系能力など必要ないくらいにただ漏れだった。
 そして最も音楽の経験が豊富だったカルエゴがクラスメイトの前に押し出された時のことは覚えている。お前が一番上手なんだからと、そんな理由で全員の前に立った。嫌そうな顔だったが、一つ息を吐いて覚悟を決めた眼差しに当時のシチロウは胸の鼓動が一つ高鳴った。
「問題児クラスは団結力が強い方だけれど、僕らのクラスはバラバラで本当に大変だった」
 『王の教室』を使っている問題児達は、なんだかんだ言って団結力がある。シチロウは色んな一年生を見てきたが、アザゼル・アメリやロノウェ・ロミエールのようなカリスマが居なければ悪魔を纏め上げるのは難しい。このクラスは入間の影響が強いだろう。だが、そんなクラスばかりではない。シチロウのクラスとて、そうだった。当時、成績が一年首席であったカルエゴは、あまり他者を引っ張ろうというタイプの悪魔ではなかったからだ。
 自分は自分。他者は他者。そんな悪魔だったカルエゴは、その瞬間から変わったとシチロウは思っている。
 クラスメイト全員に得意そうな楽器を選んで、それぞれに練習プランを課した。楽器すら触ったことのない初心者ばかりで、当然上手くなんかできやしない。投げ出す者も逃げ出す者も当然いた。それでも不思議なもので、カルエゴが一言教えると面白いように上達するものだから楽しそうに演奏する者も現れる。それに触発されて、全員が楽器を持つようになった。
 影響力という意味では、入間もカルエゴもよく似ているとシチロウは思う。
「でも、カルエゴ先生のクラスが音楽祭は優勝したんですよね?」
「うん。最高に楽しい演奏だった。楽しすぎて、音が光って花が咲いたり雪が舞ったり凄かったよ」
 そう、嬉しげにシチロウは目元を細めた。
 クラス全員の演奏の楽しさが乗りに乗った演奏は、まさしく魔王組曲のような混沌さだった。魔王の恐ろしさ、力強さ、全てを飲み込む偉大な欲。それらを表現する音を輝かせているのが、自分達であるという誇りと悦び。クラスメイトが共有した一体感は、会場を飲み込み音楽の世界を体現した。まさに、クラスが一つになった瞬間だった。
 あの瞬間、カルエゴの顔を見れたクラスメイトは、どれくらいいただろう。
 扉が勢いよく開いて、問題児クラスの担任がご帰還された。雷のような『粛に!』を放ちながら、音楽を教えている入間とプルソンを捕まえる。
「貴様ら! まだ、練習を始めていないのか!」
 教員服を脱いで、髪も昔のようで、あの頃の彼がここにいるかのようだ。
 シチロウが昔見た顔を、今のカルエゴも浮かべている。