入り込む情と、わがままな人々


■ 肯定 ■

 羅漢は一人将棋を指していた。何か物思いに耽る時は、向かいに誰も座らせず一人で自分相手に打っている。熾烈な盤上は、戯れに覗き込んだ者を震え上がらせた。
「隠し通した秘密も、一度、一滴でも漏れてしまえば意味がなくなってしまうな」
 そう、ぽつりと羅漢は呟く。陸遜は羅漢が娘のことについて、言っているのだと察した。
 漢太尉に娘がいる。しかも漢太尉が溺愛している。そんな噂が突然降って湧いた。敵国、政敵、果ては皇帝の抱える間者にすら知られていなかっただろう。娘を巻き込みたくないと願った、羅漢の手腕が成せる業。こんな性格だが、認識した者への情は厚い。
 陸遜は人当たりの良い笑みを浮かべて、上司の呟きに答えた。
「隠す必要が無くなったのでは、ないでしょうか」
 この親子の存在が明るみに出てしまったのは、娘の発言が発端だ。侍女として雇っている壬氏の派閥から、シミのように噂が流れ出している。今のところ噂が流れ出す以上に動きはないが、流れ出した内容から様々な思惑が生まれている。それは止めようがなかったし、分からぬ娘ではあるまいと陸遜は評価している。
 ふぅん。大尉は駒を持ち、動かす。
「強い子だねぇ。叔父貴の元で育ったんだから、大人しい子に育つと思ったのに。誰に似たんだろう」
 誰に似たんでしょうね。陸遜は苦笑する。
 見た目は母親似だろう。整った目鼻立ちで、大きく真っ直ぐに見据える瞳は愛らしく思える。髪は真っ直ぐで、艶やかに手入れされていると思う。欠点を言うなら、日々違う所にできるそばかすと、愛想がないことくらいだろう。
 だが、性格は変わり者と評価されている。薬に対して豊富な知識を持ち、毒には人一倍の執着を見せると聞く。更には謎解きが得意と噂が流れるだけあって、好奇心旺盛で賢い。今まではそういう謎ごとに首を突っ込んでいたのが上司だっただけあって、この親あってこの子ありと言える。
「今から、羅漢様の子供でないと訂正出来るのでは?」
 血は水よりも濃い。娘を構築する要素は、偶然と片付けるのは難しい。だが確証はない。妓女の戯言と片付けることも出来るはずだ。
「うーん。それは出来ない」
 顎を摩って盤上を眺める。徐に手を伸ばしては、駒を動かす。
「嘘か真かを知る手段は、私にはない。けれど、鳳仙は私の子だと言った。それは彼女の数少ない明確な主張で、私にとっては玉のように尊い。否定することはない」
 羅漢の勘の鋭さは獣のようだ。直感で真実と偽りを見抜く。おそらく、我が子を一目見た瞬間から、この娘が血を分けた子供であると確信している。そしてこの変わり者が愛した女の言葉が、本当に玉のようなのだろう。
 羅漢がへらりと笑った。
「なんだかんだ言って、否定しないなんて可愛いよね」
 娘は羅漢を『生物上の父親』と表現するそうだ。羅漢も羅漢で娘の存在を否定しない。互いに血の繋がりを否定しない。遠回しの肯定が、この親子らしいと思う。


