緩く考えるシリーズログ1


■ 『絵と文章』について緩く考える ■

□ 絵とは特別な人が描ける、特別な表現方法なのか
 絵は線一つ、色一つ、どれをとってもセンスに依存します。
 描き手によって、如何に似ようと同じものは決してありません。どんなに似ていようと間違い探しのように、間違いを見つけられ違いを共有しやすい。それが絵の特別感を生み出しています。
 また、絵は上達にあたっては情熱と努力と果てしない時間が必要になります。これを費やせる人物はそう多くありません。それを認識するのは大変容易い為に、多くの人々が『絵が上手な人は多くの練習を積み重ねた。才能がある』という事を理解する事が出来るのです。
 結論を申せば、絵は特別な人が描く、特別でかつ共有認識し易い表現方法と言えましょう。
 それが特別な人が描けるという認識につながっていくのだと思います。

□ 文章とは誰でも書ける表現方法
 文章を構築しているのは、誰もが日常的に用いている言語です。日本人なら日本語を使って、文章を構築しています。
 文章は誰でも書けるのです。むしろ書けないと困ります。脳内で文章を構築できなければ会話ができませんし、外部に書き出すという行為は仕事の業務などで必須の技術と言えましょう。文章は誰でも書ける。それがセンスに依存し、上達に努力や情熱が必要な絵とは明らかに違う事なのです。<
 その為に誰もができるからこそ、文章を軽られるのでしょう。
 しかし、実際に書いた方々は分かると思いますが、文章と小説は別物です。
 絵のように立ち絵だけでも様になるものでは、文章はありません。俳句のように短ければ簡単という訳ではない。短ければ短いほど奥深く、長ければ長いほど空のように広がるのです。そう、文章から一つ上の段階に進んだ先には、ただ言語を繰り業務や会話をするのとは別の世界があるのです。
 しかも、世の中というものは狭いもので、テンプレートというものがあるのです。
 結婚式の時はこう言うものだ、と狭められた表現。二次創作なら原作の流れを踏襲する。報告は5W1H。小学生の時に書いた感想文、こう書けって感じがありましたでしょう? 文章というのは誰でも書ける上に、テンプレートまであるのでそれなりの形にできてしまうのです。
 こんなんで文章の特別感を感じろとか、無理でしょう。

□ 文章の特異性
 しかし、特別でないのなら、何故支持され人々の娯楽として成り立つのか。
 一つの部屋を描写するにあたって、その着眼点は十人十色同じ人などおりません。好きなジャンルによっては推理ものなら細々とした事が、恋愛等なら部屋に入った時の心理描写と枚挙に暇がありません。たとえ兄弟でも、双子でも、違うのです。
 文章その人だけが持つ、らしさを描く事が出来ると思っています。そして、それは絵のセンスよりも容易く実現できるのです。
 しかし、受け取り方は読み手の想像力に依存します。仮に山の絵が目の前にあったら、新緑の山か紅葉の時期かなんて見えれば誰もが共有できます。しかし文章は違います。山の高さ、緑が豊かか紅葉してるか実は禿山か、どんなに事細かに書いても読み手の頭にはどれ一つ同じものは浮かびません。
 裏技的な存在として、挿絵や二次創作があります。それは絵や原作という補完があって、読み手の情報を統一することができるのです。
 絵のようにぱっと一目で全部わかるものではなく、文章は読むという手段を経なくてはなりません。
 文章は絵のように誰もが理解してくれません。故に軽んじられるのです。
 しかし、文章は絵には無い深さがある。その深さが生み出す感動は、書き手と読み手の共同作業となる事でしょう。

□ 文章の特別感とは
 小説を書き、その奥深さを知った方々は戦慄する事でしょう。文字の羅列と組み合わせ、物語の生み出す迷宮のごとき世界。誰もが踏破することのできぬ、果てしない旅のようです。書いても書いても答えなどない、上達ってなに美味しいのって思う事もある事でしょう。絵のように見本なんてありませんし、手本にするべき偉大なる小説家は自分とは違う人生を歩んだ方、当然先生の言葉を借りたってしっくりする筈がありません。さぁ、どうする。あがくしかねぇ!と自分との果てしない戦いが始まるわけです。
 文章とは拙かろうが、上手かろうが、その人らしさが現れるのです。
 文章はその人の人生を紡いでいると言えるでしょう。筆者の価値観、考え方、捉え方、その千差万別さが文章に現れるのです。
「この文の感じは○○さんだ」
 そう感じさせる、力があるのです。
 凄いですよね。誰もが使う、ごくごく一般的な日本語に、個人の雰囲気や感じが乗っちゃうんですよ。タダゴトじゃあないですよ。
 ここまでくると、皆さんも文章って小説ってやっぱ特別なんだなって思うんじゃないですかね?


