ごちゃまぜ雑記ログ1


■ 剣の歴史 ■

「カイ殿、立派な剣でござるな」
 そんな言葉を投げて来たのは先日同行する事になった忍びのナドゥである。彼は手入れをしているカイの肩口から覗き込み、カイの剣を褒めていた。
「ん? どうしたでござる? 不思議な顔をして…」
 やや人間よりも瞳孔が細い瞳を真ん丸くして、己を見上げるカイの顔を心底不思議そうに見返す。
 カイは少し前までナドゥがマントの上に雑然と並べていた武器の整頓や手入れを行っていたので、まさか声を掛けて来るとは思わなかったというのが本音だった。たとえ声を掛けられたとしても、己の剣をまさか立派と評するとは思わなかった。彼の剣は騎士が最も多く保有する十字形の剣で、両刃で真っ直ぐな刀身は重量がある。彼が賜った王国の由緒正しい紋章も刻まれているのだが、長い旅路の様々な影響で随分と分かり難いものとなっている。
 そう、一番カイが驚いたのは彼の剣が奇麗ではなく、使い古された古物に見えるからだった。アンティークを通り越して汚くも見えるだろう。かつての同僚が見れば、お前は王から賜った剣をどれだけ雑に扱っているんだと詰られる事だろう。
 だからナドゥの言葉に驚いたのだ。
「この剣が立派なのか?」
「んー、というよりも、そんな剣が扱えるカイ殿が立派でござるな」
 人懐っこくナドゥが言えば、横にしゃがみ込んで剣をさらに覗き込む。
「剣というものは使い手の魂が宿るでござるよ。様々な悪漢と戦い、敵を退けたに違いないでござる。見れば魔物や人殺しを重ねた者の剣に比べ、脂の劣化が見た目の年数にしては少ないでござるしな。鉄同士の打ち合わせの欠けが、想像以上に多いでござるし…。普通の人は汚い剣と言うかもれんでござろうが、拙者には幾多の戦線を潜り抜けたカイ殿の歴史が見えるでござるよ。やはり、カイ殿ただ者ではござらぬな!」
 無邪気にびしっと意味の分からぬカッコ良さげなポーズを決める。そんなナドゥを見て、カイはくすくすと笑い出した。
「どうしたでござるか?」
「普通にびっくりしたんだよ」
 忍びとは状況観察に秀で、安全など保証されぬ敵地に己の命の保証の無いうちに入り込み、敵を攪乱し時に暗殺せしめるという。ナドゥはそういう文献で知り得た忍びとは全く異なった忍びで、カイは失礼だが全く忍びとは思えなかった。だが、実際は性格が忍びに向いていないだけで、忍びとしての力は叩き込まれているのだろう。彼がその気になれば並みの忍びと変わらぬ動きをするだろうが、十六夜の前ではそんな事をして欲しいとは思っていない。忍びとは仲間をも平気で殺す冷酷さを持つとも聞いているからだった。
 そう思えば、彼がマントに拡げていた煩雑な調節も、子供の片付けかと関心を失った己を少し恥じる。警戒というか、日々の目配りが足りていないのだろう。
「ナドゥは大したものだな」
「そうでござろう! カイ殿、もっと偉大な拙者を頼るでござるよ!」
 あはははは。ナドゥに釣られカイも笑わざる得ない。
 改めて剣を見ると、剣を賜った時の誇らしさが蘇るようだった。十六夜からは剣を抜かないで欲しいとせがまれ、殆ど魔物との戦いはジェンドが先走る事で活躍に恵まれていなかった剣だ。しかし、それは自分が抜かなかったから。騎士としての誇りは戦う事への迷いから鈍り、自分の功績や軌跡を振り返る事も少なかった。否定していた時も少なからずあっただろう。
 今も自分の求める答えは見出せない。
 しかし、この剣は自分の全ての歴史を知っていて、そして答えを見つける時もその後も一緒なのだろう。カイはそう思った。


