ごちゃまぜ雑記ログ4


■ 綻ばない生真面目 ■

 テーブルの上を飾る燦然たる食事に、一同思わず生唾を飲む。
 世界三大珍味を惜しげも無く使った三星級のシェフが腕をふるう料理が、真っ白な皿の上に優雅に盛られている。目の前の鉄板で焼かれた肉厚のサーロインから滴る肉汁が炙られて爆ぜる音、英気を養おうと口臭もなんのそのの揚げたてのガーリックチップス。サラダがまとうドレッシングは、まさに先ほど彼らが立っていた舞台の女性陣に負けない鮮やかさと輝き。ちらし寿司は一人分の桶に分けられ、新鮮な刺身とイクラの輝き、黄金の錦糸卵の下の銀色のシャリと宝箱を彷彿とさせるだろう。この上に掛けるのが蟹味噌を合わせた出汁醤油だというのだから美味いに決まっている。
 一般庶民なら食べた気がしないような高級料理のオンパレードだが、そんな堅苦しさはこの場にはない。
 店は貸切、立食形式。夏に向かい始めた季節柄、開け放たれた窓から差し込む夜気が選手だった彼らの火照った体と心を優しく撫でていく。シェフも給仕も、ピアノとバイオリンの奏者も、彼らには馴染みの顔ぶれである。
そう、この場はゴールドダンススタジオの打ち上げ会。ダンス競技会の後の恒例行事である。
「今回の試合も、とても素晴らしかったよ」
 そうスパークリングウォーターを掲げたのが、ゴールドダンススタジオの踊り手達を率いる金龍院 貴正である。スポンサーとしてスタジオを支援する立場だが、彼もまたスタンダードのダンサーとして人一倍の情熱を注ぐ一人の選手だ。その仕草や口調に、金持ちらしい偉ぶった様子など微塵もない。
 彼は美しい張りのあるバリトンを響かせながら、オペラ歌手さながらに今回エントリーした選手達を労っていく。時に講師の意見を織り交ぜ、ダンサー本人の感想を引き出し、ライバルである同期達と意見を交わす話の場は非常に穏やかで時間を忘れるほどに人を引き込む。長かったようで短かった時が終わろうとするのに皆が気がついたのは、本日の最大の話題がやってきたからだった。
「さぁ、宮大工、柏ペア…本日の主役にご登場頂こうか」
 拍手と共に押し出されるように前へ出たのは、ゴールドダンススタジオでも屈指の身長を誇る宮大工 勇太と柏 小春のペアである。宮大工は相変わらずと周囲に微笑まれるほどの無表情で、小春はそんな宮大工を見上げて頬を膨らませる。
 拍手が収まる頃合いを見計らい、金龍院が笑いかけた。
「準優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
 労いの言葉に機械的な返答。小春がすかさず深々と『ありがとうございます』と頭を下げた。
「折角だ。準優勝の感想でも言ってはどうだね?」
 金龍院がそう問えば、宮大工は顎に手をやり考える。アン、ドゥ、トゥロワと数える程度の間を置いて一言。
「いえ。結局、優勝できなかったのは力及ばずであったからです。感想など、特にありません」
 まるで最近の携帯電話に搭載された、音声質問システムの返答のようである。悔しさも嬉しさもない、大変機械的。それでもゴールドダンススタジオのメンバーで気を害したものはいない。黒田 満影が『スカしてんじゃねーぞ!宮大工ー!』と囃し立て、その隣で仙崎 奈緒美が腹を抱えて笑うくらいである。
 質問を向けた金龍院ですら笑顔が歪むこともなく、グラスを掲げる。
「皆、お疲れ様。…乾杯!」
『乾杯!』
