変人と麗人と、ときどき娘


■ 分岐 ■

 甥は雨の中を駆けてきたのだろう。全身濡れていて、風邪をひくから拭いておいでと言ったが取り合わなかった。羅門の前に疲労からか覚束ない足取りで歩み寄ると、肩で息をしながら椅子に座る叔父を見下ろした。
「父は叔父貴を見限るらしい」
 淡々と甥が告げた言葉に、羅門は落胆しなかった。想像通りの結果に、一抹の寂しさが腑に落ちていく。一族の者との関係は決して良好ではなかった。親族とは折り合いがつかず、現当主である兄からは嫌われていた。一族の援助が得られるとは、露とも思っていなかった。
 羅門自身に子はおらず、この目の前にいる甥だけが彼を親のように慕ってくれた。勉学のために西へ行くことを寂しがってくれて、宮廷で共に働けることを喜んでくれた無邪気な顔は、今は苦しげに歪んでいる。そんな顔をさせたくはなかったが、羅門も痛みに微笑を浮かべるのが精一杯だった。
「私も都を離れるよう言われた」
「私のせいだね」
 すまないね。消え入りそうな声で、羅門は詫びた。
 羅門は失脚した。失脚した内容によっては、一族にも責任が及ぶ。一族と疎遠であるが故に現当主に累が及ぶとは思えなかったが、宮廷内でも親しげに会っていた甥だけは断言ができない。しかも一族に齎される天賦の才と狂気を背負って生まれた甥を、当主は疎んでいた。
 体の良い厄介払いの口述だとしても、甥が拒むことはできない。現当主は甥の父親で上司であったからだ。
「なぁ、叔父貴」
 甥が目の前に膝をついて、座っている羅門の顔を覗き込んだ。
「一緒に行かないか?」
 羅門は甥の頭をそっと撫でた。甥に与えられた才能は、人間の器に宿るものとしては大きすぎた。人と違うものが見える世界、人と違うものを感じる感覚は、彼を変人と揶揄する程度に奇抜な行動に見える。甥にとっては普通のことは、この世界に満たされた常識から逸脱していた。
 それでも、この子には良心が備わった。一部の人間にしか及ばないものだったが、それは大きい意味がある。
「お前は自分が良いと認めた者には、とても情に厚くなる。その言葉だけで私は報われるよ」
 慕われる心地よさは、暖かいものになって冷え切った羅門の体に満ちた。自分は幸せ者だと、噛み締める。
「お前の才能を生かすには、知って工夫せねばならない。才能を認められこの国から離れられなくなる前に、諸国を見て歩ける好機を逃してはいけないよ。私に構わず、行ってきなさい」
「でも」食い下がった甥に、羅門ははっきりと言った。
「私は行かぬよ」
 甥の申し出は、羅門にとって生るために選ぶべき選択だった。立って歩くことにも不自由した体では、医者としての知識があっても生計を立てることは難しい。財産は没収され、体の一部は奪われ、一族に見限られた。命を奪われなかったのは、若くない体は朽ちてゆくものと判断されたからだろう。
 甥には将来がある。甥の才能が必要とされ、認められる日が必ず来る。羅門は甥の足手纏いには、なりたくはなかった。
 羅門の拒絶を感じ取ったのだろう。甥は一つ息を吐いて引き下がり、徐に大きめの巾着を取り出した。
「…これを、黙って受け取って欲しい」
 甥は羅門の手を取り、その巾着を乗せた。ずしりとした重みと、ざらざらとたくさんの硬貨が崩れて掌に広がる感覚。硬貨は甥の体温で暖まっていて、懐炉のようだった。かなりの大金だ。市井の人間なら遊んで数年は暮らせそうな金額が、この中に収まっていると羅門は察した。
「こんなに。なにか大切なことの為に、貯めたんじゃないのかい?」
 その言葉に甥は切なげな表情を見せた。生まれてから知る甥が、初めて見せた感情だった。
 羅門は自分以外にも大事なものを都に残して、甥が旅立たねばならぬことを甥以上に察してみせた。一族の当主は、血の分けた兄は、己の子によくも非道な命を下してくれたものだと怒りすら湧いた。甥は首を振り、返そうとする巾着を押し付ける。
「私がここに立っていられるのは、叔父貴が私に色々と教えてくれたからだ。この金は、叔父貴がここで生活する為の基盤を整えるのに使って欲しい。知識も技術もあるんだ、整いさえすれば叔父貴なら大丈夫だろう」
 甥は立ち上がる。
「叔父貴、達者でな。帰ってきたら、顔を見せに行くから」
「羅漢や。気をつけて行ってくるんだよ」
 羅漢は行き、羅門は留まる。それが今後に影響する大きな分岐であると、二人は知らなかった。