■ 口下手な天才 ■

「クリス君、時間あるかね?」
 そんな風に声を掛けて来たのは、世界の歴史に名を刻む生きる伝説『ロボット工学界未曾有の天才』音井信之介である。生活ライン上通る場所に立っていた音井教授の横を通る必要があったクリスは、時間の有る無しに関わらず音井教授に歩み寄らざる得なかった。音井教授は手に手紙を持っていて、その手紙を歩み寄って来たクリスに差し出した。
「ちょっと翻訳して欲しいのだが…」
 驚きに視線を落としたクリスの目に飛び込んだのは、クラシックな読みやすいフォントで綴られたEメールを印刷した物である。音井教授に対して尊敬しているのを感じさせる非常に丁寧な文体で綴られ、難解な問題に対してアドバイスを求める内容が記されている。
 世界最初の人型ロボットの制作者でありながら、音井教授は英語が得意でない事はそれなりに有名である。アメリカで生まれ育ったクリスでさえ、彼の英語は聞き慣れなければ通じないだろうと思う所が多い。日本人独特の発音形態や文体が英語とは全く違うのが拍車を掛けてか、文章を読むのも翻訳に掛けるのも苦手である。
 そんな世界的に有名な『音井ブランド』の制作者は、ありとあらゆる学問に精通している。それこそ、冷蔵庫からF-1マシンまで機械工学は知り尽くしているし、生物学も物理学も大学の教授レベルに極まっているだろう。それを実感するのか、彼の元に時折送られるアドバイスを求める手紙であった。世界中から来るので無論、日本人以外の人種が圧倒的に多い。教授が読めない手紙は、クリスの想像以上に多かった。
「プロフェッサー。シンガポールで良く成功しましたね」
 クリスは音井家に居候する事になって、家事手伝い以外に彼の手紙を翻訳する事が日課の様にあった。
 日本語は複数の文字と日本流にアレンジされた外来語で構成される為難しい言語なのだが、努力家で負けず嫌いのクリス自身の性格が相まって習得できている。 自分の母国語以外の言葉を習得する事の難しさを心得ているつもりではいるが、仕事で言葉の疎通が間々ならないでよく成功できた物だと今更ながらに感心してしまう。
「若い頃は妻がいたからね」
 音井教授は少しはにかんだ様に笑って言う。
「妻はシンガポールで直ぐ英語を覚えてしまったから、いつも彼女に翻訳は頼んだものだ。職場は片言の英語と、辛抱強い同僚のお陰でどうにか伝わったよ」
「えっと…。妻…ワイフでしたっけ?」
 音井教授は独り身である。息子が一人いるし、現在彼の孫と住んでいるのだから妻がいたのは確かだ。日本人は長生きの為に音井教授も高齢だった為、クリスは妻に先立たれたのだろうと判断した。
「そう、ワイフ。彼女に先立たれてからは息子に聞いたよ。息子は生まれも育ちもシンガポールだったからね」
 クリスはその言葉にあぁ、と相槌を打つ。信彦の父親。年齢的にも外国育ちなのだと頭の中で電卓を叩く。
「息子が独立してからは、もう1人の息子が何かと世話を焼いてくれたよ。整備ついでに『教授、翻訳済ましときましたから』って机の上に赤ペンで修正したのを山積みに置いて行ってな」
 クリスは何か引っかかる様に首を傾げた時、音井教授はぴっとクリスを指差した。
「日本に戻って来てからは君がいてくれる。全く、神様は良く計らってくれるものだね」
「なっ…!」
 音井教授は満面の笑みで、抗議の内容を言おうとしたクリスの言葉を遮った。
「クリス君、それが終わったら次はジョージの手紙だ。あいつは紙で送る上に字が汚くて、用件よりも多くジョークが混ざっているんだ。とても読めそうに無い。君の力が必要だ。宜しく頼むよ」
 ひらひらとエアメールを振る音井教授に、クリスはついに悲鳴に似た抗議の言葉を叫んだ。