■ 呼声 ■

 馬具倉庫から、猫の鳴き声がずっと聞こえる。侍女達の噂を聞いたから、自然と足が向いたのかもしれない。
 育ての親の羅門は宮廷内の様々なところに薬草を植えた。馬具倉庫も鬱蒼と生茂る雑草の合間から、有用な薬草が野草のように生えている。日当たりの良い場所だからか、薬草は豊作だ。猫猫は思わず目を輝かせる。
 夢中で摘み取っていると、ふと耳を掠めた。弱々しい、今にも消え入りそうな猫の鳴き声だ。
 すっと顔を上げて周囲を見る。しゃがめば小柄な猫猫が隠れるほどに背丈に育った雑草に飲まれて、猫など見えるわけがない。しかし馬の鳴き声に混ざって、確かに猫の鳴き声が聞こえる。弱々しい鳴き声が、薬屋としての使命感を刺激する。
 馬具倉庫は厩にそう遠くない場所にある。名前の通り鞍や手綱といった馬に関わるものから、馬車の車輪や修理道具なども納められている。人目が付かぬ場所で、馬の世話をする雑兵などが時々足を運ぶ程度だ。その程度の倉庫でも、しっかり施錠はされている。
 ぐるりと馬具倉庫の外側を回ってみると、地面に接した外壁の一部に亀裂がある。そこから猫の鳴き声が聞こえるようだった。
「中から聞こえるのか」
 小柄な猫猫の腕が入る程度に開いた亀裂だ。子猫くらいのサイズなら入り込むことができるだろう。試しに腕を突っ込んでみたが、掘り下げて作られた倉庫なのか床に手は届かず、手の届く範囲にも足掛かりになりそうなものは触れられない。
 するとじゃらじゃらと音がする。たくさんの金属が打ち合わさる音は、馬の声も猫の声も風に擦れる草木の音すらも退けて平す。音が少し落ち着いたと思うと、しっかりと猫の鳴き声が響く。訴えるように何度も何度も、猫は鳴く。
「うんうん。わかってる。わかってるから」
 ぞわりと、猫猫は総毛立つ。声の主が誰だか分かったからだ。片眼鏡の変人。生物学上では猫猫の父親になる男だ。
 じゃらじゃら。がちゃがちゃ。どうやら倉庫の鍵を開けようとしているらしい。金属の音の多さから、軍部が管理している鍵束をそのまま持ってきたのだろう。どこかで鍵がないと悲鳴が上がっていそうだが、猫猫の知ったことではない。
 うん? これじゃないのか。じゃあ、こっちかな? あれ。これでもない。うーん、どれだろうねぇ。おやおや、急かさない。開けてあげるよ。言ったじゃないか。
 流石変人。猫と話すのか。猫猫はげんなりしたが、倉庫の中で鳴くか細い声が不憫なので我慢する。程なくして、がちゃんと大きな音が響き、蝶番が擦れる音が悲鳴のように上がった。猫の鳴き声は目の前にやってきて、ゆったりした足音が続く。片眼鏡の変人が何やら唸る声がする。
「猫猫。ちょっと来ておくれよ。私は怪我とか病気とか分からないから」
 好奇心に留まった自分が悪い。猫猫は壁越しで姿すら見えないはずなのに、自分の存在を言い当てた変人の傍に、行かねばならなかった。怪我と病気という単語があるなら、無視もできない。
 開いた倉庫の扉を潜ると、馬の匂いが立ち込める薄暗い空間がある。格子戸から差し込む日差しで、様々な馬関連の備品や木箱が闇から浮かび上がるのを横目に奥へ進む。小さい亀裂が差し込む光に輝いて見えていて、変人軍師がそれを覗き込んでいる。
 足元ではぐったりした子猫を舐める親猫の姿があった。猫猫は薬草を包むために持ってきた風呂敷で子猫を包み、懐に抱き上げる。すると、変人軍師は手に文を持っているのが見えた。押し潰れたように歪に変形した文には、宮廷でもよく見かける花をつけた雑草が萎れた状態で添えられている。
「ふむ。この文を押し込んだりして、広がっちゃったんだろうねぇ。後で修理でも命じておこう」
 徐に文を広げて読み出す。書いた人間のことなど、何も感じていないのだろう。まるで噂話でも聞くような他人事の感覚で、変人は内容に目を通した。そしてにっこりと猫猫に笑いかける。
「猫猫は恋文に興味はあるかな?」
「いえ」
 ぞわりと肌が粟立つのを堪えることができなかった。この男から恋愛にまつわる単語を聞くことすら、唾棄したくなるほどにおぞましい。色恋なんて勝手なことだ。その果てのことなど予測できなかった無責任を、せめて今後一切関わらないことで果たしてほしいと願っている。
「そう。残念だね。面白いのに」
 子猫の手当てをして参ります。そう辞退の旨を言ってやれば、変人はよろしくねと言いながら文から顔を上げなかった。

