梅の花弁は何色か


■ 墓前 ■

 流石は名持ちの一族とあって、当主が居を据える屋敷は豪華だったが華美ではない。池は大きく色鮮やかな鯉が泳ぎ、池を臨ように渡された廊下や橋は飴色になった木造建築に相応しい優美な細工が凝らされている。岩の配置も木々の配置も計算された美しい庭園に、季節の花の鮮やかさが篝火のように映える。庭を一つの芸術品と捉える窓は大きく、金銀螺鈿で飾らぬ屋敷は梅梅には好意的に映った。
 庭園の一角に鳳仙花が満開になっている場所がある。誰かが毎日のように訪れているらしく、花に埋もれるような墓石の前までは綺麗な道ができていた。墓石の前に膝をつき眠っている大姐に語りかけていた梅梅は、歩み寄ってきた足音に顔を上げた。
「そろそろ、戻る時間だ。良いかね?」
 手を差し出してきたのは、墓で眠る女性の夫。この屋敷の主人である羅漢だ。
 片眼鏡の変人といえば通じてしまう程に破天荒な人物ではあるが、梅梅にも鳳仙大姐にも紳士的で優しい人物であった。掛けてくれる声色は優しく穏やかで、今も立ち上がろうとする梅梅に手を差し出している。
 男としては細身ではあるが、それでも梅梅の体を支える程度には力強い。手を握り立ち上がると、梅梅は優雅に頭を下げた。
「墓参りをさせてくださって、ありがとうございます」
「礼を言われることではない。鳳仙も喜んでいるだろう。不満があるとするなら…いや、金で解決するならそれ以上安いものはない」
 穏やかな顔が顰められる。煙管片手に睨めつける顔から、勉強してやるなどという言葉が出たならば、どんな対価を求められるか分かったものはない。梅梅はありありと想像して、小さく笑ってしまった。
 妓女を妓楼の外へ連れ出すことは、追加料金を取られる。その額は妓楼で会う金額の倍で済む程度ではないし、連れ出す際は男衆も一人同行する決まりになっている。妓女に何かあってはならない目付役であり、妓女が逃げ出さないように見張る監視役でもある。
 しかし、相手は常連の羅漢であり、男と女の関係にはとんと興味がないのは将棋や碁を打ってばかりで知れ渡っている。さらには身請けた鳳仙の墓参りを梅梅が希望していると聞けば、万が一の間違いなど起きるわけもない。同行した男衆は少し離れた所で茶と菓子を供されていた。
 橋を渡っていると、すっと良い風が梅梅を撫でていく。大姐がここで大事な人と最後のひと時を過ごせたことは、堪らなく嬉しいことだった。大姐を愛している男が、男を愛している大姐が好きだった。そんな関係に自分が入れなかったことは、寂しくないと言えば嘘になる。それでも、そんな二人が大切で、想い合っていることに心が満たされていった。
「羅漢様」
 声をかければ振り返ってくれる。何だろうと振り返る男は、なんとも無防備で愛しく思う。
「大姐を幸せにしてくれて、ありがとうございます」
「梅梅。君は礼を言うばかりだな。君と一緒にいると、私は一生分の礼を言わねばならなくなるよ。さぁ、行こうか」
 手を差し出される。大きくて温かい手は、何度も大姐の手を握ってくれたのだろう。自然にまるで何度も手を握ったかのような収まりの良さで、梅梅の手を包み込んでくれる。
 大姐、ごめんね。
 梅梅は心の中で謝る。大姐は目の前で手を繋ぐ、夫と妹分の姿をどう思うのだろう。怒って嫉妬するかしら。それとも、微笑んで見守ってくれるのかしら。どちらにしろ、男にとって梅梅は大事な妻の妹という認識だろうから許してほしいと思う。
 梅梅は頬を赤らめて微笑んだ。その顔が見えないのだから、良いだろうと堪えもせずに。


