鳥のような獣と、地を征く人々


■ 愉快 ■

 微かに美しい歌声が聞こえてくる。子守唄の抑揚で、夜に降り注ぐ月光の柔らかさを語り、日差しの暖かさと風の爽やかさを歌う。人の欲望を暗く紡ぎ、訪れぬ幸せの代わりに訪れる夢に溺れよと囁く。歌の内容は妓楼に相応しい、美しさの影に秘めた暗澹さを歌い上げた。
 鳳仙大姐の声は美しい。碁と将棋に強いばかり注目されるが、禿達は知っていた。妓楼に預けられたことを受け入れられぬ幼子を慰める為に、大姐は愚図る子を抱き寄せ揺らしながら歌ってくれるのだ。まるで新月の夜空のように深い声色は優しく包み込んで、瞬く星のような詩は滲み入るように内に響く。涙につられて気分の沈んだ禿の誰もが、大姐の歌を子守唄にして眠りに沈んでいく経験をする。
「大姐ったらご機嫌ね」
 梅梅がちらりと視線を向けると、窓を開けた禿の長い髪が風に揺れた。まだ太陽が空の上に居るというのに、風に乗って大姐の歌声が聞こえてくる。口数が少なく自分にも厳しい大姐が、思わず口遊んでいるなんて明日は雨かしらと禿達は笑う。
 鳳仙大姐の禿をしている梅梅が、将棋盤から顔を上げた。
「もうそろそろ、あの人が来るからじゃないかしら」
「あぁ、あの片眼鏡のお客さんね」
 部屋で寛いでいる禿達が納得したように頷いた。鳳仙大姐のみを指名する片眼鏡の客人の存在は有名だった。この緑青館で一番の腕前の大姐と対等に対局出来る数少ない客人であり、酒も茶も飲まずに果実水だけ啜る変わり者だ。外から舞い込む噂話では将来有望な軍師らしいが、禿達の間では酒も女も舞も興味のない変わったお客様である。
 そのお客様に大姐が惚れているのも、禿達は知っていた。まだ大人達の世界を知らぬ禿達は、そんな大姐の恋を眩しく羨ましく見守っていた。
 将棋盤を挟んで梅梅の相手をしていた禿がにんまりと笑った。
「梅梅も嬉しそうじゃん」
「そりゃあ、今じゃあ私の将棋の先生だもの。もっと強くなって、大姐みたいに芸を売る妓女になりたいの。指南して欲しくって、待ち遠しいくらいだわ」
 鳳仙大姐が来るまでの間、客人は禿相手に将棋の手解きをしてくれる。そうして将棋の技量をめきめきと伸ばしたのは、他でもない梅梅だった。碁と将棋の腕を見込んで鳳仙の元に訪れる客人をも、唸らすほどの腕前になりつつある。
 爪を磨いていた禿が、ふっと指先に息を吹きかけて年相応の悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「へぇ。じゃあ、最初のお客は片眼鏡の人がいいんじゃない。師弟対決でどっちが勝つか、月餅賭けようよ」
「勝負にならないでしょ。羅漢様は本当に将棋が強いんだから」
 ふくっと梅梅は頬を膨らませる。鳳仙ですらなかなか勝てぬ御仁に勝つだなんて、どれだけ工夫を凝らしたとて難しいと思う。御仁が手加減したならば勝てるかもしれないが、かの人が相手を侮辱するように勝ち星を与えるとは思っていない。梅梅は片眼鏡の客人が勝負事において非常に真摯であることを知っていた。
 梅梅の横から禿が絡みつく。まるで恋人にするかのように腕を絡ませ、顔で選ぶ男なら一発で落とせる熱っぽい瞳で梅梅を見る。
「でも、梅梅はあの片眼鏡の人を客で取りたいんじゃない?」
 そっと顔を耳元に寄せ、熱い吐息の混ざった囁きで愛撫する。
「恋する乙女の顔してるけど、鏡、見る?」
 どんな梅の花弁よりも赤くなった顔を見て、禿達は笑い転げた。


