ごちゃまぜ雑記ログ5


■ 雲が晴れて、日が覗く ■

「弁護士が諦めたら、誰が被告人を信じてあげるんだい?」
 その言葉は希月 心音にとって、衝撃だった。

 法廷は恐ろしい場所だ。
 誰も子供の言葉に耳を傾けてくれない。本当の事をどれだけ叫んでも、嘘が罷り通ってしまう。そんなの、間違っている。子供は叫んだ。けれど幼い子供には力がなくて、子供にとって大切な人は嘘を真実に変えて遠い所へ行ってしまった。
 響き渡る無罪を訴える声。騒めきうねる疑いの声。捻じ曲げられる真実。
 当然、子供にとって二度と踏み込みたくない場所になった。子供を引き取った親戚も気持ちを汲んでくれたし、犯罪に関わらなければ法廷に立ち入る必要性など生まれない。子供は一生法廷に入らず生きる事もできた。
 しかし、大切な人を助ける時間には、期限が設定されていた。時間は7年。無力な子供は、大切な人を助けたい。どうすれば助ける事ができるのか、わからないままに5年の歳月を消費しつつあった。子供は希月 心音という名前の大人には、まだなれそうにない。
 そんなもどかしい時間を過ごす中、子供に転機が訪れた。
「初めまして、僕は成歩堂 龍一。数日間、よろしく」
 通訳のボランティアで日本から来た依頼人と、裁判の傍聴をする事になったのだ。裁判は刑事裁判。有罪確定と新聞でも言っている、強盗傷害致死事件である。『俺は殺してない!』そう叫んだ被告人の悲痛な声に、思わず耳を押さえた希月 心音は確信した。この男は犯人ではない。殺人をしていないという言葉に、虚偽の雑音が一つもなかったのだ。それでも有罪確定と言われている裁判は、被告人の有罪に向かって審議が進んでいる。傍聴人の誰もが、被告人の無実を信じるわけがない。
 とても聞いていられなかった。耳を塞いで法廷を飛び出した希月 心音の傍らに、依頼人の成歩堂 龍一が寄り添った。柔らかいパーカーの素材が腕に触れ、落ち着くように大きな手が優しく肩を叩いてくれる。
 本当は成歩堂 龍一に裁判の行方を通訳して伝える立場なのに、それを放棄して泣いている。その情けなさと、まだ癒えていない傷に塩を塗り込まれた痛みが、希月 心音の目から涙になってこぼれ落ちている。そんな時、成歩堂 龍一が言ったのだ。
「ねぇ、心音ちゃん。弁護士が諦めたら、誰が被告人を信じてあげるんだい?」
 成歩堂 龍一は、ふわりと微笑んだ。眠気を誘うほど穏やかな眼差しに、ふと、光が差したのを希月 心音は見た。それは太陽のように明るく力強い光だったが、瞬き一つのうちに消えてしまう。見間違え、そう希月 心音が思うには光は鮮烈だった。
「皆から疑われて、孤独で、苦しいはず。そんな被告人を弁護士こそ、信じてあげないといけないんだよ」
 疑われて、孤独で、苦しい。その苦しみを希月 心音は、自分の事のように理解できる。
 しかし希月 心音には不思議でならなかった。声には強い確信の響きがある。成歩堂 龍一、彼もまたそんな苦しみを知っているのだろうというのは想像に容易かった。経験者が今も苦しんでいる事はよくある事だが、声の響きは成歩堂 龍一がそれらを乗り越えているのを物語っていた。
 どうやって乗り越えたんだろう? どうして、強く在れるのだろう? まるで谷底から青空を見上げるような疑問が希月 心音に浮かぶ。
「彼が諦めない限り、真実が明らかになって無罪判決が下りるよ」
 どうする? 見に行くかい? そう問うている眼差しに、希月 心音は涙を拭って頷いた。
「成歩堂さん」
 だらっとしたパーカーとジーンズ、手編みっぽさが滲み出るニット帽に無精髭。とても裁判を傍聴したがる職業の人には見えない。成歩堂 龍一の横にある大きめのスーツケースだけが、彼がわざわざ長時間のフライトに耐えてまで裁判を見に来た奇特な人である事を説明していた。
