西へ東へ、移ろい行かん


■ 関心 ■

 「将」と狐目の男は言った。いつの間にか、最も深い懐に相手の駒が潜り込んでいた。
 全く見事な手腕だ。そう皇帝は美しく艶やかな髭を撫でた。
 盤上の遊戯の展開は、不本意ながらも皇帝の心を熱中させた。非常に小さい綻びを突けば大袈裟なほどに相手が劣勢になる、それを相手がどうにか堪えている間に別の綻びを突けばさらに追い込むことができた。しかし、圧倒的優勢でも目の前の男の顔色は、薄ら笑いを貼り付けたままだ。そうしていつの間にか、敗北を喫している。
「流石は皇帝陛下。負けてしまうかと思いましたよ」
 口にしたことを露とも思っていない、下手すぎる世辞だ。たとえ名持ちの一族、羅の一族の当主といえど不敬罪に問われても言い逃れできない態度ではある。それでも皇帝を楽しませたのは事実だ。
 そして勝つことを、皇帝は断罪しないと分かっているのだ。
「羅漢、随分と楽しませてもらった」
 狐目の男はにっこりと笑った。手心を加えた一局であると見抜いたことに、笑ったのだろう。
 次の対局の為に、従者達が駒を集め並べ出した。皇帝は葡萄酒を口に含んだが、羅漢は果実水を自分の徳利から注いで口にする。皇帝が酒を勧めて断れるのも、目の前の羅漢くらいなものだろう。
「羅漢。其方は朕の傍では物足りないのではないかな?」
 片眼鏡を掛けていない目が、ちらりと皇帝を見た。しかし何の色も瞳には浮かばず、すっと視線を下げる。
「いいえ、主上。私は面白い将棋ができれば、それ以上何も求めませぬ」
 羅漢の返答は、最初に招いた頃と全く変わらない。
 負けなしの軍師。そう呼ばれる羅漢を、傍に置きたいと思わぬ権力者はいないだろう。目の届かぬ所で誘われる、その報酬は皇帝が羅漢に施すものよりも多いに違いない。造反を疑われ一族打ち首を恐れているなら、一族全員を匿うと言われていよう。
「貴方様が心配していることは、非常に優れた才能がこの国に現れぬ限り、今後も起こり得ることはありますまい。私にとって、この国を相手取ることほど、つまらない将棋はないのですから」
 確かにこの国の全ての事情を把握している羅漢にとって、この国を相手取ることは勝敗が判り切った将棋を打つことと変わらぬのだろう。面白くないことには、驚くほど関心を寄せぬ男。この言葉は今後も揺るがぬ真実なのだろうと、皇帝は思っている。
 羅漢は師の駒に落ちた饅頭の欠片を拾い上げて口にした。飾らぬこの男らしさに、笑ってしまう。


■ 顔立 ■

 羅漢が持ち歩いている果実水は、旬の果実によって様々な色に移ろう。取り立ててこの果実水が好きという拘りはないらしく、甘ければ良いという程度なのかもしれない。今の果実水は桃であるらしく、白濁した水は薄らと満たされた杯を持つ男の顔を写し込んでいた。
 ふと、疑問がもたげた。好奇心も加わって、壬氏は片眼鏡の変人に問いかける。
「羅漢殿は自分の顔は見えるのですかな?」
 顔が認識できない。それは実に巧妙に隠されていて、人を観察することには長けていた壬氏でさえ見抜けなかった。変人と言えば誰もが羅漢のことを指すと言える程の、独特で奇抜で傍若無人な振る舞いは、名前を覚える気がない態度を納得させる。顔を見分けられない事も、傍に立つ音操か陸遜に尋ねる事でことが済む。それが変人という羅漢の属性と相性が良く、あまりにも自然に馴染んだ光景になっていた。
 羅漢は変人で失礼な男だったし、平然と馬鹿にはするが、見下すような男ではない。ある意味、誰もが見逃す鼠にすら反応する男だった。そう言う意味では、力にものを言わせる傲慢な輩の多い軍部では、紳士的な態度であろう。変人だが。
 普通なら失礼な問いだが、羅漢は言葉の意味だけ拾ったらしく世間話のように応じる。
「えぇ、見えますよ。目と鼻と口と髪がついてる。たぶん人間の顔…なんじゃないかな?」
 あまりよく見えていないらしい。無精髭なのも致し方ないのだろう。
 壬氏に言われたからか、しげしげと果実水に映り込む自分の姿を覗き込んでいるのだろう。羅漢は果実水を注いだ杯から視線を上げず、独りごちる。
「自分の顔が駒に見えたことはないですが、どんな駒なのかは興味がありますな」
 兵を将棋の駒に見立てると知られていたが、実際に頭に駒が乗っているように見えていたとは驚きである。碁石か将棋の駒が乗った人々に囲まれて暮らす、壬氏は想像するだけで狂ってしまいそうだと思う。
 そんな世界で平然と、いや実際に狂っているのかもしれない男は首を傾げた。
「士、あたりかな?」
 まさか。師の方だろう。壬氏は内心呟いた。