■ 俺様の妹達は世界一ぃぃいっ! ■

 ロボット工学の未曾有の天才と称された音井信之助教授は、恐らくデスクトップを前に渋い顔をしているのだろう。こちらでは黄金比の長さに切り取られ宙に浮いたスクリーンのような映像に、彼の顔が表示されている。接続先は日本の彼のラボラトリ。オラクルはそのパソコンに接続されている数々の機材と記録用カメラの映像を読み取って、パソコンを前に頭痛そうに抱えて背中を丸める様子を表示しない程度に演算して把握していた。
『で、こっちで叫んでおるというのか…』
 はぁああ。音声機能に重たい溜息が表現される。
『最近では近所迷惑に発展して苦情が来たが、これはこれでとんだとばっちりだな。すまない。オラクル』
「いいえ、教授。お気になさらず」
 オラクルがにっこりと微笑んでいる笑顔の奥で、オラクルの保有する巨大なサーバーに向かって大声で叫ぶ二人組みが見えているだろう。一人は教授が作り上げた最新型の人形ロボットのシグナル。もう一人はボディだけは教授が手掛けたものの、教授にとっては馴染み深い和装の男性のプログラムの姿のコードだ。コー ドは細雪を鞘に納め、シグナルを厳しく指導していた。
「貴様がエララに好意を持っている事を一兆歩譲って認めるにしては、全く誠意が見えぬ。貴様のその脆弱さたるや、そこら辺にいる屑の様なバグプログラムのようだ!」
 教授やオラクルからは完全に背を向けているとしても、コードの顔は般若か鬼神のそれのようであろうと想像に容易い。コードは世界で最高位のロボットプログラミングを施す母、カシオペア博士の最初の作品である。故に、その行動は非常に人間味がある。
「エララの賛美で俺様が納得できぬなら、交際どころか手を握る事すら出来ぬと思え…!!」
「う…ぐ…。僕は、エララさんが好きだ!ま、負けてたまるかぁ!!」
 悔しそうにシグナルが呻けば、巨大なサーバー全体を揺るがす程の大声で叫び出す。少し前に流行った『世界の中心で愛を叫ぶ』の影響だろうかと、教授は子供達のいる環境を思って頭を痛める。
『まぁ…カシオペア博士の娘に好意を持つ上では避けられぬ事だからな。一種の花婿修行のようなものだ』
 正信も苦労したと聞いている。教授は映像の中で何度目になるか分からない溜息を吐いた。
「僕も細雪を突きつけられて、『妹達の情報表記に謝りがある。世界一可愛く、他の追随を許さぬと書き足せ』と脅された事もありました」
『カシオペア博士には決して漏らしてはいけないぞ。きっと分かっておられるとしてもだ』
「勿論です」
 国際問題の一歩手前どころか誤解されても全く良い訳も出来ぬ問題である。
 そんな昔を話している間も、目の前では喉も枯れんばかりプログラムが崩れそうな勢いで叫ぶ最新型の姿がある。
「エララさんの可愛さは世界一だぁああっっ!!!」
「なぜ、エモーションとユーロパが抜けてる!?殺すぞ!A-S!!!」
 うわぁ。傍観者の一人は笑顔の中で、もう一人は苦悩の表情の中で、小さく同じ声を漏らす。
 小気味良い音を立てて背中に蹴りが入り、これまた見事な動きでシグナルは転倒する。その様子は人が見れば、行き過ぎたシスターコンプレックスにしか見えなかった。