■ 『感想文の形式』について緩く考える ■

□ 感想とは
 皆さんは感想がどのようなものだと思っているんでしょう?
 創作への燃料、貰って嬉しい反応、それぞれだと思う。でも、私は感想はその言葉の通り「作品を見た時に感じた事」で良いと思うのです。相手に喜ばしたいとか、じゃなくて「自分の想いを伝える」これに終始して良い事だと思うのです。のですのです言いますが、大事なのは心っす!
 どんな事を書くべきか。
 ここで例えるのが畑の話です。
 さぁ、皆さんの頭の中に耕された広大な畑がございますよ。その畑に、貴方が読んで見た作品が種となって植えられます。さぁさぁ、実ってまいりますよ。双葉になってにょきにょき育つ。野菜でも果物でもなんでもいい、その実りが想いです。

□ さぁ、贈ろう!
 ここで初っ端!『採れたてフレッシュ勢』!
 泥に塗れていようが勢いと反応の早さで、作者に全速力でお届けするファン。『ものごっつもえますぅぅうううううう!!!』とか「ひゃあああああああ//////」とか言葉にならないで、ツイッターや拍手なんかに流しちゃう!
 イインダヨ!オールグリーン!その萌え滾る情熱!確かに受け取ってくれる!

 だが、ここではっと常識によって理性を取り戻すのが、『自己流調理勢』!
 その採れたてフレッシュ!確かに新鮮だけど泥付いてるし、箸もないし手掴かみ!?皿にも乗ってないし、作者様にお届けするのはちょっと抵抗がある!という常識的観念で感想を綴る者達だ!
 流石に泥大根持って感想と投げつけられるのは、作者様と仲の良い状況でなければ出来ないと思うのは当然!
 洗って、自分なりに料理して、作者様に粗相がないように整える
 いやぁ、もう、その行程を考えるだけでおっさん涙が出ちゃうよ。おっさんの為にそんなに頑張ってくれる!もう、その心だけで十分に伝わるよお腹いっぱいだよ…!
 とはいえ、感想を贈る側はこんな自己流の調理でご満足頂けるかと不安になる事でしょう。大丈夫。貴方が心を込めて調理したものは必ず受け取ってくれる。これで満足出来ないとか言うなら、相手はよっぽど肥えているんでしょう。味覚が違うんです。貴方の非じゃない。

 さらに自己流で不安が拭えない者達が辿り着くのが、『レシピ調理勢』!
 感想の書き方のお手本的内容は、ネットを探せば簡単に見つけられます。それに沿った書き方です。まぁ、アレですよね。結婚披露宴の仲人さんみたいに、空気壊さないよう無難な言葉で出来た構成だと思いますよ。
 それでも、作者さんはその型に嵌った構成よりも、貴方の感じた部分を抜き出して読んでいる事でしょう。

 「面白かった」その一言だけでも良いと思うのです。
 なにせ、読まない見ない人は『面白かった』の一言も出ないからな!

□ 番外編
 新生、『調理指定勢』。最近見かけた新勢力。
 調理指定勢は、感想を贈る側ではなく、感想を貰う側が調理方法を指定します。
 贈る側は貰う方に喜んでもらうという思いが少なからずあるので、当然この料理方法の指定に添うよう努力する事でしょう。ただ今まで野菜炒めくらいしか作った事無いのに、フレンチフルコース作ってね?って言われて出来ますか?
 第一、採れたてフレッシュな感想を最大限に生かすのは、収穫した本人のみだと思ってる。
 指定される事で、そのフレッシュ感はガンガン失われて行く事だろう。あぁ、なんという損失!俺はフレッシュ派だってのに!
 ならば、この調理指定勢は何を求めて調理方法を指定しているのか。恐らく、調理方法を指定する事で、指定勢が知りたい事を効率的に感想に示してもらおうとしているのだろう。
 料理指定勢については、指定はあくまで『お願い』程度の効力しか無いのだが、感想を贈る側にしては神の言葉に等しき事。あまりに高難易度の調理をご希望の相手であるならば、感想を書く事が苦痛になるならば、そっと胸に秘めるのもありだと、私は思ってます。

 誹謗中傷系が実ってしまった場合は、あらゆる発言を行なう前に3回の深呼吸と冷静な分析を行なって下さい。冷静な分析、第三者の意見は誹謗中傷の毒素を抜いて指摘になる事もあります。ただし、指摘は感想とは違うもの。受け取る側の反応も決して良いものではない事は、覚悟するべきでしょう。