 声と共にグラスが上がり、軽やかな音を立ててグラスが触れ合う音が響く。誰もが一線級のダンサーであるこの場では、会場を移動するのも競技会場の舞台の上のようである。足取りはワルツのように滑らかに、食事を取る手はタンゴのように貪欲で、会話はスローフォックストロットさながらに淀みなく穏やかに流れる。
 パートナーの小春が『これ、美味しいよ』と持って来てくれる食事を口にしていた宮大工は、再び隣に戻って来た金龍院を迎えていた。打ち上げが始まる前はやや引き締まっていた顔が、会話と食事を経てやや丸くなったと思う宮大工である。そんな金龍院は、グラスを片手に歩み寄る。
「改めて、準優勝おめでとう」
「ありがとうございます」
 ぺこりと頭をさげる宮大工に、金龍院は明るく言葉を続ける。
「今回の試合の成長ぶり、僕はとても嬉しく思っている。出会いと縁を大切にしたまえ」
 宮大工の脳裏に、同年齢のペアが浮かんだ。鹿鳴館高校ダンス競技部の新人部員という二人は、高校生とは思えぬ小柄なペアだった。一曲を踊り終えるまでに、危なっかしいステップを数えだしたらキリがない。だが疲れがダンスに出ても、表情は笑顔を絶やさないペアだった。宮大工が思い出す二人の顔は、笑顔ばかりだ。
 はい。宮大工が返すと金龍院は満足したように離れていく。テラスから神宮寺 美乃梨が手招いているのに、誘われるように向かっていく。そんな視線ににょきりと浅黒い腕が横切る、肩に重みが加われば荒っぽい声が耳を打つ。
「オメー、もう少し嬉しそうにしろよー」
「なぜですか?」
 宮大工が視線だけ横に向ければ、ゴールドダンススタジオで最も賑やかな男である黒田が面倒そうに答える。感情的な黒田は、しょっちゅう宮大工の『なぜですか?』に答える兄貴分を担う羽目になっていた。それでも、律儀に答えるし可愛がるのだから、人の良い男である。
「お前、なんだかんだ言って金龍院さん超えたじゃねーか。それなのに、嬉しくないとか失礼じゃねぇのか? 後輩に負けて悔しいはずの金龍院さんは、お前を祝福して成長ぶりを喜んでくれるんだろ? すげー男だよ」
 俺にはゼッテー無理。黒田は誰を想像したのか忌々しげに吐き捨てた。そして、意地悪な笑みを浮かべて、宮大工を下から見上げた。
「あの鹿高のチビども。クイックステップは結構見込みある感じだったぜ。うかうかしてたら追い抜かれるかもしれないぞ?」
「彼らの腕前が僕を越えれば、そうなりますね」
 宮大工の平たい声を、黒田のシャウトが叩き潰す。
「カーー! オメー悔しくねーの!? 後からポッと出た奴らに負けるんだぜ!?」
「競技は優劣がつくもの。彼らに劣れば、僕達は負けるのが当然です」
「ったく、しょーがねーなー! ま! 頑張れよ、ダンスサイボーグ!」
 ばしんと強く背を叩かれると、黒田はずしずしとテーブルに向かっていく。パートナーの仙崎が『満影これ美味しいよー』と口をパンパンにして迎えれば、『俺だってちったあ練習すればこのくらい作ってやらぁ!』と豪快にステーキを頬張る。『くーーっ!うめぇ!』と叫ぶ姿に、目の前の鉄板で焼くシェフも顔を綻ばせた。
 立ち尽くす宮大工の隣に、パートナーが歩み寄る。長身の宮大工とダンスを踊る上では丁度良い身長を持つ柏は、ふわりと微笑みながら二つの皿を持って歩み寄って来た。柏の美しい姿勢は、ダンスのお陰なのだろう。歩み寄るその姿すら、洗練されていた。
「勇太君。これ、美味しいよ?」
 ありがとうございます。宮大工は礼を言った後は黙々と口を動かしていた。味の評価は基本しない。一流のシェフが作り出した食事が、美味しいのは当たり前のことなのだ。