「弁護士のこと、もっと教えてくれませんか?」
 希月 心音は今でも大切な人を信じている。しかし、助けるには、ただ信じるだけではいけないのだ。
 子供は見つけたのだ。大切な人を救う方法を。そして、目の前の人はその方法をどうすれば手にできるのか知っている。
 成歩堂 龍一は眩しそうに目を細め、希月 心音の言葉に笑った。
「判決が下りたら、教えてあげるよ」


■ 彼の天国 ■

 ヨークランドは田舎という表現が最も似合うリージョンであろう。
 青空を微睡むようにのんびりと横断する太陽の下では、甘やかな風に愛撫された黄金色の実り達。住民達の時刻という概念は時計の形をしておらず、日の傾きと空の明るさで決まっている。機械仕掛けの車より、牛や馬が荷車を運んでいる。この地が反トリニティの革命家達と、トリニティとで激しい戦闘の舞台であったことなど、当時を知る者ですら忘れられつつある。
 いや、忘れてはいない。田舎なだけあって近隣住民の誰もが顔見知り。死んでしまった可哀想な若者を、残された可哀想な妻を、残された可哀想な幼子を皆知っていた。政治犯と汚名を着せられ口汚く罵るテレビジョンは鉄屑として、スクラップ行きのシップに乗せた。住民達は皆で可哀想を拭った。拭って拭って、彼らが可哀想な政治犯の家族ではなく、普通のヨークランドの住民になるよう尽くした。それは実を結び、最も名の知られた政治犯の息子は笑顔の眩しい親の脛齧り。
 なんと平和な事だろう。でも親のスネをいつまでも齧る事が出来ないのは、世の摂理。一人の若者が次に乗ることができるシップが来るのは随分と先。それなのに、日除け程度の屋根しかないシップ発着所のベンチで座っている。すでに停泊しているあの立派なシップには乗れないのかと、落胆する気配もない。待ってれば、いつかくる。そんな呑気な気配が、若者から感じられる。
 乗れるはずのないシップには、そんな若者を同情してか乗せてくれる人がいた。
 ヨークランドとは違う時間の流れに身を任せていると、日向ぼっこをあと何日する気なのか分からぬ待ちぼうけを見ているのは自身の精神衛生上よろしくないと思ったのだろう。温かいヨークランドでは野宿は容易いが、ご飯はどうするつもりなのだろうと考え始めれば切りがない。
「乗せてくれて、ありがとう!」
 若者の明るい感謝の言葉に、男は小さく笑みを浮かべた。このシップに乗った誰よりも身分の高い、この世界でも彼よりも身分の高いものを数えたら指の数だけで足りてしまう、そんな男。気まぐれで、血に塗れた覇道を歩んだ残酷さは、名前を聞けば知る者が挙って身震いするだろう、そんな男。だからこそ、若者の無知は非常に危うくて、壁の一部になろうとする生き物達は息を飲む。
「感謝は必要ない。…だが、そうだな、一つ運賃替わりに質問しよう」
 男はすっと手を後ろに組む。胸が自然に張り、男の威厳が際立つ。
 若者は男のサングラス越しに見る目元が和らぐのを見た。彼はいい人だ。直感的に若者は思う。
「ヨークランドは、良い所かい?」
「うん! 自慢の故郷だよ!」
 若者の即答に、男はそうかと視線を前へ戻した。若者の見えぬところで、男は笑みを深くした。男の名を知って連想するような、悪事や陰謀の絡む暗い笑みではない。まるで美しいものや想像を超える美味を前に人間は笑うしかないという。そんな、当人が呑まれ包まれて、訪れる感情として喜びのみが残されたような純粋な笑み。
 ヨークランドは男にとって天国だった。革命の争いで荒廃し、トリニティの手で徹底的に管理され全てを作り変えられる運命だった大地。男は運命を変えたいと願って、生き方を変えた。愛した天が支配する時間を、愛した地が齎す恵みを、愛した人々の優しさを、何一つ失いたくなかった。あの地で、唯一男を憎む事が許された若者。彼が男と同じく天国を愛している事が嬉しかった。若者の一言で全てが報われる思いだった。