■ 演出 ■

 整然と並んだ武装した兵士達が麗人を見た。値踏みするような視線だと、見られている麗人は思った。背後から殺意に似た感情が眼前に向けられているのを感じていたが、我慢して欲しいと麗人は思っている。不敬罪と非難することもできぬ。
 己の醜さを重く垂らした前髪の奥に隠し、人前に出ることがなかった皇帝の弟。それが鎧を身に纏い戦に出ようと言うのだ。軟弱者と思われても仕方がないし、こうして武装して立っても雄々しさからは遠い外見である。麗しい天上人と称される外見は麗人を様々な面で優遇させたが、力がものをいう戦さ場の世界では卑下の対象でしかない。麗人が一番わかっている。ここに立っている多くの兵士達より劣っていることを。
 兵士達の空気に緊張が走った。閉じられた扉の向こうから、不明瞭だが人の声がする。何を話しているかは分からぬが、我が儘を叫ぶ子供のような屈託ない声色は漢太尉だと分かった。
 麗人が正面を見据えると、扉が開く。抜身の剣を提げた漢太尉が、副官達と眼鏡の文官一人を伴ってやってきた。
 どこまでも変わらぬ人だ。麗人は漢太尉を見て、安堵するべきか、羨むべきか、妬むべきか、どうするべきか感情を持て余す。無精髭にぼさぼさとした髪、狐目の下には胡散臭そうな笑みの形に歪んだ唇。この屈強な兵士達の中で最も武力とは縁遠い人であるはずなのに、圧倒的な存在感で兵士達の間を進んでこちらに向かってくる。
 兵士達は敬意を表して頭を下げる。軍部において、最高位の地位の一角である太尉であるからではない。負けなしの軍師。自分達を勝利に導く者への、あらんかぎりの尊敬と信頼を捧げているのが伝わってきた。
 皇帝ですら、ここまでのものを捧げてもらえるのだろうか。麗人は歩み寄ってくる男を見つめた。
「月の君に申し上げます」
 立ち止まった漢太尉はゆったりとした声で言う。しんと静まり返った空間で、太尉の声はよく響いた。
 背後に控える副官や文官は膝をついているのに、この軍師は膝を折ろうとしない。麗人の背後からいつでも剣を抜けるよう、手が掛けられる音を聞いた。
 変人でありながら武生のように君臨する男は、皇帝の弟にとて畏ることを知らないのだろうと、この場の誰もが思った。それは不敬罪だと、叱責するような目で見る者がいる。軍師殿らしくて良いと唇の端を持ち上げる者がいる。地位ばかりで軟弱そうな麗人に、負けなしの軍師が膝を折らなくて良いと思う者がいる。
 皇帝の弟は今までの経歴から鍛えた感性で、この場の様々な思惑を汲み取った。しかし、目の前の男だけは分からない。
 すると、正面からこちらを見ていた軍師が下を見た。
 ざわりと兵士達の気配に動揺が走る。
 漢太尉が膝を折り、敬意を表するように畏ったのだ。そして提げていた剣を、目の前に立つ麗人に握れと言わんばかりに捧げ持つ。
「私、漢 羅漢は貴方様に采配と勝利を捧げることを、誓いましょう。貴方様の隣に立ち、貴方様の軍師として仕えましょう。どうか、逆賊を誅罰する為に我らが旗印となりお導きください」
 上官に倣うのが兵士。漢太尉が膝を折って敬意を表したならば、兵士達とてそうせねばならない。兵士達は一斉に膝を折って、軟弱と見くびった皇帝の弟に敬意を表した。あの漢太尉が膝を折った。あの漢太尉が敬意を表した。その事実が、この武力とは縁のなさそうな麗人が只者ではないと認識させたのだ。
 恐ろしい男だと、麗人は軍師を見下ろした。
 口が裂けても言いたくない言葉だろう。殴られても仕方がない。面前で叱責され、罵られても、仕方がなかった。あんなに癇癪に似た態度で周囲を振り回すくせに、感情を殺して全てを動かして見せる。どちらが本当の姿なのか分からなかった。
 剣を取った。鞘から抜かれていた剣は、磨き抜かれて周囲を写す。悪鬼と契約するような気持ちだと、麗人は思った。
 大尉の背後に畏った者達が傍に下がる。太尉は立ち上がり、麗人の横に立った。響く声で宣言する。
「これより、月の君の指揮の元、逆賊たる子一族を討ち取るため進軍する! 皆の者、奮起せよ!」
 立ち上がった兵士達が雄叫びを上げる。濁流のような感情が、これから戦場に雪崩れ込む。興奮に油と炎をくべて、一気に燃え上がらせた。目の前に広がった光景の鮮やかさから目を背け、麗人は横に立つ軍師を見遣った。
「羅漢殿…」
「そんな顔をなさいますな、大将殿。士気が落ちます」
 涼しい顔をして漢太尉は言った。視線も合わさず、真っ直ぐと背筋を伸ばして奮起した兵士達を眺めている。
「なに、私は負けません。もう、とっくに戦は始まっていて、とっくに勝敗は決しています。あとは、相手の将を取りに行くだけです」
 そう言う意味ではない。麗人は眉根を寄せた。
「月の君。せいぜい、生き延びてくださいね」
 そうしなければ、私の首が飛んでしまいます。そう言って退けた軍師に向けて、麗人の背後から殺意が湧き出していた。