「よかったね。準優勝」
 見慣れたパートナーの横顔だが、何時になく嬉しげだ。
 優勝したのだ、賞賛されるのは当然だ。宮大工自身も、金龍院ペアが優勝すれば賞賛の言葉を惜しみなく伝えるだろう。実際に優勝ペアに送った拍手は、賞賛の意味を多分に含んでいる。黒田のような悔しい思いはカケラもないだろう。
 優れた者が勝つ。勝った者は賞賛を受ける。当たり前のことだ。
 よかったね。と、パートナーが笑う。
 その笑みは宮大工があまり目にしない表情だった。どこがといえば、この鈍感。分かるわけはない。
「そうですね」
 手を抜かないし全力の宮大工だ。判を押したような返事に他意はない。


■ イーリスの眼差し ■

「今のご時世、映像の撮影はドローンというものが主流らしいわね」
 えぇ、そのようですね、マドモアゼル。私が慇懃にそう答え、グラスに白ワインを注ぐ。
 空を赤々と染め上げていた夕日は名残惜しそうに海の彼方へ とぷんと沈み、サンセットビーチの美しさは月の光に取って代わられる。今宵は欠けた所もない完璧な真円の月は、海の光を照り返し白夜の女王のように君臨している。星々の家臣は畏まり、自らの光で輝くカーペットの果てに麗しく鎮座する。
 海風は心地よい強さで大地へ駆け上がり、波音と木の葉のオーケストラは心地よく特等席に座る今夜限りの主人に供される。温度も室温も、私がこの季節では最高というコンディション。今日の主人のための嗜好に応えた美酒と料理に、不備はなにひとつない。こんな最高の場面において、笑顔を浮かべぬ主人は滅多におられません。
 ここは世界でも最高のサービスを提供する場所。ここに宿泊し、一日限りの主人になることを夢見る方すら存在する場所なのです。
 しかし、主人は浮かない顔で波を見ておられる。
 ドローンは近年頭角を現した、カメラの撮影技術。小型のヘリコプターにカメラを搭載したもので、人の手では撮影できない映像は人々を魅了しました。地面からふわりと浮かび大地を俯瞰する神の視点を再現し、天空を滑空する鳥の視点を撮して見せてくださる。この地は青い海と白い砂浜が特に美しいので、ドローンで撮影する観光客が絶えません。時折落下して危険であると話題に上がったり、軍事利用されてきな臭い噂は流れます。しかし、ドローンとは魅力的な映像を生み出すという価値に収まるのです。
 考えど考えど、まとまらぬ。私が白旗を上げようとした時、本日の主人が私を見上げてきたのです。
「私は、昔、ウェーブレースという競技のカメラマンだったのよ」
 なんと。それは素晴らしい。
 お客様のプライバシーの観点から、スタッフにはお客様が提示された情報以外を知ることはできません。こちらからお伺いを立てられるのは、アレルギーのあるなし程度。リピーターの方ならばいざ知らず、初めてここの主人になられる方の履歴の鮮やかさに、私は感嘆の声を上げました。
 その競技の名前は、海の近くに住むものならば一度は耳にしたことがあるでしょう。水上バイクを駆使し、海や湖、時には運河を駆け抜けるレースです。選手達はタイムは勿論、ジャンプ台で華麗なアクロバットを決めることで幾多の名声を得る。潮の満ち引き、霧の濃淡、運河の切り替え、日の入りの場合は太陽光、同じ場所で繰り広げられるレースの一つとして同じものはありません。今でも賞金の掛かった大きな大会が催され、過去の名試合がネットで閲覧できるでしょう。
 そこまで考えて、ふと気がつきました。
 最近のウェーブレースはドローンの撮影なのですね?