 変人軍師の人事はいつも唐突である。意外な人物の意外な部署への異動は、いつも宮中の話題を彩っている。
「なんでも、軍師殿が厩の雑兵を伝令に取り立てたそうだ。僻地の農民の出身だが馬の扱いに長けていて、早馬を与えたら頭角を表したそうだ」
 壬氏は感心した様子で出世劇を語る。
「侍女達もその男と同郷の下女が婚約すると、色めき立っています」
 あの恋文は同郷の下女が雑兵へ宛てたものなのだろう。馬具倉庫に開いた亀裂を利用して、互いに恋文をやりとりしていたのだろう。繰り返すうちに亀裂は大きくなり、子猫が転落した。子猫の鳴き声の噂は、文をやりとりしていた下女が発端だろう。変人が噂を聞きつけて、子猫は助かり、雑兵は昇進し、下女を妻に迎えられるようになる。
 なんだか無茶苦茶である。
 猫猫は子猫の足の包帯を解いた。もう傷が塞がって、元気になった子猫は猫猫の手を舐めた。明日にでも親猫の元に返してやれるだろう。暖かく柔らかい子猫を、名残惜しくも堪能する。
 撫でられる子猫を羨ましそうに見る視線があったが、猫猫は敢えて無視した。


■ 剛情 ■

 羅門が医療の知識と腕を買われて、医官として仕えることになった。それは猫猫にとって嬉しいことである。市井で開業しているときは、お人好しのおやじ殿は生活が困窮している患者から金は取らなかった。それを利用してタダで診療してもらおうとする輩は一定数いて、おやじ殿の生活を常に心配していた。
 しかし、宮廷に雇われれば給料はきっちり支払われる。衣食住も保証されるし、猫猫もおやじ殿と会おうと思えば気軽に会えるのである。嬉しいこと尽くしだ。ただ一つの不満を除けば。
 医局に向かって荒々しい足音が近づいてくる。猫猫も羅門も何事かと顔を上げれば、足音は扉の前まで近づいてきて、音の主は力一杯扉を開け放った。飛び込んできたのは片眼鏡の変人だ。猫猫のただ一つの不満点。羅門の元に、甥であるこの男も訪ねてくることだった。
 げ。っと顔を顰めた猫猫だったが、羅漢は猫猫に一瞥もくれない。荒々しい足音のまま、羅門に詰め寄る。いつもへらへらと笑っては、飄々と宮中を歩いている男の顔はどこにもない。怒りで余裕の失った顔は、年齢以上に幼く猫猫に映った。
「叔父貴! 何か変な物でも送り付けられなかったか!」
「羅漢や。扉が壊れてしまうよ。落ち着きなさい」
 実に静かに羅門は羅漢を諫めた。薬研で擦り潰した薬を紙に落とし込み、丁寧に折り包む。
「送られたものを渡してくれ。検分して刑部に引き渡す」
「その必要はないよ」
 猫猫は羅門に文が届いていたのを思い出す。開いて、目を通して、なんの感慨もなく閉じて傍に置いた。しばらくして、処分する木簡と共に火に焼べてしまっていた。差出人が誰かも、何が書かれているかも分からなかったが、羅門がなんの反応もしなかったので気にも留めなかった。
 言葉から文に問題があるようだが、変人とおやじ殿との温度差がひどい。
「不問にする必要はない! 叔父貴も叔父貴だ! 兄だろうが関係ないだろう! 黙っているべきじゃない!」
「駄目だよ。羅漢や。いつも言っているだろう。血族は大事にするんだ。どんなに憎くとも、血は水よりも濃い」
 激昂する羅漢と諫めるように言い含める羅門。なかなかに迫力のある対面で、医局の視線が集まってしまっている。
 あの文は羅半の実家、つまり元本家から送られたものなのか。猫猫は羅門を見遣りながら思う。
 羅門から身内の話は滅多に聞いた記憶がない。その滅多に聞くことの出来た話題が、目の前の片眼鏡の変人こと羅漢だけだ。才能のある甥を愛おしそうに称賛する様子に、猫猫は激しく嫉妬したものだ。
 羅門は羅漢以外の血族とは疎遠なのだろう。家督を奪われ僻地へ追いやられた元本家は、華々しく宮中に返り咲いた羅門に嫌味を利かせた文章でも送ったに違いない。それを察した羅漢が、元本家を訴えるための証拠として文を押さえようとしている。そう、猫猫は推理した。
 片眼鏡の変人の肩を持ちたくはないが、敬愛するおやじどのを貶した相手を叱責するなら応援したい気持ちになる。
 羅門は羅漢を見据え、ゆっくりと言った。
「私の元に来たのは、ただの挨拶文だった。いいね」
「だけど」「私の言ったことが、わかるね?」
 食い下がろうとした羅漢の言葉に、重ねるように羅門が言う。有無も言わさぬ迫力ではないが、羅漢の怒りを押さえつけてしまった。羅漢は小さく息を吐き、肩の力を抜いて言った。
「…わかった」
「羅漢や。お前は良い子だよ」
 そう、愛おしげに腕をさする。猫猫は嫉妬から目を背けるように、薬研を握った。


