夢も現も、踏みしだき


■ 情緒 ■

 相手の顔が見分けられないことは、この時代においては決定的なハンデではなかった。
 通信技術が発達し、大抵は電話やメールでやりとりする世界。掛かってくる電話には相手の名前が表示され、メール上のやりとりで顔を知っている相手の方が少ないくらいだ。社会に出てからは何の不都合も感じなくなった。
 そうして、大企業である漢グループの会長の長男、羅漢は『普通』に働いていた。
 本人は気にも留めていないが、周囲から見ればそれは『普通』ではなかった。
 株取引はインサイダー取引すら疑われて家宅捜索を幾度もされた先見の明、赤字続きで倒産の危機もある企業をいくつも再生させていった。その評判は瞬く間に国中に知れ渡り、漢 羅漢の名前は有名になったのだった。嵐のような強烈な個性が繰り広げる、ドラマも真っ青な展開はいろんな意味で映える。新聞の経済面を、SNSのトレンドを賑わし、変人と揶揄されながらも面白がられている。テレビだけは犬猿の仲と噂のある会長の圧があるのか、妙に露出は少なかったが些細な抵抗でしかなかった。
 そんな羅漢は接待で都内の高級料亭の入り口に立たされていた。夕暮れの赤みがかった空を切り抜くコンクリートの摩天楼。その根本の闇から浮かび上がるような障子の格子から漏れる暖かい光は、ノスタルジックな雰囲気を醸す。白石の砂利に浮かぶ飛び石は、長い年月訪れた利用者の靴底で磨かれ、石灯籠の光が庭園を闇から切り出して目を楽しませる。
 女や酒に全く関心のない羅漢に、先方は一見お断りなので一度行っておけば海外の客の接待に使えますよと誘った。仕事が絡むとなると無闇に断るわけにはいかない。しかも一見お断りだ。今後のことを考えれば、渋々乗らねばなるまい。強かな相手だ。
 それにしても、そう周囲を見回す。確かに、海外からの客人が描く理想の異国情緒だ。そう羅漢は思った。
 舞妓や芸妓が宴席の中心で楽しげに客を誘い、千鳥足が一つ二つと加わっていく。賑やかな声を聞き流しながら、美味しい料理だが甘味が食べたいなと箸を動かす。顔が見分けられないということは、醜美が分からないということだ。着飾った舞妓や芸妓を見ても、羅漢には違いがわからなかった。
 頬杖をついて退屈さを凌いでいたが、限界もある。気がつけば、仕事の業務確認の流れで立ち上げた携帯端末で将棋を打っていた。最近の将棋ゲームはプログラムと侮れぬ、鋭く強かな手を指してくるのが良い。碁はまだ未熟で、やはり人間を相手にした対戦が良いと思っていた。
「将棋がお好きなのですか?」
 ふと、肩に花の花弁でも落ちたかのような感触がした。花の香りが喧騒を遠ざけているのを感じる。傍に視線を向けると、鋭い視線が羅漢の手元に向けられていた。化粧を施して色の白い顔には、声色と同じく凍りついたような動かぬ表情がある。マネキンのような横顔だと思った。
「私も多少の心得があります」
 淡々と紡がれた言葉は、御座敷の賑やかさに備わっている愛想が欠けていた。しかし、羅漢は気にしない。今では最年少のタイトル獲得と賑やかなご時世ではあるが、羅漢の周りには将棋や碁を嗜む者はいなかった。オンラインに接続すれば直ぐに対戦相手は見つかるが、盤を挟んで相手の顔を見ながら打った記憶は社会人になってからはない。
「じゃあ、一局お願いしようかな」
 にっこりと羅漢は笑う。芸妓の娘は無表情で向かいに座った。


