貴方の背中に温もりを

 見渡す限り続く浅い水面が発した水蒸気が、厚い雲の向こうから突き抜ける僅かな陽の明かりに玉虫色の霧となって世界を満たす。音を立てて水面を足早に割って進む二つの影が、玉虫色の霧の中で陽炎のように浮かんでは消える。しかし、霧によって影の姿形は見えずとも、その濃厚な血の匂いが水気を含んだ空気に血生臭さを強めて広げる。水面に点々と落ちる赤い斑点が、波紋に引き伸ばされて細長い三日月をいくつも作った。
 一寸先も淡い多くの極彩色を移ろわす霧に阻まれていたが、彼らは必死で探していた。水面の途切れる場所、地面というべき場所を探して視線が霧の中を彷徨う。赤い血が止まる事を知らず流れる体に、浅くとも体温より低い水は容赦なく体力を奪う。どんなに敵に見つかりやすい場所であったとしても、仲間の生命に関わるなら襲撃の危険など恐れる理由にもならなかった。
 やがて、空の厚い雲が途切れ光が差し込んで来た。
 暖かいひな鳥の産毛のような乳白色とも黄色とも言えぬ淡やかな光は、玉虫色に纏わりついた霧を徐々に溶かしていく。まるで綿菓子を蕩かすように消えて行く霧だが、体に纏わり付く湿気は水滴となり霧から現れた二人に幾つもの水滴を宿した。
 見渡しの良くなった世界に行く筋もの光の帯びが流れて、柔らかに地に光を落とす。霧の晴れた世界に白い中州が浮かび、二人の戦士は僅かな陸地を目指して足早に水をかき分けた。膝下程度の水嵩しかないものの、彼らが纏うマントは先ほどの霧と水を吸って非常に重い枷となっていた。特に、一人は衣に淡い赤い筋を滲ませていた。漂う血の香りは、流す本人の濃厚な疲労を如実に伝えた。
 倒れ込むように中州に辿り着いた二人を、白い砂は優しく受け止めた。
 全身を空気と横たわる水で濡らした二人は、焚火を付ける事よりも手当を優先させた。
 異国情緒溢れる鮮やかな布をバンダナのようにして髪を纏めた青年は、荷物袋を開け放つ。寒さに震える手を革製の袋に入れると、彼の腕に装着された小手が荷物と当たってカチカチと金属音を響かせた。音が焦燥感を助長させ、青年は何度も震える唇を噛み締めて鞄の中から幾つもの薬草や薬を入れたビンを取り出した。
「フリオニール」
 その様子を見かねて、騎士のような出で立ちの青年が声をかけた。芸術品のような洗練された鎧と上質な絹を思わせる生地の合わさる格調高い品を身に纏い、整った顔立ちを真面目そうに引き締め凛と研ぎすまされた気配を放つ。調和の神の信頼を受け、調和の神に従う戦士達を纏める立場にすらなっている青年である。ウォーリア・オブ・ライト。その名が意味する通り光の戦士という称号を持っていた。
 落ち着き払った声から、未だ出血を続けている怪我人には到底思えない。光の戦士は優雅な鎧を纏うに足る、洗練された仕草で荷物を探るフリオニールに言った。
「先ずは体を暖めるべきだろう」
「いや、貴方の手当てが先だ」
 フリオニールは小さく首を振って、ぴしゃりと光の戦士の言葉を撥ね除けた。
 唇の色はやや紫の色を帯び、奥歯が小刻みに噛み合ない様子が見て取れる。野戦を得意とし共に戦線を駆け巡った仲間達が信頼を置いているフリオニールという男であるが、その様子はいつもの明るく仲間を引っ張ってくれるような面影は無い。何かに責め立てられるように、怪我を負った光の戦士の治療にのみ執着している。周囲を見渡し冷静な判断を欠いたフリオニールの意識は、過剰なまでの仲間への思いによるものだった。
