転生したら悠々自適の皇妃ライフ!?ダイジェスト小咄 後編


■ 秘密といっしょに深く抱いて ■

 レアナには不思議なことに、物心付く前から覚えている記憶がある。
 薄暗い部屋に自分が一人でいる。鏡なのか自分の姿を見ることができるものがあり、その中のレアナは今のレアナとは似ても似つかぬ容姿だった。性別は同じ女性だろう。髪の色は淡紅の艶やかさとは遠く、暗く燻んだ色合いでボサボサと闇の中に毛先を伸ばしている。瞳の色は部屋の暗さで濁っている。年齢も今のレアナよりも年下か、幼く見える顔立ちなのかもしれない。服装も平民のものかと思うほどに簡素だが、その素材はこの国では見たことのない不思議な肌触りや薄さであった。
 幸薄い顔が、記憶の中の自分を見つめている。
 その部屋は狭く、簡素なベッドやテーブルや棚など最低限が押し込められていた。とにかく整理がされていない。薄暗い部屋の闇に沈んだ所には何かが押し込まれているのだろう、圧縮された気配があった。空の容器や食器らしい残骸が転がり、貧民街を彷彿とさせる余裕のなさがその空間にあった。
 そんな彼女が本を手にしていた。文字が敷き詰められた本の中身は小説で、文字はレアナの知らぬものだったが内容は覚えていた。
 黒髪で黒目の少女が異世界を訪れ、帝国の皇帝と結ばれるという物語だ。
 その記憶の中ではただの小説の設定である。どこかで聞いた話だと首を傾げ、プリティナ帝国の伝説によく似ていると思い至るのに時間要らなかった。その本に描かれた異世界の少女は、伝説の神子を描いていると断言できるほどに似ていたのだ。
 帝国の皇帝は仕事ばかりで周囲を顧みない。迎えた美しいお妃様でさえ、言葉すら交わすことなく仕事に没入する。そんな皇帝が黒髪黒目の少女と心通わせ、結ばれるというお話だ。
 御伽噺でも良くあるような展開だ。記憶の中の彼女が最後まで本を読むまでは覚えていられなかったが、『皇帝と少女は末長く幸せに暮らしました』と結んでも良いような幸せそうな展開が続いている。愛情を求めるなとバッサリ切って捨てた皇帝を夫としてしまったレアナには、胸焼けを通り過ぎて圧と困惑すら感じてしまう。
 しかし、この話にはレアナには無視できないことがあった。
 小説にあった皇帝が迎えた美しいお妃様の存在だ。お妃様は皇帝が執務に没入してしまう人物と知っていたが、淡い思いを抱いて嫁入りした。言葉が交わされることがなくとも、淡い期待を抱いて暮らしていた。そんな彼女は突如現れた少女と皇帝が惹かれ合っているのに気がつき、激しい嫉妬に駆られてしまうのだ。少女を排斥しようと計略を巡らし、命すら奪わんとする。そんな妃の行動を知った皇帝は、妃を辺境の牢獄に幽閉してしまうのだ。
 他人事には思えなかった。こうして皇妃として皇帝の妻となり、ミアという黒髪黒目の神子が現れれば、その小説は未来の予言書なのではないかと疑いたくなるほどに似てきている。
 しかし、自分は違うとレアナは言い聞かす。
 皇帝から愛情を求めるなという条件を出された時から、レアナは女としての喜びを捨てる決意をした。妻として女として愛されることも、美貌や知識を一目置かれ信頼を得ることも、皇帝の扱いが侮辱に近いものであっても諦めると決めていた。期待は虚しいものだと、賢いレアナは分かっていた。むしろ、飾りの皇妃として衣食住を保障される生活を楽しんでやると、立場を利用して何ができるかを模索するくらいだ。