■ 融通 ■

 天幕から出てきた漢太尉の両脇に副官がついた。吐く息は白く、雪が深々と積もった地は凍えるほどに寒い。暮れ始めようとする空は憎らしいほどに澄み渡り、星が一つ二つと瞬き始めた。
 漢太尉は笑みを浮かべて砦がある方角を見て、背筋を伸ばす。敵軍を見据えて手を上げる、それが負けなしの軍師の戦を始める時の仕草の一つだった。
「折角、後宮の壁で遊んだんだ。雪山を崩す。陸遜、先発隊を招集しろ」
 後宮の壁で遊んだ。その一言で優秀な副官達は全てを察する。火薬の量も、火槍の精度も、宮廷で堅牢と言われた後宮の壁で試した。その威力や精度、方向性を、軍部は3回に渡って実戦に投入する程度にまで高めてしまっていた。上官は愛娘のことが心配で破りたかったようだが、軍部には色々な人間がいて、色んな意味で優秀なのだ。
「御意」
 待機の間、ずっと寒そうにしていた同僚を音操は見送った。やはり寒さに弱いのかよほど堪えるのだろう。その後ろ姿が少し嬉しそうで、生姜を煎じた茶を飲む暇があれば良いのだが…と案じてやった。
「音操、装備は」「全員行き渡っています」「篝火は」「十二分に明るく照らしてあります」「飲み物を行き渡らせて、準備をさせておけ」「御意に」
 太尉は無精髭だらけの顎をさすった。視線は暮れてゆく空の下で、暗く暗く沈んでいく山に向けられている。古くに使われていた砦は、砦を築くだけある立地条件のままにそこにある。聳り立つ山を背負い、なだらかな傾斜が眼前に広がっている。砦から見れば進軍しているこちらの動きは全て把握されてしまい、こちら戦略は全て見透かされることになる。
 雪の中の進軍も良い采配ではない。もし年月を掛けた戦争をしている最中で眼前の砦を落とすなら、雪の溶けた春に攻めるのが定石だ。さらに火薬が用意できる環境と聞けば、こちらは砲の的にしかならぬ。末端の兵士も理解してしまうだろう。
 普通なら、圧倒的にこちらが不利だ。
 普通。なら。
「取り巻き共を蹴散らしすぎて、攻め入る人間を多く見積りすぎてしまったな」
「いえ、雪を侮ることはできません」
 初期に想定した兵数よりもずっと少ないことは、偵察の段階で把握していた。それでも、雪は天然の壁のように行手を阻む。
 毒味役の愛娘が倒れた時に太尉が指を指した連中は、ほぼ全てが子昌派だった。皇帝に仇なすことまでは考えていないが、利益を得られるなら、少しでも優位に立てるならと、取り巻いている連中である。太尉が突けば、すぐさま瓦解する。同盟関係にも至れない薄っぺらな関係だった。
 薄っぺらは可哀想だ。音操は首を振る。
 動き出した漢太尉に、勝てるわけがない。だから挙って子昌を見捨てたのだ。一緒に心中する義理などない。子昌を当主とした子の一族は、責任を問われれば一族全員極刑は免れまい。だから、こうして漢太尉と敵対しなければならなかったのだ。
「今回はただ将を取るだけではいけない。難しい戦になるな」
 表向きは逆賊の誅伐。だが、漢太尉の目的は拐われた愛娘の奪還である。子昌を討つことより、愛娘を無事に保護することの方が難しいのだ。
「まさか。勝算あって膝を折ったのでしょう?」
 口が滑った。音操はとっさに口に手をやったが、言葉はすでに出てしまっていた。
「音操。庇ってやれぬぞ」
 太尉が月の君の前で膝を折った。それは太尉が月の君へ敬意を表したからではない。認めたからではない。月の君を駒とするためだ。駒として運用するために必要な行為だったから、負けなしの軍師は膝を折り頭を垂れて見せたのだ。
 内心は知らぬ。きっと分からない。それでも、月の君を駒とするつもりだったのが、上官の反応から正解だったと音操は思う。恐ろしい人だ。月の君の従者が斬り殺さん剣幕で見ていたのだから、向こうとて察しているだろう。
 首を飛ばされないのが不思議なくらいだ。
「河を越えさせる。私がそれを許すには、格を落とすしかない。このくらいは我慢してもらう」
 忌々しげに太尉は漏らした。采配を将棋に例えることは、時に融通が利かぬことがある。