 また見返りを求めるような感想も控えるべきでしょう。
 感想を送ったんだから、見返りに好きと連呼したキャラが活躍するかも、もっと書いてもらえるかも!とかは思ってはなりません。それは感想ではなくリクエストです。ツイッターでは、絵を上げた傍から返信で自分のオリキャラ載せて感想を引き出すような方もいましたからな。作者さんも人間ですので、見返りを求める姿勢は案外透けて見えてしまうものです。嫌われちゃっても、知らないぞ。

□ 最後に
 皆、感想 書こうぜ! 言わなきゃ伝わらないからさ!
 そしてこれは『『個人の感覚』』だ!
 丸呑み厳禁だぞ!


■ 『サイト』について緩く考える ■

 大都市ピクシブも超巨大情報網ツイッターにも、その作品のファンアートはない。
 もう古の作品だと尋ねた者は皆笑った。検索結果はいつも零。
 滅茶苦茶な道を選び帰り道も見失った時、すれ違った辺境の人は笑った。
 あぁ、その作品知ってるよ。
 指差した先はサイトという場所らしい。私は楽園の扉を見つけた

 という呟きをしたんですが、そんな事を言えちゃうくらいにサイトってインターネットの世界では隅に追いやられたなという気がします。私がサイトを設立した時は、同人界隈の発表の場は確かにサイトが主流でした。
 その後はPixivが絵だけではなく小説も扱い始め、Twitterが勢力を伸ばし、小説になろうから、多くの作家が商業デビューしていきました。

 実際に私はあんまり行動範囲が広いわけではないので、ネット全体の動きをどうこう言えるほど知っちゃいません。ですが、ピクシブは確かに多くの人の目に触れる、検索にも蔵書量にも秀でた図書館みたいな存在になっています。Twitterは確実に様々な人と繋がって拡散ができる、情報収集にも広告にも秀でた存在です。
 ブログもやや廃れ気味ですが、やはりブロガーって言葉はちらほら聞けるのでHP程に勢力は失っていないでしょう。
 wikiなんかは個人で作れる時代になったので、一部の方々には重用されているようですね。
 スポンサーという後ろ盾のない個人のサイトなので、追いやられるのはやむなしという感じはします。

 しかし、優れているから良いことばかりではないと、私は思っています。
 ツイッターは消費されていく娯楽です。宣伝力は随一ですが、膨大な受動的に流れ込んでくる娯楽を見て、心に留める事は難しいことでしょう。
 自分がチケット買って見に行った映画と、テレビをたまたまつけていて流しっぱなしの時に映り込んだロードショーではどちらが心に残るかは明白であるのと同じです。また、本家の画像をパクってパクリでも楽しけりゃいいなんて、心ない人もいて作品が大事にされていない界隈だとは思っています。全員が全員ではなく、つぶやく全てが推しキャラという愛情がやばい人もいますが、それを差し引いてもツイッターは消費されていく娯楽。作品を載せる場所として第一候補にあげるべきではないと思っています。画像も荒くなるし(重要)
 ピクシブは友人曰く「メインじゃない作品を見てもらう場として優秀」とのことで、サブジャンルとかを誰かにお届けしたい時にはとても良いでしょう。
 皆が集まって閲覧する図書館みたいな場所なので、本当に様々な人に見ていただけます。人によっては評価のカテゴリーが負担になるので、私はやや放置気味ですが、それくらいの距離感が良いのかもしれません。

 サイトは自分のための工房という感覚です。
 やや独立性の高い世界だからか感想もらえないし反応ないし、一人遊び感はハンパない世界でしょう。
 さらにメールを取得し、サーバーを借りて、作品を作り、HTMLを組み、FTPソフトを介してアップロードをしなくては更新すらできないのである。今の稲野はブログの広告の煩わしさが酷くて、サイトだけでなくブログも年間費を支払っています。
 さて、今では無料で作品が簡単にネットに上げられる時代です。個人サイトの運営は大変なのです。
 でも、こんな環境は大事だと思ってます。
 稲野は目的に至る為のアプローチの環境にそれなりにこだわります。
 例えば、こんな話が読みたい気分ーってなった時に、本棚がすごく乱れていて整理したい気持ちだったり乱れて嫌だなーって思いで、読みたい気分が削がれるのがとても嫌なのです。
 サーチエンジンの登録ひとつとっても、かなり厳選します。雰囲気はもちろん、検索の幅や、システムデザインとかを比べた上で登録します。わかりやすいシンプルな傾向が好き。
 これが今主流で便利な創作コミュニケーションサービスである某シブや某なろうや某メルンにも当てはまるのです。この作者は面白いか、玉石混合の中から探し出す楽しみがあるのはいい事だと思います。しかし、そこへの至る手順が雑多になる事がストレスに感じる事があります。新しい作品はないか、出会いを求めて右往左往する間も、同じ画面を何度も見るような環境も疲労します。たくさんの作品が一堂に会する環境は確かに魅力的ですが、作品に至るまでの箱はとても個性に欠ける。それはサービス上仕方のないことではありますが、個人サイトの空気を吸って生きてきた私には感じざる得ないものです。