 ミアが皇帝陛下に淡い思いを抱いたことは、頬を赤らめ皇帝を追いかける視線を見れば女の勘など必要ない。ミアと皇帝が結ばれれば帝国の繁栄が約束される。そんな伝説の嘘か真かはともかく、民は伝説の再現に色めきたって喜ぶだろう。国は栄え、民は幸せになるなら、それ以上の希望はない。
 それに。レアナは物心つく前から覚えていた小説を思い出す。
 嫉妬に狂って、一生を棒に振るだなんて愚かなことを私はしない。
 レアナはミアと皇帝の恋愛を応援することにした。ミアを一人前のレディーとして、礼儀作法の指導者として傍に立つ。ドレスを見立て、城下に誘って甘味を楽しむ友人。相談を聞き、時に解決して見せる頼もしい姉。頼る者のいない城の中で、母のように安心できる存在。レアナはミアを守り、そして愛情を込めて接した。
 それは幽閉されるかもしれない小説の内容に、恐れ慄いたからではない。皇帝の愛に期待していないからこそ、皇帝を愛しく思っているミアを応援してあげたいと思っているのだ。
 それに、小説では神子は可哀想な子だった。妃は圧倒的な立場を利用して、神子の少女を追い詰めた。それは弱いものを虐げるなど恥ずべきことと教えられたレアナには、唾棄すべき事柄だった。だからこそレアナはミアを殊更庇護した。
 独りの不安を和らげてあげたい。恋する気持ちを叶えてあげたい。この世界で生きることに不便さを感じさせたくない。
 皇帝の愛を注がれず世継ぎも当然授かれない皇妃が、持て余した感情をミアに向けるのも致し方ないのかもしれない。まるで姉妹のように、下手をすれば親子のようなレアナとミアを見て同情を寄せてしまう侍女は多かった。
 レアナはミアと皇帝の距離を近づけようと画策する中で、ふと手元に視線を落とす。護衛騎士のポールに頼んで取り寄せた新聞には、随分と断定した物言いの言葉が踊っている。
 『ケビスを率いるのは隠された皇族である』
 市民の読む新聞の内容にしては、随分と妄想を盛り込んだ内容である。あまりにも事実に即していないので、レアナは眉間にシワが寄ってしまう。
 ケビスとは、現在帝国を悩ます反皇帝主義の集団だろうとされている。だろう。されている。などと曖昧であるのは、ケビスという犯罪組織の全貌が明らかになっていないからだ。辺境の爆発騒ぎから貴族の屋敷から芸術品を盗み出すまで、幅広い犯罪に手を染めている。犯行声明であろう神殿関係者しか扱えぬ紙が残されている以外、何一つ痕跡を残さないのだ。
 これにはケビスを追いかけているルマン提督も、頭の痛いことだろう。
 帝国に仇なす組織を、皇族が率いている? 妄想にしては随分と過激だ。レアナは辟易する。
 皇帝と、その弟のルマン提督。プリティナの皇族はその二人しか存在しない。先代皇帝が納めた混乱の治世では多くの皇族が死亡するか、皇族の地位を放棄して国外に亡命していった。皇族二人が献身的に帝国を支えているのに、その皇族に疑いの目を向けるような記事を書くなど不敬にも程があろう。
 しかし、ケビスを放置するわけにはいかない。レアナは皇妃として出来得る限り、ケビスのことを調べていた。
 小説の中で嫉妬に狂った妃は、神子の少女を襲わせ命に関わるような重傷を負わせてしまう。妃であるレアナは当然ミアを襲わせるなんてことはしないが、ミアを襲いそうな危険な組織としてケビスに注視しているのだ。神殿で行われる神力試験の結果は出ていないが、もし神力を持っている神子だと判明したら帝国の象徴として露出も多くなる。神力を狙う者、妬む者、ミアの存在を邪魔と思う者も現れるだろう。それらから守ってやりたいとレアナは考えている。
 神力試験に同行してあげたかったな。レアナはため息を溢す。