■ 渇仰 ■

「これ、どうぞ」
 そう目の前に置かれた大きめの包みから、ほんのりと甘い香りがする。置いたのは羅漢だった。
 羅漢は三元に各部署に甘味を配って歩く。三元の際の贈り物は金銭でない限りは賄賂とは見做されず、三元を共に祝い末長い交流と日頃の感謝の意味をもって贈り物のやりとりが行われる。羅漢は三元に限らず甘味を各部署に置いて行ったりするが、三元の贈り物は特に注目を集めた。
 なんでも羅漢の弟が作った、甘薯を使った月餅だそうだ。味については折り紙付きだろう。
 妃達が宮中の女達の流行の発信者であるなら、羅漢は甘味の流行の発信を担う。三元の贈り物に選ばれた菓子は必ず流行するのだ。三元の贈り物に甘薯を勧めたのは養子の羅半だろうか。己の実家の生産物を義父をも利用して、世間に知らしめ、流通させ、価値を高める。あの眼鏡の奥の瞳が非常に効率的な成功に、満足そうに笑っているのだろう。壬氏はありありと思い浮かべた。
「あの子はおりますかな?」
 片眼鏡が光を反射する。視線を巡らせて誰を探しているのか、壬氏は分かっていた。
「今は席を外している」
 明らかに落胆した様子で、「そうですか」と羅漢は言った。
「残念だ。礼を言わねばと思っていたのに」
「礼?」
 この宮中で感謝を述べることに最も縁遠そうな人物から漏れた言葉に、壬氏は思わず羅漢を見上げた。片眼鏡を外し布で拭っている男は、壬氏の視線に気がついていない。狐目を愉快そうに緩めて、独り言のように言う。
「羅の御隠居に茶をぶっかけたと、陸遜から聞いたのでね。叔父貴のことで怒ってくれたのでしょう。嬉しかったんですよ」
 猫猫が羅の老人が不快だったと、羅漢に向けるよりも強い嫌悪を見せていたのを壬氏は思い出す。壬氏が知る中で、最も恐ろしい表情となっただろう。本人の意思ではなく様々な理由から妻子を捨ててしまうことになった羅漢を恨んでいないと言った猫猫が、こんな顔をするのかと恐れ慄くほどだった。
 片眼鏡を装着した羅漢もまた、恐ろしい顔を壬氏に見せた。負けなしの軍師は淡々と敵を平らげると聞く。そんな男が殺意と狂気を滲ませた顔で、笑みを浮かべていた。背後に控えた高順が思わず小刀に手をやったのだろう。かちゃりと音を聞いた。
「酒精に潰れて見れなかったのが残念ですが、起きてたら私も椅子で殴りに行ってたでしょうからねぇ。叔父貴に一生口利いてもらえなくなるところでしたよ。いやはや、助かりました」
 羅漢はにっこりと笑って、胡散臭い中年男に戻る。この切り替えの速さといい、血の繋がりを意識せざる得ない。
 優れた才を年下だからと、埋れさせておくのですか? 以前、死亡した職人の三人の息子達のうち、三男が頭角を表し重用すると言った言葉を思い出す。兄弟の不和を懸念した壬氏だったが、羅漢は意に介していなかった。
 上に上がる才があるなら、取り立ててやるべきでしょう。
 その言葉の根底にあるのは、この男の叔父への尊敬があるのかもしれないと壬氏は思った。


