知れば知るほど、普通はいない


■ 説教 ■

 月の君が子一族を誅伐した後、戦に出向く機会が増えた。今までの人見知りのすぎる臆病な皇帝の弟という印象を払拭するだけでなく、戦慣れを促す意味もあるのだろう。皇帝の期待を背負った月の君の横に立つのは、決まって負けなしの軍師である漢太尉であった。
 漢太尉が采配を振るう戦は、先ず負けることはない。いつも勝利を淡々と宣言して、何の感慨もなく撤収を指示する。だが、この時の漢太尉は激情に身を震わせて、月の君の前に立っていた。それは長く仕えた副官も驚くような感情で、それは『苛立ち』だというのも側から見る誰もが察した。
 漢太尉は前線で戦ってきて泥と血に塗れ、麗人の面影を酷く汚した月の君を睨みつけた。月の君の背後に影のように付き従う従者が、その剣幕を前に剣の柄に手をかけている。漢太尉は不敬罪と断罪されてもおかしくない嫌味を効かせた声で、戻ってきた大将に言った。
「なぜ月の君の出征に同伴する軍師が私なのか、ご存知ですかな?」
「…主上命令だと聞いている」
 年齢的には親ほどに年上の漢太尉である。月の君はどことなく居心地悪そうに答えた。
「月の君。貴方は軍部でどんな評価だか、分かっておられますかな? 軍部の軍師は全員、全員だよ、貴方の隣に立ちたくないと言っているのですよ。私も含んでもらいましょう。意味がお分かりですかな?」
 全員縛り首も有り得る爆弾発言である。変人と揶揄されても免れない危険な発言だが、凍りついた空気を砕いて矢継ぎ早に言い放つ。漢太尉の言葉に、月の君は歯切れの悪い言葉を返す。
「私が、その、前線に行ってしまうから…でしょうか」
「そうですね。貴方は『将』です。本来なら河を超えてはいけないどころか、九宮から出てはいけない駒です。それが『勝手に』『前線に』『飛び出して』しまう。貴方が死んだら、采配した軍師の首も飛びます。貴方の代わりは居ないのですよ。分かりますね?」
 言葉を区切って強調し漢太尉は月の君に言う。先ほどの発言も、軍師の采配ではなく、己の身勝手で頭と胴体が離れる可能性があるなら同伴を断りたいということなのだろうと、月の君は理解する。
 言いたいことを言ったからか、漢太尉は月の君から視線を外し、片眼鏡を外して拭う。
「私は主上が貴方に望んでいることは、別のことだと思っています」
 月の君の反応を待たず、漢太尉は言葉を続ける。
「私は後継者を育てられない。私の采配を学ぼうとする者は同伴させますが、彼らが私以上の采配を振るえた試しはありません。例えば、私が死んだらどうなるか、分かりますかな?」
 装着した片眼鏡の奥から月の君を見る。
 負けなしの軍師の存在は、周辺諸国に対して強力な抑止力として働いている。失われれば攻め入る機会を伺っていた隣国は、攻めてくる可能性が高い。負けなしの軍師だけが勝てた戦は、勝てなくなるか、苦戦を強いられる。そうなれば、国は疲弊する。今のような泰平が失われることは想像に容易かった。
 この場にいる誰もがそう思い至ったのを認めたのか、漢太尉は背筋を伸ばし月の君に向き合った。
「月の君。貴方はどんな手を使ってでも、私に勝とうとした。私にはない、やり方でしたな」
 遠回しに碁大会の姑息な攻め口のことを、言っているのだろうと月の君は思った。だが漢太尉はその攻め口すらも、自分にはない実力と評価した。感想戦をしない、後継者を育てない漢太尉にしては、随分と説明してくれていると思う。
「私は、貴方が私の采配を学んで新たな国の守り手になるよう、主上が望んでおられると思っているのです」
 言い含めるように漢太尉は言った。
 その言葉に月の君は目を見張る。そして漢太尉が向ける視線を見据えながら、月の君ははっきりと言葉を告げた。
「しかし、皆が傷つきながらも戦っているのを、高みから見るだけなんて出来ない」
 漢太尉はゆっくりと片眼鏡を外し、すっと背を向けた。握り込んだ手から、片眼鏡が軋む音がするほどの静寂。震える背中に思わず手を伸ばそうと指先を動かした月の君の前で、漢太尉は叫んだ。
「ここまで言わせて、ほんっとうに! 次は絶対同伴しない! 主上に直訴する!」
 撤収だ! もう、帰るよ! そう副官を伴って去っていく背中に、馬閃が憤慨したように悪態をつく。確かに礼儀に欠いた、不敬罪と断罪されても可笑しくない態度だった。だが、己の我が儘で戦に参加する全てを危険に晒しているのを、月の君こそわかっていた。月の君が死ねば、軍師だけでなく戦に参加した武官達とて責任を問われる。太尉の発言は、軍部を代弁したものだ。武官も臣民であり、彼らの抱える恐怖を軽んじてはいけないと月の君は理解していた。
 それを面と向かって言える人は、国広しといえど片手で数えられる程度しかいないだろう。
「漢太尉は得難い人だよ」
 本当に彼に認められたら、全てが上手くいくような気がする。そう月の君は遠ざかる背中に向けて笑みを浮かべた。