 テリア財務官は歯に衣着せぬ物言いをするので、ミアが真面に捉えて反感を買ってしまうのだ。道中、激しい喧嘩が繰り広げられるだろう。
 とはいえ、ケビスの犯行声明に近い痕跡が神殿由来の品なので、皇妃の安全が確保できないと同行は許可されない。神殿が例えケビスの巣窟であったとしても、神力が本物かどうか未確定なミアの扱いを決めかねているはず。即座に危害が及ぶことはないだろう。聡いテリア財務官が一緒なら、上手く立ち回ることができるはずだ。
 レアナは新聞を畳んで立ち上がった。
 この先を不穏な気配が渦巻いているが、立ち止まることは許されない。何事もなければ良いのだがと、思うばかりだ。


■ 掠れた声からしたたる甘露 ■

 皇帝は気が狂いそうな程の怒りを抱えていた。腹に抱えた怒りは熱という感覚を通り過ぎて燃え上がり、消すことのできない炎は痛みも苦しみも惜しみなく皇帝にもたらす。この世界において何事も思うがままだった、最高権力者であろう皇帝にとって初めての苦悩と言えることだった。
 皇宮での祝祭。それは未だに正体すら掴めぬ不穏な組織によって揺らされている帝国にとって、臣民達の不安を払拭する為の必要行事だった。貴族の屋敷で盗みを働いたり、辺境で火遊びをしたりする、小事と見過ごしは出来ぬがその為に行事を中止するまではせぬ徒党の集まり。確かに優秀な異母弟のルマン提督が何の手掛かりも報告できぬ狡猾さは目を見張るが、信頼する肉親が目を光らせているのなら自由には出来ぬと皇帝は思っている。
 妃であるレアナも警護の増強に言及したが、それは一般的価値観として当然の対応だった。臣民達の不安を軽減させる為、例年にない警護体制となった。どんな名高き貴族であっても荷物検査を行なったし、剣帯は事前に申請登録した護衛官のみに認めた。
 それなのに。
 皇帝は体を丸め、怒りに身を焦がす感情を堪える。
 ケビスは万全の警護体制をすり抜けた。皇宮の宴席で狼藉を働いた。
 被害者が誰よりも守りたかった妻であったのが、皇帝の怒りに火を注いだ。その冷静さは炎のような怒りにすっかり呑まれていた。逃げ遂せた犯人が目の前にいたならば尋問もせずに、その首を切り落としたい激情に燃えている。騎士団長であるポールだけは、滲み出た殺意に心配そうな眼差しを向けたが、妃を守れと言えば『御意』と応じて下がった。
 声を荒げなかったのは信頼しているルマンのお陰だ。優秀な彼は身を挺して妻を守ってくれた。深々と矢が刺さり、鏃に毒が付着していたのか意識を失っているが、急所をうまく外したらしく命に別状はないらしい。毒は強いようで治療は適切に行えたが、意識が戻るまで少し時間が必要だと医師から報告があった。
 脂汗を浮かべ苦しそうな表情で横たわる肉親を思い出し、皇帝も苦しげに眉根を寄せる。
 穴が開くほど見た宮殿の見取り図。宴会の後に行方を眩ませた使用人達の報告書。狙撃手がいるだろう場所の捜索や、宮殿に留め置いた貴族達の取り調べなど様々な報告書が積み上げられている。皇帝手ずから捜索に乗り込んでいるが、こうも収穫がないと雲を掴むようである。
 ケビスとは、一体何者なのだろう。
 帝国に仇なす組織。その存在は全てにおいて謎に満ちている。
 第一、先帝まで続いた騒乱は収まり、現在は多くの臣民が平和を享受している。税の取り立ては厳しくなく、難しかった貧民政策はレアナが進言した辺境の開拓で多くが改善した。辺境は一つの地方都市と名乗れるほどに盛り立てられ、貧民としてここで生きるよりもずっと良い暮らしをしているという。貧民の影響で乱れた首都の治安も、民の不満も良い方向へ向かっている。