■ 対話 ■

 天窓から差し込む日光を、透かし編みの布を渡して日差しを和らげる。そうする事で将棋道場は暑すぎず、手元の明るさを保っていた。人々は思い思いの場所に腰掛け、ぱちりぱちりと音を立てて駒を打つ。交わす言葉は少ないが、常連達は仲が良いと少年は思う。
 この地域では珍しい、細身で狐目で胡散臭い中央から来た男はいつの間にか来なくなった。最初の数日は風邪でも引いたかと笑い飛ばしていた常連達も、月が半分に欠けてくればどこぞへ去ったのだろうと負けなしと言われる腕前を惜しんだ。
 少年が老人に聞けば、旅立ったとのことだ。熱りが冷めるまでは帰ることを許されていないのだろうと、老人は言った。一体、彼は、いや彼の身内は何をしたのだろう、そう独りごちた。
「対局は対話なんだ」
 碁や将棋は嗜んでおきなさいと、老人は少年に将棋を手解きする。
「対局での駆け引きは、心の内を鏡のように写してしまう。善人か、悪人か、全てが一手に乗って示される。だから、対局を重ねるうちに親しくなってしまうものなんだよ」
 羅漢が去ってから、老人は元気がなくなって老け込んだと思う。この国で一番将棋が強い人を負かす程の腕前に、巡り合うことは滅多にない。老人が中央の痩せた男と対局している時、元服前の少年のように瞳を輝かせていたのを少年は知っている。
「あの小父さんがいなくなって、寂しいね」
 この国の事情に疎いが故に、少年のことをただの子供だと思っていた男。普通の、子供。そう扱ってくれたのは、老人と羅漢くらいなものだ。家族も将来の役目を担うものとして教育を施すため、子供と親は、生徒と教師のような関係が少なからずあった。
 老人は元服を控える少年の言葉に、そうだね、と頷いた。
「羅漢さんは、今までに出会った相手の中で一番単純で複雑なお人だよ」
「矛盾してない?」
 すぐさま少年は口を挟む。その速さに、老人は笑った。
「そうだね。確かに矛盾している。でも、信念を持っていて、柔軟に物事に対応できる、だったら矛盾はしていないだろう?」
 それだったら。少年は口を噤んだ。そして尖らす。
 羅漢は老人からいくつもの勝ち星をあげた。それはこの国の何者にも簡単にできる事ではない。一勝ですら難しいのに、あの片眼鏡の男は何度も何度も対局を重ねて、何度も何度も勝ってみせた。もちろん、老人が勝つ事もあったが、総合的に見れば羅漢の方が勝ちが多かったかもしれない。
 老人に勝つには剛柔合わせた対応力が必要で、それは認める。しかし、信念があるような立派なものを感じなかった。
 ふわふわと地に足がついていないようなのに、将棋を指す指先だけは迷いも容赦もない。中央にいずれ帰るというが、帰って何をするのか想像もつかなかった。
「でも、信念で片付けるには単純すぎて、天才と表現するには与えられた才能は大きすぎる」
 その大きすぎる才能は人の器に収まらない。だから多少は狂ってしまわねば保てぬのだ。そう老人は呟いた。
 ぱちりと少年の将の駒の前に、老人が駒を置く。勝負は決した。
「あのような人なら、私の全てを聞き取ってくれるのだろう」
 老人が眩しいものを見るように目を細めた。
「沢山話したつもりだったが、全く足りなかった。次回があるならば、その時は是非、全てを聞いて欲しいものだ」