■ 妥協 ■

 漢太尉の執務室の主人は、机に頬杖をついている。中年の頬にしては柔らかいらしく、頬は潰れ狐目は糸のように細くなっていた。
 月の君が戦に出るようになり、月の君の隣に軍師が立つ必要が出てきた。それは誉高いことで誰もが望み得たい席ではあったが、その席を誰もが固辞することになる。原因は大将である月の君。大将があろうことか前線に行ってしまうのだ。心優しい月の君の『皆が傷つくのは見ていられない』という言い訳は、流石に自分の首を賭けてまで聞くことはできない。
 負けなしの軍師である漢太尉でさえ、この行為には苛立ちを隠さなかった。
 自分の首を賭けることに、ではない。彼が采配に例える将棋の動きに則さない、月の君に対してだった。
「勝手に動く『将』で打つ。正気とは思えない」
 取られたら負けの駒が最前線に行ってしまう。流石の漢太尉も頭を抱えるのかと、側から見た誰もが余程のことと絶望する。なにせ漢太尉が失敗して責任を問われれば、次の軍師として選ばれるのは自分かもしれないと他人事ではいられないのだ。
 漢太尉の独り言を聞いていた副官が、木簡を持って机の前に歩み寄る。
「心中お察しします」
 漢太尉が主上に月の君の軍師を降りたいと直訴したのは、記憶に新しい。どんな難しい戦も断らない漢太尉が、主上に断りたいと直訴するなど、天変地異の前触れと言っても過言でないくらいに軍部を震撼させてくれる。
 木簡に視線を落とせば、そこに書いてあったのは漢太尉が望んだ内容ではなかった。
「直訴は却下、か」
 予想の範囲内ではあるが、漢太尉は落胆したように頬杖で顔をさらに押しつぶした。
 副官は苦笑いを浮かべつつ、上官に言う。なにせ、月の君の初陣の際に傍に立ったのは、外でもない目の前の片眼鏡の軍師殿だからである。あの戦と比べても、普段 漢太尉を指名するような内容と比べても、今に求められた出張は簡単なもばかりだ。
「しかし、羅漢様なら動く『将』をも制御して、采配を振るうことは可能なのではないですか?」
 潰れた狐目が薄らと開いて、副官を見上げた。
「切り札使っても失敗したから、制御は無理。『将』の動きを予測して、戦全体を支配した方が上手くいきそう」
 普通なら不可能なことを呟いた漢太尉は、頬杖を外して体を起こした。
「論より証拠だ。地図と将棋駒、持ってきて」
 短い返答と共に瞬く間に戦地となるだろう土地の地図と、将棋駒が机の上に広げられる。早速『将』を手にした羅漢は、顎に手をやりながら俯瞰する。すうっと細められた視線の先には、これから先に起こり得ることが見えている。
「さて、面白くなるといいのだが…」
 ことりと、地図の上に将を置いた。