 ただし、貴族達の不満は溜まっていると皇帝は認識している。満遍なく治世を行なっているつもりだが、肥えた者が満たされるにはより多くの恩恵を与えなくてはならない。会議で不満を募らせる貴族達の醜い顔を思い出すが、帝国に牙を剥けば一族全員が処刑されることを理解しているのも彼らである。裏切るならば相当の覚悟が必要で、それがあるようには見えなかった。
 レアナの怯え切った顔が、脳裏に焼き付いている。
 そんな顔をさせてしまった己の不甲斐なさに、握り込んだ手を爪が食い込んで鋭い痛みが腕を這い上がってくる。何日も灯も灯されず固く閉ざされた扉の向こうで、一人怯えていると思うと息ができなくなる。先日、懇意にしていたシヴァが訪れたことで、部屋でお茶を興じることができたとポールから報告を聞いて皇帝も久々に食事が喉を通った。
「早く、レアナが怯えることなく過ごせるようにせねば」
 恋を自覚した皇帝は、溺愛するあまり思考が極端になっている。それでも最終的には国の平和になるだろうと、テリアは皇帝の独り言を聞き流した。
 今日も憎らしいまでの晴天だ。燦々と日が差し、緑が鮮やかに色づき、もうすぐ花の季節を迎える頃合いになる新しい年の始まり。この季節が嫌いな民は誰もおるまいと、皇帝は窓から鮮やかな中庭を見下ろした。麦藁を編んだ日除け帽を被った庭師達が丁寧に仕事をする姿が、緑の中に点々と見えている。
 そんな中に、宝石のような輝きが一つ。
「!」
 皇帝は勢いよく立ち上がった。
 美しい淡紅の輝きは、愛しい妻の髪だ。背中まであるサラサラとした長い髪は、素晴らしい色艶は世界中にあろう金銀宝石もくすむ程。しなやかな腕の振りも足運びも、少しだけぎこちないが間違いなくレアナのものだった。部屋を出て、日の下を散歩している。奇跡のようで、あらゆる感情が感謝の念に押しつぶされて感動に塗り変わっていく。
 もう、我慢などできなかった。テリアの静止の声など、扉を開け放った拍子に掻き消えた。足がもつれる。一刻も早く会いたいが為に、頭が前のめりになって歩き難くなっているからだ。歩き難いなら走れば良い。小走りになっても、深紅の絨毯が敷き詰められた廊下は果てしなく長く、白亜の壁面と等間隔の窓は永遠に続くとすら思う。レアナのいる中庭に辿り着く頃には、皇帝の息はすっかり上がっていた。
「レアナ」
 己を少しでも早くレアナに近づけたいと声を張り上げなかったのは、立派だと皇帝は自画自賛した。妻は少しやつれたような目元だったが、相変わらず美しかった。侍女達が磨き抜いたからだろう。華やかな花の香りが近づく度に強く感じられる。
「もう、良いのか。体は、その、気持ちも、大丈夫なのか?」
 喉が焼ける。もっと優しい声色で安心させるよう言葉を紡いであげたいのに、喉の奥から出てきた言葉は何とも気の利かない途切れ途切れの拙い単語の羅列だ。
 それでも、レアナは微笑む。詫びるように眉尻が下がり、淑女の礼が滑らかにスカートの裾を摘んで香りを振りまく。さらりと溢れる長髪は、まるで流水のように光を吸い込んで輝いた。
「ご心配をおかけしました、陛下」
 心配した。誰よりも心配したと思っている。
 それでも、襲撃に命の危機まで感じた妻の恐怖を思えば些細な事だ。目の前で崩れ落ちたルマンの姿に、自責の念も強かろう。心細き令嬢なら、もう二度と表舞台に立てぬとも誰も責める事はできぬ。
 それでも、レアナは日の下に出てきた。なんと、強い娘であろうか。皇帝は思う。
