転生したら悠々自適の皇妃ライフ!?ダイジェスト小咄 前編


■ 適切に慎重に選ばれた言葉 ■

 この皇国には伝説がある。
 『湖に降り立ち黒い髪と黒き瞳を持つ神子が、皇帝と契りを交わし長き繁栄が国にもたらされる』
 プリティナの建国王である初代皇帝は、伝説にある黒髪黒目の神子を妻としたという伝説だ。その伝説のおかげなのかプリティナ皇国は世界でも有数の、豊かな森林に抱かれ、豊富な水源に恵まれ、貴重な鉱物を採掘し、数多くの賢者や英雄を輩出した華やかな国でもある。世界の中心と称されることも言い過ぎではない、そんな豊かさを体現した大国。
 建国王の後継となった皇帝の何人かは、自身が神子を迎えるためと正妻である皇后を迎えなかった。世界的に見ても黒い髪と黒い瞳という組み合わせの色彩を持つ存在は珍しく、発見に至っても神子と呼べるほどの力を持った者ではなかったという結末はついて回る。次第に歴代の皇帝は皇后に家名や見た目の美しさ、果ては権力争いを制した貴族の娘を迎えるようになる。後の繁栄のために黒髪黒目の神子の席として皇后を空ける行為は、時代遅れであり御伽噺の風習とすら民から思われていた。
 それほどの歴史を重ねた皇国に、久々に皇后を空席とする皇帝が現れたのであった。
「レアナ。今日のお前はプリティナ皇国で一番美しいよ」
 もう涙で顔が酷いことになっていて、とても花嫁のエスコートなど出来そうにない父に娘はうっとりする笑みを浮かべる。
 父の言葉は娘という贔屓目を抜いても、この国一番の美女だった。幼い頃から娘に付き添っていた侍女達も、その美しい姿を恍惚の眼差しで見つめている。レアナ嬢は皇帝に嫁ぐに値する、この国で一番の美女だった。民の誰もが知っている伯爵家に生まれ、隣国の王から求婚されることも珍しくない美貌はこの国に留まらない。皇宮学校を主席で卒業した勤勉さと、多くの国の言語に精通した博識。洗練された立ち振る舞いは淑女の鑑。まだ古い風習と格差の残る皇国において、立場も気にせず民に接する姿は多くの貴族の模範とされた。
 朝焼け前に一瞬だけ染まる淡紅は、東国で桜と呼ばれる美しき花に例えられよう。光の加減で艶やかに煌く希少色の淡紅、瞳は宝石に例えるのも難しい複雑な赤を引き込む紫。背は女性としては高過ぎもせず、肌は滑らかに白く、顔立ちの全てが完璧といえる整いよう。まさに、皇帝が迎えるにこれ以上ない女性だった。誰もがレアナ嬢こそが皇后の席に相応しいと思うだろう。
 皇帝が示した条件がなければ。
「こんな美しい娘を、まさか、嫁に出さねばならぬとは…」
 この言葉がいかに危ういものだかは、伯爵とて理解していよう。目に入れても痛くないほどの美しく愛しい我が娘を手放す父心。発言者と発言の内容が娘の父だからこそ、見逃された言葉だった。
 多くの侍女が顔を曇らせる。この先、レアナ嬢を見て同情に満ちた眼差しを向ける者も少なくなかろう。
「大丈夫ですわ、お父様」
 レアナの優しい笑みが更に悲痛さを掻き立てる。伯爵は処刑され一族が根絶やしにされようと、娘の手を引いて隣国に逃げ延びようとすら脳裏に過ぎった。なんと健気で可愛い娘。我が娘を世界でいちばんの幸せ者にしてくれる男の元に嫁がせてやろうと、赤子だった愛娘を胸に誓った日を思い出す。それなのに、なんて残酷な世界なのだろうと、伯爵は歯を食いしばった。
 プリティナ皇国の現皇帝は民からは賢王と慕われている。治世良く、民は特に不満なく過ごせることで支持されている。
 しかし、それは表向きである。皇帝と直に顔を合わす爵位の者達は、皇帝の厳しさにまず打ちのめされるだろう。成果主義は今までの努力を汲み取られず、提示される条件は民のためとはいえ厳しい。その結果、有能揃いで厳選された家臣と、相応しい威厳と威圧を持つ皇帝が誕生したのである。