■ 夕暮 ■

 羅漢という中央の男に、少年は純粋に興味を持った。この国の価値観を持っていない男は、少年が戌の一族であることを知らないから軽蔑しない。事情を知るつもりもないらしく、少年は羅漢にとって普通の子供だった。それが、なんともおもばゆい。
 将棋道場からぶらぶらと市街に出る頃は、大抵夕刻が迫る頃合いである。夕餉はどこで嗅ぎ付けたのか、将棋好きの店主に勝てば食事をご馳走してくれる飯店で済ますようだった。羅漢の足が真っ直ぐにそちらへ向く。
 羅漢と共に将棋道場を出ると、少年は縒れた衣類の裾を軽く引いた。市井の者が普段着にできるような服ではないしっかりとした布地は、この羅漢という男が何者なのかという好奇心を煽ってくれる。
「小父さん。甘いものが好きなの?」
 老人曰く、頭を使うと甘いものがほしくなるそうだ。羅漢は道場で将棋を打っている間、よく甘味を口にしていた。そのため、羅漢は昼飯を食べず夕刻まで滞在する。
「うん。好き」
 子供のような返事が返ってくる。まるで三姉妹の末妹のような屈託ない声色で、大人のくせに面白いと思う。少年にとって大人は尊敬できる程に賢い人々だった。自分も元服を着る頃にはそうなるべく、様々な知識を授けてくれる。そしてそれを自分も子供に施す。そういうものだと思っている。
 羅漢は将棋は強いが、賢いとは違った気がした。変な人。それが一番正解に近い表現だった。
「美味しいお店教えてあげるから、奢ってよ」
 片眼鏡をつけた狐目がうっすらと開いて少年を見た。そしてへらりと笑う。
「いいよ」
 少年はにっこりと笑った。羅漢は美味しい甘味の店を教えてもらい、対価に少年に甘味をご馳走する。互いに良い交渉で、成立したのが嬉しかった。戌の子と言われないのも、気分がいい。
 羅漢の袖を引き、少年は先を歩き出す。
「小父さん、こっちだよ!」
 中央から来た男と、戌の一族の少年。彼らは何度も夕暮れの中を連れ立って歩き、甘味を並んで食べる。そんな有り触れた日々が宝物になるなど、誰も知らずに。