 若者と男は並んで、混沌がシップによって掻き分けられるのを見ていた。ディスプレイにはマンハッタンへの到着時間や運行状況などが、目まぐるしく映し出されていた。そして若者から故郷の、彼らの天国の香りがする。相反する事柄が同席したこの一時は、今後二度とあるまいと男は感じていた。


■ 増えていく君を示す言葉 ■

「名前と歳はわかってるだろう? あと、何が必要なんだ? それ以外に俺を表せるものは、もう全部なくなっちまったのに」
 ルーカスはその言葉を口にして、寂しそうな顔をしたでしょうか? いいえ、ルーカスの表情は瞬きする目蓋以外は、何一つ動きませんでした。吐いた言葉を咀嚼して飲み込むように口元は引き結ばれていましたが、喉につっかえたような言葉が無事飲み込めたのでしょう。ルーカスは小さく息を吐いて、新しい空気を吸い込みました。
 そういうお前は…。少年の姿のルーカスは、吸い込んだ空気を言葉に変えます。
「最初に友達になりたい人に、なんて自己紹介するんだ?」
 可愛らしいお姫様。アタナシア姫が悩んでいるのを後目に、ルーカスは手元の歴史書に視線を落としました。ルーカスの知っている人を表現する文章は、分厚い本一冊分にも及ぶのです。小さい福与かな手では持て余す厚みと重量感に、ルーカスは自分のお腹の上に本を載せてソファーに身を預けて眺めています。とてもお姫様のお話相手には相応しくない姿勢ではありますが、お姫様はそれを咎めることはありません。
 ルーカスにとっては、お姫様はこの国の偉大なる王の娘という認識ではありません。
 どのような認識か。それを口外したならば、王の寵愛を受けている姫への不敬罪で、国王陛下直々に首を跳ね飛ばされてしまうでしょうね。こわいこわいと震え上がる暇すら、与えてくれぬかもしれません。
 当然、ルーカスはそんな失態など犯しません。
 お姫様とてお聞きでしょう。実行した事がないのでピンとこないかもしれませんが、彼はオベリアというこの国を、消してしまうほどの力を持った魔法使いなのです。実感が湧かぬかもしれませんが、誰もが治せなかったお姫様のご病気を治療した唯一の存在なのです。それだけでも、斗出した能力をお持ちだとわかってくださるはず。
 でも、お姫様も素直でいらっしゃらないものだから、なかなか思い至れないのでしょうね。
 小さいお姫様には広すぎるお部屋。広すぎるエメラルド宮殿。広すぎる王宮。同じ年齢にまで幼くなったルーカスにとっては、掌にくっついたクッキーの欠片のような狭い世界です。そこが、色々と便利で都合がいいからと、ルーカスはお姫様の前のソファーに座ることにしたのです。
 お姫様の部屋に立派な書見台が運び込まれた日。お姫様の本棚が新調された日。新しい本が届いて、護衛騎士と侍女達が本を本棚に収めた日。ルーカスはお姫様の横で同じものを見ています。たくさんたくさん勉強に熱意を傾けるお姫様の賢さは、溺愛する王の囲いを飛び越えて市井に知られるようになります。
 ルーカスはお姫様の隣にいる時間を少なくしましたが、長い目でみれば、そうした方が隣にいる時間が長くなるでしょう。それに隣にいる事がルーカスにとって大事なことではありません。このオベリアという国は、この世界でさえ、ルーカスにとっては掌のクッキーの欠片のように小さいからです。
 今日も年齢不相応の難しい専門書に向かい合っているお姫様に、ルーカスは久々に問うてみようと思いました。
「そういえば、お茶会するんだってな」
 うん。そうよ。お姫様は書物に集中していても、きちんと言葉を聞いています。
「最初に友達になりたい人に、なんて自己紹介するんだ?」