■ 疲労 ■

 いくつもいくつも、つぎつぎと、細い糸を引っ掛けてくる。執拗で、陰湿で、回りくどく、煩わしい。しかも振り解く暇も与えられずに、次々と糸を絡めてくる。糸だと軽んじてはいけない。糸が増えて束になれば、それは綱と変わらぬ強固さで纏わりついてくる。解くことに、絡まることに、疲れてくると糸に引っかかって転ぶ。転んでさらに絡まる。困る。
 困死させられてしまう予感がする。
「大丈夫ですか、羅漢様」
 音操の声に、羅漢ははっと顔を上げた。見慣れた執務室は昼の強い日差しが差し込んで眩しかった。執務机の前に座って、仕事をしている最中に居眠りをしていたらしい。目の前には多くの木簡が積み重なっていて、幸いにも筆を持った手は硯の傍にあり、硯の墨は乾いてしまっていた。
 あぁ、うん。上の空のようで、幼子がするような返事が返ってくる。
 あまり大丈夫な状態ではなさそうだ、と音操は声を掛けた。
「少し休憩された方がいいです」
 うーん、でも、やらないと、あとあと、こまる。語彙力というか発語が覚束ない。
 これで仕事に支障が出れば強制的に休ませる所だが、変なところで優秀な上司は朦朧とした意識でも仕事はきちんとこなしてしまう。朦朧だからこそ、きちんと、人並みに仕事をしてしまうのだろう。これでは、ただの仕事のできる上司でしかない。音操はそういう上司を望んでいたが、羅漢が集めた軍部は優秀であるが癖者も揃っている。常軌を逸した上司しかまとめ上げることができないので、世の中というのは難しいと音操は悟る。
 それにしても、仕事が多い。音操は木簡の束を見遣る。
 なんだかんだ言って、昼寝をしてもこの山を攻略できるのだから寝ればいいのにと、音操は思う。確かに残業しなくて済むのは良いが、それよりも羅漢がいつもの調子でないのは良くない。
 陸遜が西都に出向してしまったのも一因ではあるが、絶妙に羅漢でなければ対処できない案件が多い。午前から、昼寝もせずに、仕事に集中する、そんな上司の力なれずにいるのはその為だ。
 音操は天上人の美しい顔を思い出す。美しく見えて、中身は中々に狡猾で陰湿だ。やることは無茶苦茶だが、裏表のない羅漢の方が可愛く見えてしまう。いや、比べても双方最悪だ。きゅうっと不快感を訴える腹部をさする。
 しかし、今更、どうしてこんなにも仕事を振るようになったのだろう? 音操は首を傾げる。
「久々に追い詰められている気がする」
 羅漢が仕事をしながら呟いた。意識がしっかりしてきたようで、声に力がある。
「疎かにできぬ。なかなかに嫌な攻め口だ」
 言いながら果実水を注いで口にする。集中力が途切れない時の羅漢の仕事ぶりは凄まじい。片眼鏡の位置を調整すると、木簡を次々と読み込んで処理して行く。ただの仕事ができる人間には出来ない芸当が、目の前で繰り広げられる。
 昼寝をする前にこの状態で全て片付けてくれれば良いのに。そう思った音操だったが、羅漢が『聞こえてるぞ』と呟いた。
「負けてしまいそうですか?」
「まさか」
 即答する。羅漢は楽しげに筆を動かした。
「相手は私に勝つつもりなんだよ。勝敗を決する前に、負けを認めるなんて相手に失礼じゃないか」
 綺麗な鼻っ柱をへし折ってやりたい気分だ。不穏なことを冗談めかして言うのは、止めて欲しいと副官は思う。