■ 襲撃 ■

 御者が悲鳴を上げて、そのまま昏倒した。格子細工が施された馬車でも、それは全面には及ばない。御者の後ろにかけられた布が、矢によって大きく引き剥がされ、開けた視界に大通りの光景が飛び込んできた。馬が驚いて足を上げて嘶くのを抑える武官、市井の者達が何事かと驚いた様子でこちらを見ている。
 梅梅は驚きに身を竦めたが、隣に座っていた羅漢はすぐに腰を浮かせた。聞いたこともない鋭い声が耳を打つ。
「梅梅! 伏せるんだ!」
 羅漢の声に顔を上げた梅梅は、日を反射した矢尻が目に飛び込んできていた。それは梅梅の前で大きな影と共に遮られる。鈍い音が聞こえたと思えば、顔に生温い水が跳ねた気がした。すごく嫌な予感がする。血の気が引いた梅梅は、世界が真冬の澄んだ空気のように鮮明に見えていくのに身を任す。
 影は羅漢だった。梅梅を庇うように前に立って、梅梅の頬の血を拭った。傷を負ったわけではないと分かったのか、狐目は心底ほっとしたように目尻を下げた。その顔の横に、ちょうど肩口に不自然なものが突き立っている。日の光を遮る羅漢の影からわずかな光を吸い込んだそれは、梅梅の闇に慣れた視線の先で血に塗れた矢尻だと分かった。
 梅梅は驚きに目を見開いた。矢に貫かれた人間を見るのは初めてで、それが羅漢であって、目の前が真っ白になる。
「動くな!」
 とっさに矢に手を伸ばそうとした梅梅の腕を、羅漢は掴んで壁に押し付けた。影になって羅漢の顔色はわからないが、息が荒くなる。
 漢太尉を狙った襲撃に、護衛の武官達が怒号を発して駆けずり回る音がする。しかし、梅梅にはがなり立てる轟音よりも、羅漢の静かな諭すような声の方がしっかりと耳に届いていた。
「矢尻に、触れては、いけない。毒が、塗られてる」
 梅梅が理解して力を抜いたからか、羅漢は梅梅の手を離す。そのまま己を貫いた矢を折り、矢尻を馬車の床に捨てる。
「矢は、抜かなくていい。部下が、手当てを、やってくれる、だろう」
 硬い板張りの馬車の床に、羅漢は勢いよく膝を突いた。ひゅうひゅうと呼吸の音に本来混ざることのない異様な音が加わって、それしか耳に入ってこない。顔色は白く、思わず触れた肩は燃えてしまいそうなほどの熱を帯びている。
 どうしたらいいんだろう。梅梅は狼狽える。大姐だけじゃなく、この人まで失ってしまったら、そう思うと臓腑が口から出てしまいそうなくらいの不快感が迫り上がってくる。
「梅梅」
 羅漢が梅梅を見た。見て、驚いたように狐目を見開く。梅梅の頬に手を伸ばして拭うと、落ち着かせるように優しく口元を持ち上げた。
「泣かなくて、いい」
 そう言って、ついに羅漢は意識を失って崩れ落ちた。


