ごちゃまぜ雑記ログ5
■ 彼の天国 ■
ヨークランドは田舎という表現が最も似合うリージョンであろう。
青空を微睡むようにのんびりと横断する太陽の下では、甘やかな風に愛撫された黄金色の実り達。住民達の時刻という概念は時計の形をしておらず、日の傾きと空の明るさで決まっている。機械仕掛けの車より、牛や馬が荷車を運んでいる。この地が反トリニティの革命家達と、トリニティとで激しい戦闘の舞台であったことなど、当時を知る者ですら忘れられつつある。
いや、忘れてはいない。田舎なだけあって近隣住民の誰もが顔見知り。死んでしまった可哀想な若者を、残された可哀想な妻を、残された可哀想な幼子を皆知っていた。政治犯と汚名を着せられ口汚く罵るテレビジョンは鉄屑として、スクラップ行きのシップに乗せた。住民達は皆で可哀想を拭った。拭って拭って、彼らが可哀想な政治犯の家族ではなく、普通のヨークランドの住民になるよう尽くした。それは実を結び、最も名の知られた政治犯の息子は笑顔の眩しい親の脛齧り。
なんと平和な事だろう。でも親のスネをいつまでも齧る事が出来ないのは、世の摂理。一人の若者が次に乗ることができるシップが来るのは随分と先。それなのに、日除け程度の屋根しかないシップ発着所のベンチで座っている。すでに停泊しているあの立派なシップには乗れないのかと、落胆する気配もない。待ってれば、いつかくる。そんな呑気な気配が、若者から感じられる。
乗れるはずのないシップには、そんな若者を同情してか乗せてくれる人がいた。
ヨークランドとは違う時間の流れに身を任せていると、日向ぼっこをあと何日する気なのか分からぬ待ちぼうけを見ているのは自身の精神衛生上よろしくないと思ったのだろう。温かいヨークランドでは野宿は容易いが、ご飯はどうするつもりなのだろうと考え始めれば切りがない。
「乗せてくれて、ありがとう!」
若者の明るい感謝の言葉に、男は小さく笑みを浮かべた。このシップに乗った誰よりも身分の高い、この世界でも彼よりも身分の高いものを数えたら指の数だけで足りてしまう、そんな男。気まぐれで、血に塗れた覇道を歩んだ残酷さは、名前を聞けば知る者が挙って身震いするだろう、そんな男。だからこそ、若者の無知は非常に危うくて、壁の一部になろうとする生き物達は息を飲む。
「感謝は必要ない。…だが、そうだな、一つ運賃替わりに質問しよう」
男はすっと手を後ろに組む。胸が自然に張り、男の威厳が際立つ。
若者は男のサングラス越しに見る目元が和らぐのを見た。彼はいい人だ。直感的に若者は思う。
「ヨークランドは、良い所かい?」
「うん! 自慢の故郷だよ!」
若者の即答に、男はそうかと視線を前へ戻した。若者の見えぬところで、男は笑みを深くした。男の名を知って連想するような、悪事や陰謀の絡む暗い笑みではない。まるで美しいものや想像を超える美味を前に人間は笑うしかないという。そんな、当人が呑まれ包まれて、訪れる感情として喜びのみが残されたような純粋な笑み。
ヨークランドは男にとって天国だった。革命の争いで荒廃し、トリニティの手で徹底的に管理され全てを作り変えられる運命だった大地。男は運命を変えたいと願って、生き方を変えた。愛した天が支配する時間を、愛した地が齎す恵みを、愛した人々の優しさを、何一つ失いたくなかった。あの地で、唯一男を憎む事が許された若者。彼が男と同じく天国を愛している事が嬉しかった。若者の一言で全てが報われる思いだった。
若者と男は並んで、混沌がシップによって掻き分けられるのを見ていた。ディスプレイにはマンハッタンへの到着時間や運行状況などが、目まぐるしく映し出されていた。そして若者から故郷の、彼らの天国の香りがする。相反する事柄が同席したこの一時は、今後二度とあるまいと男は感じていた。
■ 増えていく君を示す言葉 ■
「名前と歳はわかってるだろう? あと、何が必要なんだ? それ以外に俺を表せるものは、もう全部なくなっちまったのに」
