負けなし、なんてことはなく


■ 喜色 ■

 客には愛想良くしなさい。
 そんな世界に身を置いて言う言葉ではないが、それは無理と言えるだろう。そう思うのは鳳仙の傍に禿として控える梅梅だ。見習いとして妓女の補佐をし、仕事を覚えて妓女となる身である梅梅は見目麗しく上物として緑青館では屈指の妓女の禿となった。
 鳳仙は笑わぬ妓女として有名で、そんな鳳仙を梅梅は訝しんでいた。鳳仙は厳しいが優しい大姐である。そんな彼女が笑顔一つ客に見せぬとは、どういうことなのだろうと首を傾げた。
 そんな梅梅は鳳仙の傍で鳳仙と同じものを見ていると、男性に対して強い嫌悪を抱くようになった。
 美しく、厳しく、優しい、そんな大姐に向けられた好奇の双眸に吐き気すらする。笑顔を見せぬ理由は言葉にせずともわかった。私の大事な大姐をそんな目で見るなと掴みかかりそうになり、大姐に厳しく諭されたことを昨日のことのように思い出せる。今では若気の至りと思えるほどに、禿として経験を積んだ梅梅だったが今回も腑が煮え繰り返りそうである。
 宮廷の武官が大勢でやってきた。団体の客は珍しくもないが、指名は鳳仙ただ一人であった。
「羅漢殿。あれがそうだ」
 大姐をあれと呼ぶな。思わずへの字になりそうな口で大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
 何度か緑青館に足を運んだことがあるだろう武官達に、見覚えがあった。全員で金を出し合って鳳仙を指名したとわかるような、まだまだ出世の話が舞い込むには若い男達だ。
 そんな彼らに押し出されるように現れたのは、文官かと思うほどに細身の男だった。片眼鏡をして、武芸を嗜むような体付きではない。明らかに面倒そうな顔つきで、狐のような細目は寝ているかと思った。そんな狐目の男に武官の一人が耳打ちする。
「…あぁ。そう。碁が強いのか」
 狐目が薄らと開いた。そこから覗いた目もまた、大好きな大姐を軽んじる目であった。男は椅子を引いて座った。
「じゃあ、一局しよう」
 鳳仙は体を売らず、芸を売る。鳳仙の売る芸は、碁と将棋。腕は緑青館において無敗であった。今では碁と将棋に強いという噂が流れて、こうやって鳳仙を負かそうと指名する客が現れるようになった。今、目の前にいる男のように、女であると妓女であると見下すような目で席に座る。
 梅梅は碁を用意すると対局が始まった。ぱちぱちと碁が盤上を賑わせていく。
 禿は耳を澄ませる。羅漢殿は将棋で負けなしだが、碁も強いお人だ。あぁ、宮中でこの人よりも強い人を誘うのは難しいだろうな。なんにせよ、羅漢殿に負けた笑わぬ妓女の顔はどんなものなんだろうな。男達の雑談を聞きながら、梅梅は笑みを濃くした。そんな結果になどならない。こんな狐目に大姐が負けるものか。
 大姐を侮っていた狐目は、あっという間に窮地に追い込まれた。大姐の力量が本物だと気がついて狐目は眠そうな目蓋を上げたが、もう遅い。そんな男達を梅梅は沢山見てきたし、この男も負けるのは確定だった。それでも勝負は長引いた。大姐にしては梃子擦っているのが、禿として控えて大分経つ梅梅にも分かった。
「羅漢殿が負けた!」
 惨敗な結果に絶望した顔を見ると、スカッとする。しかし、男という生き物は勝手なもの。負けたことを認めず、大姐を怒鳴り散らす。どんな汚い手を使ったんだと、口汚く罵った者もいた。取り巻きのどよめきの中、驚きの表情のまま凍りついた狐目の男はどんな反応をするのだろう。
 く。小さく男が呻いた。大きく息を吸い込んだのだろう、男の体が大きくなった気がした。
 男は
 吸い込んだ息を全て笑い声に変えた。
 緑青館を震わすほどの大声で笑い出し、腹を抱えて椅子ごとひっくり返りそうになるほどに仰け反った。片眼鏡を外して涙目を拭ったが、笑い過ぎて涙か唾か判らぬ滴を撒き散らす。あまりにも大きな声なので、他の部屋にいた禿達や男衆が何事かと集まってくるほどだ。取り巻き達は呆気にとられて、羅漢と呼ばれた狐目を見ていた。
 吸い込んだ息は笑い声として吐き出され、息継いだ息が肺に届かぬうちに笑い声と共に押し出されてしまう。苦しげに咳き込んでようやく落ち着いた笑い声だったが、その体は引き攣っていた。
 大丈夫なんだろうか。この人。そう思うのは梅梅だけではなかっただろう。
「梅梅」
 声を掛けられ将棋盤を持ってくるように大姐が言った。大姐がこのような相手に一局で終わらせないなんて、初めてのことだろう。禿として碁石を取り除き盤を片づけ、将棋盤を据える。それぞれに駒の入った箱を渡し、大姐の駒を並べていく。
「次は貴方の得意な将棋で」
「是非に」
 狐目が笑った。もう、大姐を軽んじた目をしていなかった。


