ごちゃまぜ雑記ログ7


■ かぞくのかたち ■

 藝術大学の文化祭は、まるで深夜の歌舞伎町のような賑わいだな。そう、津詰徹生は思ったことでしょう。
 覆い被さるような薄暗く狭い闇の中を無数のネオンが飾り立てるように、生徒達の作品が所狭しと並んでいます。娘が先行している絵画だけかと思えば、長身の己を超える大きな彫刻、凄惨な現場を映した鑑識が撮った写真とは違い美しい風景や日常を切り取り、椅子が並べられた暗所を覗き込めば自作映画が上映されているのです。音楽を専攻する者達があちこちでセッションを繰り広げ、声を合わせた合唱は傍で迸る呼び込みにだって負けやしません。
「あら、初めての娘の文化祭は刺激が強かったかしら?」
 どんな現場にも踏み込むベテラン警部の二の腕を、ほっそりとした指先が触れる。
 白髪混じりにうっすらと色がついたレンズの黒縁眼鏡が威圧的な元夫は、妻の灯野泰子を見下ろしました。ベテラン警部の優秀な記憶力に残っている若さはすっかりと失われ、口紅の色に比べ顔色は白くやつれて白髪が多くなっていました。生活費は送っているはずでしたが、その指先も腕も、骨が浮き出て『ちゃんと食っているんだろう?』かと心配になってしまいます。
「強くなんかねぇって。最近の若い奴もなかなかやるモンだと思ってよ」
「あらあら。強がり。ファクシミリで招待状送っても気が付かなかったくせに」
 ちょっと古い頑固親父は、子供っぽく唇を尖らせました。
「仕方ねぇだろ。ちょっと現場に出てて、ふぁ、ふぁなんとかから出てきた奴を机の上にぽいっと置かれちまったんだから。あれは襟尾が悪い。報連相の大切さがわかってねぇんだ」
「部下のせいにして悪い人。めんどくさがり罪で逮捕してもらいましょうね」
「そんな罪状ねぇよ」
 あら、あります。そんな朗らかな笑みを浮かべる夫婦が、離婚して疎遠になって久しいと理解できる学生はいなかったでしょう。二人はおしどりのように学生の波を割って、一直線に進んでいました。
 元夫婦が足を止めたのは、日本画科。今まで見てきた油絵具で描かれた写真のような写実的な絵とは違い、水墨画や浮世絵といった伝統的な画風が額に飾られて壁に掛けられています。
 掛け軸を直していたベレー帽が、人の気配に気がついて『いらっしゃいませ!』と元気に振り返りました。そしてその笑顔が、訪ねた男女を見てひくっと引き攣ったのです。
「今年も招待ありがとう。あやめ」
 ぎこちなく微笑んで迎えた灯野あやめに、母は眉尻を下げて穏やかに言います。そんな女性の背後に聳り立つ大きなスーツを着た壁を、現役美大生は一瞥して応じました。
「学費出してくれてるんだから、これくらいはしなさいって教授が…ね」
 お節介な教授に内心感謝を述べながら、会話の引き出しが少ない警部は事情聴取のように聞きました。
「どれが、お前の作品なんだ?」
 心の中の襟尾が『へぇ! どれも凄い作品だね! 君のはどれだい?』と柔らかく尋ねましたが、そんな語彙が人生のほとんどを現場一筋で過ごした男にあろうわけがありません。必要最低限。高圧的で、低い声。その声に柔らかいセーターに包まれた肩が強張るのを見て、やっちまったって顔にでかでかと書いてしまっています。
「あ、いや、その。俺は芸術なんかよくわかんねぇからよ」
「貴方も浮世絵くらいは知ってるでしょう?」
 富嶽三十六景の言葉は知らなくても、大波の彼方に見える富士の山の絵を『浮世絵』という程度は知っています。しかし、線の木版と各色の木版を掘って、上手に一枚の紙に刷り上げるなんて工程を説明されても、面倒で難しいんだなぁ程度です。そんな様子を母娘も察して、しょうがない人だなぁと呆れ顔。
「今年の展示はこれ」
 そう示された一枚の絵の前に立って、元夫婦は目をぱちくりと瞬かせました。