■ 攻勢 ■

 いくつもいくつも、つぎつぎと、細い糸を引っ掛ける。執拗で、陰湿で、回りくどく、煩わしい。しかも振り解く暇も与えずに、次々と糸を絡める。糸だと軽んじてはいけない。糸が増えて束になれば、それは綱と変わらぬ強固さで纏わりつく。解くことに、絡まることに、疲れてくると糸に引っかかって転ぶだろう。転んでさらに絡まる。さぞや困るだろう。
 このまま、困死させてしまわねばならない。
「羅漢殿はどうだ?」
 そう、天上人の容貌と称される麗人が言った。傍で執務補佐をしていた高順は、木簡から顔を上げて主人の問いに答える。
「碁大会を開催させるために仕事を溜めずに処理されていて、相当疲れているようです」
 そうか。美しい声色が、溜息を吐くように言った。
 軍部の高官である漢太尉が、碁や将棋の達人であることは国中に知られたことである。そんな彼が碁の棋譜を出版し、碁の大会を開催すると言い出した。宮中開催に待ったをかけ、市井の広場を貸し切るとなれば大きく膨らんだ大会運営は目が回るほどだと言う。これを通常執務と同時進行で捌いている漢太尉とその甥の有能さは、やはり羅の一族だと思わざる得ない。
 目の前に山になった木簡は羅漢の下に行く仕事だ。それを見て愉悦に浸るような笑みを浮かべる主人の顔は、侍女達が見たら昏倒しそうな色気を醸している。目の毒が人の形をしているようだ、高順は嘆息する。
「それにしても羅漢殿が仕事に精を出されると、ここまで円滑に全てが回ると思わなかった」
 碁大会を開催させたい。そんな羅漢に、仕事を疎かにするなら開催は無理と壬氏は伝えた。
 それは、想像以上に羅漢に響いたらしい。真面目に、サボることなく、昼寝もせずに仕事に取り組んでいると言う。羅漢がいつも遅延させる仕事の数々は正午には大半が上がり、次いでとばかりに仕事の余波で生じる影響を最小限に抑える雑務処理関連の書類が来る。恐ろしいくらい有能だ。この変人は宮中の全てを把握していると言わざる得ない。
「疲れた羅漢殿とは、どんな感じなのだ?」
「ただの有能な人物になってしまっているらしいです」
 褒め言葉のはずなのに、羅漢という存在に対しては貶める言葉になるだろう。
 効果は如何程かと訝しんだが、手応えを壬氏は感じている。疎かにすれば開催を取りやめるとチラつかせれば、仕事から逃れることは出来ずに疲れを蓄積させることが出来るだろう。水蓮に命じて菓子も用意させている。棋聖が獣と称した御仁との戦いはすでに始まっていた。
「勝ちたいなぁ」
 壬氏の呟きに高順が訝しげな表情をする。主人がこれほど固執するなんて珍しいことだし、相手が相手である。どう反応してくるか未知数な存在で、虎の尾を踏む程度で済むのかすら分からない。