 フリオニールは悔しさに顔を歪め、頭を激しく振った。バンダナとして用いた布の端を飾る、色鮮やかな石の連なりが音を立てて光った。
「俺が悪いんだ。俺が、俺がもっと周囲に気を配っていたら、貴方に怪我をさせずに済んだ」
「私が油断したのだ。君のせいでは…」
 ない
 青銀色の瞳が、相手の顔を映して冷えきった。光の戦士は思わずその薄い唇を閉じ、喉仏を動かしてフリオニールに告げるべき言葉の最後の一言を飲み下した。もはや、フリオニールに言葉が届かないと光の戦士は本能的に思ったのだ。爛々と瞳から残滓のようにまき散らされた狂気にも似た責任感が、光の戦士の腹部に穿たれた傷に執着している。
 光の戦士とて確かに血を流している故に手当ても必要であるし、フリオニール以上の体力の消耗を余儀なくされている。しかしそれを差し引いても責任感に己の体に忍び寄る低体温故の疾患を自覚していないフリオニールは、己以上に危ない状態だと思った。
 光の戦士は掌大の円盤状の物を荷物から取り出す。それには精緻な火炎の魔法を記した魔法陣が記されており、魔力に感応して炎を灯す代物である。陶器で出来て若干の重みを持つものの、野営の準備等が出来ない地域に居る時にはその炎は暖を取る頼もしい存在だった。砂地の上に放るように置くと、砂地はさくりと軽い音を立てて陶器に刻まれた魔法陣を受け止めた。
 魔力を僅かに注ぎ、間もなく青白い炎が灯る。
 寒々しくも熱を持った空気が顔を撫でた事に、光の戦士は安堵の色を瞳に宿した。
 この見渡す限りの水面の続く世界も、数多くの世界の断片の一つなのかもしれない。それとも、時折遥か天空から滝のように落ちる水の様子を見ると、断片の世界から溢れた水の落ちる水溜まりなのやもしれぬ。そんな世界に迷い込んだ光の戦士とフリオニールであったが、その世界にも敵対すべきカオスの軍勢が刺客を差し向けぬ訳が無い。
 水面を照らす太陽の光は、イミテーションと呼ばれた宝石の偽りの命の体を命あるもののように輝かせた。霧に染み込む月明かりは命無き存在に息吹を与えたように白く淡く輝き、その無機物的な全てを覆い殺意を滲ませる。世界も、敵も、何もかもが光の乱反射に眩しく映り込み、人としての視覚が容赦なくかき乱される。
 何時の間に集中力を欠いたのか、その世界に落ちて日数の感覚が失せたある日が今日である。
 イミテーションの襲撃に遭ったのはつい先ほどの事だった。突然の奇襲かといえばそうではない。敵であるそれがこちらに見せた敵意に、視覚以外の感覚を研ぎすました二人が反応するのは容易かった。戦闘の準備は瞬き一つの間に整う。彼らの体から輝かしい闘気が迸り、互いの武器が滑るように存在意義を最大限に発揮してくれる場所に収まる。足は駆ける為に体を支えるような間を開け、腰はあらゆる敵の行動に即座に対応できるよう低く落ちる。瞳は敵の場所を視認できなかったが、まるで糸で結んだかのように二人は一点を見据えていた。
 イミテーションの全貌は乳白色に光を透かして虹色に彩られた霧に遮られたが、殺意は鋭い爪となって霧から飛び出し調和の神の使者を切り裂こうと動く。乾いた音が上から、水の弾く音が下から、まるで豪雨の中に居るかのように戦士達に迫った。攻撃も音と同じく間隔など無いに等しい猛攻で、強敵と渡り合っても命を奪われなかった猛者である二人すら戸惑う程だった。
 敵は人の形ではない。
 それを理解するのに然したる時間は必要なかった。