■ 菓子 ■

「お疲れ様です、羅漢様。もしよければ、これをどうぞ」
 そう陸遜が差し出したのは、焼き菓子のようなものだった。焼き菓子らしい狐色とは程遠く白いが、砂糖でも塗しているかのような粉っぽい表面をしていた。彫刻されたような花が美しく、贈答品のような華美さがあった。
 毒味も兼ねてか、陸遜はその一枚を音操にも差し出した。陸遜はすでに一枚手にしており、一口かじる。
 音操もいただくと、驚くほど豊潤な乳の味がする。ほろほろと崩れ、ほんのりと利かせた蜂蜜の風味が合わさって口の中に溶けていく。美味しいと口にした頃には、上司の羅漢も口の中に放り込んでいる。この人は毒味という概念と堪え性を、どうして持ってはくれないのだろうと、音操は思う。
「うん。美味い」
 羅漢は機嫌良く二枚目に手を伸ばした。
 音操は子供のように菓子を頬張って、時々果実水を煽る上司から陸遜に視線を向ける。
「見かけない菓子だな」
「えぇ、西都の菓子です。商人が来ていたので、多めに買ってしまいました」
 照れ臭そうに陸遜は笑う。
 陸遜は西の血が混ざっているとわかる風貌だ。この地域の人間にはあまり見ない明るい色の髪、線が細く見える着痩せする質のようだが体格は良い。西の者は男も女も強かと聞くが、陸遜は物腰がとても温和だ。一度見た相手の顔を忘れないように教えたのは彼の母だと聞いたが、商いが盛んな西都出身だとしたならば有り得る話だった。
「伝統的な食べ物を使った菓子なんですよ」
 陸遜はつらつらと話し出す。遊牧の民は羊や牛など、乳の出る家畜を飼っています。乳製品の加工品の種類は、中央では見られない程の多彩さで質も良いんですよ。そのうちの一つに、乳の水分を飛ばして固める保存食があるんです。もう、歯が立たないほどに干し固めると、とても日持ちするんですよ。遊牧の民は、それを水に戻して食べるんです。この菓子はその保存食を粉砕して裏ごししたものと、微量の蜂蜜や果汁と合わせて押し固めたもので、他の地域への土産物として売り出しているんです。
 まさに商人による商品の宣伝を聞いているようだった。
「なんか、食べたことのある味だな」
 ぽつりと呟いた片眼鏡の上司は、きょろきょろと傍に視線を走らせた。何を探しているんだろうと首を傾げる音操だったが、陸遜は心当たりでもあったのか可笑しそうに口元を緩めた。
「きっと、ちまい兵でも探しているんでしょう」
 あぁ、よく駒が床に落ちているものな。ちまい、という言葉の意味が分からなかったが、音操は気にしなかった。


■ 初戦 ■

 陸遜が羅漢に取り立てられて隣に立つようになって暫くして、初めて戦に向かうこととなった。
 賊の抵抗は激しかったが、そこは負け知らずの漢太尉。見事な采配で最低限の被害で済みそうだ。現在、重傷者はいるが死人はいない。あれほどの激戦でここまで被害を少なく抑え込めるのは、天才と称されても良いと思う。
 指揮を執る漢太尉の隣にいたからだろう。そう、陸遜は思う。武官達が切り込み倒れる賊の姿が、累々と倒れて動かなくなる賊の姿が、血溜まりとなった地面、戦場の様相の全てが把握できた。いつの間にか蹲り、込み上げるものが堪えきれず体外に出ていたらしい。同じく副官の音操が、労わるように背を摩ってくれるのを陸遜は申し訳なく思った。
「初陣だったな。下がって休むといい」
「いえ、大丈夫です」
 口元を拭って、酸っぱい不快な味を唾液と共に飲み込む。陸遜は視線を上げた。
 戦況から全く目を離すつもりのない羅漢の背がある。最前線で戦う武官達よりも軽装で、胸当てと兜しか防具は装備していない。その上に軽く上着を羽織った背筋は真っ直ぐに伸び、腰に左手が添えられている。
 立ち上がって羅漢に並べば、武官の一人が男の首を槍先に掲げて雄叫びを上げていた。
 音操は陸遜の険しい顔を見て息を呑む。戦場を知らぬにしては、親の仇を見るような顔だ。戸惑いを隠せぬ音操だったが、羅漢が手を上げたのが視界に入る。
「将だ。音操、撤収の指示を出せ」
 御意。そう応えて音操が下がる。一瞬、心配そうに陸遜を見遣ったが、陸遜が大丈夫と応えたために音操は離れていく。音操を見送った陸遜は、徳利から果実水を直飲みした羅漢に問いかけた。
「羅漢様は戦いに勝たれた今、何を考えておられるんですか」
 片眼鏡の奥の瞳がうっすらと開いて陸遜を見た。
「なにも」
 静かだった。周囲に渦巻く、勝利の熱狂も、昇進の期待も、賞与に膨らむ願望も、何も含んでいない。無精髭の顔は何の感情もなく、凪いでいた。こんなにも目の前に多くの命が散っていて、その原因を作った張本人であるのに、何の感慨もないのがわかった。
「ただ、将棋で勝つだけだから」
 昔から勝利しても無反応だったのを思い出す。陸遜は上司を睨みつけた。