■ 充足 ■

 ことり。ことり。そう駒を置く音だけが、この空間に響いている。碁石のときの弾けるような軽い音も好きだったけれど、将棋の重く滲み入る音の方が梅梅は好きだった。
 弾ける音は大姐の音だ。そう梅梅は思っている。あの他人を寄せ付けぬ鳳仙花のような瞳と雰囲気は、周囲の音をも身に纏って空間の全てを支配する。その音に翻弄される客人を、悠然と眺めている大姐は女帝のようだったと思っている。生粋の勝負師だった。多くの娘が運命を他人に握られる中で、惚れた男を手に入れようとこの国一番の軍師を相手に勝負を挑んだ大姐。その結果は喜ばしい幸せから程遠いものだったが、その生き様は羨ましかった。
 盤上の状況はじりじりと梅梅の劣勢に追い込まれている。畳み掛けるような羅漢の手をどうにか食い止めていたが、ついに大将の駒を摘み上げられてしまう。この国で一番将棋が強いと言われる片眼鏡の御仁は、楽しげに口元を持ち上げた。
「将だ。梅梅、腕を上げたね」
 勝負がついた頃合いを見計らっていた禿が、盤上の駒を片付けていく。この場の空気を壊さない程度にゆっくりと、しかし手際良く駒を片付けていく禿を梅梅は見る。膝の上に優雅に組んだ指先に視線を落とすが如き、客人に決して気取られぬ自然な視線運びだ。指導する立場故に、禿の一挙手一投足にも気を配るのも一流の妓女の務めだ。
 梅梅は優雅と思わせる所作で頭を下げる。
「羅漢様にお褒めいただくなんて、光栄ですわ」
 顔を上げて微笑む。男が望む美しい微笑みに、柔らかな慈母のような声色に、光り輝くような美貌に心奪われる男は数知れぬ。緑青館の三姫の一角を担う梅梅だが、目の前の御仁だけは心を奪えぬことを知っていた。顔が分からぬからではない。その心は大姐のものだと分かっているからだ。この大姐が愛し、大姐を愛した男にとって梅梅は可愛い妹だろう。
 それでも、梅梅の想いが燻っているのを女達は知っている。遠回しに梅梅と一緒に過ごせと言わんばかりに、羅漢を客として迎えることを拒否して見せた。緑青館に損害を与えた男なんて評価はもう昔。陳腐な言い訳を今も使っては、にやにやと梅梅に笑ってみせる。
 さぁ、勝負師達の愛弟子さん。いつになったら、貴女は勝負に出るのかい? と。
 幻のように響く声を苦笑して打ち消し、梅梅は羅漢に尋ねる。
「次は、碁になさいますか?」
 確かに稀代の勝負師達の愛弟子だ。それでも、勝負師達の血を引いた娘の方が、自分よりもよっぽど勝負強いことを知っている。様々な危険に巻き込まれては、その勝負強さと機転で勝利を掴んで見せる。娘の母親譲りの瞳の色と温度が、自分の心を見透かしてはどこか醒めた色をするのを心のどこかで安堵している気持ちで見ていた。
 良いのだ。これで良いのだと、その瞳を見ていると梅梅は納得できる。
「うん? 私は将棋がしたいけど、梅梅は碁がしたいかい?」
 目を細めると狐のような目元になる御仁は、幼子のように首を傾げた。
「梅梅と居ると、なんだか将棋をしていたい気分になるんだよね」
 ことり。ことり。その音は、自分と好きな御仁の音だ。梅梅は唇が嬉しげに持ち上がるのを堪えられなかった。
 大姐のようにはなれない。だから自分らしい方法で、この御仁との繋がりを築いていけると梅梅は思う。素直になれば良いと大姐を見て思ったが、惚れた男の前では粋がって見せたくなる女の性を痛感している。
「羅漢様にそう言っていただけて、嬉しいです」
 あぁ、私も貴方と将棋を打ちたいです。そう言えたらと、梅梅は思う。