■ 既視 ■

 鳳仙という芸妓は『多少の心得がある』と表現するには、将棋も碁も上手過ぎた。碁に関しては羅漢も敗北を喫するほど。羅漢は久々に本気で対局できる手合いに、面と向かって指すことが出来る楽しさにのめり込んだ。酒も女にも興味がない、色恋沙汰に関しては堅物とまで言われた男が、芸妓と御座敷で会う。ゴシップ記事は存分に囃し立てた。
 一流企業の御曹司と、氷のような表情の芸妓である。シンデレラストーリーは年齢層の壁も打ち破って飛ぶように売れた。
 しかし、あんぱん片手に張り込むような記者とて、歯噛みせざる得ない。
 普通ならばラブホテルで時間差で入るとか、お忍びで別荘へ遊びに行くとか、連れ立って歩いてふとした物陰で唇を重ねたりとか、読者が色々と想像を膨らませる写真と記事が欲しい物だ。しかし、羅漢が贔屓にしている鳳仙という芸妓と会うのは、鳳仙が勤める高級料亭の御座敷だけ。見送りは料亭の玄関まで。客と従業員的な立場が鉄壁のようだ。
 勇気のある記者が、間違いを装って二人がいる部屋に突撃したらしいが、なんとタブレットを挟んで碁を指していたとか。スクープを掴めると勇んだ記者は、あんまりな結果に3日寝込んだらしい。
 それでも、話題には事欠かないのがこの業界。次の話題は、シンデレラにライバルが現れるのである。
「見合いですか?」
 一流企業の御曹司が、巨大銀行の頭取の娘と結婚秒読みという見出しは傍目からでも目に入った。
「えぇ。見合いです」
 碁石を盤の上に置く。今では勝負に集中したいからと、料亭の離れを借りるようになった。そのうち、タブレットでは我慢できなくなって、盤と石や駒を持ち込むようになった。その日の気分で碁か将棋かを選ぶ。対局は長く、明け方まで続くこともある。都会の喧騒は遠く、石や駒を置く音が響くだけの愛瀬はいくつもの季節に渡って重ねられていた。
 ぱちりと鳳仙が石を置く。鋭い一手に目を輝かせた羅漢だったが、話題を思い出して苦い顔つきになる。
「私が有能だと父親が今更判断したらしくて、私の結婚相手を見繕おうとしているんですよ。父親は血統主義なところがありましてね。どこの馬の骨ともわからぬ血が混ざるのを、良しとしないのでしょう」
 仕事の話を座敷に持ってこないのが、羅漢という男である。赤字経営の大手企業を再生させた、倒産の危機を回避させた、そんな華々しい噂は鳳仙の耳にも入っていたが、それを誇ることも語ることも一切しない。そんな態度を世間では謙遜と評価していたが、それは違うと鳳仙は思っている。出来る出来ないで判断する羅漢にとって、結果は出来るから成したという意味しか持たないのだ。呼吸するのと同じくらいの意味しか感じていない。
 だからこそ、羅漢が『したくない』と拒否したがっていることは、嫌なのだろうと思う。まさに、出来ないことなのだ。
 あまりにも嫌な話題だったのだろう。今までで手違いで運ばれた酒を煽ってしまって昏倒した以外で、初めて羅漢は手を止めてしまった。ため息はない。だが憂鬱そうな眼差しが、石灯籠が灯して照らした幻想的な中庭に向けられた。虫の涼やかな鳴き声が、部屋に流れ込んで一組の男女を包み込む。
「ご結婚なさるのですか?」
 静かな鳳仙の問いに、羅漢は頭を振った。
「いえ。海外に事業を展開する企画を通しました。数年間は、海外を転々とするつもりです」
 ゆっくりと石を持つと、ぱちりと盤の上に置く。陰鬱な様子でも差し手に一切の陰りもない。
「貴女との時間が持てなくなるのが、唯一の心残りです」
 ずっと、ずっと、この時間に溺れていたかった。そう男は呟いた。
「…羅漢様」
 声を掛けられ羅漢は顔を上げた。触れたら弾け飛ぶ鳳仙花のような人を寄せ付けぬ瞳が、真っ直ぐ羅漢に向けられていた。真一文字に引き結ばれ一度も緩んで弧を描くのを見たことはない唇は、それでも美しく綻んで言葉を紡ぐ。
 時折、羅漢は鳳仙の顔が見分けられるようになっていた。互いに盤上に視線を投げては面を上げぬ者同士、顔を突き合わせる機会は多くはない。それでも、思いがけないタイミングでマネキンのようなのっぺりとした白い碁石のような面に、息を飲むような美しい顔が咲いた。その条件は羅漢には全くわからなかったが、初めて認識した他人の顔は鼓動が一つ跳ねるほどの驚きが伴っていた。
「一つ、賭けをしませんか?」
 いつかは知らないが、聞いたことのある言葉だった。
 いつかは知らないが、言ったことがある言葉だった。
 盤上の遊戯は、丁度拮抗していた。