 世界は敵に味方する。濃厚な霧が敵の全貌を押し隠し、天空を覆う厚い雲から日も射さぬ故に陰りという名の情報すら与えてもらえない。逃げ道は見えぬ、突破口は見えぬ。戦士達は攻撃を回避しながら反撃を繰り出したが、悲鳴も上げぬイミテーションにどのようなダメージを与えられたか霧に阻まれ知る事が出来ない。
 どのように腹部の攻撃を受けたのか、それは攻撃を受けた光の戦士ですら説明に窮する事だった。見る者に因って尽く違う見解を示すだろう。光の戦士がフリオニールを庇おうとしたとも、フリオニールが光の戦士の前に躍り出て庇おうとしたとも見て取れる。しかし結果的に光の戦士は、その攻撃を受けた直後にフリオニールと縺れ合うように水面に倒れ伏せた。
 鎧の砕ける金属音が玉虫色の霧の中で弾けた視覚と連動し、さも美しく光を吸い込んで金属片を散らした。その中に紅い花弁が散ったように、鮮やかに生気に彩られた生々しい血が倒れる軌跡に添って光の戦士から溢れた。倒れ込んで水を吸い込んだ銀色の豊かな毛髪は、急速に元々色白かった肌の色を蒼白にして行く顔に張り付き境界線を失う程に同化する。
 フリオニールの悲鳴なのか怒号なのか、最早言葉にならない叫びを上げた。
 倒れ行く光の戦士の頭上で、世界を薙ぎ払ってしまう程の一撃を見舞う。霧がたちまち焦げ付いて空気という空気を巻き込んで、瞬時に圧縮され薙ぎ払って行く光る暴力に空間が蒸発する。
 野薔薇の咲く美しい世界を見たい。そんな世界への羨望を持った青年が、世界を捨てた一撃は確かに敵を薙ぎ払ったのだろう。
 緩んだ攻撃から、距離を置く。出来るだけ遠くへ、遠くへ。走って、走って。
 ようやく忌まわしい霧は晴れた。世界が久々に奥行きまで見渡せる広がりを見せた。
「俺は貴方の元を離れる」
 フリオニールが淡々と言った言葉が、ポーションの甘い香りに乗って届いた。効果を上げる為に湯煎にて暖めた香りと行為とは裏腹に、フリオニールの声は冷えきり嫌悪に満ちあふれていた。嫌悪は彼自身に向けたもの。光の戦士は黙ってフリオニールの言葉を待った。
「貴方独りなら、あの程度の攻撃で決して傷など負わなかった。俺が居た事で貴方は油断したんだ。俺を守る為に傷を負ってしまったのなら、本当に申し訳ない…。だけど俺のような不甲斐ない存在の補助を期待して油断したのだとしたら、貴方は俺を信頼してくれているんだろう。嬉しいよ。貴方に信頼されるなんて、仲間に自慢したいくらいだ」
 フリオニールの声に嬉しさが滲んでいた。少し鼻を啜って口元を拭う動作は、フリオニールにとって照れ隠しだった。
 だが、次の瞬間に彼の言葉の中から喜の感情は消え、吐き捨てるような怒りが満ちた。
「貴方が怪我を負う必要も無い状態でありながら、怪我を負ってしまった。あらゆる要因を考え抜いたが、その全ての理由は俺が居るからだ」
 フリオニールはその日に焼けた逞しい体躯を出来るだけ小さくするように、治療の手を止めて項垂れた。何度も生唾を飲み呟くように言う。
「だから…」
 苦しげだった。
 色彩を帯びる事の無い無垢な銀色は、本人の感情を反映して寂しげに光る。後ろに一括りに結んだ髪の毛は、ぐしゃぐしゃに濡れたマントにへばり付き何かに縋っているようにさえ見えた。閉じられた瞼を飾る睫毛は、彼の苦しさと震えを代弁するかのように小刻みに震える。フリオニールは濡れた服が熱を奪うのとは違う、心の底から沸き上がって来る寒さに体が震えそうだった。
 意を決した瞳が、光の戦士を見た。
「俺は貴方の元から離れる」
「そうか…」