 そんな皇帝が、まさか信心深い人だったとは。そう民は口にする。
 違う。伯爵は喉元から迫り上がる悲鳴のような否定を、喘ぎながら飲み込んだ。今、それが口から迸ってしまえば、娘諸共牢獄に放り込まれてしまうだろう。皇帝への侮辱罪は死罪の次に重罪である。
 皇帝は皇后を迎えず、レアナを皇妃として迎える。空席である正妻を迎える前に妾として扱われる。レアナに対して、伯爵家へ対して、これ以上の侮辱があろうか。これがまだ伝説の繁栄を望むような混迷の時代であったなら、まだ溜飲も下げられたことだろう。神に縋る思いを皇帝と民が共通の認識として感じているならば、伯爵とて我慢できた。こんな安寧の時代、緩やかであれ繁栄が継続されている時代に伝説の神子など誰も望んではいなかった。
 それは皇帝も同じだ。伯爵は暗い怒りに淀んだ瞳で、愛娘の奥の扉を見る。
 成果主義で情状を汲み取らぬ冷血な皇帝。彼が提示した要求は、父として耐えがたいものである。
 一つは妻となる女性を、皇妃として迎えること。
 もう一つが、皇妃は皇帝の愛情を望んではいけないこと。
 明らかに周囲からの縁談への煩わしさから逃れるためだ。結婚適齢期になった王族は、須く縁談が持ちかけられる。問題が起きぬとは限らぬ故、幼い時からの許婚は存在しない。帝王学を叩き込まれ皇国の運営は卓抜としたものを得たが、人との関わりは学ばなかったのだろう。皇帝の笑みなど、噂話よりも信憑性がない。
 あぁ。あんな男に、どうして娘が嫁がなくてはならないのだ。伯爵は顔を覆った。世界で一番愛されるべき愛娘。賢く、美しく、奢らず、気遣いのできる娘は憎む要素のない完璧な妻になれただろう。夫を立て、子供を授かり、その子供は立派に育て上げ、嫁いだ家は栄えて伯爵家と良好な関係を築く未来に彼女は進むべきだったのに。
 お父様。娘の柔らかな声と、ほっそりとした手の形に肩が温められていく。
「決めたのは私ですよ、お父様。私は皇妃として、皇帝を、皇国の民を支えていきますわ」
 そうだ。条件を知ってなお、娘は皇妃になることを決めた。皇帝は見目麗しく、身分を問わずに女性の憧れではあった。娘とて例外ではないと、父として胸の痛みを感じつつも納得しようとした。それでも想いがあるならば、愛情を得られぬと事前に通告され希望を手折られて余計に辛いことではないか。
 伯爵も縁談で妻を得た。だが、共に生活し子を授かれば愛情が湧く。今では爵位のある家ではおしどり夫婦といえば、伯爵とその妻を示すほどだ。愛情を互いに育み、幸せそうな妻を見ると、それが娘に注がれないことは恐ろしく辛いことだ。
 皇帝の命令を断ることは家の恥。年頃の娘を持つ爵位の家に通達された皇帝の命に、当主達は震撼した。誰かが引き受けてはくれぬかと、顔色を伺う。あの皇帝と義理であれ関係を持つことは、利益よりも気分を害する可能性とそれからくる損失しかなかったのだ。
 父は顔を上げた。娘は笑っている。
「お役目が与えられないなら、悠々自適に皇妃としての生活を満喫してみせます」
 娘は自分の幸せを自分で勝ち取ろうとしている。それを感じさせる逞しい笑顔に、父は腹を括った。父は侍女からハンカチーフを毟り取ると、ごしごしと顔を拭った。当主としての凛々しい顔になり、背筋を伸ばし、愛娘の前に立ち、慇懃に手を差し出した。
「プリティナで最も美しい花嫁殿。私に貴女をエスコートをする、栄誉を頂けませぬか?」
「よろこんで」
 言葉以上に全てを伝える表現は、指先にまで至る手の温もりと、思いやりにあふれた笑みだった。


■ 落日に君は何を悔いるのか ■

 レアナは良い人。それが、ミアの感想だった。