 胸に強く握りしめた手を引き寄せ、震える声で妻は当事者として取り調べを受けたいと申し出た。その言葉に皇帝も護衛に控えていたポールも驚きを隠せない。心の傷を考慮し、取り調べや調査からは距離を置くように計らっていたからだ。
 それでも、妻は震える声を叱咤して言うのだ。
 何と逞しい、気高き女性なのだろう。皇帝は胸が怒りとは違う熱で満たされていくのを感じた。妻とはいずれ世継ぎの子を産むだろう、庇護すべき存在と皇帝は認識していた。歴代の皇帝から脈々と受け継がれた教育が、そうであるべきと今の皇帝にも叩き込まれた。
 だから、怖いと泣いてよかった。
 だから、逃げたいと申し出てもよかった。
「混乱しているのか記憶は曖昧です。それでも、少しでも、お力になりたい」
 真っ直ぐこちらを見る瞳の力強い輝き。震えてなお、覚悟を響かせる声。
 この者しか、我が妻と成り得る者はいない。
 皇帝ははっきりと悟った。


■ 輪郭がぼやける恍惚 ■

 レアナは最近の皇帝の様子が、少しばかし変だと言うことにようやく気がついた。かつての執務三昧でこちらから訪ねなければ数ヶ月も顔も見合わせることのない人物が、連日のようにレアナの元に足繁く訪ねてくる。午後のお茶の時間に会議がなければ誘われ、散歩の時間にわざわざ共に歩く時間を作ってくる。妻なのだから、当然の交流といえばそうなる。
 しかし『愛情を求めるな』そう結婚条件に求めた人物だ。レアナも嫁いだ直後は、実は表沙汰にできない想い人でもいるのだろうと思ったがそんな影もない。仕事中毒と言わんばかりに執務に審決を注ぎ、伝説の神子を正妻に迎えるんだろうという冗談すらも本気に見えた。女が嫌いという男性も多いが、受け答えも態度も嫌悪感は感じない。
 一体、なぜ、皇帝は『愛情を求めるな』と事前に伝えてきたのか。
 考えて導き出したのは、恋愛や夫婦間の交流が煩わしいのだろうと結論に至った。正妻でないのも、世継ぎになかなか恵まれない言い訳に出来るからだろうとも思った。自分の時間を大切にしたいという人は一定数いて、素晴らしい才能や知識を持った人格者も多い。レアナも読書は好きだったし、理解はある。
 初めて皇帝がレアナに触れてきた午後の日差し柔らかなある日。日が傾くまでずっとレアナの手を摩っていたが、あれが好意からくるものではないと感じていた。好奇心から来るものだと、愛しさも感じられない手付きは物語る。
 あの日にレアナは『皇帝が己に好意を持っていないんだ』と、はっきりと悟った。
 後継を産み立派に育て一族を繁栄させるべく教育されたレアナは、存在意義を取り上げられるほどの事実だ。子供は好きだったし、子供を授かれないことを気遣われるのは苦痛だ。それでも、相手は皇帝だ。婚姻は反故に出来ない。事前に『皇妃は皇帝の愛情を望んではいけない』と通達されたのだから、それに同意したと己を納得させねばならない。
 レアナの決意は様々な覚悟と苦悩の上に下された、想像以上に堅いものだった。
 だからこそ皇帝が歩み寄ってくる事は、戸惑いを通り越して不審にすら感じた。今更に距離を詰めてこられるのを、レアナは勘繰る。
 正妻候補であるミアを、神子の修行が終ったのを見計らい妻に娶ると思った。そう思って、修行へ出る前には神子と皇帝が共に時間を過ごせるよう心を砕いたものだ。ミアは皇帝へ好意を抱いたようだが、皇帝の心は動く様子がない。やはり、異性の交流が煩わしいのであるならば、神子であるからと好意に直結しないのだろう。修行を終えれば正式な婚姻を結ぶとなっても、空席の正妻にミアを据えれば良いだけ。皇妃であるレアナと共に妻として皇帝に仕える事は歴史上問題もなく、国民の理解も得られよう。ケビスの襲撃は皇帝の差金なのではと頭の隅に浮かぶが、このタイミングでレアナが亡き者になれば疑惑の目は皇帝に向くので意味がない。