■ 夢現 ■

 芸妓も舞妓にも、やり手婆は言った。いや、婆は一言も言ってはいない。娘達が生まれるもっと昔から、語り継がれるように言われていた言葉だった。
 お前達は夢を客に与える者。一夜の夢を、蝶のようにてふてふと淡く輝き、花のように華やかに香しく客と共に歩まねばならない。ゆめゆめ、夢を見るなかれ。夢は現になり得ぬもの。現に夢の美しさは持ち込めぬ。だから美しく儚く尊い。
 男達が酔っているのは着飾った舞妓や芸妓。夢の世界に凛と咲く、触れることも届くことも叶わぬ幻の花。
 それでも、私はここにいる。
 将棋盤の前で燃えるように、思うことが多くなった。対面する男が駒を置き、ある時は石を置く。その男は幻と打っているわけではない。それでも、昔からこの男と勝負をしていた気がする。男は『勝負は必ず着くものだ』と笑っていた。
 私も男も夢じゃない。幻でもない。
 私は蝶でも花でも夢でもない。だけれど、手を伸ばせば触れられる男に、手を伸ばす勇気はなかった。現の世界に身を置いた男は朝方には街へ行き、世間を賑やかす報道の数々をしてみせる。遠かった。目の前にいながら、遥か遠くにいる気がした。
 夢を見るなかれ。
 あぁ、良いじゃないか。触れたって。良いじゃないか、夢を見るくらい。タダより高いものであっても、私には命を懸けるだけの価値がある。