 美人で、頭が良くて、丁寧で、優しくて、良い人。人間というものは裏表があるものだから、悪意の一つや二つあるものだと探ってみても何一つ疾しいことのない完璧な人。この頼れる人のいないミアにとって、彼女の隣はいつでも訪れることができて安心できる場所になりつつあった。
 誰も信じてはくれないだろうが、ミアは異世界から来た来訪者だ。このプリティナという国は、ミアの本来いた世界には存在しない国だ。言葉も違うはずなのに、どういうわけか通じ合うことのできるご都合主義は異世界転生のお約束のようじゃないか。突っ込んできた車を避けたら、勢い余って川に転落した。一度死んだと思えば、生まれ変わったと思って第二の人生を謳歌するのが正解だって思っている。幸いにもご飯は美味しいし、気候も良い。迷い込んだ皇宮が保護してくれているという名目で、何一つ不自由しない生活を送れている。最高だとミアは思っている。
 不安がないと言ったら、嘘になる。
 味方の誰一人がいないのだ。周りは何一つ知らない常識の世界に放り出されて、不安ばかりに決まってる。
 それでも、その不安はミアの想像以上に薄められていた。
「さぁ、ミア。今日は城下町に降りて、頼んでいた貴女のドレスを見にいきましょう!」
 良い人のレアナ。彼女を見てミアは、思わずため息を溢してしまう。
 画面の向こうの芸能人のような、人が想像した完璧な女性を削り出した彫刻のような、生きている人間からは逸脱したような美しい女性だ。凛とした表情は息を飲むほどに神々しいと思ったら、にっこりと微笑んでくる顔は近所のお姉さんのような親しみがある。子供の前に屈み込み視線を合わせる真摯さを見せつければ、美味しいものを口にして屈託無く笑って見せる。ギャップ萌え。ミアも人々から愛されるレアナの魅力に、戸惑いながらも魅了されつつあった。
 馬車が用意され、レアナの後ろにピタリと着いた強面のポールが待っている。これに乗って、オーダーメイドのドレスを買いに行く。どんな世界だ。こんな世界だ。あまりにも今まで生きてきた世界と違いすぎて、腰が引けてしまう。
「ねぇ、レアナ。本当に私にドレスなんて似合うのかしら?」
「ミアったら、大丈夫よ。貴女は黒い髪に黒い瞳なのよ。逆にどんな色も合わせられるし、どんな色にも引けを取らないわ」
 ほらほら。乗って乗って! 見た目のお綺麗なお嬢様と違って、意外とグイグイ引っ張っていくのがレアナという女性だ。馬車に乗せられ、仕立て屋に連れて行かれ、眩い色鮮やかなドレスをたくさん試着して、小物に靴に髪飾りにと城下町を巡って、お茶をするためにようやく一息つくまで怒涛の勢いである。
 ぐったりと体をソファーに沈めていると、美人なパティシエが人懐っこい笑みでテーブルの上を華やかに飾り立てる。高級ホテルのアフタヌーンティーセットのように、一口にはやや大きめの小ぶりのケーキが可愛らしく並んでいる。旬の果物は宝石のようにカットされて、柑橘のような果物沈んだ紅茶のような飲み物は爽やかな香りを振りまいた。
 あぁ、お腹空いてたかも。ミアが思うと、お腹も同意したようにきゅうと鳴いた。
 体を起こして見遣れば、一つ一つが芸術品のよう。素敵と感動する前に、フォークを握りしめてしまったものだからパティシエだろう女性が苦笑しながら取り分けてくれた。赤い苺によく似た果実を乗せたショートケーキ。ちらりとレアナを見やった黒い瞳が、待てを我慢している犬のようでその場の誰もが笑ってしまった。よしと皇妃様が頷いて見せる。
「このケーキ美味しい!」
 一口頬張れば、高揚した頬に手を当て幸せそうに天を仰ぐ。なんとまぁ、幸せそうに食べてくれるのやら。作ったパティシエも護衛騎士も、皇妃様の前で無礼な態度をと注意する気も失せてしまう。
「でしょう? もともと皇宮にいたパティシエが独立したお店なの。ますます味に磨きがかかってるわ」