■ 次戦 ■

 熱風だと思った。草木を枯らしてしまう程の、致命的な熱気を孕んだ風。出立前は穏やかに凪いでいたのに、なぜ火炎旋風が前にあるのだろうと羅漢は首を傾げる。
 顔の見える、世の中に溢れた普通の人間なら、目の前の男はさぞや恐ろしく見えるのだろう。馬車で二人きり。相手は副官で武器を携帯しているが、軍師である羅漢は護身用の小刀すら持たない丸腰だった。
 殺しかねない熱を感じていたが、殺す気がないのも分かっていた。
「何をそんなに怒っているんだ?」
 ただただ、感じた疑問を口にした。
「無責任だと思いました」
 いつも穏やかな陸遜の声は、相変わらずゆっくりと聞き取りやすい。これ程までに熱を放出しているというのに、その声は全く震えていなかった。この男は面白いと、羅漢は思う。自分も周囲も焼き尽くさんとする熱を抱えておきながら、触れてみると全く熱くない。蒸したての饅頭のようだ。外が冷めているからと齧り付くと、まだ熱い餡で舌を火傷してしまう。
 饅頭が食べたいな。甘い餡を包んでいるのがいい。
 羅漢は陸遜の声は聞いても、言葉の内容は全く耳に入っていなかった。
「あんなに強いのに、ただ、将棋を打つだけと言ったのが」
「事実だ。私にとって戦は将棋と変わらない」
 何を言っているのか、羅漢にはよく分からなかった。ただ、熱が鎮まる理由に対して、答えが不正解だったのはわかる。
「貴方のような才能のある人は、民衆を導き豊かにするべく責任を持つべきだと思っています」
 下らない。溜息が漏れた。
 そういうことを言われたことは、たくさんあった気がする。『気がする』と思う程度に煩わしく思うのだから、想像以上に多くの人間から言われているのだろうと羅漢は思った。将棋が上手く打てる。戦に勝つ。それを重ねるうちに、周囲は羅漢にそれ以上のことを求め出した。目の前の男もそうなのだ。
 将棋が上手く打てる。戦に勝つ。羅漢にできるのはそれだけだ。それは、昔も今もこれからも変わらない。
「私は変われない。だが、打つ相手、打つ時期は誘導できる」
 ゆっくりと手をあげて、目の前に座る陸遜に指先を突きつける。にんまりと笑った。そんな顔をする程度に、面白いことになればいいのにと期待を込める。羅漢は自分の手の及ばない範囲から来る騒動を、それなりに好ましく思っていた。
「次の私の戦は、お前に決めてもらおう」
 熱が揺らぐ。怖気付くなよ、と陸遜に釘を刺した。