■ 許容 ■

 戦は思いの外長引いたが、優勢に終始した。
 前線の兵士達に混ざって泥と血に塗れた月の君を、軍師は背筋を伸ばして待っていた。負傷した兵に肩を貸している月の君が顔を上げると、軍師と視線が合う。すると、片眼鏡の軍師はすっと手を上げた。挨拶のためではない。戦が終わった合図だった。
「我らの将のお帰りですな。じゃあ、撤収作業始めて」
 何の感慨もなく告げられた言葉に、軍師の背後に控えていた副官達が動き出す。的確な指示が行き渡り、瞬く間に怪我人が連れて行かれる。月の君が肩を貸していた武官も連れて行かれ、月の君に怪我はないかと質問される。全て返り血だと返答して離れた兵を見送り、月の君は歩み去ろうとする軍師に声をかけた。
「羅漢殿」
 足を止め振り返る軍師は、ゆっくりと歩み寄った皇帝の弟君を見上げた。戦には不釣り合いな綺麗すぎる瞳が、互いにしか分からない程度の目礼をしたのを見る。
「私の軍師を務めてくださり、ありがとうございます」
「この相手と打てと言われたら、打つだけです。礼を言われることじゃあ、ありません」
 頭を下げることはできないが、礼は言うのか。軍師は小さく頭振ると、ひらりと月の君に背を向けて欠伸を漏らす。
「ですが、私は意思を曲げなかった。羅漢殿が譲歩されたのではないですか?」
 ふむ。軍師は顎に手をやった。やはり、いつもと違った采配であることに勘付いたのだろう。時間は掛かったが、安定した戦線を保つ事を主に置いた采配である。月の君を中心に安全圏を確保するよう周囲を動かし、敵味方諸共支配する。負けなしの軍師の本領発揮といった戦況だったろう。短期決戦で最も要領の良い采配ばかりしていたので、このような気配りは疲弊する。だから欠伸が止まらぬのだと、軍師は思っている。
 軍師は半身だけ振り返り、こちらを真っ直ぐ見てくる月の君を見る。
「譲歩などしておりません。変な動きをする駒を持って打つのも、面白いかなって思ってるだけです。本音を申せば、呆れてますからね」
 宮廷で見るような着飾り香る姿の方が、よっぽど似合っていると軍師は思うのだ。周囲の兵が、敵が傷つく様を、我が身のように感じる必要なはない。そんなに戦場に立つのが苦痛なら、主上に行きたくないと言えばいいのにと思う。誰かの代わりに苦痛を受けることを躊躇わぬ。それでいて、特別秀でたものは戦では役に立たぬ優しさだけ。
「でも貴方は私の我が儘に、付き合ってくださっているんでしょう?」
「さぁ? 如何様にでも解釈されて結構です」
 大層面倒なお方だと、互いに思った瞳が逸らされる。