 その様子をにこにこと見守っていたレアナは、上品にケーキに切り分け口に運ぶ。ゆっくりを味わっているが、その顔はうっとりと恍惚して艶かしくすら思う。ミアは思わず赤面した。
「シヴァ。このケーキと同じものを、一つ包んでくれないかしら。旬の果物のピューレと、チーズクリームの口当たりが良すぎてあっという間に口の中で溶けてしまうわ。底のクッキーも生地の水分を吸ってしっとりして、本当に美味しいわ」
 シヴァと呼ばれたパティシエは慇懃に会釈をした。さすが、皇宮に所属していたとあって洗練された流れるような会釈だ。
「皇妃様のお褒めに預かり光栄ですよ。皇帝陛下もお気に召していると聞いて、鼻が高いです」
 では早速。シヴァがなぜかポールを引き連れて奥へ下がり、賑やかな声で雑談に興じているようだ。皇妃様の身辺を守らなくては!とか表の看板はすでにクローズにしてあるわよ!とか楽しげな様子だ。
「レアナ。このケーキを皇帝陛下に差し入れするの?」
 えぇ。レアナはケーキの美味しさに幸せそうな表情のまま頷いた。
「皇帝陛下はお仕事でお忙しいでしょう? 頭を使うと甘いものを欲しくなってしまうものよ」
 ミアは表情を曇らせた。レアナの噂は侍女達からも市井の民からも聞こえてくるのだ。
 プリティナ屈指の才色兼備の令嬢が、皇帝の愛を受けられぬのを承知で嫁入りした。断れば実家が爵位を剥奪されるために仕方がなかったとか、結婚式は名ばかりの宣誓と一曲のワルツだけで花嫁が哀れだったとか、新年の祝いの席も皇帝のエスコートがなく単独で入場したとか、レアナの不遇に同情する声が合唱のように響き渡っている。
 これで深窓の皇妃であれば同情も、水面下の皇帝への批難も少ないがそうではない。
 レアナは活発な皇妃だった。足繁く城下に通い、民の生活を気にかけている。レアナの計らいで多くのことが改善した。特に近年の城下は貧民の増加から治安の悪化に悩まされていたが、皇妃が発案した辺境への移民政策によってだいぶ払拭されたという。移民の子供には学校に通って勉強する機会が与えられるなど、仕事を得る以上の高待遇だと噂が流れている。辺境の街は賑わい、通りの名前に皇妃の名前がつけられたとも聞いた。
 そんな有能な皇妃殿下だ。賢王であれ皇宮から滅多に出てこない皇帝よりも、民からの人気は高い。レアナの冷遇に皇帝への心象を悪くしている民は少なくないだろう。
「ねぇ。レアナは幸せなの?」
 滅多に露出しない皇帝に代わり、国の顔として民に接するレアナ。本来ならばご懐妊と世継ぎの話を待望される身なのに、治世に精を出している姿はミアから見ても不遇に見えた。
 大きな目を見開き、じっとミアをレアナは見つめる。その反応にミアは手を振って慌てて弁明した。
「わ、私の世界じゃ夫婦は愛し合って幸せになるってのが常識なの。結婚したのに、レアナがこんなに甲斐甲斐しく支えてくれているのに、皇帝陛下はレアナを全然見てくれないんでしょう? 嫌じゃないの? 幸せなの?」
 ミアにとって愛情のない結婚などあり得ないことだった。自分だったら嫌だと、素直にそう思ったのだ。
 意味が通じたのか、レアナは苦笑してミアの手を取った。
「心配しているのね。ありがとう、ミア」
 柔らかい良い香りのする手は、包まれるととても気持ちがいい。かぁっとミアは顔が赤くなるのを自覚した。
「でもね、陛下は優しい方よ。結婚する前に『陛下の愛情を望んではいけない』とわざわざ教えてくれたの。それに、皇帝陛下は民のことを第一に考えてくださっている。私が正妻ではないのは、伝説の神子を娶ってこの国をさらに豊かにしようって気持ちの現れ。国のために身を粉にして働く陛下を、私は心から尊敬しているわ」