 レアナはため息を零した。
 一日一日と緑が濃くなり、花々が国を華やかに彩る季節だ。暖かくなった気温に、人々の表情は明るくなる。城下の人々との交流が一層楽しくなる頃合いだが、皇帝が距離感を詰めてくるとなると以前のような自由な振る舞いは難しくなる。
 陛下は自分をどうしたいのかしら? 聡明なレアナも首を傾げる。
 そして、今一度首を傾げた。
「今日は皇宮に誰かお見えになるの?」
 数日前から侍女達はレアナの食事や睡眠に、言及するようになっていた。美容は一日にしてならず。常日頃から栄養や睡眠に気を使っているレアナでさえ、来賓の際には数日前から管理が厳しくなる。来賓にお目見えする前日に夜更かしでもしてしまって、目の下にクマでもできたら国の恥であるからだ。
 そして今日は起床から目まぐるしい予定が立てられている。食事の時間、入浴、マッサージ、髪の毛を漉き解して結い、爪を飾り、紅を差し、ドレスを着る。鏡の前の女性は、まさにプリティナで最も美しい存在であろう。
 隣国の王かそれに等しい立場のお方でもお見えになるのかしら? 何人か頭に浮かべていると、視線の先にいた侍女頭は『この後のお楽しみです』とやんわりと笑った。若い侍女達は楽しみが堪えきれず、顔を見合わせて溢れんばかりに笑みを交わしたり、楽しげに言葉を交わしたりしている。お喋りの内容はレアナが綺麗だとばかりで、隣国の美しい王太子や付き添いの騎士に現を抜かしている様子はない。
 襲撃事件で塞ぎ込んだレアナを、一番近くで心配していた侍女達だ。部屋から出て、食事を摂り、散歩をし、読書に興じれるようになって、涙を浮かべて喜んでくれた。レアナが最も信頼するべき侍女達を疑う訳にはいかない。鏡の中のレアナは、見惚れるような笑みを浮かべた。
「そう。じゃあ、楽しみに待っていることとしましょう」
 レアナ様、お綺麗です!若い侍女達が堪えきれずに、頬を染めて褒める。
 支度が終わると馬車に乗せられ、移動する事少し。都に程近い湖は、ちょうど素晴らしい時期だ。湖の岸辺は遮るものがなく日の光が惜しみなく差し込むことから、縁取るような色とりどりの花が咲き乱れている。その上を蝶が舞い、渡り鳥が湖の上で緩やかに寛いでいる。凪いだ湖面は鏡のようで、紅に染まる空と森と遠くの山々を逆さに写し込んだ。
 まだ嫁ぐ前に訪れた時は、この時期にはピクニック日和と恋人や家族で賑わっていたのを覚えている。しかし到着したのは夕刻となった時刻。人々はすでに帰宅の途についていて、目の前で出迎えたのはたった一人だった。
「よく来てくれた、レアナ」
 皇帝陛下である。夕焼けに顔が赤らみ、『今日は、とても、いや、いつも以上に、綺麗だ…ぞ』的な世辞がぼそぼそと口から漏れている。そっと手を差し出されれば、淑女として叩き込まれたレアナは反射的に皇帝の手を取った。花で飾られたボートに導かれると、皇帝自らオールを握り漕ぎ出した。
 こ。これは。レアナが『はっ』と息を呑んだ時には、すでに湖面の上に皇帝と二人っきりである。侍女達の献身を、気候の穏やかさに良くなっていた気分が氷点下に晒されたように硬くなる。
 いや、断る術も、拒否する理由もない。粛々と夫婦の時間を過ごして、皇宮に戻れば良い。レアナは強ばる気持ちを撫でて和らげようとする。