■ 副官 ■

 漢太尉は軍部高官にしては仕事熱心な人であろうと、音操は評価していた。普通なら軍部高官でも最上位の太尉の地位にあって、戦場に立って采配を振るうなんてことはしない。負けなしの軍師と呼ばれている故に、漢太尉を指名する仕事は多いがそれを他人に振る権限があった。そうして良かったし、そうすることで後輩育成にもなる。しかし漢太尉は一切断らないし、暇さえあれば面白そうと思った出張をこなした。
 普通ならば執務机に向かっている振りをして、部下を西へ東へと動かし、南へ北へと視察しては時間を潰していくものだ。そういう意味では、人事や軍部の運営を担う他の上官の方が怠けていると言えなくもない。
 本来のお役目は十二分にこなしておられる。しかし、それ以外の仕事は、お世辞にも仕事熱心と評価できる姿勢ではなかったし、人としての性格は難があると思っている。それに己が胃を痛めていることを、副官の音操は自覚していた。
「音操殿。どうして、そんなに申し訳なさそうに謝るんですか?」
 訊ねた声は耳障りの良い穏やかな声だった。明るい色の髪の下に、優男と表現するべき温和な顔立ちが呆れたように笑っている。最近、羅漢が副官に取り立てた陸遜は、音操を真っ直ぐに見ていた。
「羅漢様のやることじゃないですか。誰だって天災みたいなもんだって、諦めてますよ」
 陸遜の言う通りだ。音操もそう思う。
 宮廷でどの派閥にも属さず、傍若無人に踏み込む様はまさに天災だ。戸を閉じても暴風が如く開け放たれ、嵐が過ぎ去るのを耐え凌がねばならぬほどに話は通じない。天災に見舞われた人々に、上官に代わり頭を下げるのが音操の目下の仕事であった。
 そんな仕事はしなくて良いと言う陸遜の言葉は、全くもってごもっともだった。
 副官の仕事は漢太尉の仕事の補佐だ。軍部高官としての仕事の補佐を執務室で淡々とこなせば良いのに、音操は羅漢の後に追随しては頭を下げる。副官の仕事ではない。陸遜が代わりに追随する場合も謝りはするが、上手くやっているのか胃を痛めてはいない。
 どう、返答するべきか。思い倦ねている音操を見てか、陸遜は声を殺して笑う。
「私も他人の顔を一度見たら忘れないから副官をしておりますが、正直、羅漢様には絶対に必要なことじゃないと思ってるんです。あの人なら、覚えていなくたって直感で部下を使えてしまうと思うんです」
 音操は驚きに陸遜を凝視する。自分自身の価値を否定するような言葉に、何も言えなかった。
 確かに漢太尉なら獣のような勘で、全てを動かすことはできるだろう。陸遜が来て全ての人間の顔と名前が一致して伝えられたが、それ以前、音操も含めての副官達が膨大な武官を把握することは不可能だ。漢太尉は他部署も渡り歩くので、覚えておくべき人間は軍部に留まらなかった。
 陸遜は音操が困惑しても口に出さぬ言葉を、当然分かっているのだろう。少し残念そうだったが、唇の端を持ち上げる。
「音操殿が謝って調和を保とうと苦慮することも、羅漢様にとっては絶対に必要なことじゃないと思うんですよね」
 全く、返す言葉がなかった。確かに、あの方には何の意味もない、余計なお世話だろうと思う自分がいる。しかし、それではいけない気がして、頭を下げる。迷惑が輪を掛けぬよう、配慮を怠れない。音操は苦しげに陸遜に訊ねた。
「なら、なぜ、我々は羅漢様の副官を任されてるんだ」
「これは推測ですけど…」
 陸遜は珍しく温和な顔に悪戯っぽい笑みを混ぜた。
「きっと、我々が羅漢様のことを好いていると、察しているんじゃないですか?」
「す、好いてる? それは好意という意味でか?」
 意外な言葉に音操は、餅を喉に詰まらせたようになる。好意という意味が喉に詰まり、目が飛び出そうなくらいに見開く。
 その顔があまりにも面白かったのだろう。陸遜は肩を震わせ、腹を抱えた。声を出して笑わないのは、衝撃を受けている音操を慮ってのことかもしれない。涙目を拭い、陸遜は音操を見上げた。
「嫌いなら、どうでも良いと思うなら、謝らないし側仕えなんてしないで逃げますよ。有能だけで選ぶなら、もっと良い人材を羅漢様なら見つけるでしょうね」
 優男は誰にでも優しい笑みを向ける。困った上官も例外ではないが、その笑みに望郷の念が滲むのを知っていた。過去に何かあったのだろうかと好奇心はあったが、二人は軍部高官の副官という同僚でしかない。
「面白いですよね。他人なんか心底どうでもいいと思ってらっしゃる傍若無人なお人でも、人間なんだなって思いますよ」
 お。陸遜が何かを見つけて歩き出した。向かう先に見慣れた上司の後ろ姿を認めて、音操も後を追う。陸遜の言葉が腑に落ちると、胃がきりきりとする。嫌いではないが、どうでも良いと思いはしないが、もう少し労ってもらいたいと思う自分がいた。


