虹を繋ぐ術

「カルエゴ先生。一年間、私の教育担当を務めてくださり、ありがとうございます」
 拍手と祝福の言葉が降り注いだのは少し前のこと。
 モクラス・モモノキはついに研修期間を終え、正式な悪魔学校の教師となった。
 ナベリウス・カルエゴは特に厳しい教育係で知られていたが、そんな指導に折れる事なく一人前になった事に祖父は泣いて喜んでくれた。厳粛な教育担当であるカルエゴから卒業を言い渡された時は、本当の意味で教師として認められたようで誰よりもモモノキ自身が喜んだ。
 頭を下げられている元教育係は、眉根一つ動かさず冷淡な美貌のまま答える。
「これも教師としての業務の一環です。モモノキ先生の生徒へ対する熱意があれば、必ず悪魔学校の教師に至ることは分かっていました」
 夜気が口から漏れ出たような感情の全くない声色で、全く他意は無いと言いたげにそっけない。それでもモモノキは忙しい教師の業務の合間に己の教育プランを練り、困った時は相談に乗ってやって欲しいと根回ししてくれた教育担当のカルエゴを知っている。確かに就任直後は苦手なタイプと萎縮したが、今ではきちんとカルエゴに質問する事が出来ていた。
 カルエゴ先生の教え子の一人として、恥じない教員となる。
 そんな想いを胸に燃やしている事は、優秀な元教育係も知らぬことだろう。
 あの。モモノキは制服の影から一つの紙袋を捧げ持つと、カルエゴに向かって差し出した。
「一年間お世話になったお礼です。受け取っていただけませんか?」
 悪魔とて贈り物の文化くらいはある。
 いや、人間から贈り物を捧げられ願いを叶える悪魔だからこそ、あって然るべきである。結婚を申し込む際の極上の宝石から、上位の悪魔の邸宅に招かれた時の手土産に、ちょっと美味しい魔カロンが手に入ったからお裾分けまで、悪魔達の間で様々なものが行き交う。
 質問とは異なる不安に高鳴る心臓は、お菓子が教育担当の口に合うかが理由ではない。
 一日三食を食べる悪魔にとって、食べ物の贈り物は最も無難な選択だった。しかも、茶葉と焼き菓子の詰め合わせであれば、甘いものが苦手でも飲み物は受け入れられるかもしれない打算もある。光を吸い込む漆黒の紙袋の中には、これまた真っ黒い包装紙に包まれた菓子折りが入っている。中身は魔王が贔屓したという、伝統ある老舗菓子店の茶葉と焼き菓子のセットだ。サリバン理事長にお渡ししたとて品位を損ねない、まさに一級品の品だ。祖父にも『問題ないじゃろう』と太鼓判を押されたが、それを超える噂があった。
 カルエゴは甘味を全てケルベロスに与えてしまう。
 ケルベロスが甘い物好きであるというのは、よく知られる魔界伝説だ。蜂蜜を使った焼き菓子を食べている間に、ケルベロスが守っていた道を通り抜けるといった内容である。
 己の感謝の意が、感謝の対象へ届かない。もしかしたら犬が食べてしまうかもしれない。それは流石のモモノキも嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
 それでも、渡す事に意義がある。
 モモノキは弱気にへの字になった眉根を、きゅっと持ち上げた。
 カルエゴの事だ。悪魔学校の教師として立派に生徒を指導する事が、最も良い返礼になる事もモモノキは心得ていた。それでも一年間、いや、就任間もない頃にびっしりと書き連ねられた言葉を思えば、言葉以外に何かを返したいと思っていた。手に持った菓子折りは、モモノキの中で一級品のお菓子以上の意味があったのだ。
 一夜かと思う程長い沈黙の中で、ふと、手から重みが消えた。
「頂戴いたしましょう」
 鼻から息が抜け、口から魔の抜けた声が漏れた。
 その声も息も、一息で肺の奥へ戻ってくる。強烈な金色の光が後光のように教育係の背後から迸ったと思った瞬間には、三つの巨大な頭がカルエゴとモモノキを囲んでいるのだ。一つはカルエゴが受け取った黒い紙袋の匂いを嗅ぎ、もう一匹はカルエゴの許可が降りるのを今か今かと待ち、最後の一匹はモモノキの匂いを嗅いでいる。舌の熱気と髪が巻き上げられる息に、少しでも動けば体が食いちぎられるのではとモモノキは震え上がった。
「お前達は家で私が一つ選んだ後だ」
 主人が犬に命じるように軽く手をあげて告げれば、地獄の番犬ケルベロス達は従順に伏せた。それぞれが手の上に顎を乗せ、上目遣いにカルエゴの帰宅の言葉を待っている。それでも箱の中にあるレッドベリーが混ぜ込まれた魔ドレーヌや、ナッツがふんだんに使われたパウンドケーキを嗅ぎ取っているのだろう。よだれを飲み込み、期待に尾が大きく振られている。
「カルエゴ先生、食べてくださるんですか?」
 甘いものを食べている所を見た事がなかったので、モモノキは驚いて口走ってしまう。課題の制作中は糖分が欲しいあまりに甘味を片手な教師ばかりなのだから、噂も本気にしていたのだ。
「当然です」
 真理を説くような顔で、カルエゴは断言した。
「一口も食べてもいないのに、美味しかったなどと評価する事はできませんから」
 さすが、厳粛な私の先生。ふふっと笑みが溢れてしまう。
 厳粛な男の細い目が僅かに開かれた事に、モモノキは気が付かなかった。