「そう。よくご存知ね」
 本日初めて、主人は嬉しげに笑ったのです。子供のようにニッと笑い、ルージュの隙間から真っ白い歯が覗きました。
「カメラを担いで水上バイクに乗って、選手達を追いかけていたわ。一位を独走している選手の後にピタリとつけたり、この選手は転びそうって思ってわざと後ろに回って運河の壁に激突した所を撮ったりしたわ。アクロバットの上手い選手の後ろに続いてジャンプまでしたわ。カメラを片手に担ぎなからね!」
 そうはしゃぐ主人に、私は『ご無事でなによりです』とお伝えした。彼女は何の障害もない、健康的な女性だったからです。しかし、私の言葉に主人はピタリと笑みを消して前を見ました。
「無事ではなかったわ。命に別状もなかったし、リハビリして今は問題ないけど、私はレース中に大怪我してしまったの。それを機に、ウェーブレースの撮影にドローンが採用されるようになったのよ」
 ドローンに職を奪われてしまった主人に、何と声をかければ良いのでしょう? どんな言葉も鋭利な切っ先になってしまいかねないので、私はもごもごと口の中で言葉を転がす他ありません。
 ウェーブレースの映像はある時期を境に変わってしまった。今は滑空するドローンの美しい映像だ。だが、ファンからは過去の映像が良かったという声を多数聞く。荒波を受けてズブ濡れになるレンズ、ジャンプ台に乗り上がった衝撃にブレる映像、水中に落ちた選手を追いかけて潜水するカメラ。それらが映像を見ている者達に臨場感を与えていると、高く評価されている。
 貴方の映像のファンは多いはずですよ。私は、そう伝えました。
「えぇ。ここへのご招待も、熱心なファンの計らいみたいなの。差出人が空欄なんだけれど、誰なのかしら? 貴方はご存知?」
 存じ上げません、マドモアゼル。私はこの素晴らしい時間にご招待するよう、指示されただけの身ですので…。
 私がそう言おうとした時だった。
 突如、爆音が響きわたったのだ。突然のことに木々でまどろんでいた鳥達が飛び立ち、獣達が騒めく。驚いて腰を抜かす私を後目に、主人は勢いよく立ち上がり手すりから身を乗り出して眼下を覗き見た。
 するとどうだろう。
 月の女王への道を、四台の水上バイクが駆け上がっていく! そう、真下から響いた爆音は、水上バイクのエンジン音だったのです!
 水上バイクは海水を巻き上げ、一つ一つをダイヤモンドのように輝かせて黒々とした海面の上に散りばめる。その様はまるで宇宙へ飛び立たんとする、ロケットとその軌跡のようだ。空中一回転を決めた水上バイクに続くように、イルカ達が飛び跳ねる。誰かの歓声と共に、星空に大輪の花火が打ち上がった。
 何事かと目を丸くする私は、電話が鳴ったのに気がつきました。通話を選んだ瞬間、声が拡張状態で受話器から飛び出すのです。
『カメラガール! いつもフィニッシュ時は俺を前から撮りやがって! 勝ち逃げは許さねーぞ!』
『運河の壁に激突した映像だけ、再生率がとんでもないことになってるんだ! 責任とって、もっとかっこいい俺を撮れー!』
『カメラガール! 私ね、アクロバットが派手すぎて、ドローン壊しちゃったの! やっぱり、貴女じゃないとダメだわ!』
『皆さんが、貴女がいないと寂しいって僕に当たるんです。戻ってきてくださーい!』
 激しいエンジン音と共に、水上バイクに乗った人々が声を張り上げる。そんな声にマドモアゼルは大声で笑った。お腹を抱え涙目になって一頻り笑うと、主人は私に振り返った。
「全く、手の込んだサプライズね! 貴方はどう思う?」