■ 連絡 ■

 漢グループは老舗の大企業である。歴代の一族の長が社長となり、系列会社を纏めあげて牽引した。歴代の長達はそれぞれに個性的な天才肌で、長の趣向に合わせた分野が力をつけては事業を拡大していく。今では節操がないと言われる程に多彩な分野を網羅する、一つの国のような会社になっていた。
 今の社長は歴代の長達に比べれば、自分は凡人だと思っている。非凡な才能を持つ兄の方が、社長に就任するべきだと度々口にする。
 しかし、兄弟の親、会長がそれを許さない。幼い頃に他人の顔が見分けられないことで見限った兄を、父親は疎ましく思っている。才能があると渋々と認めざる得ない現状に、腸が煮えくり返って癇癪を起こしていた。弟は父も自分と同じ凡人なのだろうと思っていたし、父はそれを認めるのが嫌なのだと分かっていた。
 弟は色々と問題の多い兄のことが、好きだった。興味があった農業事業を展開したいと言って、賛同してくれた数少ない身内だ。農業分野を学習するために大学へ学びに行くのも、肯定してくれた。グループでは成長の望み薄い閑職と思われていた銀行事業を盛り立て、不甲斐ない社長の功績の一つとさせてくれたのも兄だった。
 今では世界中を飛び回っている兄だが、姿が見えなくても影響は台風並みである。
「兄さん、大変なんだよ」
 パソコンのディスプレイには、眠そうな狐目の男が映っている。時刻的には兄のいる国は夕刻だというのに、もう眠いのかと笑ってしまう。明け方のこちらのほうが眠い。しかし、笑っている場合ではない。
『どうしたんだ。会社が傾くような数字は確認できないが』
 向こうで経営状況を確認しているのだろう。軽いチタンの縁の眼鏡を掛けて、動く手元を凝視している。
「違う。経営のことで大変じゃないんだ」
『じゃあ、不祥事か? 汚職か? 着服か?』
 手元がさらに早く動く。ニュースや人事録を見ているのだろう。違うと言えば、じゃあ何だとこちらを向く。
「ゴシップ誌に兄さんの話題が出ているんだ」
『…ゴシップ誌?』
 数年前、兄が高級料亭の芸妓を贔屓にし始めた頃は、ゴシップ誌の記者に追いかけまわされていた。しかし、あの兄である。ゴシップ誌が喜びそうな話題など『全く』ない。ただでさえ国内にいない状況なのだから、意味が分からないのだろう。
 首を傾げた画面の向こうの兄に、弟は辛抱強く説明した。
「兄さんが贔屓にしていた芸妓が妊娠して引退するんだ。兄さんの子じゃないかって、大騒ぎなんだよ」
『はぁ? 妊娠? 鳳仙が…?』
 画面の向こうの顔が眉根を寄せてしばらくして、すうっと血の気を失った。心当たりがあるのか。弟は渋いものを口にしたような顔になる。それでも非難しても意味がないことを、覆水盆に返らずという諺の意味を弟は分かっていた。
「とにかく一回帰国してほしい。内容が膨らみすぎて、会社として記者会見が必要なくらいなんだ」
『なるべく、早く帰る』
 通信が切れて、テレビ通話のウィンドウが暗転する。ディスプレイに映り込む社長は、弟の顔で嘆息した。
 これは大事になると、一族では凡人でも一般的には秀才な弟は覚悟を決めた。