 なんだこりゃ。口が呆れて半開き。
 その絵は浮世絵ではありましたが、元夫妻が知っているような人物と風景が描かれるようなものではありませんでした。目の覚めるような黄色の半熟卵の上に、真っ赤なケチャップと彩りのバジルを散らしたオムライス。鯖の皮に十字の切れ込みを入れてたっぷりとした味噌で煮て、輪切りの生姜がちょんと乗せた鯖味噌とご飯と小さい漬物の定食。ハイカラなガラスのグラスに、赤くみずみずしい苺が綺麗にのって、ジャムやスポンジケーキ生クリーム、さらにアイスをふんだんにあしらったボリュームたっぷりなパフェ。テーブルクロスは白と空色のチェック柄。赤い塗り箸、温かい木目の美しいスプーンに、パフェ用の細く長い銀の匙。それがはみ出さんばかりに、大きくぎゅうぎゅうに一枚の絵に押し込められたものでした。
「今回は顔料を食材で代用してみたんだ。刷り上がったばっかりの時は、味噌とかトマトとか苺の匂いもしたのよ。教授からも面白いって言われて、画材メーカーの人も感心してたわ」
 そりゃすげぇな。そう、カラカラの喉で唸るのが精一杯です。
 しかも、ご覧になりましたか? 浮世絵の下には、『かぞくのかたち』なんて題名まで付いているのです。これの何処が家族の形なんだ? 芸術家ってのは、とんとわからん。理解を放棄した男を後目に、女達は昼食の話です。
「男の甲斐性を発揮するチャンスを差し上げましょうね」
「なにが『差し上げましょうね』だ。奢らせる気満々だろ」
 とは言いつつも、女子供に昼食代を出させるだなんて、津詰徹生の男が廃るというものです。離婚した元妻と疎遠になった娘に、昼飯を奢るくらいどうってことありません。先日は部下と世話になった女子高生達の胃袋に、銀座の寿司が無限に吸い込まれたせいで財布は軽いですが、男の独身世帯の出費なんて微々たるもの。今度の給料日までは凌げるだろうと、算盤を弾きます。
 流石、日本中から学生が集まる大学の周辺は、値段の割に量があり、そして美味しい店が揃っています。あれよあれよと連れてこられたのは、赤と白の日除けにレンガの壁。ガラスの嵌まった木製の扉には、開けるとりりんと涼やかな呼び鈴が鳴るハイカラな喫茶店です。革張りのソファーに座ると、和服の女将が温かいおしぼりとメニュー表を持ってきてくれました。
 それぞれにメニュー表を広げて、『あら』と灯野泰子が紅を塗った唇を綻ばせました。
「このお店、和食があるのね」
「元々料亭だったのを、喫茶店に改装したんだって。この辺じゃ、ここが一番美味しいよ」
 泰子は和食が得意だった。そう、津詰徹生は思い出します。
 朝一番に出汁をとって作ってくれた味噌汁は、どんな具材であっても美味しく温かかったものです。ほんのりと甘いだし巻き卵を毎日弁当に入れてくれるようになって、若き刑事がどれほど喜んだか妻であった彼女は知る由もありません。
 女将を呼んで口々に注文してしばらく、テーブルの上は既視感でいっぱいでした。津詰徹生は苺のパフェ。灯野泰子は鯖の味噌煮定食。灯野あやめはオムライスです。丁度テーブルクロスも白と空色のチェック柄です。
 元夫の前に鎮座した苺パフェを見て、元妻は目元を顰めました。
「貴方、ご飯も食べないで、甘いものばかり食べているの?」
「いや。きちんと飯は食ってる。ここに来る途中であんぱん食ったし」
 ぺしんと、柔道で鍛え抜かれた太ももを細い手が叩きます。
「あんぱんは食事に含まれません」
 えぇー。同僚には決して見せない情けない顔で、鬼をも泣かすベテラン刑事が呻きます。
「相変わらず好みがバラバラだね」
 呆れたようにテーブルを見下ろした娘は、卵とチキンライスを絡めて掬い上げると頬張りました。目の前に並んだ両親が、娘の顔を見て同じタイミングで自分の口元を突いて見せるのです。
