ごちゃまぜ雑記ログ6


■ 理想の家族 ■

 ジェニット・マグリダはマグリダ家の娘ですが、マグリダ家の家族と過ごした時間は思い出にありません。物心付いた時に、アルフィアス家の当主から紹介され、簡単な、本当に玄関先ですれ違う程度の短い時間に挨拶をした程度です。それをジェニットは不満に思ったことはありません。
 マグリダ家の人間だろう老夫妻は、オベリアに3家しか存在しない公爵家で育てられるジェニットの幸せを心の底から喜んでくれたからです。例え養子縁組で結ばれた縁であったとしても、幼いジェニットを本当の孫を見るように、シワだらけの顔をくしゃりと崩して笑った老夫婦を今でもとても好いています。
 老夫婦が喜んでくれた意味を、ジェニットはすぐに理解しました。
 ジェニットはマグリダ家に養子縁組として招かれた身であり、本当の親は別にいるのです。母親はジェニットの出産があまりにも難産であった為に、亡くなってしまったと聞いています。優しいアルフィアス夫人は子を持つ母として心から尊敬していると、母親フェネロペの献身を称えてジェニットを慰めてくれます。ほっそりとした白い手が、母がいなくて涙にくれるジェニットの髪を撫でて『自分の命より貴女を選んだ。それほどに貴女は愛されていたのよ』と子守唄のように歌ってくれます。
 アルフィアス当主もジェニットのために心を砕いてくれます。ジェニットに何一つ不自由を感じさせない生活を保証するだけでなく、オベリアの姫話し相手になれないかと皇帝陛下に掛け合ってくれたからです。
 そう、ジェニットには母親はいません。
 けれど、父親と母が違うけれど妹がいるのです。
 ジェニットは鏡に、窓辺に、水面に自分の顔が映り込む時、その瞳の美しさに自分でもうっとりしてしまいます。宝石眼という皇族だけが持つ、深い深い青に光が差し込むと複雑に反射して、精密なカッティングを施された宝石のような輝きをする瞳です。オベリアの王子に恋い焦がれた他国の姫が、国一番の宝石職人にかの瞳のような宝石を仕立てて欲しいと願ったが、どんな技術もどんな努力もどんなに素晴らしい宝石でさえ似たものにもできなかったと物語にあるほど。唯一無二の瞳です。ジェニットはオベリアの皇帝陛下と、その娘であるアタナシア姫が家族であると、知っていたのです。
 しかし、それを皇帝陛下に告げるのは尚早すぎる。ジェニットがおじさまと慕う当主は神妙な顔で言いました。
 皇帝陛下は賢王や聖人と民から絶大な信頼を得ている一方、気に入らなければ躊躇いなく仕える者を殺めてしまう暴君でありました。特にアタナシア姫が生まれた頃に、愛人として招いていたルビー宮殿の女達を皆殺しにしてしまったからです。ジェニットの存在を明らかにしたとして、皇帝陛下がどう対処なさるか賢明な当主殿とて予測できなかったのです。
 それから皇帝陛下がアタナシア姫を寵愛している噂が流れ、話し相手としてジェニットを妹と引き合わせようとしてくれたのです。その話は姫君を襲った突然の病と、その病を治した魔法使いの登場で流れてしまいました。そんな結果に泣いて部屋に閉じこもる程に悲しんだジェニットでしたが、これからあの瞬間を迎えた時には些細なことと思ってしまいます。

 きれい。
 ジェニット・マグリダが呟いた言葉は、この場の全ての人々に共有された想いであったことでしょう。毎年行われるデビュッタントの晴れ舞台でも、今年は特別です。今年はオベリアの宝と称される、アタナシア姫がご参加なさるのです。王の寵愛を一身に受け、一部の側近しかその姿を見ることが叶わなかったまさに宝と呼ぶに値する姫君。美しく博学であると噂はあれど、実際に姫君にお目通り叶った者は、この人で溢れかえった会場のほんの一握りしかいらっしゃいません。