ルーカスはその言葉を口にして、寂しそうな顔をしたでしょうか? いいえ、ルーカスの表情は瞬きする目蓋以外は、何一つ動きませんでした。吐いた言葉を咀嚼して飲み込むように口元は引き結ばれていましたが、喉につっかえたような言葉が無事飲み込めたのでしょう。ルーカスは小さく息を吐いて、新しい空気を吸い込みました。
そういうお前は…。少年の姿のルーカスは、吸い込んだ空気を言葉に変えます。
「最初に友達になりたい人に、なんて自己紹介するんだ?」
可愛らしいお姫様。アタナシア姫が悩んでいるのを後目に、ルーカスは手元の歴史書に視線を落としました。ルーカスの知っている人を表現する文章は、分厚い本一冊分にも及ぶのです。小さい福与かな手では持て余す厚みと重量感に、ルーカスは自分のお腹の上に本を載せてソファーに身を預けて眺めています。とてもお姫様のお話相手には相応しくない姿勢ではありますが、お姫様はそれを咎めることはありません。
ルーカスにとっては、お姫様はこの国の偉大なる王の娘という認識ではありません。
どのような認識か。それを口外したならば、王の寵愛を受けている姫への不敬罪で、国王陛下直々に首を跳ね飛ばされてしまうでしょうね。こわいこわいと震え上がる暇すら、与えてくれぬかもしれません。
当然、ルーカスはそんな失態など犯しません。
お姫様とてお聞きでしょう。実行した事がないのでピンとこないかもしれませんが、彼はオベリアというこの国を、消してしまうほどの力を持った魔法使いなのです。実感が湧かぬかもしれませんが、誰もが治せなかったお姫様のご病気を治療した唯一の存在なのです。それだけでも、斗出した能力をお持ちだとわかってくださるはず。
でも、お姫様も素直でいらっしゃらないものだから、なかなか思い至れないのでしょうね。
小さいお姫様には広すぎるお部屋。広すぎるエメラルド宮殿。広すぎる王宮。同じ年齢にまで幼くなったルーカスにとっては、掌にくっついたクッキーの欠片のような狭い世界です。そこが、色々と便利で都合がいいからと、ルーカスはお姫様の前のソファーに座ることにしたのです。
お姫様の部屋に立派な書見台が運び込まれた日。お姫様の本棚が新調された日。新しい本が届いて、護衛騎士と侍女達が本を本棚に収めた日。ルーカスはお姫様の横で同じものを見ています。たくさんたくさん勉強に熱意を傾けるお姫様の賢さは、溺愛する王の囲いを飛び越えて市井に知られるようになります。
ルーカスはお姫様の隣にいる時間を少なくしましたが、長い目でみれば、そうした方が隣にいる時間が長くなるでしょう。それに隣にいる事がルーカスにとって大事なことではありません。このオベリアという国は、この世界でさえ、ルーカスにとっては掌のクッキーの欠片のように小さいからです。
今日も年齢不相応の難しい専門書に向かい合っているお姫様に、ルーカスは久々に問うてみようと思いました。
「そういえば、お茶会するんだってな」
うん。そうよ。お姫様は書物に集中していても、きちんと言葉を聞いています。
「最初に友達になりたい人に、なんて自己紹介するんだ?」
ルーカスの言葉にお姫様は顔を上げました。宝石眼という、皇族だけが持ち得る美しい瞳がルーカスを見ました。どんな晴天を閉じ込めれば、どんな美しい海を閉じ込めれば、そんな瞳になるのだろうと誰もが疑問に思うほどに美しい瞳。色褪せることも曇ることも濁ることもない、まさに美しいを閉じ込めた宝石のような瞳です。その瞳を覗き込むだけで、世界一美しい空も、世界一美しい海にも訪れた気分になれるのです。
ルーカスはそんな瞳を見つめ返して、にんまりと意地の悪い笑みを浮かべて見せました。
「あの時のお前、答えられなかったじゃん」
「誰のせいで答えられなかったと思ってんのよ」
あの後、お姫様は散々な目にあったのです。気まぐれなルーカスによって空に放り出され、可愛らしい男の子とお話しできた喜びよりも、誰も助けてくれない環境に放り出された不安で心臓が爆ぜる思いであったでしょう。勢い余ってルーカスを殴ってしまった姫有るまじき結末を見ても、答える余裕などありはしないでしょう。