■ 再会 ■

 飛行機を乗り継ぎ帰国すると、空港は騒然としていた。有名な映画俳優のお出迎えみたいだと羅漢は思ったが、客室乗務員の誘導はどうにもそちらに向かっているらしい。羅漢の前には客実乗務員だけで、後ろには誰もいない。やはり、その夥しい人々を区切って開けられた空間に向かうのは自分らしい。
 あれから鳳仙に連絡しようとしたが、羅漢の手元には連絡手段が何もなかった。彼女とは電話番号もメールアドレスも何も交換しなかったし、彼女がSNSを利用しているという話も聞いたことがなかった。プライバシーの観点から、彼女の元仕事場は彼女の連絡先を教えてはくれなかった。
 帰国して先ずすることは、鳳仙に出会うことだ。羅漢はそう考えながら、故郷の地を進む。
 凄まじいカメラのフラッシュに目を細めた。再生不可能と言われた企業をV字回復させた記者会見よりも、凄いのではないだろうか。目が眩んでよく見えない。記者達がけたたましく質問を投げかけてきたが、いっぺんに大声で言われては何を言ってるか分からない。
 雪深い国のホワイトアウトの中を歩いているような気分で、羅漢は先へ進んだ。すると、光の中から誰かが浮かび上がる。見覚えのあるシルエットだった。鮮やかな鳳仙花の和装。腰まで流れる艶やかな後ろ髪を、真珠の髪飾りでゆったりと結って前に垂らす。品の良いマニキュアで彩られた指先はぴたりと重ねられ、出迎えるように羅漢の前に立っていた。
 鳳仙は美しい顔を凍ったように微動だにせず、目の前に立ち止まった羅漢の前でお腹を摩った。和服では目立たぬが、妊娠していると分かっているならば、その膨らみを見分けることが出来るだろう。
「貴方の子です」
 目を見開いた羅漢に、鳳仙はひらりと紙を差し出した。「これを」そう鳳仙は愛想なく促した。
 受け取った羅漢は、予想だにしなかった物を見るように驚いた。
「婚姻届?」
「今直ぐ、ご記入ください」
 夫となる者の署名以外が記載された婚姻届を、舐めるように見ていた相手が顔を上げる。開いた口が塞がる暇もなく、鳳仙の言葉を聞いた。女性の顔は無表情のまま男の驚いた顔を見ている。
「え。ここで、かい?」
「えぇ、ここで。ボールペンをお貸ししましょう」
 ひらりと赤く彩った爪先が、ボールペンを差し出す。受け取った男は書くべきテーブルを探して視線を巡らせたが、周囲はフラッシュの嵐。白い世界の向こうには黒々と人集りができて、通り抜けることは出来ないだろう。仕方なく、羅漢はキャリーケースに婚姻届を載せて署名をする。
 署名をしたのを確認して、鳳仙は婚姻届を回収した。丁寧に折って、懐に差し入れる。
「羅漢様、私は今から貴方の妻です。貴方の隣に立って、貴方を支えます」
「え。しかし、私は今、海外で働いているのだよ。身重なら負担になるのではないのかい?」
 驚いている間に押し切られるように署名してしまったが、妊娠中の女性が同行するという事実にようやく頭が回り出した。しかし羅漢の言葉に、鳳仙は胸元からパスポートを取り出して見せた。明言する必要はないかもしれないが、この女性は全く笑っていない。唇の端すら持ち上がらないので、取り巻いた人々はあまりにも異質なやりとりに困惑するしかできない。
「秘書がいないのでは、格好もつきません。妻として夫に恥を欠かせてはならぬと、思っておりますから」
 そう言いながらパスポートを仕舞った身重な妻は、夫になったばかりの男に並んだ。
「先ずは、このまま役所に婚姻届を提出しにいきましょう。私の手が掛けやすいよう、肘を軽く曲げてください」
「提出はわかるけど、手を掛けるって、必要なのかい?」
 妻とは反対側にキャリーケースを持った夫は、首を傾げた。よく分からないと、その顔に書いてある。女心の分からぬ男と罵られ張り手ひとつでもかまされてしまう無神経な問いだったが、笑わぬ妻は冷静な声色で答えた。
「身重な妻を転ばせてしまうような恥を、公衆の面前でかかせたくはありません。転びそうになったら、貴方を支えにします。だから、少し身を寄せますし、腕に手も掛けさせてもらいます」
 羅漢はあっさりと納得した。独特な感性と、女性への対応の無知と、鳳仙の説明が『そうなんだ』という形に結びついた。
「こんな感じ?」
「それで良いです。参りましょう」
 軽く曲げた腕にするりと手が滑り込む。もう、フラッシュの嵐の中を物ともせず、空港の出口を目指して、たった今夫婦になった二人は歩き出す。そんな夫婦を記者達は呆然と見送るしかなかった。聞きたいことは全て二人が見せつけたのだから、誰もこれ以上問うことはできなかった。
「もう少しゆっくり歩いてください」
「うん。わかった」
 その様子は生中継で全国に放送され、変人と氷の美女のハッシュタグができてトレンド一位を独占した。