■ 膠着 ■

 負けなしの軍師。軍部の最高位の権力者が一人である太尉が襲撃されたことは、瞬く間に宮中に知れ渡った。さらに、漢太尉が毒矢で撃たれて昏睡状態になったとなれば、大騒ぎでは済まされない。馬車はそのまま軍部へ回され、軍部の医務室に蒼白の漢太尉が横たわっている。
 はずだった。
「羅漢。意外に毒の耐性を持っているんだね」
「まあな! 毒でも使わねば私に勝てぬ卑怯者というのは、存外に多くてな!」
 そう楽しげに笑い飛ばすのは、今回の襲撃で毒矢を食らった漢太尉こと漢 羅漢である。同じく毒矢を受けた御者は未だに意識も回復していないというのに、なぜこの男は意識が回復して、寝台から身を起こして果実水を煽っているのだろうと、猫猫は人でないものを見る目で見ている。
 今は上着を羽織っているが、包帯の巻かれた肩口の傷周辺は毒によってひどい色に変色している。熱を帯びた腫れもひどく、上着を羽織っても左右差は一目瞭然だった。動かせる状態ではない腕は、首から掛けた布で吊っている。その腫れと毒から、本来なら意識が朦朧とする程度に発熱するはずで、肌に触れた時の熱感は思わず手を引っ込めてしまうほどだった。なのに、なぜ、こんなに元気そうなのだろう。
 猫猫は考えることをやめた。このおっさんは普通ではない。その答えが最も相応しかった。
「猫猫も私を心配して来てくれたのかい! 嬉しいなぁ!」
 でれでれと狐目を下げる羅漢を、猫猫は蛞蝓を見るかのような目で見た。いや、蛞蝓にも失礼だろうと心の中で蛞蝓に詫びる。
 上機嫌なまま羅漢は、羅門の横に立っている音操に話しかけた。上機嫌な羅漢は、それはそれで怖いものだ。
「音操。偵察は」「一番早いものを既に向かわせています」「装備は」「毒矢が使われたことから、盾と解毒剤を多めに用意しています」「書類は」「羅漢様の承認待ちです」「腕が動かない。全部、判子押しといて」「了解しました」
「私も行くから、地図と将棋駒出しておいて」
 最後の一言に、羅門も猫猫も目を見開く。とてもではないが、寝台から出すことすら許可できる状態ではない。確かに元気そうには見えるが、熱は依然高いままだ。立って歩くことすら出来るかどうかわからない。
「羅漢や。医師として、お前を戦に行かせる許可は出せないよ」
「叔父貴。私は軍師だよ。采配さえ出来れば、怪我も毒も大した問題ではないんだ。大丈夫だよ」
 痩せた小汚い中年男が剣を握れるとは思わない。辟易して帰りたい気持ちでいっぱいになる猫猫だったが、尊敬するおやじどのの隣ということでグッと堪える。
 そんな猫猫の心中を知ってか知らずか、羅門は辛抱強く羅漢に言い聞かせる。
「駄目だよ。矢が大きな血管を傷つけている。お前の体にはかなりの毒が回っているんだ。最低でも毒抜きに3日は必要だし、腕を今無理に動かせば二度と動かせなくなる。安静になさい。無理をしたらどうなるか、わかるね?」
 うーん。羅漢が唸りながら羅門を見上げた。
 普段の羅漢は尊敬している羅門の言葉を、渋々ではあるが受け入れる。そんな羅漢が、どう言えば羅門の言い付けを断れるか、ということに考えを巡らせているようだった。羅門を説き伏せられないなら、問答無用で摘み出すなんてことはしないらしい。変な所で律儀な男である。
「叔父貴。私が戦場に立たないと意味がない。今回は特に」
「羅漢や。私は戦のことは分からない。でも、命は一つだけだよ」
 うーーん。羅漢は困ったような顔になる。この男はおやじどのに義理立てて飛び出さないのではなく、やはり歩けないのではないかと、猫猫は勘繰ってしまう。元気そうに振る舞っているのは演技と見えなくもない。
 しかし、このおっさんは毒を受けて半日しかまだ経っていないんだけどな…。耐性があるとは言え、やはり変人だ。そう猫猫は思う。
 羅門の純粋に命の心配をしてくれているのを、無碍にできない。そうも思うが、認めたくはなかった。
 互いに譲ることができない二人を見比べ、猫猫は悔しくも血の繋がりを意識せざる得なかった。