 光の戦士は一言そう告げて瞑目すると、暫くして天空を見上げた。雲が数個浮かぶ真っ青な空は、遥か高みに太陽が燦々と光を注いだ。既に日差しは暑い程に強くなり、二人に滴っていた水分は蒸発し代わりに汗が滲んだ。
「で、君はこの世界をどうやって抜け出すつもりなのだ? 私の怪我を恐れ、私の身の安全を心配する前に、君自身のこれからを考えるべきだ」
「俺は、自分の命より仲間の命の方が大切なんだ」
 それは明瞭で即座の返答だった。彼の信念に似た思いは、行動の端々に見て取れた。
 光の戦士は今度こそ完全に沈黙した。
 フリオニールの決意は堅く、彼自身にはかなり頑固な所がある。例えどんなに諭し聞かせたとしても、耳を貸すような様子は見えなかった。光の戦士は腹部に巻いた包帯を、鎧の下に着る黒い服の下に隠すと立ち去る気配を無言で見送った。

 ■ □ ■ □

 この世界にも昼と夜がある。
 神々の特殊な力の恩恵か、この神々の戦場の特殊さが与えるのか、空腹感や眠気はほとんど襲って来ない。神々は休まない。故に神々の兵士として招かれた者達にも休みなど与えられなかったのやも知れぬ。疲労や怪我は確かにあったが、回復は人としては異様と感じる程に早かった。
 そろそろ良いだろう。
 唇だけがそう動き、光の戦士は立ち上がった。大地を踏みしめた両足にふらつきは無く、伸び上がるように天を仰いだ様子に怪我の痛みを全く感じさせない。風は光の戦士の髪を愛撫して通り過ぎ、その兜から溢れる青銀色の髪に星の光を注いだ。マントが風を含みふわりと砂地に影を広げた。
 月が昇る。満ち欠けする月は、今宵満月に近い形になっていた。僅かに欠ける月ではあるが、十分に光量を保っている。昼間から穏やかな気候に恵まれている水面の続く世界は、星と月の光で美しく瞬いていた。見渡しは良く、空気も涼やかな風が動かしている。
 光の戦士はふと、水面を見遣った。
 波紋が遠くからゆっくりとやって来る。風の生み出した波紋ではなく、何かを上から落とした時に生まれるような、奇麗な円の形である。
 今度は先程よりもくっきりとした波紋が中州の砂に触れた。
 突如、光の戦士の居る場所が陰る。
「…!?」
 光の戦士が周囲の変化に顔を見上げた。
 そこには青みを帯びた透明の結晶、イミテーションで作られた偽りの生命が空に浮かんでいる。月明かりを拡散するかのように、その体の形に精緻なカットを施した巨大な宝石の怪物が光の戦士の場所を淡く陰らせる。驚きに青銀色の瞳を見開いた光の戦士は、宝石の隅から6本の糸のような物を認める。糸の様に見えたのは、細い、レイピアのように細い宝石の脚。如何なる魔術の成せる技なのか、水面に触れるように接地した足先は氷の上を滑るように動いた。
 アメンボという虫を知っていたならば、敵の特色をある程度掴めたに違いない。しかし、記憶の無い光の戦士はそんな虫の存在など知らない。ただ音も無く己の直ぐ側まで踏み込んだ敵を強敵だと認める。
 乾いた音を立て、頭上にあったイミテーションの体が崩れるように割れる。鋭い加えるような形の虫の顎、無数の手が四方八方を囲むように伸びその鋭い爪を光の戦士に向けた。まだ太陽が昇っていた時刻に二人の戦士を襲ったイミテーションの爪と、全く同じものであった。
「これが、敵の正体か」
 光の戦士はそう言い放つと、涼やかな音を立てて剣を抜き放った。瞑目し高められた闘志に呼応して、魔力が光り輝き出す。剣がふわりと舞い溢れた光を絡み付かせると、そのしなやかな動作にて速度を得た剣先が敵に向かって振り上げられた! 剣から迸る光の衝撃波は光の柱となって敵に襲いかかる!