 まさに輝いておいででした。
 金髪はどんな金細工でも表せぬほどに艶やかに波打ち、まるで虹を生み出すが如く光を乱反射しておいでです。瑞々しい肌は生命力を帯びた赤を潜めて、頬を、唇を、指先を健やかに彩ります。バラに彩られたドレスは、この場の誰よりも美しいはずなのに、それすらも引き立ててしまう宝石のような瞳。この世界のありとあらゆる宝石も、その前に霞んでしまうと謳われる一対の宝石眼が嬉しげに細められ傍に立つ男性へ向けられるのです。
 男性も少女を見下ろします。その瞳の穏やかさ、あの指先にまで至る慈しみを、理解できない者はこの場にはいなかったでしょう。甲斐甲斐しく姫をエスコートする姿は、冷血と恐れられた噂を払拭し、愛しい娘のために騎士役を演じているかのよう。
 誰かのため息は、まるで一幅の絵画のような親子への感動か。誰かの動揺は想像することのできなかった、皇帝陛下への印象のためか。誰かの目の輝きは、美しい姫君と同じ場にいることが許された喜びか。様々な思惑が輝きを一層引き立ててしまいます。
 あぁ、お父様がアタナシアを大切にしているのがわかる。
 ジェニットは熱い吐息で指先が火照るよう。喜びが体の内側から溢れてくることを、堪えることができませんでした。妹が幸せであることが、父親が優しい人であることが、嬉しくて堪らないのです。ジェニットが思い描いた理想の家族の姿が、そこにあったのです。
 あの二人の間に行きたい。あの二人の間で、笑顔の二人を見上げたい。
 息を吸うことも吐くことも忘れて、ジェニットは二人を追いました。焦がれた想いが、思い描いた理想が、目の前の世界と溶け合って一つになって、届くものになろうとしているのです。これからの期待すら眩く溶けてしまいそう。ジェニットはこのデビュッタントで最も華やかな二人から目を離すことができませんでした。
 傍でエスコートしてくれるエゼキエルの温もりがなければ、飛び出してしまいそうでした。
 あの二人の間が、私の本来居るべき場所。求めに求めた、理想の家族の姿。
 あぁ、アタナシア。貴女と話したい。貴女に触れたい。
 私の声を、気持ちを聞いて欲しい。私を知って欲しい。
 ジェニットは次第に緩んでくるアタナシアのリボンが、気になって仕方がありませんでした。結び直してあげたい。イゼキエルがジェニットにするように、お姉さんらしく妹の身嗜みを見てあげたいと思うのです。やきもきしている間に、リボンは解けて落ちてしまいました。
 複雑なレースの美しい白いリボンは、ジェニットにしか気が付かれませんでした。ジェニットが駆け寄る間に、何人かに踏まれてしまいます。慌てて掬い上げたリボンには、艶やかで淡い色を取り込んだ白であっても、気がついてしまうほどの汚れがついてしまいました。
 ジェニットは手で擦ってみました。擦っても擦っても、汚れは薄くもなりません。
 汚れが落ちない。
 どうして。
 踏まれてしまったから?
 焦りはジェニットの幸せな気分に、墨を落としたかのように広がっていきます。汚れは落ちない。このまま返したとしたら、落胆させてしまう。とはいえ、姫君の私物なのだから持ち帰ることもできない。拾った時の申し開きはどうすれば良いのだろう? 知らない人にリボンを拾ってもらったら、戸惑ってしまうかもしれない。曇ったアタナシアの顔が思い浮かんでしまいます。わからない不安が、暗く暗く、ジェニットの心を覆ってしまいました。
 私が、アタナシアの姉に相応しくないかのよう。
 ぶんぶんと頭を振れば、ふんわりと髪が揺れ赤金の光が流れていきます。自分の本来の瞳を思い起こして、ジェニットは自分を奮い立たせました。
 そんなことない。私はアタナシアの姉なの。この世界でたった二人の姉妹なの。
 お姉さんらしいところを、見せなきゃ!