 ミアは自分が黒髪で黒い瞳だから神子だと自惚れるつもりはない。それでも、レアナの介添えがあったとはいえ、自分を助けてくれることを決めてくれた皇帝に少なからぬ好意を持っていた。伝説が恋愛成就の後押しをする。自分はあのカッコイイ皇帝と愛し合えるのではないかと、期待してしまう。
 だからこそ、その感情がレアナの前だと醜いものに感じてしまう。
 レアナを押し除けるわけではない。レアナは皇帝の妻であっても、契約上の夫婦でしかない。それでも、レアナはミアの恩人で、ミアにとって先生であり姉であり母であり友達だった。こんな美しい尊敬の念で支えている意志の前に、好いている感情を止めようがないと叫んでも薄汚く感じてしまう。
「ミア。貴女はいずれ神殿に行って、神子としての力があるかの試験を受けねばならないわ。皇宮が預かっている貴女が、どこに行っても恥ずかしくないレディーにするのも大事な務め。でもその前に一人の女の子だもの。不安なこと、疑問に思うこと、今のように沢山言って頂戴。私に答えられること、力になれること、精一杯付き合うわよ」
 あぁ、もっと意地悪な人なら良かったのに。そうしたら、もっと皇帝陛下を好きだって気持ちを前面に出して押しまくるのに…! ミアはレアナにも幸せになってほしい。
「あらあら。ミアったら、どうしたのかしら?」
 背中をさすられると、もう涙で何も見えなくなっていた。
 レアナは、良い人だ。私よりも、ずっと。それが、ミアの心を引き裂いている。


■ 救ったのだと君は知らない ■

 皇帝は世界が輝いて見えた。
 毎日見ていた中庭の草花が、太陽の日差しを燦々と浴びてなお鮮やかな色彩を振りまく。空の青さは吸い込まれるほどに高く、ふわふわとした綿雲が日の光に温そうに白く照らされている。水辺の煌きは星屑のように眩く、石畳の道をなぞりレアナが見ている世界と考えるだけで、胸がいっぱいになった。
 こんな気持ちは初めてだった。
 皇帝は生まれた時から皇国の未来を担うために育てられた。帝王学を叩き込まれ、歴史を学び、知略を駆使することを心がけ生きてきた。全ては国のため。忠誠心の厚い家臣でさえ、民の利益を害する欲望の芽を孕んでいる。信用できる者、仕事のできる者、それらを篩に掛け選別した。国の繁栄は皇帝の責務。家臣はその責務を果たすために必要な道具に過ぎなかった。
 そんな認識が家臣から恐れられる一因であると、聡明な皇帝は把握していた。しかし、皇帝の威光を思えば畏怖を抱かれる程度が丁度いいと思ったものだ。
 妻。それも婚約や世継ぎなどと言う、面倒ごとを避けるお守りのようなもの。愛情など国の繁栄に必要ないと、思っていた。
 思っていた。
 不思議なことに、過去形なのだ。
 今も過去形にするほどの根拠は何もない。愛情が国の繁栄にどう関わるのか、誰も教えてくれなかった皇帝は知る由もない。それでもレアナの暮らすこの国をより良くしたら、レアナは喜んでくれるのではないかと思うと、信じられないくらい誇らしさが込み上げてきた。
 愛情を期待するなと言い放っても、にこりと笑みを浮かべた物分かりのいい女。
 執務でお疲れでしょうと、ケーキと紅茶を差し入れてくれた妻。
 城下に出向き民と会話し、民のためにと心を砕く皇妃。
 皇帝がその手を触れて尚、微笑みを浮かべて触れられるがままに受け入れてくれるレアナ。
「レアナ…」
 名前を口にするだけで熱が生まれる。
 民とは我が儘な生き物だと皇帝は思っていた。己の利益を主張し、望みが叶えばさらに強欲な欲望を陳情する。それを宥め賺して先送りにしたり、叶えてやるのが皇帝の仕事で結果国は繁栄していくのだ。
 だが、レアナだけは違う。
 我が儘など何一つ言わない。皇帝のためにと尽くしてくれて、皇帝の要望を受け入れてくれた妻という存在。皇帝ではなく一人の名のある男として受け入れてくれていると、初めて感じさせてくれた女。ふくらみ始めた関心は瞬く間に世界を変えた。