 ケチャップがついた唇の端をぺろりと舐めると、灯野あやめは笑ってしまいました。
 他の誰でもない、我が家だけの家族の形。
 うちらしいっちゃ、うちらしい。


■ 雪国の写真家 ■

 おじさん。キラキラしてる。
 濃い霧が星のように瞬き出したのに気がついたのは、背負っていたレンだった。とろりとした練乳のような白は、目の前の木々すら浸して太い幹や僅かな葉の輪郭を見せるばかり。十歩先は完全に消失しており、眩い目を灼くような日差しの中に放り出されているかのようだ。
 足を止めて空気のように軽いレンを背負い直し、背筋を伸ばす。じいちゃんが患っていた白内障を体験出来るような白濁した世界が、レンの代わりにずしりと覆い被さってきた。
 確かに、白く均一だった霧が煌めいている。
 じっと見つめていると、その煌めきは星のように静止していない。濃霧に溶け込んだ光を反射して、七色の光を振りまいてと落ちてくる。ひらひらと花びらのような一つを頬に受け、冷たく水っぽい感触がつっと流れ落ちる。
「まさかこれ、雪…か?」
「ゆき!?」
 おぉっと。レンが興奮したように肩に手を置き、ぐっと上半身を伸ばした。オレは慌てて踏み留まって転ばないようにする。どんなに軽くたって、暴れてバランスを崩されたら転んじまうだろうが。
 オレが背負うレンを横目で睨めつければ、満天の星空のような瞳が飛び出さんくらいに見開かれている。透き通って妙に白っぽい頬であっても、興奮にさっと頬に朱が走る。
「雪って聞いたことある! 凄く綺麗な氷の結晶が、ふわふわ降ってくるんだよね?」
 そうそう。おおむね、正解。
 とはいえ、オレも雪を見たのは片手で数えられる程度。歴史的な大寒波なんてものは十年単位では訪れないし、故郷の山はどんなに標高が高くても雨が降るばかりだ。遥か遠くの地で家をも飲み込む豪雪だったり、手袋に付着した繊細な氷の結晶だったり、樹木の影にキラキラと反射するダイヤモンドダストだったり。オレの雪の知識は有名な写真家の写真からで、レンと大した差は無い。
 レンに『大人しくしてろ』と言おうとして、自分も変化に気が付く。
 吐く息が白い。
 空調が適温に設定された空間のように、暑さも寒さも風すらも気にならなかった世界で、初めて肌寒さを感じた。雪を見た事がなくても、気温が下がれば息が白くなるのは知っている。いや、暖かい日差しの中で微睡めば暖かく感じるように、雪を雪と認識して寒さを実感したような感覚。
 ボウが近くにいるのだろうか? この不気味な世界で、恐ろしい目に遭うのだろうか? 警戒に体が強張ったのを感じてか、重たい頭を振ってレンが周囲を見渡す。
 白い霧の中に、ほんのりと暖かい色が滲み出した。赤い光が金色に解け白に溶け込んでいく、神の炎の光。例えボウが近づいてきたとしても、神の炎の側なら安全だろう。オレは光に吸い込まれるように、神の炎に向かって歩き出した。
 濃霧はいつの間にか、降り頻る雪に変わっていった。足元で踏み締めていた落ち葉は、雪に埋もれてしまったのかぼすぼすと革靴を足首まで飲み込んでいった。
 雪が眼鏡のレンズに触れては溶けて、雨粒のように視界を邪魔する。それでも目を凝らせば、炎の傍に影がある。
 神霊の像か何かだろうか? 大きな背中を丸めた後ろ姿は、熊だ。
 歩調を緩めて立ち止まろうとする距離で突然、熊が勢いよく振り返った。
 がちゃりという音となって鼻先を叩いたのは、突きつけられた猟銃の鋒だった。熊は銃を使わない。驚いた視線の先にいたのは、分厚いコートで着膨れ、首が無くなるほどに巻いたマフラー、耳を隠すほど深々と被ったニット帽。まるで夏の日差しに焼かれたように、肌の色が黒い。この雪が降る世界に相応しい身なりの男だった。