 光の戦士の攻撃に音は無く、敵の砕ける甲高い金属音が吹き上がった光と共に世界を揺るがした! 光の戦士目掛けて振り下ろさんとしていた爪は尽く粉砕され、光の先端は勢いを緩める事無く敵を飲み込み貫いた。
 敵が傾ぐ。
 まるで五月雨のように落ちて来る敵であった宝石の破片を避けるため、光の戦士は大きく距離を取る。中州の砂には大小様々な敵の破片が落ちて埋まった。
 戦士の表情が険しくなる。
 目の前で落ちた破片がふわりと浮いた。次々と元ある場所に戻り先程の姿を取り戻す。
「……!!」
 全ての破片が元に戻る前に、音も無く敵が水面を滑った! 戻る為に浮いていた破片が横殴りの暴風雨の様に光の戦士を襲う!鋭利に砕けた破片が、まるで竜巻の中を舞う木の葉のように舞い散る。無風の中で輝く破片の中に、小さい赤が混じり始めた。
 光の戦士は盾て己の体を庇いながら、この攻撃を如何にして逃れるか頭を巡らせていた。
 しかし、己の体を庇う盾を外し顔の防御を怠れば顔は傷つき、視覚を奪われてしまったら勝機を完全に見いだせなくなる。どこかに逃れようと、先程の敵の移動速度を考えれば到底逃げ切れるものではなかった。攻撃に転じても、砕けた破片は増えるだろう。
 渦巻く殺気の中心に居ながら、光の戦士は完全に攻撃の手を封じられた。
 その表情は冷静と受け取れる程に無表情だった。
 死ぬやも知れぬ場面に居ながら、焦り一つ見せぬ表情。痛みの声の代わりに、激痛の代わりに、悔しさの代わりに、切り裂かれた体から溢れる赤が光の戦士の感情を代弁するかのように空気に舞った。
 冷たい空気が肉体の内側を刺す。
 空気に多分に含まれるのは、憎悪、殺気、悪意、冷酷な様々な感情。それらに追随するように暴力が続く。暴力が炸裂し、花弁のように舞うは何かの悲鳴。地面に響いて大地は粉々に砕けて飛礫を空に打ちまけ、空を裂けば空間が揺らめいて目に見えぬ断面が軌跡のように一本の線を描く。生命に穿たれれば空に響く断末魔、弾ける血潮、倒れて漏れ出る生気、そして動かなくなる。
 死した多くの物達を前に涙する誰かの背を光の戦士は見ていた。涙する物達以上の悲しみは共有できなかった故に、誰かが光の戦士を冷血と吐き捨て、誰かが光の戦士を冷静で頼りがいのある人物と慕った。今まで見ていた死んで逝った者達と等しく同じモノになるのだろうと、記憶喪失の戦士は朧げながらに思った。
「すまない」
 光の戦士は呟いた。
 君を結果的に悲しませたな………と。
 きっと、フリオニールは悲しむだろう。きっと、フリオニールは己を責めるだろう。光の戦士は胸が圧迫されるような息苦しさを感じた。
 ふわりと風が頬を撫でた。髪が浮き、次の瞬間暴風が体を横様に突き抜ける! 風に流され膝を付き、水底に付いた掌から肘の下までを水の冷たさが包んだ。水を踏み分ける音が、強い波紋が光の戦士に向かって近づいてくる。
 ここに来てくれる存在は一人しか居ない。
 光の戦士は警戒を抱かず、顔を上げた。
 息を荒げて光の戦士を見下ろすフリオニールは、蒼白の顔に滲ませた不安を無事を確かめた事で笑顔で覆った。一瞬浮かんだ笑顔を拭い取り、敵を見据える。引き絞られた弓に光る魔力を預け、放つ!
 フリオニールの光の矢は何度も何度も抉るように敵に突き刺さる。敵の反撃も距離を置いたフリオニールの遠距離攻撃に潰される。砕けて水面に落ちて行く宝石が、水底で月明かりと攻撃の光によって輝いた。反撃の間も与えず次々と打ち砕かれて行くイミテーションは、ついにバランスを欠き傾いた。巨大な体を支えていた長く細い脚の接合部が砕けたのだ。
 ゆっくりと水面へ倒れ込み、盛大な水飛沫を上げた。
 敵の動きを注意深く見つめていた光の戦士は、砕ける宝石の中に丸い石を見つける。敵の最も大きい面積を持つ場所の中心に抱かれるようにある宝玉は、透明であったが濃厚な魔力に非常に際立って光の戦士の目に留まる。
「あれが、敵の核か…」
 イミテーションはカオスの生み出した宝石で出来た人形。腕を切断しても、脚を切り飛ばしても、痛みを覚えず攻撃の手は休めない。生身の人間なら致命傷に至る攻撃を加えても、その機能は停止しない。イミテーションという人形のどこかには核が存在し、それを破壊しない限り動き続ける。
 光の戦士は勝利を手にする為に立ち上がる。
 フリオニールが光の戦士を見た時、光の戦士もまたフリオニールを見てはっきりと言った。
「援護を頼む。フリオニール」
 言い終わる前に、光の戦士は駆け出した。フリオニールもまた、光の戦士を追って弓を構え後を追う。
 光の戦士が己の心臓に当たる核を潰しに掛かって来た事を感じてか、イミテーションは暴れるように今までに無い激しい反撃を繰り出した。水面に沈んでいた破片が浮かび上がろうとするのを、氷塊が打ち込まれ阻む。脚であった物が鞭のようにしなり打ち据えようとすれば無数の短剣が降り注ぎ、鮮やかな赤や青の宝石の施された鍔によって縫い留められる。吹雪のように迫る破片が前から迫れば、戦士の背後で引き絞られた光にて尽く薙ぎ払われた。
 まるで、光の如く。一直線に核へ迫る光の戦士は、顔の前に剣を構え一瞬祈るように瞑目した。
 脚に力を入れ、一気に光の戦士は跳躍した、軌跡に水が重力から解放されて宝玉のように月明かりに輝き、光の戦士のマントが翼のように広がる。剣を振り下ろされるまでの体の動きが、体を包む鎧に流れるように光沢を宿す。磨かれた曲面を裂くように微細な傷の凹凸が、流星のごとき光を拡散させ模様のように浮き上がった。体が突き抜けた風に飛ぶ紅い飛沫を、まるで装飾品のように着飾った光の戦士は剣を振り下ろした!