 よくも悪くも前向きな主人公。彼女の為にある世界では、彼女の進む先は常に光に照らされています。だから、彼女が求める理想の家族にも、受け入れられるでしょう。それしか知らないジェニットは拳を握りしめ、駆け出したのです。


■ 可愛いを育てて ■

 31番邸を目指して、若い次女はのんびりと石畳の道をゆく。どの妃邸もそれぞれのお国柄や人柄を感じさせる佇まいだと、感心しては視線が右へ左へと流れてしまう。2番目の妃邸は隣国の王宮を小さくしたかのようなきらびやかさ。彼女の仕える姫君が素敵素敵と、バルコニーから見ているのです。モザイクタイルの美しさはバルコニーから見るのが一番。そうして隣国の姫に微笑まれて、彼女らの可愛い姫は真っ赤になって大喜び。姫というのは不思議なもので、口元が見えなくとも好意的な笑みを感じ取ってしまうのだ。
 あぁ、流石は香り高き香水で名を馳せる地域の令状のお屋敷は、門扉の前に立つだけで庭園の花の香りでうっとりしてしまう。国の事情で匿う意味合いでこちらに参じた妃候補様の屋敷は、全く飾り気のない質素倹約が伺える。見ているだけで胸が締め付けられそうだ。まるで硝子に爪を突き立てたような金切り声が聞こえた時は、悪魔を払う祈りを口走って走り抜ける。そんな次女はうっかり足元がもつれてしまいそうで、小さい悲鳴を上げては立ち止まる。
 いけないけない。これは大事な贈り物。壊れないよう慎重にお運びしなくてはと、若い次女はむんと唇を引き結んだ。
 彼女が仕える1番目の妃候補と、贈り物を届ける31番目のお妃様の邸宅は最も遠い。一つ一つのお屋敷が趣向を凝らし大きいので、往復だけでも『ちょっと』とはとても表現できない時間になる。
 そんなこの国のみならず近隣諸国を凝縮したような妃邸になったのも、妃様が嫁ぐ先であるマクロン陛下の事情に大きく影響していた。マクロン国王陛下は先代の王が逝去されて、王に就任された若き王。本来なら伴侶を得るべき年齢ですが、喪に服す期間と、混乱した王国を立て直す期間を求めて妃選びを延長されたのです。
 その期間、4年。
 1番目の妃候補である彼女の主の父親は、隣国として恥じない邸宅にするために改築を始めてしまう。そんな1番邸を見て、後続の近隣の王族、ダナン国の貴族達が競うように嫁に出す娘の家を飾り立て始めた。そうして、絢爛豪華で特色の溢れた後宮が出来てしまったのだ。
 次女はすっと鼻から胸に爽やかな香りが通り抜けていくのを感じた。ついに、目的地である31番邸が近づいてきたのだ。門扉の傍に立っていた、31番のお妃様の担当騎士が侍女に気がついた。侍女が門扉の前に到着する頃には、大柄な侍女が開け放たれた門扉の前で壁のように立ち塞がっている。
「こんにちわ。こちらは31番目のお妃様の邸宅となりますが、何の御用でしょうか?」
 明瞭な声色で、大柄な女性の声は良く通る。侍女は耳栓が欲しいと思ってしまう程度には、よく響いた。
 侍女はようやく手にがっちりと持った箱を、そろりと動かした。白く上質な紙で包装され、ピンクでレースの可愛らしいリボンで飾られた、目の前の大柄なの侍女が持ったなら小箱に見えそうな箱。こちらを。そう差し出した箱を、31番の妃の侍女が見る。
「私は1番目のお妃様の侍女でございます。我らが姫が31番目の妃様であるフィリア様へと、先日の贈り物の返礼をお届けに参りました。非常に脆い品ですので、是非慎重にフィリア様の元へ運んでいただきとうございます」
 身分を明かしたからだろう。1番目の妃の侍女からしても、明らかに31番目の妃の侍女が警戒を緩めたのが分かった。すると、奥から侍女と見間違えそうな質素な装いの女性が顔を見せる。艶やかな腰までありそうな黒髪を結い、健康的で快活そうなのが伝わってくる。1番目の妃の侍女は彼女が誰だか分かっていたので、丁寧に頭を下げた。
「あら? それは何かしら?」