■ 人は好きより嫌いと言う事が多い ■

「マカは本当に先輩が嫌いなんだね」
「当たり前です! あんなのが父親だなんて、考えただけでも鳥肌ものだわ!」
 そんな大声を廊下にまき散らすのは、現在の死神様のデスサイズを担う男の愛娘である。その想いはかなり一方通行で、娘は父親を非常に嫌悪している。それもそうで、彼女の父親は浮気癖は凄いの、キャバクラ通いは居酒屋よりも多いの、朝帰りはするの、態度は軽薄だの、思春期の娘に嫌われるような要素満載の男である。結婚出来たのが不思議だったと昔から彼女の父を知るシュタイン博士だったが、離婚されても性懲りも無く母娘に関わっているのだから呆れもする。
 柔らかい金髪を振り乱し、さもおぞましい存在に身震いする少女は父親の嫌悪を罵詈雑言交えて語っている。同年代の思春期の女の子と比べても、その内容はまるで悪人や仇敵に向けられる分類にまでなっているようだ。離婚した母親の気持ちがわかるからだろうが、最終的には母親を傷つけたという内容に結びついてい る。
「俺も先輩の事嫌いだったなぁ」
 へらへらと笑うシュタイン博士が何気なく言った言葉に、マカは驚いて目を見開いた。
「えっ!? だって…」
 博士とパパは昔はパートナーだったんじゃ……。
 マカが言葉を繰り出そうとする間もなく、シュタイン博士の独白に似た独り言は続く。
「殺そうって思った事なんか、もう数えるのも馬鹿馬鹿しいくらいあったなぁ。マカがそんなに憎く感じるのを知ってれば、俺が慈善活動的に殺してあげられたのにねぇ。今からでも遅く無いか? 殺してあげよっか?」
 その発言にマカは露骨に顔が引き攣るのを隠しきれなかった。シュタイン博士とデスサイズと呼ばれる前のスピリットと呼ばれた父親がコンビを組んでいたのは、マカの母親と出会う前の話だ。シュタイン博士の言葉通り、彼の感情のままにスピリットが殺められていたとしたら、マカはこの世に生を受ける事は受けないのだ。
 それに、こんなにも憎く思っていながら、殺そうかと言われると『ハイ、オネガイシマス』とは言えないマカである。
「どうかしたかい? マカ?」
 足を止めたマカに、シュタインはにこやかに振り返った。
 まるで遊びでも提案する様に、他者の命を奪う事を言って退ける人。マカは足が動かなくなったかの様に、彼に近づく事を躊躇った。
 シュタインは眼鏡の奥で、そのマカの魂が発する動揺を視た。そしていつものようにヘラヘラと笑ってみせる。
「大丈夫だよ。今更、先輩を殺そうだなんて出来ないよ。じゃあ、俺は用事があるから」
 何事も無かった様に歩みさって行く博士を見送り、マカは重い息を吐いた。
 自分の相棒がソウルであったのを心の底から感謝したくなった。もしも、シュタイン博士が相棒であったら、あの背中を追いかけていかなければならない。どんなに怖く、殺されると思っても、離れる事はしてはいけない。武器は職人に強くしてもらうという、一つの本能が生み出す関係を簡単に捨てたりはしない。
 パパは…。マカは思う。
 きっと博士が変わった事を良く知っているのだろう。きっと変えた原因が自分にあるなんて知らないのだろう。嫌がる自分に諦めないで話しかける姿が、かつてのシュタイン博士と自分を重ねてしまう。
「あたしも変わるのかなぁ」
 思い返すと、自分には笑顔しか向けないパパだと思うマカだった。