「なぜ、羅漢殿に勝ちたいと拘られるんです?」
「なぜだろう。だが、勝ちたいと思うんだ。どんな手を使っても」
 自分でも不思議だとは思う。
 この宮中で最も自由な御仁が羨ましいのか、それとも揺るぎない実力が妬ましいのか、それすらも曖昧だ。かの御仁と壬氏の間に立つ、一人の娘のこともあるかもしれない。ただ、勝ちたい。その欲求が壬氏を動かしていた。
 姑息だが、自分らしくていい。壬氏は自嘲気味に微笑んだ。


■ 形状 ■

 ここまで疲弊して、ようやく人の形か。そう、棋聖は目の前に座る男を見た。
 あぐらをかき、無精髭を撫でながら盤上を見る目は疲労と睡魔に揺れている。顔色は悪く、重い目蓋を持ち上げようと瞬きが多い。普段なら頻回に月餅に伸ばされる手は膝の上にあり、倒れそうな体を支えているようだった。
 それでも一手一手は最善の回答であろう。棋聖でもそこに打つと、羅漢の置いた碁石を眺める。しかし、羅漢の恐ろしいのは最善の回答を超えた、決して思いつかぬ仕掛け方にある。不意に差してくる意味のない石が、後々に決定的な点となって勝利を阻んでくる。まさに野生の勘のような突飛な指し手であり、羅漢が変人と言われる所以でもあった。
 それがない。大したものだ。立場を利用して、これほどまでに追い詰めるとは恐れ入る。棋聖は内心で弟子を褒めた。
 人の形。棋聖は羅漢を見る。
 幾度となく対局しても、人の形をしたそれの中身は強大な得体の知れぬ獣だ。人の形をしている故に、鋭い爪も、全てを噛み砕く顎も、怪力を生み出す強靭な四肢も持ち合わせていない。しかし、それは確かに怪物だった。瞳や表情に狂気が宿り、隠しきれていない。己を狩ろうとした狩人によって磨かれた経験則は本能と合わさって、奔放に相手を打ちのめす。
 そんな獣が負ける様子が描かれた棋譜がある。本に認められた棋譜は、命を奪い合うような鬼気迫るものだった。互いに人ではないものが対局したと思わせるものが、大半を占める。
 昔、緑青館が抱える妓女に将棋と碁の強い娘がいた。あの娘もまた獣だった。見下すように冷え切った瞳が見下ろした盤上は、かの娘が持つ石の色に染め上げられ、相対する者を絶望に叩き込んだことだろう。何度も辛酸を舐めさせられたものだと、棋聖は振り返る。
 棋聖と呼ばれた自分も人の形からは逸脱していると、棋聖自身も自覚はある。皇帝の指南役として赴くに失礼にあたらぬ身なりや所作は洗練されていて、人の世界のものに属している。しかし、ふと獣を見れば暗がりから顔を覗かすものがある。あれと戦いたいとむき出しになってしまえば、形が変わってしまうと恐れる自分がいる。獣を隠さず生きる目の前の男が羨ましい。
 自分はまだ人の形をしている。