■ 様相 ■

 なぜ、鳳仙の顔は分かるのだろう? 羅漢は浮かんだ疑問に、首を傾げる。
 顔の見分けがつかない致命的な欠点を、叔父は声や体格で見分けるよう勧めてきた。見分けられるようになると、黒と白の碁石や将棋の駒だけの世界に、ふんわりとしたものを羅漢は感じられるようになった。
 叔父に感じられる温く柔らかいものは嫌いではなかった。弟も叔父に似た温さがあって嫌いではなかったが、軍師の仕事は噛み合っていなかった。真っ直ぐで状況によって寄り添える気質と合う、もっと良いものが別にあるような気がした。羅漢を否定する父親の鋸の刃のような感覚は、嫌いだった。弟が娶った女も、金属の匙で金属の鍋を擦ったかのような不快感を感じる。あんな女はやめておけと兄は言ったが、父親に逆らえないのは弟も同じ。結局はなし崩しに婚姻した。
 宮中に勤めるようになれば、羅漢はふんわりとしたものを匂いや温度のように感じられるようになった。不思議とは思わなかった。すでに羅漢の世界では人の首から上は、碁石や将棋の駒なのだ。生まれながらに人と違う視野の世界で、他人と同じものを知らなかったし、分からなかったのだ。
 少しでも良い働きをすると感じたものは、取り立てて傍に置いた。
 嫌だったり変な感覚を伴うものは、それらが誰だったか傍に置いた者に問うだけで、いつの間にかいなくなったりした。間諜であったり、毒殺を企む者、暗躍し謀をする者、様々な悪人であったと報告が上がってきた。中には図太く残っている者もいたが、それは知れば知るほどに強大に根を張った不快の塊である理由を知るだけだった。
 別に今、自分に害にならぬなら良いのだ。将棋や碁と同じ。いずれ取り除かねばならぬ物であったとしても、時期ではないものもある。日和見というよりも、己の人生すらも長期戦の盤上の遊戯と見るところが羅漢にはあったのだ。
 それよりも、鳳仙だ。羅漢は考えを戻す。
 初めてみた人の顔だからだろうか、鳳仙からは何もふんわりとしたものを感じない。笑わぬ妓女と皆がいうが、笑った人間の顔がどのようなものか、羅漢は知らなかった。声色も変わらず、美しい顔は瞬きする以外は微動だにしない。
 何を考えているのか、全くわからなかった。優秀な棋士であるのだろうとは、思う。
 何かを隠している? 偽っている感覚はないのだから、それが表沙汰にならないだけだろう。
 何を? 何が表沙汰にならないのだろう? それは鳳仙のが、か? それとも私、か?
 羅漢は首を傾げるばかりだった。鳳仙という名の女は、不思議で、分からない。