■ 譲歩 ■

 叔父と甥の睨み合いが続き、軍部の医務室に満ちた微妙な空気は、扉が開くことで入れ替わった。
 ふんわりと花の香りが外気と共に入り込み、部屋に入った目麗しい妓女に武官達の鼻が締まりなく伸びた。梅梅は壬氏に付き添われる形で、意識の戻った羅漢の見舞いに来たようだった。廊下には高順と梅梅に付き添っている男衆の姿が見えた。
 「羅漢様」そう声を掛けられて、羅漢は気がついたように顔を上げた。
「梅梅! 怪我はなかったかい?」
 狐目が柔らかく緩み、口元が穏やかに弧を描く。こんな優しい顔ができる男なのだと思ったのは、猫猫だけではなかっただろう。梅梅が慈悲深い天女のような微笑みを見せると、数名の武官が胸を抑えて蹲った。うむ。罪な小姐であると、猫猫は思う。
「君に傷一つ付けたなら、鳳仙に顔向けできない所だった。本当に無事でよかったよ」
 その言葉に、ふと梅梅の顔に寂しげな色が浮かんだ。それが意味することに気がつけた聡い者は、猫猫も含めて渋い顔をする。こんな片眼鏡の変人の、何がそんなに魅力的なのだろう。
 それでも、その顔を目の前にした当の本人は気がつけない。顔が見分けられないとはいえ、本気でこんな男は止めて欲しいと猫猫は願ってしまう。
 羅門が譲った寝台横の椅子に梅梅が座ると、羅漢は真面目な顔で話しかける。
「君を鳳仙の墓参りに連れて行くという私の予定が、何らかの形で漏れていたのだろう。時間が決められていて、待ち伏せがし易い状況下であったのは確かだ。怖い思いをさせてしまって、本当にすまなかった」
 何せ、この国暗殺事件の大半はこの男に向けられているという。負けなしの軍師として戦場では最も目立つ上に、普段の無礼千万で傍若無人の振る舞いを見れば、恨みを懐かぬ理由を探すのが困難だ。
 とは言え、梅梅を巻き込んでいることは本人にとって痛恨の極みであったらしい。詫びには心が込もっている。
 そんな羅漢の手を梅梅が取れば、武官の何人かが歯軋りして羨ましがった。猫猫は同情し、心の中で詫びる。
「羅漢様。戦に向かわれると聞きました。そのお体で、本当に向かわれるのですか?」
「梅梅が心配することはない。私は負けないから」
 にこりと子供のように笑う。過剰な自信も虚栄もない、事実を言っているだけの言葉だ。
「羅漢様。今回私を庇った結果に死んでしまわれたら、私こそ鳳仙大姐に示しがつきません」
 うん? 羅漢が首を傾げた。
「羅漢様。一つ賭けをしませんか?」
 羅漢が梅梅を見る。すると、酷く驚いた顔になった。
 梅梅は男衆を呼び、徳利と杯を受け取る。美しい梅の絵が描かれた小振りの徳利から、杯に果実水を注いだ。それを『どうぞ』と羅漢の手に握らせる。羅漢は思わず受け取ってしまった杯を見て、ぎくりと体を硬らせた。
「梅梅。この果実水、本当に果実水『だけ』しか入っていないのかな?」
 他人の顔を見分けられず、名前も覚える気がない男でも、それなりに学びはするのだろう。この男を黙らせるなら、一献飲んで貰えばいいのだ、と。流石にこの状況で、酒を飲まされ昏倒させられる訳にはいかないらしい。
 梅梅は見る者をうっとりとさせる笑みを浮かべた。
「この果実水に酒が入っているか、いないか。入っていたら、目覚めて直ぐに出立されて結構です。入っていなかったら、毒抜きに必要な3日間、安静にしていただきます」
 羅漢は黙り込み、じっと手に持った果実水を見下ろした。
「…他ならぬ梅梅のお誘いだ。断るわけにはいくまい」
 そう言って、一気に杯の中身を煽る。ぺろりと唇を舐めて、暫く空の杯を眺めてぽつりと呟いた。
「うーん。ただの果実水みたいだね」
 なぜ、飲んだのだろう。猫猫はすごく不思議な気持ちで、この男女を見比べた。