■ 勝戦 ■

 漢太尉は仕事熱心な人ではない。真面目に取り組む姿からは程遠く、集中力はすぐさま途切れ、昼寝を始めればなかなか目覚めない。そんな不誠実な仕事ぶりではあったが、提出期限にはきっちり間に合わせるのだから始末が悪い。
 羅漢の下で働く者達は上司に恵まれなかったが、上司が選んだ部下達は全てが全て優秀だった。同じ羅漢という暴風を凌ぐ連帯感と、気まぐれに雹でも降らせてくる不条理さを前に助け合う姿は理想的な職場だったろう。副官の音操と陸遜は、羅漢の仕事を出来る限り処理する。仕事の選別も指名や緊急性がなければ、副官が選ぶこともできたのだ。
 誰が選んでも、結果は変わらない。羅漢の手が上がった。
「将だ。音操。状況確認が出来次第、都に戻る」
 御意と一言告げて、音操が足早に下がっていく。
 羅漢の目の前には平らげた敵の拠点があった。逃げようとした者達も伏兵で一網打尽とし、討ち漏らした者は誰一人いないだろうと、完全勝利を高らかに宣言した。戦いに興奮して大きく響く歓声を、陸遜は苦々しく聞いていた。
「どうだ、陸遜。お前が選んだ勝利だ」
 ほぅら、勝ったよ。そう子供が親に無邪気に告げるように、羅漢はにっこりと陸遜に笑いかけた。
「最悪です」
 こみ上げる吐き気を、言葉と分けて言葉だけを吐き出した。
 盗賊の討伐も含め、戦をすることが軍部の仕事だった。小さい村の小さな事件と軽んじた男達を捕らえて、奴隷のように他国に流す人身売買を行っている。そんな連中を掃討する任務を、陸遜は羅漢に振った。羅漢も陸遜の選んだ戦場を二つ返事で引き受けて、今、目の前の光景に変えて見せた。
 他人の利益を掠め取る手合いなど、死んでも惜しくない。ましてや、掠め取るものが人生や命だ。外道のすることである。商人として研鑽を重ねたこともあった陸遜は、そう思っていた。だが、命は命。失われていく原因の一端を担うとなると、凄まじい自己嫌悪感に苛まれる。大義名分と羅漢の采配で、一方的に虐げている様子は最悪としか言いようがなかった。
 そして、これらの責任を全て羅漢に背負わせ、自分はただ従っているのだと逃れていたのだと突きつけられる。
「戦とはそういうものだ。お前は、とっくに知っていたのにな」
 とっくに知っていた。その言葉を陸遜は噛み締める。敗者の苦しみを、正義を振るう者の狂気を知っていた。
 羅漢が笑みを薄くすると、彼にしては真面目な口調で陸遜に言った。
「お前は副官の仕事をしただけだ。私は将棋を打って勝つ、それだけだ」
 それは副官の陸遜だけに言った言葉ではない気がした。背追い込めばどうなるか、陸遜はとっくに知っていた。今では年月のおかげで折り合いが付けられるようになっていたが、自分ですら手を焼く感情は陸遜に良く似た男の子の形をしている。
 静かだ。負けなしの軍師は、今まで何回勝ちを得てきたのだろう。きっと、数え切れないくらい沢山に違いないと陸遜は思う。その瞳は相変わらず凪いでいて、将棋盤に散った駒を片付けるように関心が離れている。
「これからも、勝ち続けるんですね」
「うん。私は負けないから」
 事実を告げ、羅漢はへらりと笑った。


■ 待望 ■

 漢 羅漢を傍に立たせる事ができれば、天下が取れる。
 それは噂以上の力があった。
 負けなしの軍師と呼ばれる男は、その戦場に立つだけで空気を変える。敵に絶望を与え、味方を鼓舞する。まさに武生のような存在じゃないかと、玉鶯は思った。想像するだけで、気持ちが昂った。
 そのような存在になりたい。
 当然、負けなしの軍師と呼ばれる羅漢殿だ。重ねた戦歴の数は膨大で、その一つ一つに勝ち星を飾った戦歴は誰でも成し遂げられるものではない。類稀なる才能と、実績の積み重ねは揺るぎない土台となっている。
 偽りのない本物の強さが眩しく羨ましい。
 そんな存在を傍に置きたい。一時で良い。その一時で武生になる自信が、玉鶯にはあった。
 月の君が来るのは少し残念だ。羅漢殿が采配を捧げるのは、玉鶯ではなく月の君となろう。それでも、構わない。月の君とて利用してくれようと思う。
 麗しき月の君。まるで細い三日月のような男なのだろう。そう、玉鶯は笑った。
 剣術を極め、体格に恵まれ、知識を取り込み都を盛り立て、快男児の容貌と態度は西都の民に受け入れられている。例えるなら、今の自分は翌日に満月になろう月だ。欠けているとしたら、絶対の采配だけ。
 恋しくすら思う甘美な未来は、人の形になって西都にやってくる。あぁ、待ち遠しい。と鶯は鳴いた。