「レアナ」
 皇帝が名を呼ぶ。最初に呼ばれた時は書面に書かれた文字を読むような感情のなさだったが、今は日差しのように暖かく柔らかいと思える。顔を上げると足元のランプに照らされた皇帝は、赤らんだ顔で促すように視線を彼方へ向けた。
「そなたと、この風景を見たかった」
 この風景。レアナも皇帝の後を追うように視線を向ける。
 このプリティナで最も美しいと言われる風景だ。多くの芸術家がその美しさを紙に留めようと題材に決めた景勝地。多くの人々が親しい人と訪れ幸せな記憶を紡いだ場所。それが、目の前に広がっている。
 頭上の星々が湖面に映り込んでいた。まるで夜空に船を浮かべているようで、漂う花々の香りがふんわりと二人を包み込んでいる。三日月の光が、日中の暖かな残滓に揺れている。時々、渡り鳥の鳴き声が愛らしく響いた。
「きれい…」
 ようやく紡いだ言葉は上の空で、思わず腰が浮いてしまう。
 風が山から吹き下ろされる。岸辺に咲いた花々の花弁が、まるで星がこぼれ落ちたかのように舞い上がりレアナに吹きつけた。まるでこの世のものではないような美しさ。
 しかし、レアナは忘れていた。
 彼女がいるのは、湖上に浮かんだボートの上だということに。
 強風がドレスを掴み、バランスが崩れる。世界が回り、星々の光は湖と空をかき回したように乱れた。体を抱き止め包み込んだのは、まだ暖かさの残る湖の水。レアナをドレスの上から抱き留めると、そのまま乙女を水面から引き摺り込もうとする。月の光が瞬く間に遠くなる。暗闇に引きずられながらも、レアナは世界が美しいなと思っていた。自分の吐く息が真珠のように白に虹を宿らせて輝いていて、昇っていく様が幻想的だった。
 死の吐息の冷たさを認識したレアナは、思った以上に心穏やかだった。このまま皇妃として飾られて生きる一生には、あまり興味がなかった。こんな綺麗な世界を見せて死なせてくれるのなら、それもそれで良かったのかもしれないと皇帝に感謝すらした。
 光を割いて、闇が手を伸ばす。それを、レアナは美しい瞳で見ていた。

 苦しい。そう思った瞬間、激しく咳き込んだ。咳き込んで咳き込んで、レアナは肺の中の全ての空気を外に出し切った。口を押さえた手に水が零れる感覚を覚えると、腕ごとレアナは抱きしめられた。
「レアナ! よく無事で…!」
 まるで土砂降りの雨の中にいるで、濡れそぼった全身に絶え間なく雫が落ちてくる。押し付けられた頬越しに、心臓の脈打つのを感じている。必死な声が即座に誰かに結びつかなかったが、もぞりと顔をあげると至近距離に皇帝の顔がある。
 金色の瞳が硬質な光を帯びて、レアナを写し込んでいた。それをじっくりと見つめて、キツく目を閉じると、皇帝はレアナの肩に顔を埋めた。細かく震えているのを、レアナは全身で感じる。
「心臓が…凍りつくかと思った…。そなたが余を好いていないと解った時、自業自得でも同じように痛んだ。だが、目の前でそなたを失うことに比べれば些細なことだ」
 驚きに息を呑む。レアナが愛情を皇帝に抱いていないことを、皇帝が傷ついた? 皇帝がそう望んでいたのに? レアナの胸中に疑問が渦巻き、息苦しさを覚える。
 呻いて少し腕で胸を押すと、皇帝は『苦しかったか?』と腕の力を緩めた。背中に回った腕が解かれると、レアナはようやく身を離して世界を見る。皇帝の背後には星々を流し込んだ湖面が穏やかに広がっているが、もうそこに近づいてはならぬと手ががっしりと二の腕を掴んでいた。