 思わず目を見開いたが、それは相手も同じ。
 熊の影からレンよりも年上だろうが、華奢な娘も驚きの顔を覗かせた。
『ヒト!』
 その場全員が、同じことを叫んだ。
 驚いた拍子に引き金を引かれる事はなかったが、相変わらず銃口はこちらを向いている。レンを背負っているから手を上げる事も出来ず、オレは押し黙って銃を突きつける男を見つめていた。
「ヨハン! 銃を下げて!」
 いきなり男が仰け反り、銃口は天に跳ね上がった。男の背後に立っていた娘が、男のマフラーをぐいっと引っ張ったのだ。
「おい! フェイ!」
 男が転倒しないようにたたらを踏んでいる間に、フェイと叫ばれた娘がファーの付いたコートを脱ぎながら進み出る。オレンジ色の服は無難なファッションではなかったが、奇抜とは思えないフォーマル感があった。黒い髪と瞳が白い肌に二分されたくっきりとした顔立ちで、オレに小さく会釈をして背負ったレンにコートを被せた。
「調子が悪いの? こんな寒い中で薄着じゃ、直ぐに死んでしまうわ」
 確かに雨に濡れて山風に吹きさらされていれば、低体温で死んでしまうという逸話は山と聞く。厚く垂れ込めた雪雲から雪は際限無く落ちていて、オレ達のような薄着の人間なら直ぐ死んでしまえそうだ。
 立てる? そう言いながら、フェイは注意深くレンの様子を診ている。医療に多少の心得があるのか、その視線は的確にレンの不調を探っているようだった。くしゅん。可愛らしいくしゃみとたらりと鼻水は垂れたが、ボウの影響で消えかかっていてはどうにもならない。
「ヨハン! お湯を沸かしておいて!」
 そう言いながら、焚き火の奥の鉄製の扉の奥へレンを押し込んで消えていく。
 きぃい。ばたん。油の切れた蝶番の悲鳴と、重い扉が閉められる音が消え去ると、オレとヨハンは顔を見合わせた。気まずそうに視線を逸らすと、積もった雪に猟銃を突き立ててコートを脱ぎ始める。胸に突きつけられたコートから、じわりと熱が染み出す。
「とりあえず、それを羽織れ」
 脱いでも下には分厚い防寒具が着込まれていたから、ありがたく受け取った。火の前に座って薬缶を焚き火に寄せ始めたヨハンの向かいに、オレはおずおずと座った。
「ありがとう。オレはユージン。雪が降ってる時って、こんなに寒いんだな」
 ヨハンだ。そう返しながら、ヨハンは薄い空色の瞳で無遠慮にオレを眺めている。見渡す限り雪が積もっていて、ヨハンとフェイ以外の人間が見当たらない。それどころか、ちょっとした一軒家は雪の重みか倒壊している。コンクリートで作られた頑丈な建物は窓硝子が割れて、闇が大きく口を開けていて、人の生活感は全く感じられなかった。
 ヨハンがずいとカップを差し出してきた。カップも温めて入れてくれたお茶は砂糖もミルクも入っていなかったが、冷え始めていた体に染み入った。
「お前達は疫病が流行る前に、冷凍睡眠装置のテストに志願した奴らか? 実験段階だから解凍後に蘇生できなくて全滅した噂話があったが、当てにはならんな…」
 ジーンズと長袖のワイシャツ、さらには革靴。こんな雪の中を進むには不正解過ぎる格好を、ヨハンはそう解釈したらしい。オレも霧に包まれたらいつの間にかここにいました、なんて不思議を正直に説明する気はない。
 曖昧に相槌を打っていたオレの胸元に、ヨハンは目を留めて表情を緩めた。
「カメラか。ウェイバーンさんの持ってたものに、良く似てるな」
 オレは思わず腰を浮かべ、鹿が寄越したカメラが胸の下を叩く。
 カメラの事をボウの地では『機械の目』と呼んでいた。『機械の目』を使い、神霊達をボウから守ってきた『王』。オレ達はその『王』がいるだろう山を、ひたすらに目指していたからだ。
 王を知っているのか?