■ 換価 ■

 壬氏は自分が仕事を抱え込みすぎていると、自覚している。当然、健康にも影響が出ても可笑しくはないが、それは環境に恵まれたと言って良いだろう。健康的で美味な三食。熟睡できる寝床。健康を維持するための薬膳。権力を伴う地位。まだ年若い年齢もあるだろう。才能には恵まれなかったが、環境のお陰で秀であれると壬氏は思っている。
 だからこそ奢らず、優しいままでいられると思っている。
 貧しい者に、この国の隅々に、豊かさと幸福を行き渡らせたい。それは壮大な絵物語のような願いであったが、壬氏は真面目にそれを考えていた。自分の届く範囲を広げて把握し、恵まれた環境を駆使して、実現に至らしめる努力をする。彼は良い治世者になるだろうと思われる一方、彼の有能さはこの国の汚い伝統からは疎まれていた。
 壬氏は完璧に仕事をしたいと思っている。全力を尽くし、出来る限りやった結果なら、どんな結果でも受け入れられるからだ。だから、仕事を振る場合も指名する。だからこそ、指名された仕事を部下に任せていると聞いた時、温和な彼にしては怒りを感じたものだった。傍にいた馬閃が激昂していたから、冷静で温和であれただけだった。
「羅漢様の仕事を代わりやっている? そう判断されても致し方ないと思われます」
 そう、漢太尉の副官である音操はしれっと言い切ったのであった。背後に馬閃がいなくて良かったと思うが、高順も呆れたような顔をしているだろう。
 漢太尉は部下に己の仕事を任せている。それは、あの漢太尉ならするだろうと思う程度には、有り得る話だった。実際に長期出張が入れば、漢太尉はそれなりの期間都から離れてしまう。その間の執務は部下や他の軍部高官が代行している。漢太尉だけしか執務ができないでは、困るのはこちらだ。
 しかし、それ以上に有り得る話と信憑性を持たせるのは、漢太尉の気まぐれな性格だ。面白いか、面白くないか。気にいるか、気に入らないか。そんな物差しで世界を測る人が、全ての仕事を担ってくれる訳がない。そういう意味では、漢太尉の代わりに仕事をしている部下は気の毒である。
「不正ではないか」
 音操は壬氏の言葉に目を瞬いた。
 壬氏も音操の姿は良く見ている。羅漢の傍に立って、上官の迷惑を詫びて歩く様は鮮やかに記憶されていた。腰の低い、しかし侮られない貫禄を持つこの男は、壬氏の詰問めいた言葉に一向に頭を下げたり腰を折ったりしない。
「そう受け取られても、致し方ないとは思っております」
 ですが…。そう言葉を継ごうとした音操は、ふと視線を外して口を閉ざす。
「音操。誰と話しているんだい?」
「壬氏殿です」
 あぁ、壬氏殿かぁ。にこにこと笑いながら話題の主が歩み寄ってくる。果実水が入っている徳利を手に、ふらふらと宮中を歩いていたのだろう。新任なのだろう馴染みのない副官らしい男が、羅漢の背後に立って不安そうにこちらを見ている。
「羅漢殿が仕事を部下に任せていると聞いたものですから」
 あぁ。羅漢はへらりと笑いながら、壬氏の言葉を聞いた。笑みを崩さず、壬氏の視線を平然と見つめ返す。
 本当にこの人の頭の中は、どうなっているんだろう。壬氏は、毎回顔を合わす度に思う。この国では地位が与えられ、実績が認められ、一つの人の形として君臨する本物の天賦の才。思考が滲むはずの視線は、屈託無く純粋なまでに何も含んでいない。見定めようとする壬氏を逆に覗き込んで、全てを見透かしているかのように思えてしまう。
「私は副官を含め部下が担った仕事は、きちんと承認していますよ。不正だなんて、とんでもない」
 つまり、軍部全体の運営の一部に、部下に太尉としての仕事を任すというのを含めてしまっている。それを承認することで、責任は持つ。それは不正と言い切れぬ絶妙な言い回しだった。
 羅漢はすっと視線を壬氏から音操へ向けた。
「あぁ、音操。あれ。あいつさぁ」
 まるで子供のような語彙力のない言葉が紡がれる。あれ。あいつ。誰も分かる訳がない。
 音操は背後にいた新しい付き人を見たが、気弱そうな男は勢いよく首を横に振るだけだ。音操は小さく息を吐き、『はい』か『いいえ』で答えられるような、短い問いをいくつか重ねる。軍部の者か。配属はどこか。いつからいるか。覚えている特徴はあるか。それらを重ねてようやく、羅漢のいう『あいつ』の輪郭が見えてくる。
 音操が羅漢の言う『あいつ』が、どうされたのですか? と問う。羅漢は『あぁ、あいつさぁ』と用件を思い出したように言う。
「あれ、うちの駒じゃない」
 まるで注文したものと別の料理が出てきたことを、指摘するかのような口調だった。しかし、内容は間者が紛れ込んでいるという指摘であり、その間者だろう当人も指定している。羅漢は、そういうことのできる男だった。証拠はない。だが、羅漢の勘は外れない。顔を見ただけで敵味方を見分け、一瞥されただけで適材適所を見抜かれて異動させられる話は有名であった。
 音操は真面目な顔をすっと下げる。
「わかりました。対応してまいります」
 よろしくね。音操を見送った羅漢は、壬氏を見上げて笑った。
「ね。きちんと、仕事をしているでしょう?」
 承認している。それは、きっと書類をきちんと確認しているという意味ではない。仕事を担った部下を見て、見定めているのだと思った。不正を働けば、きっと羅漢は見抜くだろう。人間離れと言って差し支えない。
 そのようですね。としか、壬氏は返すことができなかった。