■ 凱旋 ■

 月の君が戦に出るようになり、片眼鏡の軍師が傍に立つようになって暫く経った頃。
 湯あみをして身を清めた月の君は、香木の香りを纏った麗人になっていた。完全武装を解いた今、胸当て程度していなければこの場が宮中の最奥であると思わせる。相変わらず天上人のような美貌は羅漢には分からなかったが、場違いなまでの美しさが部隊の裏側を変えているのを感じている。
 あまりに困った将の駒ではあるが、負けなしの軍師は扱い方も理解してきた。武生のように君臨する羅漢の許容は、武官達にも滲み入るように広がっている。戦争を生業とする武官達だからこそ、月の君の技量は努力で得た優秀であると理解したのも一因だった。
 下手をすれば月の君は武生になれるだろう。そう思う民も現れる。それを助長したのが、凱旋だった。
「凱旋で月の君の横に…? お断りします」
 軍師は顔も上げず即答した。視線は今回の戦のことを記す軍事録を綴る手元に落ちていて、その内容は棋譜のような文字と数字の組み合わせが延々と続く。采配を将棋に例える羅漢の提出する軍事録は、まさに棋譜そのものだった。
 集中しているのだろう。視線は全く上がらず言葉だけ継ぐ。
「私は基本、凱旋行進はしません。いつも負けませんし、馬車で寝ていたいですから」
 凱旋は武官達にとって花道である。自分の無事を一刻も早く家族に告げる手段として、成長した己を披露し昇進を訴える好機として、意中の相手に誇示しあわよくば婚姻に託ける武官も少なくない。
 そんな凱旋に、負けなしの軍師は全く参列しない。それはいつの間にか当たり前になっている。
 反対に月の君は凱旋行進は必須である。凱旋で顔を見せねば、戦死と思われて民が動揺する。参戦した戦から無事に帰還する姿を見せることは、月の君の責務でもある。市井の者達の喜びや希望に輝く顔を見るのは、月の君とて心地良いものだ。
 月の君はこちらを全く見ない軍師に向けて、甘い笑みを浮かべて見せた。同じ男でも顔を赤らめてしまうような整った顔が秘めた欲望を生暖かい手で愛撫するようで、副官に代わり居合わせた若い武官が視線を明後日の方向に向ける。
「帰還するまでが戦でしょう?」
 羅漢の手が一瞬だけ乱れた。それでも、注視していなければ分からぬ一瞬で、そのまま筆は動き続ける。軍事録を書き切ると、羅漢は筆を硯の上に置いて控えた部下に下げるよう命じた。
 果実水を注いで小さく傾けながら、視線はここではない先へ向けられている。
 羅漢は宮中では中立だ。どの派閥にも属さない。名持ちの一族の当主であるなんて肩書がいらない程度に、才能一つで戦も宮中も闊歩する。それを人は嵐だ獣だと呼んで、人と呼んでも『変』という枕詞がついてくる。
 人から逸脱しているそれを、傍に従わせる。それは、大きな意味がある。凱旋では、特に大きな効果があった。
「ふぅむ。やはり、権力は侮れませんなぁ」
 本当に貴方の軍師はしたくない。そう呟く横顔を、月の君は妖艶な笑みで見ている。


■ 休息 ■

 羅の一族は時に、時代に名を残す天才を輩出する。
 父の触れ込みで期待の新人として軍部に送り込まれたが、羅紅は己が天才ではないと分かっていた。そして己を時の人になるような天才と期待する父も、己と大差ない凡人であると知っている。そう思うのも、彼の目の前には本物の天才がいるからだ。
 将棋盤を挟んで兄が盤面を俯瞰していた。ぼさぼさと生える無精髭を、指先が摩っている。
 弟は兄とよく将棋を指した。父も軍師として戦略を学ぶ為に将棋を指す事を推奨したので、煙たがる存在の兄を退ける事は出来なかった。将棋は相手がいなければ成り立たぬ。兄は弟の将棋を誘いを決して断らなかった。
「軍部は僕達の無敗記録がどれほど伸びるか、沸き立っているよ」
 ふぅん。兄は溜息のような相槌を打った。
 凡人の弟との将棋の方が大事だと言わんばかりに、目の前の対局に集中している。そんな兄の事を弟は好いていた。兄は弟を弟として認識はしてくれていたが、将棋の事以外は無関心だった。弟が父の贔屓されるのに嫉妬する訳でもなく、弟が兄が継ぐはずだった家督を継承する将来を恨む事もない。
 兄は弟を、ただの将棋の相手としか見ていなかった。
 ほぼ同時に軍部にやってきた、天才を排出する羅の一族の兄弟。比べられるのは当然だった。
 兄弟の上官である父は、兄に殊更難しい戦を振った。送り込まれた武官の殆どが戻っては来れぬ激戦区。あわよくば戦死させたがった父の思惑は、透けて視えるどころかあからさまであった。初陣となる戦を、何の感慨もなく二つ返事で了承した新人に軍部の誰もが同情しただろう。弟も兄が出立してから、父に陳情したほどだった。
 しかし、兄は勝って帰還した。
 長引くと誰もが予測していた戦が、たった一人の新人軍師にひっくり返されてしまったのだ。
 劇的な勝利。兄は軍部から華々しい賞賛を受けた。
 対して弟は、父から簡単な戦ばかり任される。勝って当然の戦。軍部の目は冷ややかな嘲笑を帯び、弟は比べられる事で居心地の悪さを感じている。しかし、弟は兄のように伝説になるような勝利を得られる程の才能が、自分にない事を分かっていた。無謀は死を意味していた。
 兄は勝利を誇らない。難しい戦を嫌厭しない。淡々と戦をこなし、勝利し続ける。
 そんな兄を弟は憎めなかった。
 いっそ勝利を誇り弟を嘲笑ってくれれば憎めたのに、兄は弟が将棋に誘えば向かい合って座った。弟の気持ちが塞ぎ込んでどうにもならない時、なぜか兄はそこにいて将棋の相手をしろと座らせる。
 ことり。ことり。将棋の駒が置かれる音が、修練に勤しむ武官達の掛け声すら遠退く。たった二人。兄弟の時間が、弟にとって心休まる時間だった。
 兄さんは。弟は聞こえなくて良いと思いながら、囁いた。
「弱い僕と将棋を打って、つまらなくないのかい?」
 ことりと置かれた駒。兄は『将だ』と言って顔を上げ、事もなく言う。
「お前は弱くはない。丁寧過ぎるだけだ」
 立ち上がった兄は狐目を垂れて、うっすらと笑う。小腹が空いたから甘味を買いに行こう。そうふらふらと歩き出す。そんな兄の傍らを歩くと、その歩調は兄弟だからこそ示し合わせたように丁度良い。
 奔放で、自由で、地上の怨嗟など知らぬ、鳥のような兄だ。