■ 表現 ■

 漢グループが所有する私立病院の長をしているのは、会長の弟である羅門である。若くして海外へ留学し第一線に立ち続けた名医だ。羅門を疎んじている会長が帰国を許さなかった時には、スラム街で予防医療を指導する傍らで生活資金を得るために海外の病院で執刀もしていた。その技量と温和な人柄と膨大な知識から、世界中でも高い評価を得ている。
 そんな羅門が帰国して病院を任されることに一番喜んだ甥は、この病院の設立資金の大半を工面してしまった。
 新しい清潔感のある個室のベッドに、鳳仙は座っていた。和装は解かれて、ゆったりとした病院でレンタルした服を着ている。身篭ってから一度も診察を受けていない身である鳳仙に、羅門は数日に渡る検査プランを立てた。尊敬する叔父の言うことと、羅漢も説得に回られてしまえば断ることなどできようか。諸々の検査予定を説明しにきた羅門の顔は温和で、困ったように微笑む顔は夫になったばかりの傍の男に似ていると鳳仙は思う。
 悪阻の時期は過ぎ去って安定期に入っている鳳仙は、暇な時間を持て余していた。羅漢はサイドテーブルを引っ張ってきて、タブレットを挟んで碁に誘った。
 鳳仙はすっと視線を向ける。スーツ姿で向かい合い、盤上を眺めては顎の無精髭を撫でて唸る羅漢がそこにいる。
 役所に書類を出し晴れて夫婦になった二人だったが、その経緯はゴシップ紙に書き立てられており看護師達も噂話をひそひそと交わす。客と芸妓の立場からデートも告白もすっ飛ばして、妊娠を突きつけ婚姻届にサインさせたのだ。影で囁かれるのなど、承知の上だ。金目的と誹られるのも目に見えている。それらは、些細なことなのだ。
 この人は、夫だ。私の夫になったのだ。そう、鳳仙はお腹を撫でる。
「正直、一生、結婚なんてものに縁がないと思ってた」
 ぽつりと羅漢が呟いた。珍しい。集中しだすと、言葉数が極端に少なくなる人なのに。鳳仙も口を開く。
「私もご縁に恵まれないと思っていました」
 互いに夜を通して向かい合っても、甘い話題も無かった。羅漢は浮いた話ひとつなく、仕事の話もしないので、結局交わす言葉も少なく盤上の遊戯に没頭する。鳳仙は愛想がなく当たりもキツく、気の利いた話題をするほどの甲斐性もない。だから、羅漢と過ごす時間は居心地が良かった。
 この時間がずっと。これからもずっと続く。鳳仙はじわりと熱を帯びるのを感じる。
「その、婚姻届も出したし、子供も授かってから言うことではないのだが…」
 羅漢がゆるく微笑んだ。狐のように目を細め、困ったように眉尻を下げ、力を抜いてうっすらと開いた唇が少しだけ持ち上がっている表情が向けられている。どういう気持ちで氷のような顔の娘に微笑みかけているのだろう。鳳仙はそう思う程度に、自分の顔が動かぬことを知っている。
 告白だろうか。私と結婚してくださいと、月並みの言葉を言うのだろうか? 座敷の見習いの子供達が喜びそうだ。
「これから毎日、鳳仙と碁と将棋が打てると思うと嬉しい」
 鳳仙は唇の隙間から、喉の奥から漏れた熱い溜息が流れ出るのを意識した。
「普通は、結婚の申し込みを正式にするべきです」
 なんて可愛らしくない嫁なのだろう。そう鳳仙は呆れたが、自分らしいとも思った。これ以外の言葉が、全て嘘臭く思える。本当を紡げたとしても、言葉にした途端に安っぽく陳腐なものに成り果てるのが嫌だった。本当は、自分の胸に秘めているのが一番輝かしく、一番望んだ形を止めていた。
 羅漢は困ったように眼鏡を外して拭いた。帰国の道中に結婚指輪すら用意しなかった甲斐性無しに、結婚の申し込みを改めてするロマンを求めてはいない。
「そうなんだろうけど、君が妻になるよりも、君とこうして碁と将棋が打てることの方が嬉しい」
 にっこりと笑ってタブレットの上に指を置く。指先に碁石が現れて画面の上に固定される。
「なぁ、鳳仙。これからも私と、碁を、将棋を、打ってくれないか」
 そう願っているのは、私だ。そう、鳳仙はお腹をさする。
 彼と過ごす時間に溺れていたかったのは、私だ。ずっとずっと続けと願って勝負に出て謀ったのは、私だ。この子には悪いことをしたけれど必要としてしまったのが、私だ。愛し方どころか笑い方すら知らない私に代わって、目の前の人には私を愛して笑って欲しい。貴方が愛せば、貴方が笑えば、私が愛したことと、私が笑うことと同じ意味になる。
「元より、そのつもりです」
 あぁ、貴方を私のものにできて、幸せです。
 その言葉を一番正しく表現できるのは、唇から漏れた熱い息だけだった。