■ 日本という郷 ■

「クロード。クリスマスの準備は早すぎない?」
 そう言ったアンリの前には、テーブルに紙を拡げてクリスマスの馬小屋の設計図らしい絵を書くクロードの姿がある。まだ日本では食欲の秋と称したスイーツ特集が番組で組まれている時期であり、雪が降る冬の時期に訪れるクリスマスにはまだ遠い。この時期の日本のサツマイモを使ったスイートポテトは正に格別で、アンリは目の前に空になったアルミホイルを重ねながらクリスマスケーキのパンフレットを眺めていた。
「アンリ…日本の風習に馴染み過ぎだぞ」
 この宗派の祭典でありながら、基本的にケーキで祝うのは日本くらいだ。プレゼントが配られるのは1月6日ではないと知ったショックも鮮明に残る過去だ。
 本来ならばクリスマスのミサがあり、この時期は信者以外の人間もミサに与れる。奥樣方のアイドルのクロードやピエール、そしてその方々に生写真を売りたいアンリは大忙しだ。ジャンも御ミサに与りに来た子供達の相手で忙しい想いをするだろう。
 この国に来た神父は、この国の人間の宗教観に悩まされる事は多いらしい。この国で布教出来る様になるには、ある意味悟りが必要なのかもしれない。
「ピエールは郷に入れば郷に従えって言われたそうよ。それに日本は八百万の神様の国だから、神様って誇張しなくても日本人はそれなりに敬ってくれるわ。お祭りも彼等なりの崇拝の仕方なのよ」
「別に、日本が嫌いな訳じゃねぇよ」
 クロードは逆に日本が好きだった。この国以外で神父としてやっていくなら、ジャンの存在はもっと疎ましく感じただろう。例え、バロールの呪縛から逃れ、今の様に兄弟として生きていられてもだ。ジャンが受け入れられている環境があるのは、日本だからだとクロードは思っていた。
 それはこの国があの神は良いとかこの神は駄目とかそんな事は無く、その人が敬っている神様は皆尊いという考えがあるからだと思っている。神に感謝だ。
「本当は俺達教会の人間で作るべきだと思ってる…でも、この国ではジャンと一緒に作らないとって気になる」
 ジャンは異教徒どころではなく、異端の神の一部だ。そんな人間を宗教の神聖な部分に触れさせる事は、普通の考えなら禁忌なのだ。だが、この国ではこんなに仲の良い家族で、なぜジャンだけ仲間はずれにするのかと疑問の声が湧くのだろう。当たり前なのだ。その当たり前は、どちらが正しいのだろう?
 アンリは笑ってクロードのペンを握る手に、そっと手を添えた。
「郷に入れば郷に従え…って事でしょう」
 そう言われ、少しの沈黙の後にクロードは笑った。少し乾いて、吹っ切れたような笑い声で。
「アンリ。お前は本当にシスターだったんだな」
「失礼しちゃう」
 可愛らしく頬を膨らます様子に、クロードはさらに笑い続ける。
 その内、今年はジャンと共に馬小屋を造る事になるのだと、嬉しくて笑い出した。