■ 早碁 ■

 まるで拍手のよう。禿はそう思うことがやっとで、目の前の盤の上に瞬く間に並べられていく碁石を見ていた。
 大姐の客である男は、禿にも碁や将棋の打ち方を教えてくれた。ただ突っ立って見ているだけでは面白くなかろうと、禿のことを考えてくれるような人ではない。男が禿に対して何かを求めるような他意もない。ただ、本当に碁と将棋が好きなのだ。手が空いた合間も好きなことばかり考えていて、それが手近にいた禿にも手解きという形で降り掛かっただけにすぎない。
 禿の師匠と呼べる大姐と片眼鏡の客人。彼らの勝負は教われば教わるほどに、恐ろしいものだとわかった。
 今、目の前で繰り広げられる早碁。その応酬はまるで拍手のようだった。ぱちぱちぱちと間髪なく互いに盤の上に石を置く。あまりにも早すぎて、時々互いの手がぶつかる程である。互いに血走った目で盤上の情勢を見下ろし、息を切らして次の手を指していく。定石などあってなきもの。まるで命のやりとりをしているかのような、鬼気迫る攻防だった。
 もはや早過ぎて何が行われているのかすらわからない。
 白が黒を圧倒したかと思えば、黒が白を押さえ込んで逆転する。考える暇すら与えられない。互いに勝負師としての直感で指している。互いの息が荒くなり熱を帯びる。
 まるで。禿は思い至って顔を赤らめた。
 ばちん!
 大きく音を立てて碁石が置かれた。どちらが置いたのか、もう禿には分からなかった。男の太い指も、鳳仙花と片喰で染めたほっそりとした爪先も、盤上の上に留まっている。男は力を抜いて卓に身を投げ、体を丸めて荒くなった息を整える。大姐も胸元に手を置いて息を整えている。俯いているのは高揚して赤らんだ頬が、客人から見えないようにする為だろう。
 そんな二人が満足げな顔なのを知るのは禿だけだ。
「も、もう一局やろう…」
 客人が碁石を集め始めた為、禿も大姐の碁石を集める為に駆け寄った。禿の影になって客人には表情が知れぬとわかってか、大姐は表情を緩めた。この男にも、どの客にも見せぬ、頬を染め潤んだような目元は艶かしかった。笑わぬ妓女など、そこにはいなかった。
 褥に入っているかのよう。
 禿は大姐の表情につられて、体が火照るのを堪えられなかった。


■ 土産 ■

 道行く者達が驚くように身を固め、なんの変哲もない壁へ手を伸ばすような草叢を凝視する。それを遠巻きに見ていて、羅漢は愉快な気持ちになった。碁石を乗せた体が強張る様は分かる。表情まで分かれば面白いだろうに惜しいものだ、と思いはする。それでもそんな惜しむ気持ちは、すぐに失われた。面白いものの寿命は刹那である。
 宮廷内で青い薔薇を見たという噂は、ひっそりと、しかし確実に広まった。
 うろうろと宮廷内を探す者。幸運にも見出せた者は、知人を連れ立ってやってきて草叢を指さした。それらを遠巻きに見て、変わり者の軍師はにんまりと笑みを深める。
 青い薔薇なんてものは存在しないと、したり顔で言う者の言葉は正しい。確かに青い薔薇を育て咲かすことは出来ない。しかし、羅漢の目の前には確かに大輪の青い薔薇が咲いていた。花弁が幾重にも重なった深い深い青は、染め抜かれた絹のような生命に溢れた光沢を宿していた。朝露の滴を宿し、重たげに頭を垂れる。
 強いて言えば、その薔薇の葉はいかにも病を持っていそうな色だった。虫に喰われたわけでも、枯れたわけでもない。ただ黒ずんでいるのだが、本来の薔薇の葉の鮮やかな緑には程遠かった。
 見つけた誰もが手折ると祟られるかもしれないと遠巻きに見るばかりだったが、羅漢は大股で青い薔薇に近づくとなんの躊躇いもなく手折った。青い薔薇を育て咲かすことは出来ない。しかし、手の中で咲き誇る青を生み出したのは羅漢本人だった。
 咲かない花を咲かせたら、面白いだろうな。ただ、それだけしか考えていなかった。
「…っ」
 負けなしの軍師であっても、采配以外はとても褒められたものではない。羅漢は薔薇の刺のせいで指先にぷっくりと実ってしまった血を舐めた。鉄の味を噛みしめていると、薔薇のいい香りがした。
 目的を達すると瞬く間に色褪せる関心だったが、捨てるのは少し勿体なかった。毎日、下手をすると日に数回青い水を注ぎに行った手間は、羅漢にとって心を随分と寄せた方だろう。とはいえ、飾るような甲斐性も、贈るような女性もいない。
 ふむ。羅漢は顎に指をかけ、美しく咲いた青を見た。
 そういえば、どうして青い薔薇なんて育てようと思ったのだろう? 羅漢は首を傾げる。
 棘を取り除き、葉を毟りながら、不思議だなぁと行動を振り返る。意味もなく始めて意味も分からぬまま終わっていることは、よくあることだった。思い出すのも億劫になって止めてしまうのだが、それでも手に青い薔薇は残り続けていた。
「碁が打ちたいな…」
 鳳仙から文が届いていた。いつもの版で押したような催促の文だが、文に添えられた赤い色の季節の花々は彼女の指先を彷彿とさせた。爪紅で染めた指先が碁石を、将棋の駒を持っている。堪らない気持ちになる。
「黒を持ちたい」
 早く、指したい。一番に盤上に石を置きたい欲求は強く、説明する時間すら惜しい気分だった。とはいえ、仕事を抜ける訳にはいかない。
 そうだ、文に書いて送ればいい。そうすれば、すぐに一局を始められる。
 羅漢は笑った。
 青い薔薇は鳳仙の文に付けよう。