■ 脱走 ■

 行李の中で子供が暴れている。それなりに年齢を経た子供が手足を折りたためば入ってしまう大きな行李は、ぐらぐらと倒れる程に揺れている。行李は炎に照らされていて、眩い夕焼けのような色で闇から浮かんでいた。網目の隙間から、光一つ届かぬ闇が広がっているのを知っている。行李の中から獣のような呻き声が絶え間なく漏れ聞こえ、瞬きせず血の涙を溢す瞳が陸遜を見ていた。
 その子供を、陸遜は行李の中に閉じ込めている。
 出せばどうなるか、分かっていた。今、陸遜と名乗った自分が、閉じ込めた子供に殺されてしまうだろう。出してはいけなかった。閉じ込めて、蓋をして、見えないようにして、陸遜として生きていかなくてはいけなかった。
 ねぇ。どうして にしに もどらないの?
 いつしか子供の呻き声だと思ったそれは、猿轡を噛まされて不明瞭だが陸遜への問いかけだと分かった。そんな言葉は聞きたくない。冷や汗が噴き出て、耳を塞ぐ。行李が倒れて、蓋が開いた。闇から子供の手が出てくる。
 出てくるな。出てくるな。逃げても無駄だと思ったが、陸遜は後ずさる。どん、と背後に立っていた誰かに当たった。
「おい、陸遜。饅頭を食べに行こう」
 振り返ると、そこには中年の男が立っていた。狐目で、片眼鏡を着けている。無精髭のだらしない顔で、梳かしもしない毛髪は獣のようにぼさぼさと広がっていた。武官の服を着ているにしては痩身だったが、身に付けた小物は安物には見えない。
 羅漢だ。陸遜はどうして上司が、ここにいるのか分からなかった。
 背後の気配が動く。行李から這い出た子供が立っていた。陸遜によく似た幼さの残る顔の子供は、開いた穴からがらんどうのような深く濃い闇を見ることができた。あの日の屈辱を一身に引き受けて飲み込んだ子供は、もう、人の形をしていなかった。あれは、私の復讐が形になったものだ。陸遜は呆然と見るしかできない。
「ん。どうした。兵みたいな腑抜けた顔をして」
 羅漢はわざわざ回り込んで、陸遜の顔を見た。きょとんとした顔だったが、へらりと笑みを浮かべる。
「今日はどこの店に行こう。美味い店だと良いな」
 羅漢が歩き出す。それに釣られてか、子供も歩き出した。陸遜の横を素通りし、小走りになって羅漢に追いつき追い越していく。羅漢の袖を引いて、見慣れた羅漢の執務室を連れ立って出ていく。
 あぁ。知らず知らずのうちに、陸遜は声が漏れる。
 羅漢の背に隠れて、子供の顔が見れない。どんな顔で、その人の袖を引いているんだ。負けなしの軍師と呼ばれるようになったその人を、全ての風を飲み込み平らげる嵐にしようと企んでいるのか。それとも、今も残る数少ない思い出を懐かしんでいるのか。陸遜は目を凝らす。
「どうしたんだ? 行くぞ」
 羅漢がこちらを見た。どちらにしろ、ちまい兵ではどうにもできまい。陸遜は羅漢の後に続き、執務室を出た。
 行李を、子供は出た。今は、羅漢の傍に立っている。


■ 教授 ■

 梅梅は見た目も恵まれていたが、それ以上に努力家だったろう。練習を重ねて舞の腕は禿で1番になっている。そして今、腕前を伸ばしているのが碁と将棋だった。
 梅梅の前に座った片眼鏡の客人が、すっと駒を持って置いた。ことりと軽い音が静謐の中に響く。梅梅は盤上の配置を見てじっくりと考えると、ゆっくりと駒を持ち上げて動かした。下を向いた客人が小さく唇の端を持ち上げた。
「良い手だ。それが一番良い」
「ありがとうございます」
 梅梅は純粋に湧き上がる喜びに、声が明るくなるのを感じていた。
 妓女は身支度に時間が掛かる。そうやって焦らし、客人の気持ちを煽るのも一つのやり方だった。そうやって待っている間、片眼鏡の客人は禿相手に将棋の手解きをしていた。いつもは妓女が座るべき場所に禿を据えて、若い才能相手に将棋を打った。客人は教えるのが上手く、禿は強くなっていくのを実感する。禿では梅梅に勝てる者はもういない。禿が請えば碁も教えてくれた。
 互いに駒を動かし、石を置き、盤上の遊戯にのめり込む時間は梅梅の想像以上に楽しいものだった。盤上を見下ろし顎に手をやっては、じっくりと考えている客人を盗み見ると、愛おしくすら思える。大姐が惚れてしまうのも分かるな。そう梅梅は思った。
 今は弟子で大姐の妹分なのが歯痒い。早く上手くなって、大姐みたいにこの人と対局したいと梅梅は思う。
 大姐の準備が整ったと、他の禿から声がかかった。梅梅が返事をして椅子から立ち上がると、客人も盤上から顔を上げた。
「また、時間があったら続きをしよう」
 よろしくお願いします。そう、梅梅は頭を下げてから、盤上の駒を片付け出した。客人は指した順番を、駒の位置を完全に覚えている。梅梅と続きをする時は、言葉の通り今の状態が盤上に再現されて向かい合うのだ。それが、自分のために覚えてくれているようで、くすぐったく思う。
「退屈じゃありませんか? 鳳仙大姐みたいに、強くない私と打っていて」
 片眼鏡の奥の瞳がこちらを向くと、緩く笑みを浮かべる。
「いや。梅梅は飲み込みが早いから、楽しいよ」
 体が火照る。客人と大姐だけの世界で、互いに互いを強く求めて惹かれあっているを知っていた。大姐が客人に寄せている想いは梅梅には尊いものだったし、客人には大姐だけを見ていて欲しいと願っている。それでも、と思ってしまう悪い禿がここにいる。
 小さく頭を下げて退室する。今日も美しい大姐とすれ違う時、胸の痛みを感じてしまった。