■ 良い人の善し悪し ■

「こんにちは。毛利さん」
 事務所から出ると、階段の下から賭けて来る声に毛利小五郎はぎくりと体を強張らせた。聞き違えの無い声だったが、小五郎は仕事の為に階段を下りなければならない。これから浮気調査の裏を取りに足をフル活動する予定なのだから、声の主がいる真横を通り抜ける必要が必ずある。小五郎は仕方なく事務所の鍵を閉めて、階段を見下ろした。
 そこには子供達の付き合い…という以前から知り合いだった男がいる。世界的有名な推理小説の執筆者である工藤優作は、いつものような屈託無い顔で小五郎を見上げていた。
「今から調査だなんて、あまりお仕事に熱心ではありませんね」
 今は通勤の時間である。移動の時間と一般的なサービス業の店が開店する時間を考えても早い。蘭は空手の合同合宿で外出中で、コナンを小学校に送り出して直ぐくらいである。眼鏡の下から『探偵の情報収集にしては遅すぎますよ』と、笑っているのだろうと小五郎は顔を歪める。小五郎の捜査は基本的に警察庁に勤務していた名残が強い。情報は足で稼ぐ、それを昔から叩き込まれていた為にそう簡単には抜けないのだ。その経験に則るなら、対象が起きる前から張り込みをする必要があった。
 まったく、嫌な男である。小五郎はいつも工藤優作を苦手に思っていた。警視庁の警察官時代から何かと事件に首を突っ込んで来て、何故か犯人逮捕の時には隣にいた事は数知れない。奴の息子にも苦渋を舐めさせられ、娘まで取られるかもしれないのでは親子共々いい印象など湧く訳が無い。
 そんな事を思って顔を歪めている間に、優作は紙袋を持って階段を上がって来た。
「これはお土産です。昔、蘭ちゃんに買って来て喜ばれたお菓子だったのを思い出したので…。よかったらどうぞ」
「それはご丁寧にどうも」
 嫌味をたっぷり込めて言い放っても、優作は動じない。それどころか帰ろうという気もないらしく、階段を下りようともしない。
「毛利さんみたいな人材が警視庁にいないのは、やっぱり惜しいですね」
「いきなり何を言い出すんだ、あんたは」
  小五郎はそう言って、鍵を開けて事務所に入ると一番手前のテーブルに紙袋を置いた。中身を確認すると要冷凍なのか僅かに冷たく、首を一つ傾げた後冷蔵庫の中に紙袋ごと突っ込んだ。背後で『そんな乱暴に扱わなくても…』と優作が愚痴る声が聞こえたが、聞き流す。実際は紙袋ごとは缶ビール満載の冷蔵庫には入らなかったので、缶ビールを取り出したり、冷蔵庫を整理する必要が出て来てしまう。その間に優作はべらべらと喋る。捜査一課の時代や、柔道や射撃の腕、正義感だってあるし、責任感は強過ぎると過去も織り交ぜて根掘り葉掘りだ。
 流石の小五郎のスルースキルも限界に近づいていたが、冷蔵庫に土産が納まると優作の腕を掴んで事務所の出口に押し出す。
「俺は暇人じゃねぇの。帰ってくれ」
 追い出して小五郎自身も事務所から出ると鍵を閉める。一瞬コナンが鍵を持っているか頭をよぎる。あのガキは忘れても平気だろうと、鍵を鞄の中にしまう。しかし、世界的な推理小説家はその逡巡を見逃さなかった。
「いつもはコナン君が戻って来る時は事務所にいるのかい?」
「貴方には関係ないでしょう」
 小五郎はそう言い捨ててさっさと階段を下りて行く。それを見送りながら優作は相変わらず優しいなぁと独り言を零した。
 コナンを一目見て、娘の幼馴染みの少年の顔を見誤る事など無い筈だ。恐らく、小五郎はコナンの正体を知っているだろうと思っていたが、知っていても知っていなくても彼の優しさは本物だ。眠っているうちに事件が解決してしまう、その事だって勘付いている。だが、追求しないだろう。コナンは頭の中身はともかく子供だ。小五郎にとっては守護の対象に他ならない。
「良い人過ぎて、警察官として生きていけなかったのかもしれませんね」
 工藤優作の呟きは、今度ばかりは小五郎の耳には届かなかった。