■ 泥酔 ■

 長椅子に身を預け寛いでいるように見えた客人は、すっかり寝入ってしまった。外して手に持っていた片眼鏡が今にも滑り落ちてしまいそうで、そっと受け取る。柔らかい布で包んで、螺鈿細工の施された箱に収める。
「大姐」
 振り返れば妹分の梅梅が、テーブルの上に置かれた茶器に手を掛けて私を見ていた。
 少女の身体つきが日を追うごとに、瑞々しい女へ変わっていく年頃だ。手入れの行き届いた艶やかな髪。桃のような熟れた唇、優しさの下に燃えるような若さを宿した瞳。妹分という贔屓目を抜いても、この緑青館で真っ先に名を挙げられる美女になるに違いない逸材だ。
 片付けて良いか?と問うような視線に、私は小さく頷く。すると梅梅は違うと、呆れた顔で首を振った。
「また、羅漢様の飲み物に、お酒を混ぜたんですか?」
 長椅子で寝こける客人は、下戸だ。
 強い酒なら昏倒し、弱い酒とて泥酔する。果ては月餅の隠し味程度の酒精ですら、酔ってしまうようだった。ここまで弱い人はそういない。
 そんな客人に用意する飲み物は、果実水だ。棋士の宿命なのか甘い物を好むの質だが、茶も好まない。緑青館で酒も茶を全く飲まない客人は、目の前の御仁くらいであろう。酒にも女にも興味を示さず、ひたすらに碁と将棋に明け暮れる様は変人と揶揄されつつあった。
「夜通し碁と将棋を指しておられたのだから、お疲れなのよ。羅漢様もそう仰るでしょう?」
「そういう事にしておきます。片付けてきますので、ごゆっくり」
 言い終わる前に後ろ姿が戸の向こうに消えていった。茶器が打ち合わさって鳴る音と、足音が遠ざかっていった。静寂が訪れた部屋で、微かな寝息だけが音として留まっている。
 そっと男の横に腰を掛ける。眠りが深いのか、眉一つ動かず規則正しい寝息が漏れている。
 そうしたのは自分だ。自分がそうしたいと望んで、夜通し碁と将棋を指し続け疲れ切った男に、微量の酒が混ぜられた果実水を差し出す。何の疑いもなく飲み干して、ぽっと赤らむ顔。目蓋が重く塞がれば、体の力が抜けて寝息を立ててしまう。
 緑青館に入る噂は華々しかった。出世頭。この国1番の策士になることを期待された、負けなしの軍師。そんな御仁が目の前で無防備に寝入っている様を見ていると、勝ちを確信したような高揚感に満たされる。あぁ、負けなしの軍師様。私が貴方の心の臓に短剣を突き刺すことなど、容易いことでしょうね。女とは恐ろしく狡猾な生き物なのですよ。ゆめゆめ、心を許されてはなりませぬ。
 手を重ね、頬に触れる。
 眠っている。起きる気配のない面差しが、愛おしかった。頬が火照り、気持ちがどうしようもないくらいに乱れてしまう。
 妓女と客という立場を、酒が溶かしてしまう。相手は想っていること知らぬし、気づく事も出来ない。ただただ、泥のような酒気に溺れて、寝入っているのだから。だから、笑わぬ妓女が女の顔をして男の顔を覗き込んでいて良いのだ。甘い声で名を呼んで良いのだ。胸に顔を埋め心の臓の音を聞いて良いのだ。
 夜が明けるまでの短い間、妓女は一人の女として眠る男に寄り添う。そんな愛瀬がお似合いなのだと、妓女は寂しく笑うのだった。