■ 均衡 ■

 軍部は大きく分けて2つの派閥が存在した。軍部の頂点に立つ大将軍派と、次席である漢大尉の派閥である。
 派閥は当然頂点の人物の性格が色濃く反映される。しかし変人軍師が率いると揶揄される派閥は、漢大尉の性格的な難とは異なり忠実だった。戦をし、勝利する。漢大尉はそれ以上を望まなかったし、部下も勝利と報酬が与えられれば忠臣に他ならない。
 そんな次席の派閥を、大将軍派は大いに利用した。
 堅牢な国の守護者。民の財産と命を守る者。軍部はその二つの派閥が手を取り合い、理想的な運営体制を敷いていた。その均衡が崩れたのは、数年前とつい最近のことだ。
 大将軍の派閥で大きな勢力が、新たな派閥として立ち上がったのだ。
 主上の子を授かった玉葉后の縁故を頼ってか、戌西州出身が多くを占める派閥が誕生したのだ。野望を抱えた者が多い上に、実力ある地方出身者が目の敵にされる事は多い。大将軍派と新たな派閥は一触即発の睨み合いをしているのである。
 漢大尉は派閥争いに無関心ではあるが、内部の混乱によって軍部が機能しない事は良しと思っていないらしい。中立として両者の間に入っており、辛うじて軍部が機能していると言える。
 そんな状況で月の君が配下として率いるなら、誰を選ぶか。
 対立している派閥のどちらかを採用すれば、採用された派閥は月の君の力で圧倒的有利になる。結果、採用されなかった派閥は倒れるだろう。倒れるまでどれくらいの死者が出るか、予測はできない。
 軍部の混乱を最小限に留める選択が、中立である羅漢派の採用であったのだ。
 勿論、戦の経験が最も豊富で負けなしの軍師である漢大尉の存在は大きい。漢大尉の実力が本物であるから、月の君の身の安全や勝利の為に選ばれたという理由に納得せざる得ないのだ。
 不穏さを増していく軍部の報告を聞き終えた月の君は、ぽつりと呟く。
「羅漢殿が獅子身中の虫と、煙たがられた時期がある事を知っているか?」
 それは羅漢が羅の一族の当主となり、一つの派閥として独立した時の頃である。もともと羅漢の先代当主は抜きん出た力を持っておらず、現在の大将軍の部下の一人であった。
 しかし負けなしの軍師として頭角を表し、羅の一族の当主になると、結果を突きつけ周囲を押し退け次席という地位と共に軍部の半分を掌握する大派閥を形成したのだ。その鮮やかさは漢大尉が本気を出せばどうなるかを、宮中に知らしめたといえよう。
 そんな漢大尉を近くに置く事は、月の君の派閥の存在感を否応なしに増大させる。
 当然、漢大尉の性格から隙有らば離れようと画策しようとするだろう。だが忠臣を逃そうとは思ってはいない。
「あの人なら獅子をも食ってしまうんだろうな」
 人の形をしているが、羅の一族には獣のような力がある。
 同性も視線のやり場に困る笑みを浮かべた主人の表情を見た者は、嘆息する。何も難しい存在ばかりに関心を示さなくても良いのに…と。