■ 隠居 ■

 包みの中身は干甘薯だった。ねっとりとした蜂蜜のような色味は、猫猫も思わず美味しそうだと生唾を呑む。
 しかし、包みを渡そうとする相手が問題だ。猫猫の義兄、生物的には従兄弟になる羅半をじろりと睨んだ。受け取ってどんな対価を求められるか、分かったものではない。羅の一族の人間は油断ならないことを、猫猫は身に染みて理解している。
 そんな義妹の警戒を感じ取ったのか、羅半は心外だと言わんばかりに目を細めた。
「父さんから、きちんと謝罪しておいてくれと頼まれてね。これは僕からではなく、父さんからだ」
 羅半の視線は背後にも向けられる。きらりと反射した眼鏡には、麗人と見紛うばかりの男性の姿が映り込んだ。なぜ、壬氏殿が義妹の背後に立って動こうとしないのか、理解に苦しむと言いたげに顔を顰める。
 猫猫は背後に立つ心配そうな気配を、とりあえず無視する。会話に入れてもややこしくなるだけだと判断した。
「別に必要ないのに。何事もなかったし」
 実際に言葉の通り。不快な思いはしたが、怪我も被害も被らなかった。もし、猫猫に擦り傷一つついていたら、背後の男が黙ってはいなかったろう。しかし、今回の一件は一族内の揉め事と処理される。当主である羅漢が対応することであり、壬氏が黙っているということは大事にならぬことを意味している。
 そうなんだけどね。羅半が目を細めると、瞑っているように見える。
「正直、何事もなくて良かったと、父さんも義父上も言ってたよ。御隠居がどう動くか読めなかったらしいから」
 猫猫が不快そうに顔を歪める。その顔を覗き込んだ壬氏が心配そうに肩に手を置いたが、猫猫は手で弾いた。何事もないのだから、そこまで心配される謂れはないのだと言わんばかりだ。
 そんな愛想のない義妹の態度など、対面する羅半が気にすることはない。羅の一族の二人は、どこか寂しそうな麗人を蚊帳の外に話を続ける。
「あれでも、だいぶマシになったそうなんだ」
「あれで?」
 信じられないと猫猫は顔を顰める。生物上の父である羅漢に見せる嫌悪の上をいく、しかめっ面である。その表情に同意するように羅半も呆れたように嘆息する。
「父さんの話では、義父上は幼少の頃に何度も半殺しにされるくらい御隠居から折檻を受けていたそうだ。それで大叔父上に度々世話になったそうだよ。新任軍師に任せられない難しい戦を担当させたり、御隠居は義父上が亡き者になれば良いと、本気で思っていたそうだ」
 猫猫も壬氏も驚きに目を見開く。確かに付き合いに難のある存在とはいえ、身内である。羅門が甲斐甲斐しいまでに羅漢と親交があると思えば、任せて関わらなければ無害なほどだろう。放置したとて天才軍師として今の地位にいることは、想像に容易かった。それなのに身内に殺意を抱くという感情は、禁忌と表現できる悪意だ。
 羅半は二人の表情を見て言わんことが伝わったと認識したらしく、小さく頷く。
「今も義父上の地位は陰謀で手に入れたものだと、嘆願書を書くほどらしい。この国で屈指の成功者になった義父上を相当恨んでおいでだろう」
 猫猫は失笑する。
 変人軍師と呼ばれても、誰一人その実力を疑う者のいない天才だ。そんな嘆願書など、即座に火に焼べられてしまうに違いない。その嘆願書を利用して謀ろうしたならば、変人軍師は相手を徹底的に叩きのめす。恐ろし過ぎて、誰も関わるなんて出来ないだろう。
「僕も何度か叩かれた事もある。羅の一族の斗出した才能が理解出来ないんだろう」
 羅半は忌まわしいことを思い出すように、目を細めた。
 あの凄まじい剣幕を猫猫は思い出す。なるほど、理解できないのか。今までは呆れて後ずさるような人ばかりを見てきたが、理解できずに攻撃する人種もいるのだろう。未知への恐怖は人の本能から起因する。猫猫は納得したように頷いた。
「そういう意味では、御隠居は狂気のみを授かってしまった、哀れな人かもしれない」
 羅半は包みを押し付けるように渡す。ふんわりとした甘い香りが漂った。