■ 余韻 ■

 果実水の入った徳利を上機嫌に振り回しながら、先を歩く上官の足取りは軽い。
 上官である羅漢が主宰した碁大会では、積み重なった疲労と、対局を連続してこなした疲弊が重なり、最後は酒精のある菓子でも口にしていたのか酔って朦朧としていた。最後の最後は折り重なったものに耐えきれず昏倒した。
 今ではすっかり元気になった。元通りである。
 昼寝をして仕事をさぼり、ふらふらと出掛けては様々な部署に顔を出して掻き回す。真面目に仕事をする上司に帰ってきて欲しいと思いはする。しかし軍部に集った様々な方面で優秀な人材を一絡げにして引っ張り回せるのは、目の前のこの人だけだ。それなりに傍迷惑な変人ではあるが、肩入れしてしまっているのだろう。元気な上司を音操は嬉しく思う。
「お疲れ様です。羅漢様」
「うん。面白い大会だった」
 先ほどの決勝戦での続き。あの対局が決することで、羅漢の開催した碁大会は終わったのだろう。過去形にしておきながら、これほどまでに余韻が残ることは珍しい。やり切った顔の上司は、楽しげに笑っている。
「まさか、あそこから追い上げるとは思いませんでした」
 音操ですら、羅漢の敗北を確信していた。差し手は悪くない。だが羅漢らしくなく攻められずに進んだ盤上の遊戯は、最終的に相手に有利な展開となった。圧倒的に相手の石が多く、覆すことなど不可能だと側から見ても思う。だから、続きをしに行くと言う羅漢を止め立てしたのだ。騒動で試合は中断し、対戦相手は続投を望んだが羅漢は疲労困憊のあまり昏倒してしまっている。その様子は多くの観客の目に触れ、試合無効の運びになるとも思われていた。
 それなのに羅漢は最後の試合を盤上を再現した。あんな状態で全ての手順を覚えているなんて、人間業とは思えない。
 呼び出して対局を再開すれば、天上人の麗人の顔がみるみる強張っていくのは愉快だった。口にすれば流石に首が飛ぶが、思うだけなら罪には問われない。対戦相手になるだろう羅漢を前日からあれほど姑息に追い込んでおきながら、勝つこともできなかった麗人の悔しそうな顔と言ったら…。音操は口元に手をやった。笑うのを堪えられなかった。
「疲れるとあんなに判断力が鈍るのだな。知らなかったよ」
 相変わらず、勝ったことに何の感慨も持たぬ人だ。音操は苦笑する。
 大袈裟に喜べば麗人の顔も素直に悔しく出来るのに、対面している羅漢が相手の打った失敗の一手を突いては首を捻るばかりだ。麗人は最終的に破顔した。わかる。憎めないなら、笑うくらいしかできないだろう。
 羅漢は徳利を振り上げ、明るい日差しを見上げて言う。
「あー! 饅頭が食べたい! 今から食べに行こう!」
「買ってきますから、仕事をしてください」
 いやだ。そう羅漢は子供のように言い放って、軍部の方角とは違う方へ足早に進む。
「今はそんな気分じゃない!」
 あぁ、全く、この上司は…。音操は痛そうに頭を抑えた。