 そう問おうとして口を開いたのと、蝶番が悲鳴をあげたのは同時だった。
「おじさん! 中、すごいよ! 秘密基地!」
 錆びて動きの悪そうな扉を外しそうな勢いで開けたレンは、嬉しそうにオレの所に駆け寄ってきた。心なしか透けた感じはなくなったレンは、興奮しているのか少し前までオレの背に気だるげに寄りかかっていたとは思わせない元気っぷりだ。
 ヨハンの隣に座ったフェイは、レンちゃんにはお砂糖とミルクを、たっぷり入れてあげてねと囁いている。はいはい。フェイと同じくらい入れるつもりだよ。私は子供舌じゃないわ! 親と子くらいの歳の差がありそうな二人だが、姉と弟のようなやりとりだ。
 温かい飲み物をふーふーと息を吹き付けて啜る。当たり前の飲食行為だが、そんな必要がなかったからか新鮮だ。あちち。舌を出したレンに、オレは冷めてから飲めと言う代わりに話題を振った。
「どう中が凄いんだって?」
 レンはぱっと顔を上げると、嬉しそうに腕を広げた。
「写真がいっぱいなんだ! ここが王様の住んでる神殿なのかも!」
 オレがちらりと錆びついた扉を見る。木を打ちつけ鎖で厳重に封鎖していたのか、長年にわたる汚れが刻まれた扉だ。建物も雪に埋もれて全体は分からないが、納屋よりかは大きく一軒家にしては狭い程度の建物。とても神殿には見えなかった。
 子供のはしゃぎっぷりに、フェイは面倒見の良い姉のように笑う。
 写真。カメラ。この二つと結びついている、ウェイバーンという人名。特にオレの持っているカメラは一眼レフで、写真を撮る事を職業とするような者じゃないと持たない。性能が良い分、お値段も良いのだ。勿論、趣味という可能性もあるが、オレはウェイバーンという人物に興味が湧いていた。
 おじさんも見に行こうよ! レンがオレの袖を引く。
「ぼく、おじさんの写真も好きだけど、王様の写真もすごくいいんだよ!」
 ウェイバーンって人が王だって、決まった訳じゃないってのに。オレがちらりと向かいに座る二人に視線を向けると、フェイはヨハンと短く目配せした。ヨハンは『いいんじゃないか?』と溜息のような相槌を打つと、フェイは嬉しそうに立ち上がった。
「そうよ! 折角の尊き地球のお導きなんだもの! 貴方の大事な人の写真も、残っているかもしれないわよ!」
 さぁさぁ、どうぞ! そう蝶番を軋ませながら扉を開けると、レンが飛び込んでいく。充電式のランタンの光量を捻ると、窓が一切ない真っ暗闇が暖色の光に炙り出されていく。
 こりゃあ…。思わず唸ってしまう。
 床から天井まで伸びる棚に、ぎっしりとファイルが収められている。背表紙には几帳面な文字が書かれて、丁寧に整理されている。ここで現像もしていたのか、蜘蛛の糸のように紐が渡されて、現像済みの写真が干されていたようだ。どれくらい放置されていたのかは分からないが、干された写真は劣化して色褪せている。テーブルに広げられたファイルには、写真と共にいつどこでだれを撮ったのか、きっちりと記録されている。
 確かに『機械の目』を持つ王様の神殿って言われたら、信じてしまうな。
 趣味でも、仕事でもない。
 カメラで写真を撮る事しかできない。
 それでも、出来る事があるはずだ。
 ウェイバーンという人物の執念を、この物量からひしひしと感じていた。
「この中央に座っている子供が、外にいたヨハンよ。可愛いでしょう?」