最年少の皇宮お抱えの魔法使いであるルーカスは、気怠げにソファーに身を横たえます。あどけない柔らかさが残る頬が、枕代わりにした腕でふんにゃりと潰れます。
「でも、お茶会では必要になるんじゃないの? 自己紹介」
う。お姫様は言葉に詰まります。
第一、お姫様には自己紹介など必要ありません。誰もが彼女がアタナシア姫だと知っていますし、知らぬ者も瞳を見れば皇族に連なる者だと分かるでしょう。国王の寵愛を受けた、オベリアの宝と称される美しいお姫様。複数の言語を流暢に話し、難解な学術書を読破する博識ぶりは、幼少の神童という噂から事実に変えたのです。そんなお姫様に自己紹介なんて、必要なのか、彼女自身もわかりません。
お姫様の喉に詰まった心の内など意に介さず、ルーカスは言葉を続けます。
「ま、自己紹介なんて出来ないか。一人突然発狂して枕叩いたり、船に乗ったは良いが足だか手だか滑らせて池に落ちた回数は一度じゃないんだってな。エスコートした父親やダンスを申し込んだ相手、さらには落としたリボンを拾ってくれた善良なレディーの足まで踏みつける。チョコレート好き過ぎて虫歯になったこともあったんだっけ? あとは…」
ぺらぺらぺら。まるで頁を指先で繰るように、言葉は止め処もありません。
そんなルーカスの柔らかな黒髪を目指して、お姫様は椅子を降り、ずんずんと淑女ならざる足取りで迫ります。白い手がぎゅっと握り拳を作ったら、塔の魔法使いを表す肩の紋様に勢い良く落とします。ぽかり。そんな気の抜けた音のするような軽い拳ですが、お姫様の全力です。
「もう! いい加減にしてよ! そんなに言うことないじゃない!」
逃げようと体を起こしたルーカスの隣に、お姫様は飛び込むように座りました。柔らかいクッションが跳ねて、まだまだ幼さの残る二人の体がぽんと跳ねました。逃げるタイミングを逸したルーカスは、そのまま羽のようにこそばゆい拳を受け続ける羽目になりました。
「ルーカスは性格悪すぎるわ! 誕生日の深夜にレディーの部屋に入ってくるし、相変わらずクロを食べようとするじゃない。クロはルーカスが舌舐めずりするだけで、震え上がって逃げちゃうのよ。もうちょっと、可愛がってあげたっていいじゃない。世界最強の魔法使いだって自意識過剰だし、カッコイイって自分で言っちゃうし…! 今みたいに、すっごく意地悪だし! あぁ、もう! 挙げたらキリがなくなっちゃう!」
お姫様もお姫様。ルーカスに負けない滑らかな毒舌です。
これだけ言ったら言い返すのがルーカスという、意地悪なお姫様のお話相手。どんな嫌な気分にさせてくれる言葉を言い返してくるのやらと、どこかで身構えていたお姫様はいつまで経っても何も返ってこないことに気が付きました。大きな瞳がようやく冷静にルーカスを見たら、彼は顔を掌で軽く覆って肩を震わせています。
「なにが可笑しいの?」
名前と、年齢。それだけが、彼に残された全てでした。彼が自慢げに誇る魔法の才能も実力も、もう、誰も覚えていません。忘れられてしまったら、覚えている者が誰もいなくなったなら、もうそれは本当か嘘か想像かすら判別できぬものなのです。それならいっそ、無いことにしてしまえば良いと思っていたのでしょう。
でも、もう、お姫様の中のルーカスは、名前と年齢だけの存在ではありません。それだけで、満たされて温かい気持ちになるのです。
「必死すぎて顔が真っ赤で、変な顔だなぁって…!」
「ルーカスの馬鹿!」
ルーカスは甘んじて拳を受けておいでです。痛みも感じないのに、いたいいたいと戯れ合う声が部屋を賑やかに彩っています。
■ 愛しさ、込み上げる ■
そっくり。しかし、似ていない。オベリアの皇帝陛下は、そんな言葉を口の中に転がしておいでです。
歴代の皇帝が代々執務を行ってきた机は、その長い長い年月など知らぬとばかりの真新しさ。木目の美しい天板は降り注ぐ日差しを受け、向かい合う皇帝陛下の顔を映す鏡のよう。側面を飾るオベリアの恵みを掘り込んだ彫刻には、埃一つありません。使い込んだ事がわかるのは、色白い肌が浮き上がるほどに深い飴色のせいでしょう。