■ 敗北 ■

 羅漢が、どうしても思い出せない対局があった。
 賭けをしましょう。
 そう妓女が言う。真一文字に引き絞られた、柔らかい紅色の唇が艶かしかった。
 貴方が勝ったら、好きなものを与えましょう。
 美しい瞳だった。いつも羅漢をまっすぐ見た瞳は、触れたら弾ける鳳仙花のようだと常々思っていた。
 私が勝ったら、好きなものをいただきます。
 持ったのは碁石だった。なぜ、碁を選んだんだろう? 将棋だったら負けないのに。
 どこに最初の一手を指したのかも思い出せない。
 好きなもの。あの時の私は、何を望んだんだろう? 鳳仙の身請け話があって、でも自分にはとても届かぬ金額に諦めざる得なかった。一縷の望みは禁じ手だったが、それはしてはならぬことだった。こんなにも強く尊敬できる手合いに、汚い真似などできやしない。
 酷い軍師は毒も使う。汚い手は何年も何十年も様々な形で尾を引くものだ。羅漢は采配を将棋に例えるだけあって、軍師の中では正攻法を好んで勝利に導いたものだった。そんな羅漢だからこそ、負けなしの軍師と重用されていた。
 軍配がどちらに挙がったかすら思い出せなかった。棋譜は真っ白で、最初から何も指していないかのようだ。
 鳳仙は…。ふと、羅漢は鳳仙花と片喰で染めた爪先を想う。
 私から何を欲しがったのだろう?
 枠だけが書かれた真っ白い棋譜。それが、羅漢には生まれて初めての完全な敗北に思えた。


■ 怠惰 ■

 軍部で最高機密の会議が、年に数回の頻度で行われる。窓のない締め切られた室内で、参加者は会議が終わるまでは外に出ることを禁じられる。その会議録は『軍譜』と呼ばれ、数年後でないと壬氏でさえ閲覧はできなかった。それも納得のもので、軍譜と呼ばれる会議録は、まさに予言のようにこれからのことをピタリと当てていたからだ。
 参加者の話では大きな地図を円卓に広げ、その上に将棋の駒をばら撒いて羅漢が将棋を打つと言う。羅漢の頭の中には周辺部族の勢力図も、盗賊の出没傾向も、軍にはなんら関係ない流通のことまで入っているのだろう。変人と言えば誰もが浮かべる男の、凄まじい集中力で円卓を見下ろす様に圧倒され、参加者の誰もが背筋を冷やすそうだ。その内容は棋譜のように詳細に記録されているために、いつしか軍譜と呼ばれるようになったと言う。
 最高機密の内容を話し合う会議の議題は膨大で、数週間に及ぶことも珍しくないそうだ。その会議が歴代最短の三日で終わった翌日、壬氏の執務室に羅半が訪ねてきた。宮廷の財務管理を行う者らしく、腰に下げた算盤が涼やかな音を奏でている。眼鏡を押上げ言葉数も最低限に報告を終えた羅半に、壬氏は声をかけた。
「今年は平和な年になりそうか?」
 会議に財務を管理する者が参加することは珍しくない。不正や汚職は戦争の火種の傍に積まれた薪のようなものだ。羅半も参加者であることは、壬氏も容易に察せられた。
 抱えていた木簡の束を壬氏に提出していた羅半は、その問いに思案するような顔をした。言われてみれば羅漢の親族と言える程度には似た顔立ちだったが、それよりも独特な雰囲気が親子と言えそうな程に似ていた。見ている世界が違うような、不思議な眼差しは眼鏡越しであっても見て取れる。
「そうですね。平和を保つのが軍部の仕事ですからね。義父上がさぼるので平和が危うくなるかもしれない、と言えましょう」
 でも、まぁ。眼鏡を押上げ、羅半は独り言のように言う。
「義父上がさぼっているから、平和が保たれているとも言えるでしょう」
 そう言って、羅半は話し出す。防衛の弱点を炙り出すために、義父上がこの国を敵に見立てて打つのですが、これがなんともまぁ鮮やかでしてね、と。どんな結果になったか、聞くまでもない。壬氏は背筋が凍りつくのを感じていた。
「義父上がこの国に敵意を持つ者の隣に立っていたら、この国は二十は滅ぼされているでしょう。皇帝陛下が国土拡大を望むなら、十年も掛かりますまい」
「冗談だよな」
 羅半は澄まし顔で暇乞いをした。しかし思い出したように羅の天才達が持つ、独特の無関心さが滲む感慨のない声色で言う。
「才覚を発揮できぬことは、不幸なことだと思っています」
 娘の存在を知らなければ、この国に未練はなく去ることも出来ただろう。羅の一族の家督を継がなければ、この国に縛られず求める者の隣に立っただろう。そうして手元を離れれば、厄災となり得ると確信してしまうから質が悪い。
 何が不幸だ。壬氏は天上人の顔の下で、苦々しい思いを噛み潰した。