 ルーカスの言葉にお姫様は顔を上げました。宝石眼という、皇族だけが持ち得る美しい瞳がルーカスを見ました。どんな晴天を閉じ込めれば、どんな美しい海を閉じ込めれば、そんな瞳になるのだろうと誰もが疑問に思うほどに美しい瞳。色褪せることも曇ることも濁ることもない、まさに美しいを閉じ込めた宝石のような瞳です。その瞳を覗き込むだけで、世界一美しい空も、世界一美しい海にも訪れた気分になれるのです。
 ルーカスはそんな瞳を見つめ返して、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべて見せました。
「あの時のお前、答えられなかったじゃん」
「誰のせいで答えられなかったと思ってんのよ」
 あの後、お姫様は散々な目にあったのです。気まぐれなルーカスによって空に放り出され、可愛らしい男の子とお話しできた喜びよりも、誰も助けてくれない環境に放り出された不安で心臓が爆ぜる思いであったでしょう。勢い余ってルーカスを殴ってしまった姫有るまじき結末を見ても、答える余裕などありはしないでしょう。
 最年少の皇宮お抱えの魔法使いであるルーカスは、気怠げにソファーに身を横たえます。あどけない柔らかさが残る頬が、枕代わりにした腕でふんにゃりと潰れます。
「でも、お茶会では必要になるんじゃないの? 自己紹介」
 う。お姫様は言葉に詰まります。
 第一、お姫様には自己紹介など必要ありません。誰もが彼女がアタナシア姫だと知っていますし、知らぬ者も瞳を見れば皇族に連なる者だと分かるでしょう。国王の寵愛を受けた、オベリアの宝と称される美しいお姫様。複数の言語を流暢に話し、難解な学術書を読破する博識ぶりは、幼少の神童という噂から事実に変えたのです。そんなお姫様に自己紹介なんて、必要なのか、彼女自身もわかりません。
 お姫様の喉に詰まった心の内など意に介さず、ルーカスは言葉を続けます。
「ま、自己紹介なんて出来ないか。一人突然発狂して枕叩いたり、船に乗ったは良いが足だか手だか滑らせて池に落ちた回数は一度じゃないんだってな。エスコートした父親やダンスを申し込んだ相手、さらには落としたリボンを拾ってくれた善良なレディーの足まで踏みつける。チョコレート好き過ぎて虫歯になったこともあったんだっけ? あとは…」
 ぺらぺらぺら。まるで頁を指先で繰るように、言葉は止め処もありません。
 そんなルーカスの柔らかな黒髪を目指して、お姫様は椅子を降り、ずんずんと淑女ならざる足取りで迫ります。白い手がぎゅっと握り拳を作ったら、塔の魔法使いを表す肩の紋様に勢い良く落とします。ぽかり。そんな気の抜けた音のするような軽い拳ですが、お姫様の全力です。
「もう! いい加減にしてよ! そんなに言うことないじゃない!」
 逃げようと体を起こしたルーカスの隣に、お姫様は飛び込むように座りました。柔らかいクッションが跳ねて、まだまだ幼さの残る二人の体がぽんと跳ねました。逃げるタイミングを逸したルーカスは、そのまま羽のようにこそばゆい拳を受け続ける羽目になりました。
「ルーカスは性格悪すぎるわ! 誕生日の深夜にレディーの部屋に入ってくるし、相変わらずクロを食べようとするじゃない。クロはルーカスが舌舐めずりするだけで、震え上がって逃げちゃうのよ。もうちょっと、可愛がってあげたっていいじゃない。世界最強の魔法使いだって自意識過剰だし、カッコイイって自分で言っちゃうし…! 今みたいに、すっごく意地悪だし! あぁ、もう! 挙げたらキリがなくなっちゃう!」
 お姫様もお姫様。ルーカスに負けない滑らかな毒舌です。
 これだけ言ったら言い返すのがルーカスという、意地悪なお姫様のお話相手。どんな嫌な気分にさせてくれる言葉を言い返してくるのやらと、どこかで身構えていたお姫様はいつまで経っても何も返ってこないことに気が付きました。大きな瞳がようやく冷静にルーカスを見たら、彼は顔を掌で軽く覆って肩を震わせています。
「なにが可笑しいの?」