長身の男性が両手を広げればようやく端から端に手が届く、それほど広大な執務机の上は閑散としています。このオベリアの全ての訴えが寄せられる場所には、もうどのような言葉が集まっていたかも、この机に座っている主でさえ覚えてはいないでしょう。それもそのはず。クロード陛下は、大変有能なお人であらせられるからです。
皇帝陛下は民の望みを、その望みの叶え方を良く心得ておいででした。民が声を上げる前に、その望みを察して対処してしまうほどの先見の明もお持ちであらせられる。冷徹な暴君のようなお人柄は賄賂もお世辞もお嫌いとあれば、貴族との癒着はない高潔の君。陛下の近くに寄ることもできない民は、皇帝陛下を賢王や聖人と敬っておりました。
皇帝陛下は有能なお方。民の訴えを解決するなんて、彼にとっては造作もないことです。
その宝石眼がひたと見れば、世界は魔力の流れを隠すことはできません。天が日照りや干魃の兆しを示せば、皇帝陛下は備蓄を命じられる。病が流行って空気が澱めば、その魔力を持って淀みを打ち払ってくださいます。恐ろしい魔物が現れたとあれば、傍に控える騎士に命じるだけで、あとは討伐を終えた報告を聞くだけです。強力な力を持った皇帝陛下の元、オベリアは発展を約束されておられるのです。あぁ、オベリアに祝福と栄光があらんことを!
国を栄えさせる。皇帝陛下にとっては、打てば響く鐘のように、簡単で煩う必要のない問題であるのです。
そう、皇帝陛下にとっては、国のことなど正解の分かり切った問題にもならぬ問題なのです。
一人娘であらせられる、アタナシア様の扱いに比べたら…。
面倒だ。皇帝陛下がこの言葉を口の中で転がした回数の、なんと多いことでしょう。
ここ数年という単位ではありません。この執務机にオベリアだけに留まらぬ近隣諸国の珍しい甘味の献上履歴、洋裁店のリストが乗り始めた頃合いからでしょう。チョコレートは別紙です。この書類には侍女達によって採点がされていて、特に姫君がお気に召したもの、特に姫君に似合ったものが赤いインクで丸が付いておられる。まさに栄光への道へが約束された証です。そんなものは公務になんら必要ないことだと、名君たる皇帝陛下は当然ご存知。机の上に乗ったそれに、目を通すことはございません。
しかし側近のフィリックスに、こう声が掛かれば、その店は皇宮御用達です。
今日のアタナシアの服はどこのものだ? 今日のチョコレートはどこの店だ? 目を通す必要はございません。百聞は一見に如かずと申しまして、我らが賢王は他人の評価に流されぬお人であらせられます!
執務室に差し込む日差しは金色です。木漏れ日ではない太陽から直にやってくる日差しは、大理石の床を白く溶かし、窓枠を漆黒に塗り替えるほどに鮮やかです。その日差しを見遣りながら陛下は口に転がす言葉を変えました。
あんなに焦がれた女であったのに。
声もなく、聞く者もおらず、ただ口の中で終わらす言葉。その言葉は吐き出すにも飲み込むにも苦い意味を持っているはずなのに、皇帝陛下は眉一つ動かすことがございません。
あの女に比べれば、安い命であったはずなのに。
苦い言葉。苦い意味。それらを反芻した日々は、我々が想像するのも憚るほどに長い。
なぜ、あの女よりも鮮明に目の前に浮かぶのだ。
ぐっと口元を引き結んだ険しい陛下のお顔は、まるで世界の終わりを見るかのよう。陛下にとっては青天の霹靂のようなことでありましたでしょう。忘れる訳がない愛しい日々を忘れる為に生きてきた王様は、その通りになってしまった今に戸惑っておいでです。判断に間違いなどなく、正解しか選ばない王には在るまじき感情でありましょう。
「…アタナシア」
ついに声になった言葉を、陛下は知らず知らずのうちに、何百何千と呟いておいでです。陛下の寵愛を一身に受けた、オベリアの宝、アタナシア姫の名前です。陛下が、世界で一番彼女の名を口にしておいででしょう。