■ 焦燥 ■

 今日は随分と鋭さがないな。羅漢はそう思いながら、鳳仙と対局していた。
 いつもなら何気ない相手の一手が効いてきて、この一手をどうやって覆して自分の有利に持っていくかを考え抜いている頃合いだ。とはいえ、今日の己がすこぶる調子が良い訳ではない。どうにも鳳仙の差し手が荒いように思えた。
 具合でも悪いのだろうか?
 羅漢はそっと盤上から顔を上げて、鳳仙を見る。鋭い目元、通った鼻筋、真一文字に引き結ばれた唇。耳飾りで飾った耳元と、真珠を連ねたものと結い上げた艶やかな髪。その全てを引っ括めて見ても碁石にならぬ、今唯一の顔だ。
 具合が悪ければ、赤かったり、白かったり、青かったりするらしい。肌の色は分かる。鳳仙花と片喰で染めた爪先と指先の色を知っている。それから遠ければ、具合が悪いということだ。顔色を見る、という行為は初めてかもしれない。羅漢は少し緊張しながら鳳仙の顔色を伺った。
 鳳仙の瞬き程度しか動かぬ顔をじっと、深呼吸一回分くらい見る。
 うん。分からん。叔父貴なら分かるのかもしれないけど、私には無理。羅漢は興味のない分野に、とんと縁がない今を悔やんだ。
「梅梅は、いかがですか?」
 ぱちんと石が置かれ、鳳仙が盤から視線を上げた。いつもより、目元が少し険しい気がする。じわりと刺すような気配が滲んでいる気がする。『気がする』が、それ以上の確信に結びつかない。羅漢の獣のような勘の良さは、どうにも鳳仙には上手く働かないようだった。
 いかがですか。その問いはあまりにも曖昧で、何について聞いているのか分からなかった。
「筋が良い。覚えも早い。貴女の次くらいの腕前になれるのも、時間の問題でしょう」
 羅漢が評価出来ることは将棋や碁のことだけだ。その答えは正解だったらしく、鳳仙は羅漢の指した一手に視線を落とした。
「また、対局したいと思いますか?」
「約束しましたからね。時間があったら、続きをします」
 嘘ではない。最後の盤上の状況を思い返して、日に日に腕を上げているのを実感する。梅梅が妓女として客を取る頃になったら、どれだけ強くなっていることだろう。想像すると、楽しみで、是非客として会いたいと思う。
 羅漢は柔らかな笑みを浮かべて答える。鳳仙も己が面倒を見ている禿だ。共に成長を喜ぶのだろうと思ったが、その顔は相変わらず眉一つ動かない。いや。眉根に見たことのない薄らとした波が見える。
 ばちんと大きく音が弾けて、羅漢は肩が跳ねた。見下ろせば、鳳仙が鋭い一手を見せた。新手だ。羅漢は思わず目を見張る。
「羅漢様。今、貴女の前にいるのは私です。集中してください」
「あぁ、うん。勿論だとも」
 なぜだろう。話しかけてきたのは鳳仙だったはずなのだが。そう思いながらも、羅漢は鳳仙の一手に顔を上げることができなかった。集中しなくてはすぐに負けてしまうと、姿勢を正した。