■ トイレの神様 ■

 夕刻に差し掛かる黄昏の時刻でございます。行き交う人々が夕焼けの茜色に黒々と塗りつぶされる光景を横目に見ながら、公衆便所に1人女性がやって参ります。金髪の長髪は染めた関係なのかやや痛み気味に見えて広がっております。服装は活発さを窺わせる若者らしい装いで、黒皮のリストバンドがよく似合っておいでです。
 そんな女性。何の躊躇いも無く紳士がご利用になる方へ入られますな。しかも清掃中という小さい膝下程度の黄色い看板を跨いでお入りになる。
 そんな看板があるんですから、中では当然清掃中。中年に差し掛かるにはまだ早い清掃員の男が、真っ白い布巾を片手に鏡を磨いておいでです。清掃員の男は入って来た女性を注意する事無く、振り返って笑顔で迎えたのです。
「一樹君、こんにちわ」
 女性も『田中さん、こんにちわー』と返すのですが、その声は声変わりした低い殿方そのもの。驚いた事にこの金髪長髪の方、男性だったようです。良く見れば女顔ですが、眉毛が激太いです。
 清掃中の田中氏に親しげに近づくと、きょろきょろと周囲を見渡します。探していた相手が見つからなかったからか、一樹君は再び田中氏に視線を戻しました。
「そういえばさー、最近鳥っちゃんが奇麗になってない?」
「そー言えばそうだなぁ…」
 一樹君の言葉にぼんやりと納得する田中氏。
「髪とか輝く程につやつやになってるし、肌だって絶対奇麗になってるよ。睫毛もマスカラ始めましたって位長くなってるしさー。とにかく美人になったよ、田中さんもそう思うでしょう?」
 つらつらと申し立てる変化の数々に、田中氏はふーむうーむと曖昧な相槌を打ちます。田中氏にしてみればほぼ毎日行動を共にしている、一樹君の曰く『鳥っちゃん』の変化にはあまり気が付かないのでしょう。子供の成長は激しくとも、同じ屋根の下で暮らす家族には判り難いのと変わりませんな。
「馬鹿かお前は」
 そんな一樹君の背中を上から下まで黒で統一したスーツの男性が蹴り付けました。一樹君、公衆トイレのタイルに顔面から倒れます。
「痛ってーよトオル!何すんだよ!」
「お前の馬鹿さに呆れて蹴り倒しただけだ」
 ふんとふんぞり返るトオルと呼ばれた方は『お前はジャンを送って来るのにどんだけ時間が掛かるんだ』とぶつくさ文句を言いながら用を足しております。一樹君の見送った人物の乗った中央線の電車が出発してから、一時間は経過しておりますから心配も抱きましょう。しかし一樹君は成人はしていなくとも、青年でありますので過保護とも言えなく無いですな。
「なんで馬鹿なんだよ。鳥っちゃんの変化に気が付いて、どうして馬鹿にされなきゃなんないんだよ」
「気が付いて理解出来ないから馬鹿なんだ」
 そこで禁煙にも関わらず、トオル氏は煙草を付けます。今では増税で700円も危ぶまれるものの、現在はコミック本一冊に匹敵する値段に上がったマイルドセブンです。しかし、彼等が出て来るコミック本にはまだ値が及ばぬので、まだ良しと言える事でしょう。
「お前だって最近歌を聴くだろう。女が歌ってる『トイレの神様』って曲を…」
「あー知ってる!この前初めてフォルクスワーゲンに轢かれてみた時、チラって聞いたよ!」
 田中氏、得意になってか意気揚々と答えます。
 セダン派じゃなかったの?と一樹君が問えば、珍しいから轢かれてみたのと田中氏が笑います。
 気軽な気分で轢かれる物ではございません。骨折等ですめば御の字、致命傷になる事も多々ある立派な事故でございます。実は田中氏、数年前に車に轢かれて死んでしまっておるのです。所謂幽霊です。幽霊が便所掃除とはおかしな光景でございますが、色々あって彼は便所掃除をしているのです。
「烏枢様が言ってましたね。人間がトイレを奇麗にするという気持ちを改めて強める素晴らしい歌だって」
「まぁ、歌に出て来る老婆も烏枢沙摩明王の事を言っているのだろう。トイレの神など多く無い。神仏に性別は無いが、歌に『女神』とか『綺麗な』と出てしまっているから烏枢沙摩明王のイメージが影響されてしまっているんだ。世間一般に広まったイメージが強すぎて、以前の姿を知っている一樹のイメージすら侵蝕しているんだ」
「え? そうなの?」
 一樹君、目を点にしてトオル氏を見上げます。トオル氏、その間抜け面の真ん中に手刀を打ち込みます。綺麗に入りました。
「だからお前はヘタレのパシリなんだ」
 一樹君の悲鳴が暗くなりつつある阿佐ヶ谷に響き渡ったのでございます。