自分が唯一思いの通りに行かぬ娘。
王は目を閉じ、赤く染まったまぶたの裏を見ておいでだ。日を透かして視界を覆う己の血の色は、忘れかけている忘れたくない一人の女性の瞳の色によく似ているのです。面影の強く残る少女が、陛下の想う人と違うと分かるのは瞳が違うからです。宝石のような美しい瞳は、陛下が最も嫌悪したものであったからです。
しかし、その瞳がこちらを見る。瞳を擁する全てが、愛しいものと瓜二つに微笑む。愛したものとは違うと、賢い王は分かっているからこそ、分たれた二人が並んで自分の手を取っているのを感じてしまうのです。
あぁ。面倒だ。なんて面倒なんだろう。
ノックが響いて、部屋の主の返事も待たずに開け放たれてしまいます。そんなことをするのは、世界広しといえど唯一人。オベリアの皇帝陛下の一人娘、アタナシア姫様です。美しい金髪の豊かな髪は可愛らしいリボンを添えてなお輝き、福与かな丸みを帯びた頬を優しく包み込んでおられます。茶の支度をした侍女達の為に、健康的な腕が勇しく扉を押さえておいでです。陛下がフィリックスと一声すれば、姫様の背後から赤髪の騎士様が扉を一緒に押さえます。
侍女達が入室し、テーブルの上が瞬く間にティータイムの装いとなります。姫君は執務机に駆け寄ると、キラキラと宝石のような瞳を輝かせて陛下に言いました。
「パパ! 今日はアーティがお茶を入れてあげるね!」
「必要ない。侍女に入れさせろ」
一瞥した陛下に、姫君はふくっと頬を膨らませました。机からぱっと手を離すと、まるで小鳥のように素敵なティータイムの空間に舞い降りるのです。侍女達が慌てふためくのを尻目に、お姫様は無邪気にポットを手にしました。
「大丈夫だよ! 正しい作法なら、火傷なんて絶対しないんだから! ねぇ、パパ、見てて!」
二つ並んだカップに豊かな香りが注がれている。その様を真剣に見つめる、父親譲りの瞳のなんと愛おしいことか。皇帝陛下は姫君の姿を、じっと見つめています。こぼして火傷をしないようにと細心の注意を払い、自分のために茶を注いてくれることに満たされているのを感じてしまう。そして、顔が崩れてしまいそうになるのです。
あぁ、面倒だ。自分の気持ちすら、ままならぬとは…。
皇帝陛下は言葉を飲み込み、口元を引き締める。
崩れた顔の下にどんな表情があるのかは、賢き陛下も存じ上げぬ秘密であります。
■ スーパー裏の喫煙者達 ■
今のご時世、喫煙者の肩身は狭い。
副流煙は肺癌のリスクがあるからと、喫煙スペースはアクリルの壁で囲われている。文句も言えまいと、煙草税はかけ放題だ。正直、人権もないのでは?と思う。
「電子タバコの喫煙者が増えているけれど、やっぱり昔に比べれば吸う人は減ったね」
隣で紙巻きに火を付けた佐々木さんは、軽く吸って赤い熱を煙草に染み込ませる。佐々木さんは一本を随分と長く保たせる。煙草がよっぽど好きなんだろう。口の中で煙を転がして、肺の奥まで吸い込んで、喉から鼻へ抜ける香りを感じる。それをじっくりと味わうようで、煙草を吸っていると遠くでぼやける街灯を細めた目がぼんやりと眺めている。
「喫煙所に来る人が減って、寂しいね」
眉尻しょんぼり下げて言う横顔に、赤マルボックスを手に弄びながらあたしは言う。
「あたしはいつもおひとり様なので、寂しいって思った事もないのですが」
「そうかぁ。このお店は喫煙者が田山さんだけなんだね」
そう年上の草臥れた男性は、ありがとうと頭を下げた。あたしは指に挟んだ煙草を吸いながら、白髪混じりの旋毛が上がるのを待ってから訊ねる。
「お礼言われる事、何かしたっけ?」
佐々木さんは『してるよ』と笑って、節くれだった手で灰皿を指差した。
「だって、田山さんが吸い殻を片付けてくれるんでしょ?」
思わず目を見開いた。
煙草を吸う者が灰皿の吸い殻を片付けるのは常識だ。煙草を吸わない人は、喫煙者よりも煙草の匂いをキツく感じると言う。あまり仕事中に煙草が吸いたくなる質ではないが、煙草休憩をさせてもらっている手前、喫煙所の清掃は自分の仕事と思っていた。