■ 次回 ■

 蜂蜜と生姜を煎じた飲み物の香りが、部屋に満たされる。夜気が忍び込んでは足首をくすぐり、深くなる闇が手元をも溶かそうとする。禿が追加の灯りを持ってくるまでの間、甘味を挟んで梅梅と羅漢は休憩していた。
 連続しての対局は徐々に集中力を奪っていく。互いに疲労を感じたら、相手の差し手が乱れてきたら、休憩を挟むのは鳳仙の時からの慣しだった。長椅子に座り、間に置いた甘味の入った菓子鉢から月餅を取って食べる。飲み物で体が温まってくると、満たされた気分になる。梅梅は隣を見た。手を伸ばせば口元に着いた食べかすを取ってやれる距離に、大姐を愛してくれた男が座っている。
「碁大会、大盛況だったそうですね」
 羅漢は楽しげに口元を持ち上げた。大会が終わってからだいぶ日数が経ったというのに、こうして楽しそうにしているのは珍しい。関心を失えば忘れてしまうお人にしては、随分と楽しまれたのだろう。梅梅は微笑みながら羅漢の反応を見る。
 この国では屈指の腕前になるだろう羅漢が碁の本を出してから、緑青館でも話題が華やかに咲く。碁の腕前が確かな梅梅の指名料を釣り上げては、婆が体を痙攣らせるように笑い声をあげてご機嫌だ。
「なんでも、美しい殿方に負けそうになったとか」
 外から持ち込まれる話題は、妓女達の心をくすぐっては楽しませる。経緯を猫猫を呼び出して聞き出したくらいだ。
 そのまま対局していれば、羅漢が負けていたと言われるほどに追い込まれたらしい。それは端から見ても、羅漢に不利極まりない状態であったとも。3日間開催された大会に最初から参加しては、同時に数人を相手取って打っていたりしていたらしい。休憩も殆ど挟まず対局詰では、疲労困憊になるのも当然だろう。最後は倒れた、というのは幾人の口から聞いた。
 大会前から忙しくされていたらしく、仕事の疲れも溜め込んでいたそうだ。そう仕向けた人がいると、猫猫は呆れたような顔で顛末を語っていた。
「うん。危なかった」
 続きは棋譜として張り出された。誰もが羅漢の敗北が濃厚とされた対局の続きは、猛然と追い詰めた羅漢の逆転勝利だったのだ。その壮絶な棋譜を見て、誰もが漢 羅漢という男の底知れなさに震え上がり、畏敬の念を抱くに至った者は多い。
 梅梅は声を上げて笑った。碁を嗜むものとして面白いのもあるが、羅漢の勝利が嬉しかった。
「羅漢様、次も開催されるんですか?」
「面白かったし、羅半がまたやろうと乗る気でね。大きな戦や長期出張がなければ、また開催するだろう」
 なんだかんだ言って、目の前の御仁は軍部高官である。彼にしか任せられぬ難しい仕事は多いらしく、高官とは思えぬ出張回数をこなしている。仕事の話題を持ち込まない羅漢だが、巡ってきた地方の話はしてくれる。その話題の広さは緑青館の客人で最も広く、彼の地方の話は禿達にも人気だった。大きな戦になれば最初に前線に立ってしまうと思えば、こうして目の前に座って月餅を頬張る姿は平和なものなのだろう。
 空になった客人の杯に、梅梅は果実水を注ぐ。
「羅漢様、次の大会は私も参加したいのですが」
 狐目が薄らと開き、緩く笑みが広がる。
「多くの人と対局をしたいという欲は分かるよ。心積りをしておこう」
 三姫とも呼ばれるようになれば、軽々しく外出はできない。緑青館から外に出るためには、客人にさらに金を積んでもらわなくてはならない。心積りとは金の工面のことだが、羅漢ならば問題なく梅梅を大会に招いてくれるだろう。婆のことだ、これでもかと着飾り輿に入れて、緑青館の宣伝に利用するに違いない。
 ちょっとした祭りになりそうだ。この人の前にとびきり着飾って勝負しに行けるかも知れないと思うと、今から楽しみでならないと、梅梅は頬を染めた。弾んだ声が、知らぬうちに次の言葉を紡いでいた。
「羅漢様に勝ったら、願いを一つ叶えてくれるって噂があるんですよ」
 ふぅん。羅漢は梅梅を見る。
「梅梅だったら、今すぐに叶えてあげたって良いんだよ?」
 あぁ、そんな優しそうな顔で、そんなことを言って。大姐に叱られてしまうわ。
 梅梅は笑みを深くする。そうすることで、仕事としての己を引き出して、客との間に壁を作る。でも、それが払えたら、どれだけ幸せだろうと思ってしまう己がいる。梅梅は熱を抱き込んでも、視線や表情に溢れてしまうのを感じていた。