■ 優秀 ■

 羅漢殿。そう声を掛けて振り返った狐目は、ゆっくりと傍の副官へ向けられた。『誰?』『壬氏殿です』『あぁ、壬氏殿かぁ』そんなやりとりをしてこちらを向けば、背筋を伸ばした大尉殿は『何用ですかな?』と尋ねてきた。
 主の背後に控える高順が、呆れたように嘆息した。この御仁は壬氏が何者か知ってなお、ここまで失礼な態度をするのである。顔が判別できないという事情を知っても、常人には理解できぬ変人という性質を差し引いても、処罰されぬのが不思議なくらいだ。
 宮中の人間で大尉殿をわざわざ呼び止める者はいない。虎の尾を踏むような、声を掛けただけでどう転ぶか分からぬ面倒事が人の形をしている存在である。用があるなら大尉殿の居ない時に、副官に伝言を頼むのが賢いやり方だ。どうせ、嵐のような大尉殿である。耳を澄ますだけで何処にいるか分かってしまうくらいに騒がしいのだから、居ない時を狙うなど容易い。
 同時にどこにいるかも、簡単に分かってしまう。
 どんな騒ぎかと顔を覗かせ人垣の上から覗けば、大尉殿は一通り場を引っ掻き回して飄々と立ち去ろうとしているところだった。場に残された者は呆気にとられ、これからどうすれば良いのか互いの顔を見合わすばかりだ。可哀想に。壬氏を含めて野次馬達は同情する。
 関わりたくないと割れていく人波の道を、悠々と大尉殿と副官は進んでいく。すれ違う大尉殿を壬氏は思わず呼び止めた。そうして冒頭のやりとりだ。
 主は大尉殿を快く思ってないと、高順は思っている。いや、大尉殿を敵に回すべきではない認識を共有している誰もに、快く思う人間などおるまい。しかし、真面目な主には大尉殿は相当不真面目に映るのだろう。時折、苛立ちのようなものを感じていた。
「お仕事がずいぶん溜まっておいでですが」
 これは何とも恐ろしい組み合わせだ。周囲の野次馬達の感情が二分されていくのを、壬氏は嗅ぎ取った。天上人の美貌を持つ優秀な官吏と、負けなしの変人軍師。巻き込まれては厄介だと、足早に去っていく者。これは面白い対決の幕開けかと好奇心に輝く者は、遠巻きにこちらを見ている。
「ふぅん。私に仕事を溜めないで欲しい…と」
 きちんと、期日には間に合わせているんですけどねぇ。そう、ねっとりとした声で言った後、ぽつりと付け足す。
「お勧めできませんなぁ」
 大尉殿は何気に姿勢が良い。ぴんと伸びた腰に手を当てて、値踏みするように壬氏を見上げてくる。
「壬氏殿はご自分の仕事を、きちんとしていますね。つまり壬氏殿が処理しなければ、その案件は進まないってことですよね」
「何を当たり前のことを言ってるんだ?」
 表情を険しくしたのを全く認識していない大尉殿は、にこりと笑った。
「戦場は待ってなどくれません」
 そう、雑談でもするように話始める。
「私の判断を待てぬ場合は、その場の者に対応させます。なに、問題は起きません。人員配置、采配はこれから起きる全てに対応できるよう下した、私の判断です。あとは、黙って眺めているだけで将が取れます」
 流石はこの国で屈指の回数、戦場に臨んだ人物の言葉である。負けなしの軍師と称されるだけあって、妙な説得力が備わっていた。そして言葉を裏打ちするような見事な采配は、戦場のみならず、彼が集めた部下でも証明されている。大尉殿がどんなに仕事を怠けていようと、軍部は円滑に回っているのだ。
「壬氏殿。貴方は真面目で優秀だ。ですが、戦場では貴方みたいな上官は部下を殺す。気をつけた方がよろしいでしょう」
「ここは戦場ではない」
 珍しい噛み付くような返答に、大尉殿は声を殺して笑った。愉快そうに口元を歪め、身を翻す。一言、言い捨てた。
「ご冗談を。そんなこと、欠片も思っていないくせに」
 そうして勝手に割れる野次馬達の向こうに大尉殿は消えていく。傍でぎりりと歯を食いしばる音を、高順は聞いた。