■ 畜生 ■

 それは人ではない。獣だ。
 人の顔が見分けられないのは獣であるからだと思うだろうが、犬も猫も懐いた人間を見分ける。妻の腹から生まれた人の形をしたそれは、獣以下であろう。
 だから、納屋に閉じ込めた。
 畜生に相応しい飯を与える。
 獣を調教し言い聞かせる為に、叩いて何が悪い。
 見兼ねた弟がそれに人を見分けられる術を教えたと言っても、それは決して人並みにはならぬ。人の言葉を繰り、文字を書き、二本足で立って歩いても、それは人の形をした獣でしかない。心の機微を察せず、親を敬わず、振る舞いは傍若無人そのもの。将棋の盤面を俯瞰し、爛々と狂気に光る目を見てそれが人間だと言える者が何人おろう。
 獣であれ血が繋がっている以上、正当な理由なく殺す事はできない。名持ちの一族の長子の不審死など、監督不行き届きと他の一族の笑いものにされるに違いない。
 もっと正当な理由で、それを殺さねばならない。
 考えて考えて、得られた答えは戦だった。
 人の言葉が使える。将棋が打てる。ならば策を弄する軍師として戦場に送れる。
 勝つ見込みのない戦に送り込めば、それを戦死させることができる。名持ちの一族の者として恥ずかしくない死に様ではないか。それにはやや勿体無い贅沢な死であるが、名持ちの一族の名誉を考えれば惜しんではならない。
 獣は獣らしく、野に放たれ強き者の糧となれば良いのだ。


■ 観察 ■

 父は兄の事を獣と評した。見当外れな物言いの多い父にしては、珍しく的を射る発言だ。
 確かに歳上で兄ではあったが、屈託ない性格は弟のように思えた。父から家督を継ぐよう多くを教え込まれたが、兄と共に過ごす時間は年相応の子供のように楽しかった。夕食の残りをこっそり持ち出しては兄に差し出し、食べてくれたのを見て嬉しく思ったこともあった。兄の喜ぶ事、嫌がる事を具に観察して、喜んでくれるよう色々と思い巡らせたものだ。
 僕も兄の事を獣と思っていた。
 父との違いは、僕は兄を愛玩動物のように思っていた事だろう。
 いま思えば、見当違いも甚しかった。
 僕が兄の認識を変えたのは、何時の事だろう。今、記憶から引き出せたのは、家の馬車を引く馬が後ろ蹴りで武官を一人即死させた事だろう。大人しい、人を蹴り殺すとはとても思えない優しい気質の馬だった。どんな思惑があったか分からないが、体格の良い武官を一撃で屠ったのだ。
 僕は動物に対して恐ろしさを感じた。獣とは、人には理解の及ばぬ存在なのだ。理解したと思った気になるのは、奢りであると己に強く言い聞かせた。
 しかし、同時に尊敬の念を抱いた。獣は人に出来ない事を軽々と実行してみせる。空を舞い、大地を駆け、人の力ではびくともせぬ物を軽々と動かしてみせる。軍部にいた頃よりも健康な体である今でも、当時死んだ武官を殺すなどとても出来ない。そんな力を持つものが、人と共存してくれているという事実を尊く感じた。
 僕が獣への畏怖を認識した頃、軍部への移動が正式に決まった。
 兄が野に放たれたのだ。人では察知し得ぬ感覚で万物を見抜く才能は、人成らざると言って良い。その才能は、兄の人の顔が見分けられぬ不得手を帳消しにする力があった。
 恐ろしく、美しかった。
 兄の策は人には生み出せぬ美しさで、どんな戦も棋譜に置き換えられる。あらゆる戦を勝利で飾った。しかし人の世のことなど気にしない質は健在で、目も眩む勝利の報酬は甘味が買える程度の意味しかない。女の影もなく、親しき友もいない。群れる性格ではない事を、弟の僕はよくわかっている。
 僕は死んだ武官を思い出す。咄嗟に防御する間も無く、次の瞬間には馬の後脚は武官の目から脳髄に刺さって頭蓋骨を穿ち抜いた。
 僕も武官の二の舞になる事は、十分にあり得た。
 兄を良く見なくてはならない。何が好ましく、何が不快であるか。牙を剥こうと思われた時には、牙を剥かれた相手は兄に敗北している。
 共存する為に、観察していかねばならない。それが最後は己の身を守るに違いない。