■ 信用 ■

 市井と軍部以外の宮中では『漢太尉が襲撃で受けた毒矢で危篤に陥っている』という噂が流れていた。勿論、当の本人は危篤などには程遠く、毒抜きの為に一日に何度も苦い薬を飲まされて渋い顔をしている。翌日には解熱し、重湯どころか月餅を頬張る始末だ。こればかりは羅門も回復の速さに舌を巻く。
 噂を流した張本人である羅漢は、宮中と市井が記された地図を広げて碁を打っている。
 『3日も暇なのだから、せめて碁でもして遊ぼう』そう事もなげに言って、潜んだ犯罪者を炙り出しはじめたのだ。刑部は今までにない忙しさに目を回しているという。なんというか、傍迷惑な男だと壬氏は思う。
 それでも、漢太尉が動けぬ間、軍部も動いていない訳ではない。襲撃をした者を追い、その襲撃の裏を探って指示した場所を索敵しているらしい。もう敵の位置や目的も把握したらしく、漢太尉の出立を許された3日を迎えたら掃討作戦が決行されるとのことだ。
 敵でないとはいえ、味方と断言するには空恐ろしい御仁だ。
 壬氏は小さくため息をついて、疲れた様子の猫猫を見た。羅門と共に羅漢の下に行き、毒矢の刺さった傷口の消毒と薬の塗布に行くのが負担なのが目に見えている。
「仕方がないだろう。羅漢殿の代わりは、この国にはいない」
 壬氏は諭すように猫猫に言う。
「羅漢殿の軍師としての腕は、天下一品だ。この武生がいない我が国において、戦の要を担えるのは彼だけだろう」
 武生とは英雄を意味する。本来ならば武生は皇帝であるべきだが、この国の泰平の歴史は長い。年単位で続くような戦は近年には存在しないために、武生と称えられる英雄は存在しない。そうなった結果は、羅漢の卓抜とした采配のおかげであった。
 負けなしの軍師。そう呼ばれる彼が戦場に立つだけで、敵は圧を感じて動きを鈍らせ、味方は鼓舞され意気揚々と戦場を駆ける。それほどの影響力を持つ羅漢の存在は、他国にも一目置かれている。彼を傍に置くことができれば、天下を取れると噂されるのもあながち夢見事とは言い切れぬのだ。
 憎らしいほどに強い。羨望と憎悪を一身に受け止めておきながら、本人はただ将棋を打って勝つのが楽しいだけだと言い切るのだから誰も浮かばれない。皇帝ですらその常識を逸した考えに、ある意味信用していることだろう。
「今回の出立に固執するのは、軍師としての信用のためだろう」
「軍師としての、信用?」
 羅漢の采配は将棋を元に組み立てられる。禁じ手の一切ない正攻法で、全ての敵に勝利してきたのだ。そのために、羅漢という軍師は毒や内通者による内部分裂といった、将棋の規定にない方法は使わぬと誰もが知っている。相対する敵軍は、汚い手を使われることはないと、ある意味信用するのだ。
 それを猫猫に言って理解したとしても、受け入れ難いだろう。この話題すら終わらせたがっている。
「今回の一件で毒殺が軍師殿の策を超えると、どうなるか。野営地の水に、近隣の村の井戸に、毒が投げ入れられる。羅漢殿は毒殺などよりも自分の采配が優れていることを証明しなければ、毒が戦場の主力になると分かっているのだ」
「そんなこと、考えてるのかな…?」
 そう言われると、自信がなくなってしまう。高順ですら苦笑いを浮かべてしまった。


■ 変化 ■

 戦場にひょっこり出てきた漢太尉の姿に、襲撃を企てた敵勢は瞬く間に瓦解し戦は予定より数日早く決したと言う。そのまま遊撃して潜んでいた盗賊をいくつも潰して帰還したが、当の本人はそんな功績など関心がないかのように普段通りだ。
 今もこうして壬氏の執務室に顔を出し、嫌がらせのように執務を妨害している。
 案件を通すだけなら、この雑談の半分以下の時間で構わないと言うのに…。壬氏は頭が痛いと、天上人のような麗しい眉根を寄せた。『そういえば』羅漢が果実水の徳利を傾けながら言う。まだ続くのかと、ため息が漏れる。
「壬氏殿。貴方から見ても、梅梅は綺麗な女性なのですかな?」
 不思議な質問だった。壬氏は羅漢をまじまじと見る。
「緑青館の三姫の一角ですよ。とても美しい女性だと、私は思いましたが」
 壬氏は己が天上人のような容姿であるからだが、どのような姿が他人に美しく好意的に映るかを熟知している。梅梅もまた妓楼に生きる女として自身を磨き上げ、他者が惚れ惚れするような美人に仕上げていると思った。さらに誇り高く、知的で、妓楼という女の園を生き抜く芯の強さは魅力的だ。正直、壬氏から見れば中級妃よりも美しいと思う。
 とはいえ、羅漢が妻として身請けた女の妹分になる。どういう理由にしても羅漢が梅梅に対して接し方が特別なのは、誰の目から見ても明らかだ。何が刺激になるかわからないので、必要最低限に返答を止める。
「ふぅむ。そうだよなぁ」
 吊っていない手で無精髭を撫でながら、羅漢は独りごちた。
「なにかあったんですか?」
「あぁ、時々、梅梅の顔が見えるようでしてな…」
 心底不思議そうに羅漢は言う。この男にとって碁石や将棋の駒に見えぬ人間が現れることは、それなりに大事件なようだ。
 片眼鏡を外し、曇りを拭ってまた装着する。壬氏に向けた羅漢は、困惑と言いたげに狐目を下げた。
「鳳仙と違って、泣いている顔や、凄んでいる顔が見えるものだから、他の者はどう思っているのだろうと聞いてみたんですよ」
 なんと答えたらいいのか…。壬氏と高順は顔を見合わすしかなかった。