 名前と、年齢。それだけが、彼に残された全てでした。彼が自慢げに誇る魔法の才能も実力も、もう、誰も覚えていません。忘れられてしまったら、覚えている者が誰もいなくなったなら、もうそれは本当か嘘か想像かすら判別できぬものなのです。それならいっそ、無いことにしてしまえば良いと思っていたのでしょう。
 でも、もう、お姫様の中のルーカスは、名前と年齢だけの存在ではありません。それだけで、満たされて温かい気持ちになるのです。
「必死すぎて顔が真っ赤で、変な顔だなぁって…!」
「ルーカスの馬鹿!」
 ルーカスは甘んじて拳を受けておいでです。痛みも感じないのに、いたいいたいと戯れ合う声が部屋を賑やかに彩っています。


■ 愛しさ、込み上げる ■

 そっくり。しかし、似ていない。オベリアの皇帝陛下は、そんな言葉を口の中に転がしておいでです。
 歴代の皇帝が代々執務を行ってきた机は、その長い長い年月など知らぬとばかりの真新しさ。木目の美しい天板は降り注ぐ日差しを受け、向かい合う皇帝陛下の顔を映す鏡のよう。側面を飾るオベリアの恵みを掘り込んだ彫刻には、埃一つありません。使い込んだ事がわかるのは、色白い肌が浮き上がるほどに深い飴色のせいでしょう。
 長身の男性が両手を広げればようやく端から端に手が届く、それほど広大な執務机の上は閑散としています。このオベリアの全ての訴えが寄せられる場所には、もうどのような言葉が集まっていたかも、この机に座っている主でさえ覚えてはいないでしょう。それもそのはず。クロード陛下は、大変有能なお人であらせられるからです。
 皇帝陛下は民の望みを、その望みの叶え方を良く心得ておいででした。民が声を上げる前に、その望みを察して対処してしまうほどの先見の明もお持ちであらせられる。冷徹な暴君のようなお人柄は賄賂もお世辞もお嫌いとあれば、貴族との癒着はない高潔の君。陛下の近くに寄ることもできない民は、皇帝陛下を賢王や聖人と敬っておりました。
 皇帝陛下は有能なお方。民の訴えを解決するなんて、彼にとっては造作もないことです。
 その宝石眼がひたと見れば、世界は魔力の流れを隠すことはできません。天が日照りや干魃の兆しを示せば、皇帝陛下は備蓄を命じられる。病が流行って空気が澱めば、その魔力を持って淀みを打ち払ってくださいます。恐ろしい魔物が現れたとあれば、傍に控える騎士に命じるだけで、あとは討伐を終えた報告を聞くだけです。強力な力を持った皇帝陛下の元、オベリアは発展を約束されておられるのです。あぁ、オベリアに祝福と栄光があらんことを!
 国を栄えさせる。皇帝陛下にとっては、打てば響く鐘のように、簡単で煩う必要のない問題であるのです。
 そう、皇帝陛下にとっては、国のことなど正解の分かり切った問題にもならぬ問題なのです。
 一人娘であらせられる、アタナシア様の扱いに比べたら…。
 面倒だ。皇帝陛下がこの言葉を口の中で転がした回数の、なんと多いことでしょう。
 ここ数年という単位ではありません。この執務机にオベリアだけに留まらぬ近隣諸国の珍しい甘味の献上履歴、洋裁店のリストが乗り始めた頃合いからでしょう。チョコレートは別紙です。この書類には侍女達によって採点がされていて、特に姫君がお気に召したもの、特に姫君に似合ったものが赤いインクで丸が付いておられる。まさに栄光への道へが約束された証です。そんなものは公務になんら必要ないことだと、名君たる皇帝陛下は当然ご存知。机の上に乗ったそれに、目を通すことはございません。
 しかし側近のフィリックスに、こう声が掛かれば、その店は皇宮御用達です。
 今日のアタナシアの服はどこのものだ? 今日のチョコレートはどこの店だ? 目を通す必要はございません。百聞は一見に如かずと申しまして、我らが賢王は他人の評価に流されぬお人であらせられます!