■ 今後 ■

「まおまお。可愛いねぇ」
 羅漢は鳳仙の腕に抱かれた小さい命に、終始笑みを溢し続けていた。ちょいちょいと指先を手に向けて、小さい手から逃れたり捕まったりするのを、さも楽しげに繰り返している。盤上なら視線を向けても良いが、子供から視線が戻らないのは少しばかり釈然としない。鳳仙の眉間にうっすらと波が立っているのに、父親になったばかりの男は気がつけていない。
「鳳仙に似て美人さんになるだろうね」
「子ばかり構わないで、妻を労ってください」
 北風の声色が至近距離で髪を揺らしたので、羅漢はぱっと顔を上がった。互いの息が掛かってしまう程の距離で、狐目が見開かれる。そうだ、出産とは大変なことだったと今更ながらに気がついたような顔だ。鳳仙の夫はそういう男である。
「私の手を握って、微笑みかけて、私に感謝を述べてください」
 求めている。欲しいのだ。鳳仙は自分の言葉に驚いていた。目の前の男の言葉が欲しかった。どんな言葉が掛けられるかは予想の範疇から出ることもないくらい、解り切った相手だ。解り切っている。こんなことを言うだろう、思っているだろうと知っていながら、言葉で欲しい。驚くべき主張だった。
 鳳仙の言葉に羅漢はキョトンとした顔をしたが、間を置かずして頷いた。細身だが男故にそれなりに無骨な指先が、そっと鳳仙のほっそりとした手を取った。子供のお腹に添えられた手を包み込み、羅漢の淀みない言葉は歌のように紡がれる。
「ありがとう、鳳仙。君と猫猫と、一緒の時間を過ごせることは私の幸せだよ」
 手が燃えるようだった。火は全身に燃え広がり、自分と我が子を燃やしてしまうほどの熱を持った。それは幻だ。鳳仙は己に言い聞かす。小さく息を吐き、伏し目がちに目の前の夫に言う。
「それで、良いです」
 変わらぬ声色が鳳仙から紡がれる。しどけない様子で視線を向けてくる女性は、まるで美術品のように美しかった。血の気が失せたような白い顔が、そう思わせるのだろうと羅漢は思う。
「できるかぎり、ずっとそうしてください」
 手が、握り返される。
「そうすれば、私が報われます」
 報われる? よく分からないな。羅漢はそう首を傾げた。
 それでも、そうしてくれと願われれば拒む理由は何ひとつない。手を握って労いの言葉をかける。それが、子を産んだばかりの女性に対して必要なことなのだろうと、鳳仙は言っているのだと受け取った。その言葉ひとつひとつが、鳳仙の心に火を放つ恐ろしい火矢であるとも知らずに、羅漢は優しい声色で話しかける。
「鳳仙、いつもありがとうね。落ち着いたら一緒に仕事に行くんだろう? 楽しみだねぇ」
 最初は国内で仕事をして、猫猫を連れていって良いと言われたら一緒に海外に行こう。そういえば、鳳仙は海外には行ったことないんだっけ? それどころか国内旅行も、そんなに行けてないんだよね。良い景色やおいしい料理、いろんな人間、たくさんあるよ。楽しみだねぇ。
 語りかけてくる夢は甘い。それでもそれは夢じゃない。夢のような現なのだ。
 せせらぎのように絶えることなく、淀みなく続くものだから子守唄のようだった。窓から差し込む光は眩しく一つの家族の影を溶かし、カーテンを揺らす風は柔らかく愛撫する。微睡む意識の中で、暖かい熱と、愛しい声と、幸せな未来の予感に、鳳仙は思わず唇が持ち上がるのを感じていた。