■ 子供 ■

 軍部の軍師の執務室には、大きな長椅子と柔らかい座布団が置かれている。応接のものではないのは、卓を挟んで対面するように長椅子がないので気がつけよう。それはこの部屋の主人である軍師が昼寝をする為のものだった。
 現に今、軍師は長椅子に身を預けて眠っていた。眠っていれば静かで良いが、仕事は全く進まない。なにせ、この部屋に集められた仕事は、この主人がやらねばならぬことだ。有能な部下達は出来る限りをするが、彼らの上官である羅漢という軍師は有能の枠に収まることを知らない天才だ。替わりにはなり得ない。
 すうすうと寝息を立てる軍師に、ゆっくりと覚束ない足取りで男が近づく。本来なら負けなしの軍師であり、変人の代名詞である羅漢に近づく者は、大抵怨恨が暗殺が理由のものばかり。好き好んで近づく輩などいない。暗殺と隣り合わせの主人であるが、近づく男は痩身で足が悪く杖をついている。とても殺意があるとは思えない、故に武官達も警戒は解いていた。
 慈悲深い顔で、羅漢を見下ろす様は仏のようだ。部屋にいた武官達はそう思う。
「羅漢や。皆さんに迷惑をかけてはいけないよ」
 寝た子は起こされると、目の前にあった顔に驚いて飛び起きた。壮年の顔に、ぱっと満面の笑みが広がった。
「全く、久々に顔を見たらそれか! 叔父貴は変わらないな!」
 最も近くに控えていた音操は驚きに目を丸くした。顔を見分けられない羅漢が、認識したのだ。しかも明らかに興奮している。嬉しくて仕方がない声色と、あまり羅漢自身がしない言葉遣いは若々しかった。
 そんな羅漢を諫めるように、羅漢の叔父、羅門はゆっくりと言った。
「仕事をきちんと、していないと聞いているよ。羅漢。お前が携わっている仕事は大事なことだと、わかっているだろう」
「叔父貴。あんなにも軍医にって誘っても応じてくれなかったのに、どういう風の吹き回しなんだよ! 猫猫か?」
 あまり会話は噛み合っていない。しかし、羅漢は寝覚の果実水を煽って、嬉しげに羅門に語りかける。
「まぁ、どっちにしろ戻ってきたんだ。嬉しいよ。叔父貴の有能さは、認められるべきだったからな! これで叔父貴のことを口汚く言う奴の口も、閉じるってもんだ!」
 羅門は少し困ったような顔をする。羅の一族の狂気と才能を一身に背負ってしまった甥であるが故に、才能が理解できない親族からは疎んじられていた。その才能を活かすよう指導した叔父を、羅漢は実の親よりも慕っていた。
「羅漢や。血族は大事にしなさいと言っているだろう?」
「大事にしているさ。生活に困らないようにしているし、弟は良くなった。あれでいい」
 全く悪びれた様子はなく、片眼鏡を外して拭いながら言う。
 実際に養子に迎えた羅半の話では、確かに家督を奪い排斥はしたが、その後の生活は困らない程度に保障されているそうだった。継ぐべき家督を奪われた弟は兄の抜きんでた才能を認めており、羅漢も弟のことは悪く思ってはいなかった。今では農業を営んでいると聞いたが、羅漢が良いと言うのなら天職なのだろう。
 羅門は微笑んだ。その笑みを羅漢は認識はできなかったが、感情を匂いのように感じていたようだった。
「羅漢や、この後、久々に一緒に食事でもしよう。だから仕事を早く終えなさい」
「叔父貴と食事か! それは嬉しいな! すぐ終わらせるから、座って待っててくれよ!」
 立ち上がると羅漢は羅門を長椅子に座らせた。そして子供のように執務机に向かい、猛然と内容を処理し始めた。その様子を見て、執務室の誰もが羅門を拝んだ。今日は早く帰れそうである。
 いくつになっても、不器用で可愛らしい甥だった。そんな甥の娘も実の子のように可愛い。親と子ほどの年齢差があっても、羅漢も猫猫も羅門にとっては可愛い子供でしかなかった。