にっと口元が上がる。当たり前だと思った事に感謝されて、柄にもなく心が浮き立った。
「じゃあ、今度は佐々木さんに片付けてもらおうかな」
えぇ! 露骨に驚いた中年に、声を出して笑う。
二本の煙草から出る煙が、あたし達の頭の上で絡み合っていった。
■ 理想の家族 ■
ジェニット・マグリダはマグリダ家の娘ですが、マグリダ家の家族と過ごした時間は思い出にありません。物心付いた時に、アルフィアス家の当主から紹介され、簡単な、本当に玄関先ですれ違う程度の短い時間に挨拶をした程度です。それをジェニットは不満に思ったことはありません。
マグリダ家の人間だろう老夫妻は、オベリアに3家しか存在しない公爵家で育てられるジェニットの幸せを心の底から喜んでくれたからです。例え養子縁組で結ばれた縁であったとしても、幼いジェニットを本当の孫を見るように、シワだらけの顔をくしゃりと崩して笑った老夫婦を今でもとても好いています。
老夫婦が喜んでくれた意味を、ジェニットはすぐに理解しました。
ジェニットはマグリダ家に養子縁組として招かれた身であり、本当の親は別にいるのです。母親はジェニットの出産があまりにも難産であった為に、亡くなってしまったと聞いています。優しいアルフィアス夫人は子を持つ母として心から尊敬していると、母親フェネロペの献身を称えてジェニットを慰めてくれます。ほっそりとした白い手が、母がいなくて涙にくれるジェニットの髪を撫でて『自分の命より貴女を選んだ。それほどに貴女は愛されていたのよ』と子守唄のように歌ってくれます。
アルフィアス当主もジェニットのために心を砕いてくれます。ジェニットに何一つ不自由を感じさせない生活を保証するだけでなく、オベリアの姫話し相手になれないかと皇帝陛下に掛け合ってくれたからです。
そう、ジェニットには母親はいません。
けれど、父親と母が違うけれど妹がいるのです。
ジェニットは鏡に、窓辺に、水面に自分の顔が映り込む時、その瞳の美しさに自分でもうっとりしてしまいます。宝石眼という皇族だけが持つ、深い深い青に光が差し込むと複雑に反射して、精密なカッティングを施された宝石のような輝きをする瞳です。オベリアの王子に恋い焦がれた他国の姫が、国一番の宝石職人にかの瞳のような宝石を仕立てて欲しいと願ったが、どんな技術もどんな努力もどんなに素晴らしい宝石でさえ似たものにもできなかったと物語にあるほど。唯一無二の瞳です。ジェニットはオベリアの皇帝陛下と、その娘であるアタナシア姫が家族であると、知っていたのです。
しかし、それを皇帝陛下に告げるのは尚早すぎる。ジェニットがおじさまと慕う当主は神妙な顔で言いました。
皇帝陛下は賢王や聖人と民から絶大な信頼を得ている一方、気に入らなければ躊躇いなく仕える者を殺めてしまう暴君でありました。特にアタナシア姫が生まれた頃に、愛人として招いていたルビー宮殿の女達を皆殺しにしてしまったからです。ジェニットの存在を明らかにしたとして、皇帝陛下がどう対処なさるか賢明な当主殿とて予測できなかったのです。
それから皇帝陛下がアタナシア姫を寵愛している噂が流れ、話し相手としてジェニットを妹と引き合わせようとしてくれたのです。その話は姫君を襲った突然の病と、その病を治した魔法使いの登場で流れてしまいました。そんな結果に泣いて部屋に閉じこもる程に悲しんだジェニットでしたが、これからあの瞬間を迎えた時には些細なことと思ってしまいます。
きれい。
ジェニット・マグリダが呟いた言葉は、この場の全ての人々に共有された想いであったことでしょう。毎年行われるデビュッタントの晴れ舞台でも、今年は特別です。今年はオベリアの宝と称される、アタナシア姫がご参加なさるのです。王の寵愛を一身に受け、一部の側近しかその姿を見ることが叶わなかったまさに宝と呼ぶに値する姫君。美しく博学であると噂はあれど、実際に姫君にお目通り叶った者は、この人で溢れかえった会場のほんの一握りしかいらっしゃいません。