 投げかけられた問いに答えるように侍女は顔を上げる。今や後宮で知らぬ者は居ないだろう噂の主は、怪訝な顔で侍女が持っている箱を見ている。警戒しているのか肩幅に開かれた足が、武勇伝を裏付ける淑女ならぬ様子を語っていた。
 1番目の妃の侍女は、手に持った箱を少し持ち上げて答える。綺麗にラッピングされたそれを見て、嫌がらせではないと伝わればいいのだが…と願いながら。
「我らが姫より、フィリア様へお礼の品です。手紙も添えてありますので、姫のお言葉もお受け取りくださいませ」
 あらあら。31番邸の主人は身に覚えのないことのように首を傾げ、すっと身を翻した。
「1番邸からここまで大変だったでしょう。少し、お茶を飲んで休んでから戻りなさい」
 ケイト、お茶の支度をしましょう。
 薬草畑を見渡せるテーブルには、瞬く間にお茶の支度が整っていく。ハーブの爽やかな香りは複数の薬草をブレンドしたもので、貴族や王宮に召し上げられる御用達の店でもこれ程のレベルはなかなかお目に掛かれない。この庭園だけでこれだけのハーブティーを生み出してしまうとは、流石は薬草の一大産地の御令嬢だと感心してしまう。
 侍女は『是非、今、お受け取りください』と、ケイトと呼ばれた大柄な侍女にラッピングされた箱を渡した。侍女は福与かな手で手紙をフィリアに手渡すと、熟練の滑らかな手つきで梱包を解いた。フィリアがリボンを見せてとせがんで、ピンクのリボンを嬉しげに手に取った。
 そして開いた包みを覗き込んだケイトが、危険はないと主人の前に置いた。
「まぁ! クッキーね! 可愛らしいわ!」
 早速いただきましょう。そう言うが早いか、白いお皿の上にクッキーが並んでいく。
 どれもこれも可愛らしい動物のクッキーだ。うさぎにねこ、とりにいぬ。星やハートの形のクッキーにはジャムが注がれて焼かれており、まるで宝石のように輝いていた。それらを見て目を輝かせるフィリアの反応に、1番目の妃の侍女は嬉しげに説明をする。
「先日、フィリア様より頂いたウサギと蝶のパンを、姫がとても喜ばれまして…。私もこういうのが作りたいとのことで、クッキーを作られたのです。我らの姫はまだ幼いので全て姫の手作りではありませんが、形は姫が整えておいでです。フィリア様にお送りするクッキーも姫が真剣に選別したものですので、ぜひ、ご賞味くださいませ」
 このやりとりの間に大柄な侍女はきちんと毒味もこなしている。フィリアが屈託ない笑顔で星形のクッキーを口にすれば、さくりと音を立てる。濃厚なバターの香りが口いっぱいに広がって、唇の先に触れた果物のジャムの甘酸っぱさが小麦の甘さと混ざり合っていく。フィリアが頬に手を当てて、唇をきゅーっと持ち上げた。
「おいしいわ! 宝石のようになったジャムも、甘味が凝縮されて美味しいわね!」
 あぁ、我らが姫を連れてきて見せてあげたい喜びようだ。侍女は自分の主人に向けられた賛辞に、胸が燃えるように熱くなっているのが分かった。高貴なる身分の方に締まりのない顔を見せてはならない。
「ありがとうございます。我らが姫には、フィリア様が大層お喜びになったとお伝えします」
 王族の侍女として召し上げられる為に叩き込まれた教育の賜物か、侍女はどうにか慇懃に頭を下げることができた。
 フィリアは手紙を見て嬉しそうに笑っている。そんなに可愛い形のパンが気に入ったのなら、もっと作って騎士に持たせるわ!と、拳を握って燃えていた。その情熱は紙に認めて下さいと、ケイトに叱責される。侍女が返事を持って戻るまでの間、賑やかな雰囲気はとても心地よく人々を包み込んでいた。

 そんな交流があってから数日のこと、ビンズは執務室に小箱を持って馳せ参じた。執務に勤しんでいるダナン王国の国王マクロンは、なんだか嬉しそうなビンズの様子に手を止めた。わざわざ手を止めてまで見た王に、ビンズは微笑む。
「王様。1番目のお妃様から、贈り物です」
「ほう…」