■ 正解 ■

 変人軍師が妓女を身請けた。そんな噂がひっそりと聞かれなくなり、その妓女が儚くなったことが関係者だけに伝えられた。変人軍師が特に変わった様子なく執務を続けているので、そんな変化は誰にも悟られず時間に流されていく。
 猫猫もおやじどのから聞いていた。もう、身請けた時には先の長くない女であることを知っていた。どんな薬でも女を治すことは無理で、そうなった理由は女の我が儘だった。本当に我が儘な女であったと、猫猫は思っている。
 あの男は執拗に女を探したはずだった。娘と一緒に暮らしたいと血塗れになるのと同じくらい、愛した女を探して都を歩き回ったに違いない。あの獣のような勘を持った男ですら、長年捕まえることのできなかった女は男以上の賢さで逃げ回ったのだろう。病が重くなり、治る見込みが失われて、己すら失って始めて、男はようやく女に再会できた。
 なんて馬鹿な、我が儘な女だったのだろう。
 男は涙を流して女を抱きしめたと、小姐は言った。どんな姿でも男には関係なかった。姿に、あり方に拘った女はとんだ馬鹿者だと思う。
 それでも己を失ってから共に過ごす日々は、女にとっては幸せだったのかもしれない。変わり果てた己の姿に苦悶する感情はもうなく、ただただ淡い夢の中を漂うように意識が移ろう様はこの世の者ではないようだ。それでも、男は女を愛した。それは、例えようもない幸運だったに違いない。
 馬鹿な女。そんな言葉しか猫猫は湧かない。本当に、呆れる程に馬鹿な女だと思っている。
 かさりと傍で音がする。視線を向けると、紙に包まれた饅頭が差し出されていた。
「お供物だけど、どうぞ」
 見上げれば晴れ渡った空の下で、片眼鏡の軍師が猫猫を見下ろしていた。いつものようにへらへらと笑いながら、それでも饅頭を差し出す手を微動だにさせず猫猫に突き出している。受け取りなさいと促す素振りもなかったが、猫猫は受け取った。仏に供えた物を受け取らないのは礼儀的にも失礼だからだ。
「どうも」
 片眼鏡の軍師は笑みを崩さず、猫猫に渡した物と同じ紙に包んだ饅頭を取り出した。紙を開けて饅頭を一口かじりながら、視線を向けた先にふらりと歩いて行こうとする。
「歩き食いは行儀が悪いんじゃないのか?」
「おや、隣で食べて良いのかい?」
 にこりと、猫猫の感情を逆撫でるような笑みを浮かべる。心底、相入れないと思う程度に嫌悪感が湧く。
 それでもこの男が猫猫のために、すっと離れようとしたのは分かっている。猫猫の気持ちを尊重するように、そう羅門に言い含められたことを律儀に守っているのだろう。
 本当に馬鹿で癪に障る男だと思う。成す事は正解ばかりだ。
 猫猫がどんなに他人であればいいと願っても、この男は血の繋がった生物学上での父親である事は変わらない。一方的な愛情を猫猫が煩わしく思っても、無邪気なまでに向けてくる。それでも、ここぞとばかりに猫猫を大事に扱おうとする。その駆け引きが、微細な機微が生み出す猫の額のような狭き正解を引き当てる。
 この男が隣に立つことなど、想像したこともなかった。これからも、隣に立つかもと思う程度に距離感が変わった。猫猫の生い立ちの物語が、少し意味合いを変えた。それを心の底から馬鹿らしいと思っても、微かに暖かいものが生じているのを自覚せざる得ない。
「これを食べる間だけな」
 どうせ、小さい饅頭だ。短い短い時間に過ぎない。