 オレが何気なく捲っていた手を止めて視線を落とせば、そこには一枚の集合写真があった。工場だろう大きな建物を前に、従業員だろう作業着の男達が並んでいる。傍には『マルクス・OPUSロケット工場』と書き込まれたメモが添えられていた。真ん中には工場長だろう厳しい顔つきの男がどっしりと座っていて、片手でやんちゃ盛りの子供を押さえつけている。そんな様子に、妻らしい女性や従業員達が優しい笑みを浮かべているのだ。工場で働く姿、仲の良い従業員が肩を組んで笑うどの写真にも、あどけない顔の少年が映り込んでいる。
 あぁ、凄い。
 オレは次々にページを捲る。
 どれもこれもが、人々の笑顔だ。気恥ずかしそうに新聞で顔を隠そうとして、うっかり顔を覗かせた瞬間を激写された店主。遠くから見つけたのか手を振って駆け寄る子供達。井戸端会議にカメラそっちのけの奥様達。まだ付き合って日が浅いのか、手を繋いで顔を真っ赤にする恋人達。堂々と椅子に座る女医と、診てもらって安堵の表情を見せる老婆。お気に入りの椅子に各々腰掛けて、煙を燻らせる老人達。
 人々の生活がオレの中に満ちていく。
 そのどれもが温かで、幸せで、言いようもない幸福が注がれるようだ。
 オレは喉が乾く感覚を覚えながら、手が止まらない。幸せだけが続くなんてあり得ない。突然の事故に見舞われて怪我をする事だってあるし、老いと病からは生きている限り逃れる事はできない。疲れは不満を生むし、軋轢は怒りとなって燃え上がる。この笑顔に溢れた写真の裏には、どうにもできない苦しみが必ずあったはずなのだ。
 なのに、どうして?
 現像したばかりなのだろう。真新しいカラー写真は、フェイとヨハンが写っている。柔らかい笑みを浮かべるヨハンと、幸せそうに笑うフェイ。先程のやりとりを見ていて、こんな顔をするのかと驚いた。親子でも兄妹でも、友人でも、きっと普通に生きていたら共にいる事はなかっただろう繋がりの見えない二人。こんな雪の世界では大変な日々しか思い浮かばない。だからこそ、並んで、笑っている事が言葉にできないほどの奇跡に感じる。
 じいちゃんが忘れた名前でオレを呼ぶ。相手を好きになりなさい。かつて言われた言葉が、鮮明に蘇る。
 きっとウェイバーンさんは苦しみも全部知った上で、好きな人々を撮ったのだろう。そんなウェイバーンさんを人々も好いているんだ。笑顔ばかりの写真から、ウェイバーンさんの日向のような人柄が滲み出ていた。
 オレは、どれだけ笑顔の人々の写真を撮ってきただろう?
 じいちゃんが笑わなくなって、親父と喧嘩して、母親はいなくなった。初恋の相手と幼馴染の最も幸せな瞬間に立ち会わず、写真に収めてやることすらしなかった。親友の笑顔を毎日見てきたのに、その顔を撮ったか? 尊敬する上司は心配そうな顔ばかりで、世話焼きな先輩は最後は怒っていたっけ。愛した妻はこちらに顔を向けなくなって、最後に見たのはいつだったか思い出せない。あの子は、もう、二度と写真を撮ることはできない。
「おじさん。泣いてるの?」
 いや。ちょっと目頭が熱くなっただけ。
 それに居ても立っても居られない。ウェイバーンさんの写真に刺激されて、オレは写真を撮りたい衝動に駆られていた。
 この人のような写真を、今から撮れるのだろうか?
 いや、撮れるかどうかじゃ無い。
 撮りたいんだ。
「なぁ、レン」
 ずっと満天の星を見上げていたのか、銀河が焼き付いた瞳がオレを見上げた。
「オレはお前の笑顔を撮りたいよ」
 にっと笑うと、レンはキッパリと言った。
 おじさんなら、撮れるよ。ぜったい。