 マクロンは面倒そうに目を細めた。妃候補では最年少。娘が隣国の王の妃候補となったという箔の為にやってきた少女だ。まだまだ幼子の雰囲気が残る娘に罪はないが、己の伴侶の可能性もないのに手間だけが増えてしまった厄介な手合いである。
 妃候補との交流で贈り物の返礼だろう。そう思って後回しにしようとしたが、ビンズは贈り物の箱を執務机に置いた。
 ふわりとバターの香りが鼻先を撫でる。
 どんな幼子であろうと淑女。マクロンは箱に添えられた手紙を見る。幼い印象を消し飛ばすほどに美しい文字で、挨拶、贈り物への感謝、次回の1日を楽しみにしているという流れるような定型分が書かれている。そして、最後の方に一言。
『クッキーを焼きました。お忙しい執務の合間のお茶のお供に、よろしければ召し上がって下さい』
 ふむ。マクロンはその一言に目を止めて、徐に箱を持ち上げた。ラッピングされた梱包を外すと、豊潤なバターの香りが増す。ぱかりと開ければ、確かにクッキーが入っている。幼子が作ったとは思えない、王宮御用達には及ばないが市井の店で並んでいそうな出来栄えのクッキーだ。ジャムが宝石のように輝くものから、プレーン、チョコやナッツを練り込んだものまで、複数の種類が詰め合わされている。
 一つ手にとって口にしてみれば、美味しい。甘さも控えめで、歯触りが良い。
「こんな返礼が来るとは想像していなかったな」
 マクロンの言葉に、ビンズが微笑んだ。
「今では1番目のお妃様がジャムや果物をお送りして、それを31番目のお妃様がパンに使ってはお返しする交流が行われているそうです。幼い1番目のお妃様は姉ができたようで、31番目のお妃様は妹ができたようでと、お互い交流を楽しまれておいでです」
「ふふ。流石はフィリア嬢だ。そう思わぬか? ビンズ」
 妃達の動きは逐一伝わっている。フィリア邸でお渡りを機に不穏さを強めてきた後宮において、なんとも明るい話題である。その話題の提供者が、最年少のお妃候補だとは予想外ではあった。
 マクロンは微笑む。あらゆるものが動き出している。望んでも得られなかった展望が見える気がする。
「本当に得難いお方だと思います」


■ 人生を変える食事 ■

 「この『メロウコーラ』を、俺のフルコースにする!」
 そう叫んだゼブラの言葉に、一番驚いたのはトリコだった。
 一日に三度は行われる食事。しかし、環境によっては一日に一度の人もいれば、トリコ達のように消費カロリーの多さを補うために三度以上の者も、逆に一日全く食べる事が出来ぬ場合もあるだろう。環境、資金、状況、体質。食事と一言で表しても、千差万別である。
 しかし、栄養を摂らねば死ぬ。故に人生において数えきれぬ食事を、人々は摂っている。
 この美食時代において、美味い飯は最高の娯楽であり、人が得られる最高の快楽でもある。美味い食材、美味い料理。人々はそれらを求め、世に溢れている。
 そんな時代において、美食四天王の一人ゼブラにとって食事は魅力的ではなかった。
 美味い食材を美味いと感じる味覚はある。美味い食材を手に入れる、美食家としての実力も抜きん出ている。しかし、ゼブラには食事を最高に不味くしてしまう、最悪の調味料が付き纏っていた。
 悪口だ。
 遥か遠くに落ちた硬貨の音すら聞き分ける『地獄耳』を持ったゼブラ。そんな聴覚の持ち主は、ちょっと、いや、かなりの乱暴者で『歩く人災』なんて言われている。粗暴な身の振り方のゼブラになら、どんな悪口を言っても良いだろうという人々の雰囲気もあった。ゼブラの聴覚が及ぶ範囲には、彼へ向けた悪口で溢れている。
 自分の悪口を聞きながら食べる食事は、どんなに美味であっても不味く変わる。美味いものを美味しく食べれられないゼブラの不幸を、トリコは心の底から哀れに思っていた。
 人生のフルコースに興味のなかったゼブラが、ドリンクを決めた。
 その理由をトリコはなんとなく察していた。