 私は慇懃に畏まり、主人の問いに答えた。
 本日のご主人様に、本日限りの魔法を堪能していただくのが私の勤め。魔法に不可能はございません。ウエットスーツと水上バイクのご用意は、今直ぐに可能です。
 勿論。私はそこで言葉を切り、背後に置いてあった箱からカメラを取り出した。防水機能を備えたカメラは、両手で支えてもずっしりと重い。これを片手で支えて水上バイクを運転するなんて、私にはとても無理だ。
 カメラのご準備も可能です。私はにっこりと笑って見せた。
「本当に、夢のような場所ね!」
 いってらっしゃいませ。マドモアゼル。
 主人の喜ぶ姿が海を舞う。その姿を日付が変わっても見守っていた。


■ 初めまして、親しい人 ■

 番 轟三は偽物だった。
 その事実に微塵の動揺も見せない夕神 迅検事だった。誰もがまぁ、思うであろう。あの、囚人検事がコンビを組んでいた刑事に信頼を寄せるなんてあり得ない。と。実際の法廷での行動を思えば、当然の結果。自業自得である。
 偽物の正体が明らかになり、夕神 迅の前には明るみに出た内容が書面で置かれていた。本物の番 轟三の資料である。警察に登録されていた免許証の顔写真、名前、年齢、写真や名前で確認するまでもない性別、捜査中に取られただろう歯型、指紋、毛髪から得たDNA情報などなど、一年前の『死亡』の二文字に到るまでの詳細な経歴まで、本人が哀れに思うほどのプライバシーの無さが文章量という見える形で印刷されている。
 ただし、夕神 迅の知りたい情報は何も記載されていない。
 瑞々しい花弁から匂い立つ程度に、手向けられた花は新しかった。線香も燃え尽きて間もないのか、独特の匂いが夕神 迅の鼻腔をくすぐった。書類が手向けられたのは、無縁仏の墓前だった。警察が事件として扱ってなお、遺体の身元が判明しなかった名もなき死者達が弔われている。本物の番 轟三もここに眠っているのだ。
「オッサン。お前さんの身元がわかったぜ」
 無縁仏の墓には名前は刻まれておらず、慰霊塔と刻まれた石塔が夕神 迅の前にある。ここに眠っている人々は、今も名前がないまま識別番号として警察のデータバンクの中に保管されている。身元が判明するのは稀なことであった。
「お前さん、番 轟三って言うんだってなァ」
 一年前に死んだ、身元不明の遺体。事件関係を見出せず警察も事故死として処理してしまいそうな、一人の人間の死だった。
 そんな哀れな番 轟三を騙ったのは、『亡霊』という姿も名前も不明な存在。今、『亡霊』には番 轟三の殺人の容疑が掛かっている。しかし『亡霊』の起こした夥しい犯罪経歴を踏まえると、番 轟三殺しなど優先順位的にはかなり後回しにされるだろう。
「はじめまして…ナンだろうなァ。けど、俺はオッサンがどんな人間だったかよォく知ってるよ」
 夕神 迅は墓石を見た。そこに番 轟三の幽霊でもいるのではないかと思うような、鋭い眼光を向ける。
「正しいだ正しくないだで煩くて、殺人犯が更生出来ると本気で思って世話焼くくれェお人好しで、涙もろくて、声もさぞかしでかかったんだろうなぁ。そりゃあもう俺が裁判中に言った労いの言葉に、感動の雄叫びを三途の川越しに娑婆に響かせる程度には暑苦しいんだろうなァ」
 夕神 迅はニヤリと笑った。
「オッサン。お前さんが番 轟三で良かったよ」
 『亡霊』は自己がない。今も直近で長く扮していた番 轟三の口調や仕草で取り調べを受けている。それが、演技ではなく、そうしなくては話すことすらできないのが警察の精神鑑定が導き出した結論だった。