まさに輝いておいででした。
金髪はどんな金細工でも表せぬほどに艶やかに波打ち、まるで虹を生み出すが如く光を乱反射しておいでです。瑞々しい肌は生命力を帯びた赤を潜めて、頬を、唇を、指先を健やかに彩ります。バラに彩られたドレスは、この場の誰よりも美しいはずなのに、それすらも引き立ててしまう宝石のような瞳。この世界のありとあらゆる宝石も、その前に霞んでしまうと謳われる一対の宝石眼が嬉しげに細められ傍に立つ男性へ向けられるのです。
男性も少女を見下ろします。その瞳の穏やかさ、あの指先にまで至る慈しみを、理解できない者はこの場にはいなかったでしょう。甲斐甲斐しく姫をエスコートする姿は、冷血と恐れられた噂を払拭し、愛しい娘のために騎士役を演じているかのよう。
誰かのため息は、まるで一幅の絵画のような親子への感動か。誰かの動揺は想像することのできなかった、皇帝陛下への印象のためか。誰かの目の輝きは、美しい姫君と同じ場にいることが許された喜びか。様々な思惑が輝きを一層引き立ててしまいます。
あぁ、お父様がアタナシアを大切にしているのがわかる。
ジェニットは熱い吐息で指先が火照るよう。喜びが体の内側から溢れてくることを、堪えることができませんでした。妹が幸せであることが、父親が優しい人であることが、嬉しくて堪らないのです。ジェニットが思い描いた理想の家族の姿が、そこにあったのです。
あの二人の間に行きたい。あの二人の間で、笑顔の二人を見上げたい。
息を吸うことも吐くことも忘れて、ジェニットは二人を追いました。焦がれた想いが、思い描いた理想が、目の前の世界と溶け合って一つになって、届くものになろうとしているのです。これからの期待すら眩く溶けてしまいそう。ジェニットはこのデビュッタントで最も華やかな二人から目を離すことができませんでした。
傍でエスコートしてくれるエゼキエルの温もりがなければ、飛び出してしまいそうでした。
あの二人の間が、私の本来居るべき場所。求めに求めた、理想の家族の姿。
あぁ、アタナシア。貴女と話したい。貴女に触れたい。
私の声を、気持ちを聞いて欲しい。私を知って欲しい。
ジェニットは次第に緩んでくるアタナシアのリボンが、気になって仕方がありませんでした。結び直してあげたい。イゼキエルがジェニットにするように、お姉さんらしく妹の身嗜みを見てあげたいと思うのです。やきもきしている間に、リボンは解けて落ちてしまいました。
複雑なレースの美しい白いリボンは、ジェニットにしか気が付かれませんでした。ジェニットが駆け寄る間に、何人かに踏まれてしまいます。慌てて掬い上げたリボンには、艶やかで淡い色を取り込んだ白であっても、気がついてしまうほどの汚れがついてしまいました。
ジェニットは手で擦ってみました。擦っても擦っても、汚れは薄くもなりません。
汚れが落ちない。
どうして。
踏まれてしまったから?
焦りはジェニットの幸せな気分に、墨を落としたかのように広がっていきます。汚れは落ちない。このまま返したとしたら、落胆させてしまう。とはいえ、姫君の私物なのだから持ち帰ることもできない。拾った時の申し開きはどうすれば良いのだろう? 知らない人にリボンを拾ってもらったら、戸惑ってしまうかもしれない。曇ったアタナシアの顔が思い浮かんでしまいます。わからない不安が、暗く暗く、ジェニットの心を覆ってしまいました。
私が、アタナシアの姉に相応しくないかのよう。
ぶんぶんと頭を振れば、ふんわりと髪が揺れ赤金の光が流れていきます。自分の本来の瞳を思い起こして、ジェニットは自分を奮い立たせました。
そんなことない。私はアタナシアの姉なの。この世界でたった二人の姉妹なの。
お姉さんらしいところを、見せなきゃ!
よくも悪くも前向きな主人公。彼女の為にある世界では、彼女の進む先は常に光に照らされています。だから、彼女が求める理想の家族にも、受け入れられるでしょう。それしか知らないジェニットは拳を握りしめ、駆け出したのです。