■ 噂話 ■

「ねぇねぇ、軍部の変人が妓女を身請けたらしいよ」
 猫猫が耳を澄まさずとも、その噂話は嫌と言うほどに耳に飛び込んでくる。噂話が大好きな小蘭も、玉葉妃の侍女達も、すれ違う女性達が囀る小鳥のごとくにかしましい。そんなに魅力的な話題ではないじゃないかと猫猫は思うが、女性達はそうではないらしい。
 負けなしの軍師として軍部の最高位に限りなく近い未来が約束された男には、浮ついた噂が何一つなかった。輝かしい将来に惹かれて言い寄ろうとした女性に目もくれず、能ある武官を取り立てるばかり。もしかしたら男性にしか興味がないのかと囁かれたこともあったそうだ。そんな噂も七十五日と続かなかったのは、誰が見ても変人といえる態度そのものだろう。
 最終的に羅の一族の家督を相続して、甥を養子に引き取り後継者にしたのだから結婚をする気がないのだろうと思うのが普通である。
 そんな矢先の緑青館の妓女の身請け。
 後宮の医官の羅門から薬を貰い受けているのを見られ、身請けた妓女は病身だと知れる。さらに嘘の下手な羅門は、病名は言わずとも申し訳なさそうな顔をするのだから長くはないのだろうと勘の鋭い女性達に見抜かれる。
 この噂に男達も加わったのは、妓女を身請けてからの羅漢の態度だった。
 さぼり癖のある漢太尉が真面目に仕事をしている。それだけで天変地異の前触れか、大きな戦の予兆か何かだと思われても仕方がない。それが早く帰宅して妻として迎えた女に会いにいくと判明したら、武官達は挙ってひっくり返る程に驚いた。
「今まで変わり者で良い噂は聞かなかった分、愛情深い人だったっていう差が凄いわよね」
「普通は妓女は妾扱いなのに、正妻として迎えているのでしょう? 私もそれくらい愛されてみたいわ…!」
「いつから想いあっていたのかしら。妓女と客の時から? あぁ、素敵ねぇ!」
 甘味よりも美味しい他人の恋愛話である。
 全く知らぬ他人ならいざ知らず、対象が対象なので吐き気がしそうな猫猫である。複雑な事情から親という認識ではないが、血の繋がりがある以上は無視し切ることは難しい。血の繋がった両親の遅過ぎる新婚生活は、猫猫の胃をこれでもかと荒らしてくれる。
「ねぇ、猫猫はどう思う?」
 妓女に囲まれて生きていた猫猫にとって、『女性達が羨むような愛情物語』など絵空ごとのように興味がない。実際、噂の人物達とて地獄絵図のような過程を経ていて、それは誰のせいでなかったとしても幸せには程遠いものになっていた。
「良かったとは思っています」
 あの女に薬を届けにいく必要がなくなった。それだけでも、猫猫には十分な収穫だった。おやじどのには、あのおっさんに薬を届けろと薬を押し付けられるが、壬氏様に押し付ければ逃げることは容易かった。
 誰かが幸せであることを『良かった』と思ってしまう薬屋である性分に、猫猫は笑った。