水に濁るペリドット

「落第点だ」
 新任教師バルス・ロビンは、初の授業の評価に震え上がった。勿論、ロビンとて褒められた授業ではないと、自己分析はしている。強力な魔獣と使い魔契約した生徒がいながら、気がついた時にはその生徒達の諍いは止めることが出来なかった。鈴木入間の使い魔が止めてくれなければ、逃げ遅れた生徒は無事では済まなかったろう。
 使い魔は契約者を害することはできない。そればかりに集中してしまって、契約者以外は害することができることを失念していた。それは完全に監督官であるロビンに非がある。
 厳しい。親戚で慣れているロビンでさえ、ちょっと凹んでしまう。
 勿論、厳しい評価は仕方がない。生徒に怪我がなかっただけ、幸運だった。教師の監督下で生徒に怪我があれば、教師だけでなく悪魔学校全体の責任になる。狙撃手に次などないという一族に属する悪魔であるのに、次があるだけロビンは恵まれているのだ。
 新任を教育する担当教師であるナベリウス・カルエゴは椅子の背凭れに背を預け、その長い足を組み替えた。教育担当の机の上には一つ聳え立つ資料の塔が出来ている。それをノックするように軽く触れると、鋭い視線がロビンを射抜いた。
「一年生の契約した魔獣は全て把握していたか?」
「それって、一年生の生徒の魔獣に関する資料ですか? ちょっと多すぎませんか?」
 教育担当の教師は忌々しげに『粛に』と遮った。
「生徒達それぞれが異なる魔獣と契約している。故に画一的な授業では対応しきれない。特に魔獣との信頼を築くための交流は、個々に合ったものでなくてはならない」
 うーん。僕としては良い交流方法だと思ったんだけどなぁ。ロビンの弁明は『ゆえに』と続いた言葉で止められる。カルエゴは立ち上がり、資料の天辺を叩いた。
「バラム教諭から各生徒の魔獣の生態についての資料を提供してもらった。これを元に、各生徒と魔獣にとって適切な交流方法を次回授業までに提出してもらう」
 ひ。一年生、全員分? 次回の授業までに? 親戚以上の厳しさをに、ロビンは息を呑んだ。とはいえ、次の瞬間には集中すればどうにでもなると呑んだ息を吐き出している。悪魔学校の教師であるだけあって、新任であっても優秀な存在である。
 ひらりと『イルマの分は必要ない』と、一枚だけ抜き取られる。
 ずしっと抱えた資料の重みと、カルエゴの威圧に震え上がるロビンだ。これが新任教師の洗礼という奴なのだろうか。厳しいし、殺気に似た威圧は流石に冗談と流せそうにない。
 集中して、何日かかるんだろうなぁ。そう思いながら、資料を机の上に置きに行こうと踵を返す。ポケットの圧迫感がつるりと動いて飛び出し、ロビンはあっと声を上げる。転がり出たのは授業で使った何の変哲もないボールだ。てんてんと弾んで、カルエゴの足に引っかかって止まる。
 カルエゴはそれを黙って見下ろしていたが、徐に拾い上げた。
 瞬間。黄金の光がカルエゴの背後で爆ぜる。光は瞬く間に巨大な三つ首の獣の姿になり、鋭い牙を見せ強い愉悦を周囲に撒き散らす。地獄の門番と恐れられる魔獣が、悪魔学校の教員室の真ん中に突如現れたのだ。教師を務める悪魔とて息を呑む中、カルエゴは素早く振り返り片手を鼻先に突き出した。
「待て」
 ぴたりと、ケルベロスが動きを止めた。そのまますっと手のひらを下に向ければ、交差した巨大な手に三つ首が乗り伏せに似た姿勢になる。尻尾だけはぶんぶんと振り回しているが、大人しくなったケルベロスに教員室の誰もが安堵の息を吐いた。