 濡れた体を冷やさぬよう、防寒用の外套に包まれている。皇帝はずぶ濡れで雫が絶え間なく滴っていて、周囲に集まった侍女や護衛達は心配そうにレアナに視線を注いでいる。
 私は湖に落ちた。皇帝陛下が私を助けてくれたんだ。そう、ようやく認識したレアナは、頭を下げて謝意を伝えようと身じろいだ。しかし、皇帝の力強い手はそれすらも許さない。
「出来るだけ長く、余の傍にいて欲しい」
 必死な黄金色の瞳が、切実な思いを滲ませてレアナの瞳を覗き込んだ。
 吐き出すような言葉は、目の前の男が皇帝ではなく一人の男としての発言だった。この世界でたった一人。見目麗しく世界でも有数の大国である皇国の皇帝ではなく、ただのレアナの夫として彼は訴える。
「余は愛を知らなかった。心の臓が飛び出さんまでに激しくがなりたて、息苦しくなる衝動を、世界があり得ないほどに眩く鮮やかになることが、比喩だろうと嘲笑っていた。恐ろしい変化だ。正直、奇病と疑いたくもなる。しかし、そなたと共にあることで甘く幸福に感じるのだ。レアナ、名を今呼ぶことが出来るだけで、こんなにも喜びに溢れて…」
 喜びのあまりに言葉を詰まらす人間を、レアナは初めて見た。服を着たまま水に飛び込み助け出す。それがどれほど無謀なことか。皇帝である高貴な身分が失われることが、皇国にとってどれほどの損失か。それらを一切合切かなぐり捨てて、レアナを選んだのだ。
 胸が苦しい。
 心臓の音が煩くて、目の前の男の声が聞こえなくなってしまいそうだ。そんなことは嫌で、心臓が今止まってしまえば良いのにと思う。心臓が止まったら死んでしまうだろうに、それ以上に目の前の殿方の全てを知りたいと思う自分がいる。
 そんな自分が溢れてくる。相手が望んだと、自分も承知の上で応じたと、蓋をして押さえ込んでいた何もかもが溢れ出てくる。
 執務で疲れているだろうからと、ケーキを選んでいる楽しさを。中庭で散歩していて、探していた姿を見つけ視線が合った時の喜びを。お茶を共にしたいと陛下が申し出ておりますと、侍女頭が伝えにくるのを心待ちにしていたことを。鮮明に、次々と、溢れた一つ一つが新しい意味を持って心臓を高鳴らせてくる。
 あぁ。私は、皇帝陛下が好きなんだ。
 そう思った瞬間、レアナの気持ちが晴れ渡った。いままでモヤモヤとグルグルと思いあぐねて深い森の中を彷徨うような出口のない迷路を歩かされているような感覚が、ひたすらに広がる平原のように、雲一つない晴天のようにすっきりと取り払われる。
 好きなんだって、認めて良いんだ。
 もう、目の前の男性は『愛情を求めるな』などとは言わない。
「陛下…。私の返事を示しても宜しいですか?」
 レアナの感情をありのままに伝えても、受け止めてくれる。不思議と、目の前の夫は応じてくれる確信を持っていた。レアナは皇帝の襟に手をかけ、ぐっと顔を寄せる。視界いっぱいに驚きに見開かれた黄金色が、レアナの朝を彷彿とさせる赤を含ん紫と混ざり合って不思議な色に変わる。
 触れた唇は互いに冷え切っていた。湖の水の生臭さで吐息も控えめに言って最悪だ。それでも、レアナは目の前の男性と唇を重ねたかった。今、とてもそうしたかった。
「私は貴方を、とても愛おしく感じております」
 ついに心通わせた夫婦は、互いに蕩けるような笑みを交わした。

 『末長く幸せに暮らしましたとさ』そんな言葉がこれ以上もなく似合う、理想の夫婦が生まれるまでの物語はこれにて一区切り。侍女達の華やかな噂話が皇国を駆け巡り、国一番の美男美女である夫婦の仲睦まじさは世界も時代を超えて理想として語り継がれていく…。