 『亡霊』が欠けた自己を補うように行う、他人のコピー。それは完璧なものだった。裁判の最後に成歩堂 龍一に扮した時は、その声、微笑む口元の角度、何気なく現れる仕草、どれ一つ取っても本物と見違うほどの完成度だった。同じ青いスーツを着て並べば、同じ事務所の後輩共はともかく、夕神 迅には見分けられる自信はなかった。
 だから夕神 迅は思うのだ。
 あの刑事の何もかもが、オリジナルを完全に模している。殺人や妨害は『亡霊』のものであっても、それ以外の行動は全て、オリジナルである番 轟三に由来するものなのだ。そうしなければ綻びが生まれる。感情が欠落した『亡霊』が髪の毛一本分でも素性をされせば、完璧であった番 轟三は崩れ去ってしまう。番 轟三の刑事という立場を失い、折角近付いた夕神 迅や希月 心音と距離を置かねばならない。さらには暗殺者の影が、夕神 迅の相棒である大鷹と同じくらいに素早く迫ることだろう。それは流石の『亡霊』でも都合が悪かったに違いない。
 それでも『亡霊』は自信があったはずだ。
 声紋診断も大した証拠にはなり得ない。ただ、正体に少しでも関わる可能性があるなら消してしまうべき、程度の用心深い性質から来た行動だったと推測できる。まだ、証言は取れていない。取り調べで聞くことは多すぎて、まだこの件に関して問いただす段階まで来ていないのだ。
 まさか、不機嫌な何処かの誰かさんの何気ない一言が、化けの皮と本人の面の間にするりと入り込んだ一滴の潤滑油になるなど想像もしていなかっただろう。
 化けの皮は剥げて、本来の辛の持ち主のものに戻った。まだ無断で拝借しているが、正体がバレてしまった以上、自己と向き合わざる得ない。近い将来、完璧な番 轟三を演じることも出来なくなるだろう。
「ちィと野暮用が出来ちまってな、予定が随分先延ばしになっちまうが…」
 夕神 迅の隣にいたのは確かに『亡霊』だった。
 だが、同時に番 轟三でもあったのだ。
「礼は、俺がそっちに行くまで待っててくれや」
 青く晴れ渡った空に大鷲を呼ぶ口笛が響き渡った。まるで夕神 迅の心の内を語るような、澄んだ明朗な音だった。


■ 青の帰還 ■

 刑務所にも新聞は来る。
 夕神 迅は既に何人かに読まれた新聞に目を落としていた。一面の隅に小さく書かれているだろう内容は、黒く塗りつぶされている。しかし、それは些細な問題であった。警察に都合の悪い事は黒塗りにされる事もあるが、テレビやラジオ等のリアルタイムを制限するのは難しいのだろう。外部の情報は、囚人であっても得る事ができるのだ。
 元情報屋の囚人はこれがまたお喋りで、お代は出所払いと聞いてもいないのにワイドショーのコメンテーターさながらの舌弁を繰り広げてくれる。そんな囚人が面白おかしく語るのは、『伝説の弁護士、成歩堂 龍一の捏造は冤罪!』という内容である。
「全く、警察もお粗末にもほどがありますねー! 成歩堂元弁護士の冤罪が証明された今、警察側の弁明が楽しみでなりませんよー!」
 警察、検事側の記者会見はこれからだ。囚人達は自分達を牢獄の向こうから見ている連中が、頭を下げて謝罪する様を楽しみにしている。元情報屋の言葉に、囚人達が手を叩いて歓声を上げた。
 成歩堂 龍一。その名前が再び世間を賑わせている。
 7年前に証拠品を捏造し、被告人の無罪を勝ち取ろうとした弁護士。弁護士バッジを剥奪され法曹界を追放された男は、つい先日、証拠品が捏造である事を証明し冤罪となったのだった。