■ 継続 ■

 梅梅の手に広げられているのは、随分と草臥れた紙の本だ。何度も読み返されているのか、箒のように紙が広がってしまっている。少し前に羅漢が執筆した棋譜の本だ。いままでの対局で面白いと思った内容を纏めたもので、甥の羅半はすぐに完売したと見込みの甘さを悔やんでいた。
 藍染に模様となるように様々な趣向を凝らした表紙は随分と毛羽立ってしまって、梅梅の爪紅を施した指先には似合わないとすら思う。それでも、それが大事にされていることに、羅漢は温かい気持ちになった。
「随分と読み込んだようだね」
「えぇ。羅漢様と大姐が打っていた対局が多くて、懐かしい気持ちになります」
 その顔は相変わらず白い碁石だが、嬉しげな声が聞こえる。鳳仙の傍で立って対局を見ていた禿も、今では鳳仙の座っていた場所で己の相手をしている。緑青館の三姫と呼ばれた彼女の傍には、梅梅ではない幼い娘が禿として控えている。時間の流れを感じていたが、柔らかい気配と良い梅の香りが変わらないのが嬉しかった。
 ぱちり。ぱちりと碁石を置く。傍に立って覗き込んでいる白い碁石も、禿であった梅梅のように碁をするようになるのだろうか。そう視線を向けていると、梅梅が声をかけてきた。
「お体は大丈夫なのですか?」
「あぁ。ようやく、腕を動かしていいと叔父貴から許可が出た。私は元気なのに心配性だよ」
 羅漢は怪我との日々を思い返す。鈍い痛みは残っているが、服の着脱は一人でできる程度にはなった。まだ、執務を集中的にこなせる程には回復していないが、部下が代筆したり判を押したりするので執務が滞ったりはしない。
 何より、碁や将棋を打つのに痛みを気にしなくて良くなったのが嬉しい。痛みを忘れるほどに集中できれば良いが、流石に眠れぬほどの痛みや発熱では好きなことに心を傾けるのは難しいものである。
「襲撃を企てた連中は討伐した。市井も随分とすっきりしたはずだ。怖い思いをさせてしまったが、もう外に出ても大丈夫だろう」
 羅漢は無邪気に笑った。ここ数年で一番多くの犯罪者を牢屋に放り込んだ首謀者の顔ではない。
 刑部は牢屋がいっぱいだと抗議してきたが、羅漢には関係ないことだ。仕事を怠って罪人を野放しにしていたのだから、感謝はされても文句を言われる立場ではない。
「本当に良かった。羅漢様に何かあったら、私…」
 目の前に白い碁石はなかった。血色よく頬を染めた白い肌、艶やかな唇。大きな瞳は潤んで、泣き黒子の上を伝って流れてしまいそうだ。背まで流れた豊かな髪はゆるく波打ち、豪華な髪飾りは梅をあしらったものだ。
 思わず、息を飲んで凝視してしまう。どうして、そんな顔をするのだろう。羅漢が見た事もない表情は、戸惑わせるには十分なものである。
 じっと見つめすぎていたのか、梅梅は目を見開いて顔を赤らめた。
「な、なんですか?」
「いや、なんでもない」
 ふと、視線を盤上に落として目を見張る。良い手だ。これから先、楽しくなりそうな一手が梅梅によって指されていた。
「私も勉強しておりますので」
 羅漢は唇の端を持ち上げ、姿勢を正した。もう、盤上から視線は外れない。