 カルエゴが契約している使い魔とはいえ、ハイランクの悪魔でさえ恐れる脅威だ。それをここまで従順に従わせる信頼関係は、誰が見ても感嘆の声が漏れてしまうものだ。
 黒い長身の影が黄金色の魔獣の額を撫で、訝しげに首を傾げた。
「いきなり、なぜ出てきたんだ?」
 契約した悪魔と使い魔は、信頼が一定を超えると様々な恩恵が得られるようになる。悪魔の力で使い魔の力が増強するというのは勿論だが、主人の危機に反応し悪魔の召喚を介さず現れることも出来る。時間制限のある召喚を延長したり、活動範囲を拡大化したり恩恵の範囲は広い。命の危機に晒されやすい戦場に身を置く悪魔などは、護衛の意味で様々な契約条件を加える者も多い。当然、契約の内容次第ではあるが、カルエゴとケルベリオンは密接な契約を結んでいた。感情に反応して出てくることも認めていたが、これは何故出てきたのか契約者であるカルエゴも首を捻る。
 とりあえず周囲に危険はないし、ケルベロスも落ち着いている。カルエゴは使い魔を帰そうと手をかざそうとした時だった。
「カルエゴ先生、ちょっと待ってください!」
 床に散らばった資料のことなど目もくれず、ロビンはカルエゴに飛び付かん勢いで駆け寄った。満面な笑みで、自信たっぷりに教育担当を見上げる。
「僕、わかっちゃいました!」
 ロビンが胸にぎゅっと寄せた腕を、がばっと開く。その仕草だけでカルエゴに『ロクな事は言わない』と確信させてくれる。しかしロビンは矢継ぎ早に言葉を放った。
「ケルベロスはカルエゴ先生と遊びたいんです!」
「はぁ?」
 口を閉じていたカルエゴは、思わず口が開き呆れた声が漏れるのを他人事のように聞いた。ロビンは得意げな顔を輝かせ訴える。
「ケルベロスはボールやフリスビーなど、契約者が投げた物を取って来る遊びが大好きなんですよ! そして契約者に褒められるのが何よりも嬉しい! 違いますか?」
 真っ直ぐ見上げてくる視線に、カルエゴは思わず口籠る。思い当たる節はありすぎるからだ。
 魔獣は賢く強く獰猛な性格だが、獣としての本能も強い。その本能を刺激する事は快楽に通じ、それを利用した交流を経て信頼関係を築くのが常套手段だ。そしてケルベロスが属するイヌ科は、主人との狩りを喜びとしていたが今では簡略化されてボールなどを取ってこさせて狩猟本能を満たす。そして認めた主人の称賛は、誇り高い種族の心を何よりも満たしてくれる。ロビンの言葉は間違っていない。そう、渋々とカルエゴは認める。
 ケルベロスに向き直ると、カルエゴはだらりと下げていたボールを持っていた手を持ち上げて見せる。3対の眼がぎらりと輝く。柔らかく量の多い毛皮は期待に一気に膨らみ、教員室に放出した魔力が無遠慮なまでに音を立てて爆ぜる。それぞれの頭が舌を出し、地面をいつでも蹴って駆け出せるよう姿勢を変える。尻尾が千切れそうな程に激しく振られていた。
 早く。早く。待ち焦がれる期待は、この場の誰もが察せられるほどに強い。
「ほら! 正解!」
 能天気なまでのロビンの声に、細波のような笑い声と、生暖かい視線が加わる。カルエゴは眉間を指先で揉むと、昼休みに学校の高台の使用許可をもらいたいとダンダリオン・ダリに申し出た。
 もちろん、良いよ。そんな悪魔の言葉がわかるのだろう。
「こんなに仲が良いのに、どうして相棒じゃないんですかね?」
 ロビンの言葉に、カルエゴは恐ろしい眼差しを向ける。しかし、普段ならマルバス・マーチを震え上がらせる視線の鋭さはそこにはない。ケルベロスが嬉しさのあまり、じゃれついているのだから。
 主人の『粛に』は、敢えて無視しているようだ。