 砕ける宝石の音が、砕けた宝石の光が、光の戦士を包み込んだ。今まで続いていた轟音は突如止み、耳に痛い程の静寂が二人に押し寄せた。
 着地しようとしても足場の悪い、敵の残骸の上。光の戦士は失血や体の傷もあって、バランスを崩し落ちて来る。
「ライトさん!」
 フリオニールは駆けた。
 フリオニールよりもやや大きい光の戦士の体の下に滑り込ますように受け止め、盛大な水飛沫が上がった。再びずぶ濡れになった二人だったが、この世界に来て初めて訪れた安堵に濡れた事など気にもならなかった。
 月の明かりはそのままに、水底から草が生い茂って来る。延々と広がっていた水面の世界に変化が訪れ、緑豊かな草原が広がって行く。蛍が次々にその羽を広げて舞い上がり、夜空の星と違った淡く優しい光が飛び交う。遠くに見える山の端が、僅かに明るくなり月を融かし始める。
「フリオニール」
 惚けたように世界の変化を見ていたフリオニールは、驚いたように光の戦士を見た。抱き留めた体をまだ強く留めている事に気が付き、慌てて腕の力を抜く。
「私は今まで独りだった」
 光の戦士はフリオニールが力を抜いた後も、身じろぎ一つしなかった。光の戦士が呟いた声と視線の向かった先は遠い。
「これからも、独りだろう」
 風の旅人は言う。遠くから旅して来た…と。
 夢を抱く義士は言う。野薔薇の咲き誇る世界を作りたい…と。
 光の戦士が遇った仲間と呼べる人々には、何らかの目的がある。やがて、その目的の為に今は共に歩んでいる道も、いずれ分かれて別れる事になる。剣を持つ故の闘争の宿命を独りで耐えて来た光の戦士は、再び訪れるだろう孤独を憂いて瞼を下ろした。
 光の戦士は体の力を抜いたのか、フリオニールの体に凭れ掛かった。
「……背に人の温もりを感じる」
 背を預けられたフリオニールは、一人の人の重さを感じ自分の身勝手が光の戦士を傷つけた事を知った。孤独の苦しみを、孤独の辛さを、忘却の彼方に置き去りにしても、口を付くのは光の戦士が人故に持つ弱さから来るのだと感じた。
 詫びや慰めの言葉など無用である事を、戦場を駆け抜けた歴戦の勇士のフリオニールは知っていた。
 フリオニールは記憶を辿る。仲間の温かい手。戦場の中で訳も分からず涙すら零してしまう程、その温もりは相手の何もかもを伝えてくれた。死した者のあまりの冷えきった手が、亡骸のあまりの硬さが恐ろしかったからこそ、その温もりが何よりも愛おしかった。どんなに憎たらしい奴も、拳を合わせた時の熱が自分に向けた謝罪で感謝の意味を伝えた。親しい者の温もりが自分を包む時、何よりも誇らしく優しい祝福そのものだった。
 そっと手を伸ばす。
 光の戦士の篭手に染み込むように、フリオニールは己の熱を移す。
 風と草原が織りなす音の世界に、光の戦士の安らかな寝息が加わっていく。
 互いの温もりが一つになる。
 触れる部分が、暖かい。