 法曹界に留まらず一般人にまで知られる弁護士。証拠品捏造の濡れ衣を着せられたのも、有名税だったのだろう。様々な有罪濃厚な被告人の弁護を引き受け、逆転し無罪判決を勝ち取った回数は奇跡で片付けるには多すぎる。その逆転劇に成歩堂 龍一が弁護を引き受けた法廷は、いつも傍聴の抽選が行われる人気ぶりだ。
 成歩堂 龍一は複雑な事情で非常に若くして弁護士事務所の所長になっている。例え逆転劇がマスコミに受けたからと言って、依頼は鯉が滝登り昇竜になる程にはならない。事務所の経営は決して楽ではなかっただろう。コメンテーターをして糊口を凌ぎたいという誘惑もあったに違いないし、実際にコメンテーターをすれば成歩堂 龍一は成功出来たに違いない。彼の巻き起こした逆転劇は、大々的にワイドショーで取り上げられたからだ。捏造事件で法曹界を追放されたとしても、熱りが冷めればニュースのコメンテーターとして活躍できた可能性もあった筈である。
 しかし成歩堂 龍一は、弁護士として真面目で真摯だった。彼は弁護士としての仕事を、愚直なまでにこなして行った。法曹界を追放された7年を掛けて、自身に降りかかった捏造の汚名を晴らそうと奔走したと知れば執念は凄まじい。
 そんな経緯もあり、成歩堂 龍一の法曹界復帰は歓迎されていた。
「いやー、これはもう、成歩堂 龍一先生が弁護士復帰もあり得ますよー!」
「蘇る逆転劇! 響き渡る『異議あり!』見出しは決まりですね!」
 元情報屋の囚人に相槌を打つのは、元フリーの記者の囚人。お互い情報の収集に熱を上げすぎた、不法侵入や盗聴盗撮の常習犯で刑務所に頻繁に出入りする常連だ。これをネット配信したら、小銭でも稼げそうな阿吽の呼吸を披露してくれる。
「復帰されたら法曹界にとっては朗報でしょうねー!」
「暗黒を振り払う一条の光になりうるのか。成歩堂先生の法廷は、更に注目を浴びる事でしょうね」
 『暗黒』その言葉に、夕神 迅は重たげに掛かった前髪の奥の瞳が光った。
 今、法曹界は『暗黒時代』と言われている。
 7年前の成歩堂 龍一弁護士の捏造事件、とある検事の殺人事件を皮切りに法曹界が荒れ始めたのだ。互いに証拠品を捏造し、真実を捻じ曲げる。本来あるべき法曹の姿が失われつつあった。この7年の間に下された判決で、正しいものがいくつあるのか誰も答える事は出来まい。
 夕神 迅は先日に届いた検事局長の手紙を思い出していた。証拠品を捏造する弁護士に手を焼いているらしく、実力のある夕神に検事として復帰してほしいとのことだ。囚人であり法曹界の歪みと揶揄される夕神 迅の起用に、『なんとまァ、物好きな旦那で』と本人は口の箸を持ち上げた。
 成歩堂 龍一。対決は一度もした事はない。だが、興味はあった。検事局長とは個人的に親交がある為か、テレビや新聞より一足早く成歩堂 龍一の復帰の知らせが書かれていた。それを読んだ夕神 迅は、その申し出に良い返事を返すつもりでいる。
 ちらりと脳裏を掠める思い。その甘さに、夕神 迅は舌打ちした。
「囚人暮らしが長すぎて、頭の中に花でも咲いちまったかねェ」
 もしかしたら、真実を見つけてくれるかもしれない。
 もう二度と見る事はできない恩師の娘の笑顔が一瞬浮かんで、それを苦い思いで振り払う。自分が主張する事こそが真実なのだ。どんなに彼女が泣き喚き無罪を叫ぼうと、言葉を曲げるつもりは毛頭ない。そう、夕神 迅は自分に言い聞かせた。
 それでも。そう思う希望がどうしても心の隅にある。
 成歩堂 龍一の復帰は、多くの人の心を揺らしていた。法廷にあの色が帰って来る。澄み切った冴え冴えとした青は、暗い牢獄の小さな窓から見える青空のように夕神 迅は思えた。