 執務室に差し込む日差しは金色です。木漏れ日ではない太陽から直にやってくる日差しは、大理石の床を白く溶かし、窓枠を漆黒に塗り替えるほどに鮮やかです。その日差しを見遣りながら陛下は口に転がす言葉を変えました。
 あんなに焦がれた女であったのに。
 声もなく、聞く者もおらず、ただ口の中で終わらす言葉。その言葉は吐き出すにも飲み込むにも苦い意味を持っているはずなのに、皇帝陛下は眉一つ動かすことがございません。
 あの女に比べれば、安い命であったはずなのに。
 苦い言葉。苦い意味。それらを反芻した日々は、我々が想像するのも憚るほどに長い。
 なぜ、あの女よりも鮮明に目の前に浮かぶのだ。
 ぐっと口元を引き結んだ険しい陛下のお顔は、まるで世界の終わりを見るかのよう。陛下にとっては青天の霹靂のようなことでありましたでしょう。忘れる訳がない愛しい日々を忘れる為に生きてきた王様は、その通りになってしまった今に戸惑っておいでです。判断に間違いなどなく、正解しか選ばない王には在るまじき感情でありましょう。
「…アタナシア」
 ついに声になった言葉を、陛下は知らず知らずのうちに、何百何千と呟いておいでです。陛下の寵愛を一身に受けた、オベリアの宝、アタナシア姫の名前です。陛下が、世界で一番彼女の名を口にしておいででしょう。
 自分が唯一思いの通りに行かぬ娘。
 王は目を閉じ、赤く染まったまぶたの裏を見ておいでだ。日を透かして視界を覆う己の血の色は、忘れかけている忘れたくない一人の女性の瞳の色によく似ているのです。面影の強く残る少女が、陛下の想う人と違うと分かるのは瞳が違うからです。宝石のような美しい瞳は、陛下が最も嫌悪したものであったからです。
 しかし、その瞳がこちらを見る。瞳を擁する全てが、愛しいものと瓜二つに微笑む。愛したものとは違うと、賢い王は分かっているからこそ、分たれた二人が並んで自分の手を取っているのを感じてしまうのです。
 あぁ。面倒だ。なんて面倒なんだろう。
 ノックが響いて、部屋の主の返事も待たずに開け放たれてしまいます。そんなことをするのは、世界広しといえど唯一人。オベリアの皇帝陛下の一人娘、アタナシア姫様です。美しい金髪の豊かな髪は可愛らしいリボンを添えてなお輝き、福与かな丸みを帯びた頬を優しく包み込んでおられます。茶の支度をした侍女達の為に、健康的な腕が勇しく扉を押さえておいでです。陛下がフィリックスと一声すれば、姫様の背後から赤髪の騎士様が扉を一緒に押さえます。
 侍女達が入室し、テーブルの上が瞬く間にティータイムの装いとなります。姫君は執務机に駆け寄ると、キラキラと宝石のような瞳を輝かせて陛下に言いました。
「パパ! 今日はアーティがお茶を入れてあげるね!」
「必要ない。侍女に入れさせろ」
 一瞥した陛下に、姫君はふくっと頬を膨らませました。机からぱっと手を離すと、まるで小鳥のように素敵なティータイムの空間に舞い降りるのです。侍女達が慌てふためくのを尻目に、お姫様は無邪気にポットを手にしました。
「大丈夫だよ! 正しい作法なら、火傷なんて絶対しないんだから! ねぇ、パパ、見てて!」
 二つ並んだカップに豊かな香りが注がれている。その様を真剣に見つめる、父親譲りの瞳のなんと愛おしいことか。皇帝陛下は姫君の姿を、じっと見つめています。こぼして火傷をしないようにと細心の注意を払い、自分のために茶を注いてくれることに満たされているのを感じてしまう。そして、顔が崩れてしまいそうになるのです。
 あぁ、面倒だ。自分の気持ちすら、ままならぬとは…。
 皇帝陛下は言葉を飲み込み、口元を引き締める。
 崩れた顔の下にどんな表情があるのかは、賢き陛下も存じ上げぬ秘密であります。