 あんなに国のことをばかり考えていた思考は、すべてレアナのことに書き換わった。民が豊かになればレアナも喜んでくれるだろう。国が美しくなれば、美しい風景だと綻んだ横顔が眺めてくれるのだろう。国が平和であれば、妻も穏やかに過ごしてくれるだろう。一人のために回り出した世界だが、恐ろしいほどに極彩色の鮮やかさが広がっている。
 それを病と勘ぐったことはあった。
 だがそれを津波のように感情が飲み込んでいく。疑念も、不安も、戸惑いも、想像以上の濁流にもみくちゃにされて、どうでも良くなってしまうのだ。
 ただし、大きな問題があった。
 皇帝は皇帝として他者に接する方法は心得ていた。だが一人の男として、妻の夫としてどう接するかを知らなかった。
 もっと、あの柔らかく良い香りのする手に触れていたい。
 庭を散歩する姿を見ているだけではなく、隣に立って共に歩きたい。
 護衛騎士に向ける笑顔を、こちらに向けてほしい。むしろ、自分以外の誰かにその笑みは向けないでほしい。しかし、その為に妻の手を強引に奪って己に向けようとする乱暴さは、してはいけないことだというのは分かっていた。人としてよりも、皇帝としての品位は人としての最低限の分別を辛うじてもたらしていた。
 午後のティータイムを共に過ごしたい。ケーキを共に食べて、美味しいという思いを共有したい。
 執務を放り出して飛び出したい欲求は凄まじく、皇帝としての責務だけが椅子に座るという理性を保たせている。それでも手元に白い紙が一枚あれば、妻を喜ばせるにはどうしたら良いのだろうと幾つものプランが書き連ねられている。ケーキにドレス、庭園の花が美しく咲く日取り。あぁ、公務に関係ない。それでも、文字の向こうにレアナの笑みがあると思うと、考えずにはいられない。
「どうすれば良いのだろう?」
 テリア財務官がひどく冷めた瞳で皇帝を見ているが、皇帝は燃えるような初恋にまさに身を焦がしている真っ最中である。全く救いようのない末期症状であり、そんな皇帝の姿は見たくないと側近こそが思う。業務が滞らないのは幸いだ。
「陛下がこれまでどのように妃殿下に接してきたかを鑑みれば、自ずとするべきことは見えてくると思います」
 美しい翡翠色の瞳の見つめる先で、テリア財務官の歯に衣着せぬ一言は皇帝の胸に突き刺さった。まさに痛恨の一撃である。
 走馬灯のように皇帝の脳裏を駆けるのは、一般常識的に失礼な数々だ。
 名ばかりの婚姻。己が欲しい妻とは、婚姻や後継という小言を言う貴族どもを黙らすお守りだった。レアナは物ではない。レアナでなかったとしても妻として嫁いでくる娘は、物ではなかった。しかし、それは誰もが見透かすような皇帝の思惑だった。
 逆の立場なら皇帝は激昂し、相手を斬首刑に処すよう命じただろう。
 レアナが皇帝を想ってケーキを差し入れた時、口をついて出たのは礼ではなかった。あの時の己は何と言っただろう? 何を企んでいるとでも言ってしまっただろうか? 持ち上げて微笑めばよかった口元は固く不機嫌に閉じて、見返りの愛情は期待するな程度は言っただろう。レアナは強張った顔で退室の旨を告げて去ったが、あの瞬間は皇帝とてしまったと思った。
 この皇国で最も強い男を護衛騎士に任命したが、それでも貴族どもの口は減らなかった。むしろ妻として娶ったレアナを放置することが、男としてどうかと思うなどと宣い始めた。レアナに対する言葉はもっと酷いと聞いたのは、最近のことだ。
 なんて心の広いレアナ。悶絶する哀れな皇帝を見下ろしながら、財務官は嘆息する。
 厄介であるが、長期的に見れば好転になるだろう。この恋愛ごとに幼すぎる皇帝を眺め続けるのは大変ではあるが…と。