 隣で喜びを爆発させている相棒、小松。先日、センチュリースープを完成させた、話題の料理人だ。調理の腕は丁寧で、食材に愛された類稀な食運を持っている。だが、この純朴な料理人は、魔法の調理法で世界一美味しい料理にしてくれる。
 食べる相手のことを想う調理。
 調理中はやや独り言の多い小松のことだ。ゼブラはどんな味付けが好きか。こんな料理なら喜んでくれるか。珍しい味付けだけど、口に合うかどうか。そんなことを考え、口走っていたに違いない。それをゼブラが耳にしていたことも、トリコは分かっていた。
 ゼブラのために美味しく作ってくれた料理。美味しく調理してくれたいつもの小松の料理だったが、ゼブラの人生が変わるほど美味しかったに違いない。今まで見てきた食材が全く違った輝きを宿し、世界が光って見えるだろう。羨ましく感じてしまう。
 ゼブラのフルコースは、小松が調理する事で完成するだろう。
 食材が揃った時は、俺の相棒を貸してやるか。
 己の相棒が小松である事が誇らしく、トリコはにんまりと笑みを浮かべた。


■ 『好き』は死んでも『好き』のまま ■

 雨妹は掃除が好きなんだなと熟思う。
 前世で定年まで看護師を務めてきたが、清潔は何よりも大事なことだ。褥瘡の患者は毎日洗浄の業務を行うが、酷い状態は新人看護師でも目を背けることも少なくない。それを洗浄し薬を塗布し、清潔な状態を保護する。それを積み重ねて良い肉が盛り上がり正常な皮膚へ戻っていく過程は、言いようもない達成感があった。
 汚れた空間が綺麗になると、同様の達成感がある。前世の看護師として感じていた喜びを、掃除で得られるなら仕事にも力が入る。
 生まれ変わっても真面目だなとは、雨妹も思う。
 しかし、達成感とは一種の嗜好品だ。定期的に摂取しなければ、張りのない人生になってしまう。しかも適度な運動も仕事で出来、空腹になってご飯が美味しい。一粒でなんと美味しいことか!
 そう思いながら、雨妹ははたきで高い場所の埃を落とす。
 皇帝が訪れるかもしれない寝所である牀は、雨妹が使っている平台併用の板ではない。屋根のような覆いから薄布のカーテンが下がっている架子牀もあるが、総じて敷物を敷く場所以外は惜しげもなく素晴らしい彫り物が施されている。彫り物は女性達の好みや皇帝の寵愛の程度が反映されていて、美しい花や華やかな鳥が多いだろう。使い込まれれば飴色の光沢で美しいが、色を塗って飾り立てる派手好きもいるという。侘び寂びの概念を持つ雨妹には、ケバケバしいくらいだ。
 素晴らしい彫り物細工であるが、とても埃が溜まる。ソファーの背もたれのような牀の側面は、透かし彫りが多く埃が特に目立つ。
 雨妹ははたきに布を使っているので、布の柔らかさが婉曲した面に沿う。羽には羽の良さがあるが、雨妹は布のはたきの方が好きだった。埃を払ってピカピカになると、『どうだ!』と胸を張りたくなる満足感がある。
 上から落とした埃を箒で払い、板張りの床を水拭きして掃除を終えると、最後の仕上げに入る。
 外に干していた褥子を運び込み、牀に敷く。天日干しして温かくふかふかで、雨妹はにこにこしてしまう。
 そして敷布を敷くのだ。
 折り畳んである敷布を広げ、頭と足側を折り込む。角は四角折りにして整える。個人的には三角折りが慣れているのだが、シーツ交換に速度を求められていないし何より見栄えである。
 こうして皺一つない寝床が出来上がるのである。
「我ながら美しい仕上がり…」
 自画自賛であるが、シーツを皺なく敷くのは基本だ。皺一つで寝心地は段違いなのだから、快適な方が良いに決まっている。それに、前世から腕が落ちていないのも誇らしいものだ。
 枕を置き、被子は『旅館のように』掛けておく。最初は寝るのだからと気を利かせて足元に折ってしまったのを、注意されたのも随分と昔だ。クローズベッドの要領で、敷布を掛けてしまいそうになって習慣の恐ろしさに今も慄く事がある。
「よしっ!綺麗になった!」
 綺麗になった部屋を見回して、雨妹はにっこりと笑った。