 その点、自分でサイトを作るんだから、好きにできるのはとても強い。
 近年改装もした事ですし、見た目もスマートフォンに対応したスタイリッシュなデザインです。これもデザインを貸していただいたdo様のおかげです。さまさまです。
 どの作品も稲野が作ったものなので、説明もたくさん省く事が出来ます。作品量が多くても1ページにぎゅっと目次として詰め込むこともできる。
 作品数が増えれば増えただけ管理が楽だと実感するのも、個人サイトの強みだと思っております。前回の改装の時にアップし直したファイル数は300を超えていることでしょう。正確な数字は今もよくわかっておりません。改装前に削除したファイルは500くらい行っていて、驚いた記憶があります。膨大なファイルをワンクリックでアップロード・消去できるFTPソフト痺れる!ってなります。
 自分の好きなデザイン。自分が描いた自分が納得できる出来の物語。リンクで繋げさせてもらっているサイト様。自分の家感があるサイトが本当に好きです。
 作品があって、日々の日記的な近況が書かれて、運営してる人の尊敬してる人へのリンクがあって、本当に一つの場所でとても充実している世界です。っていうか、運営者ワールドが詰まってる感じで、ブログを更新しているだけで楽しいです。同じサイトは二つとない。とても素晴らしい世界だと思っています。
 確かにコミュニケーションサービス媒体に比べれば、人は来ないし反応も直ぐではないし、たくさん感想も貰えないとはわかっていますが、それ以上に自分の好きで趣味が謳歌できることが楽しいです。だから今もこうして続いているんだと思います。
 真っ白いキャンバスに心赴くままに色をつけるが如く、世界を作れるって良いと思います。

 大事なのは自分の創作に適したバランスで、様々なサービスを選んで利用することだと思います。賢く使って、要領よく創作に生かしていきましょう!
 皆様の創作活動に、光あれ!


■ 『執筆方法』について緩く考える ■

 最初はDQの執筆から語っていきましょうか。
 私は自分のDQ執筆を『朝の連続ドラマ方式』と思っております。
 というのも、DQは一つのイベントが長くなってきている傾向にあります。一つのイベントに対して、お使いを求められる場合が増えてきました。問題の元凶であるボスを討伐する前に、その問題点を探るための調査や、キーパーソンの治療や救助などのためにどこかへ赴いたり材料集めを行うことが増えてきました。これは、DQのシナリオ容量が増え、よりドラマ性が増したことが理由でありましょう。
 ドラマ性が増したゲームでは二次創作の冒険譚は大分オリジナリティが減っていきます。ドラマ性が増すということは、作品で通過しなくてはならないチェックポイントが増えるということになり、チェックポイントが多ければ多いほどに『ゲームの物語を追って行くだけの物語』になっていきがちです。
 ロトシリーズのような必要最低限のシナリオでは、二次創作の仲間たちの掛け合いや仲間たちの過去が物語に絡みます。勇者の仲間がジパング出身なら、卑弥呼と関係があるとかそんなオリジナル設定です。このチェックポイントの少なさを執筆者の制作キャラのドラマで補うことで、ドラマ性を生み出すのです。
 とはいえ、最近のDQでオリジナル設定は必要ないかといえばそうではなく、『主人公は貴方自身』という公式の姿勢が揺るがない限り、どんなにドラマ性が増したとしてもオリジナル設定は必然的に生まれるのです。しかし、二次創作で冒険譚をやっていると、ゲームのイベントを無視した進行は深刻な矛盾を生み出しかねないのでできません。
 しかもシナリオは一区切り長い。私はあんまりにも長い話を書くのは、好きじゃないです。
 そこで生まれたのが『朝の連続ドラマ方式』。
 これの元は昔7竜でやっていた20分執筆チャレンジなんですが、これをやる際に大きく長いイベントを執筆するのに物語を細切れにすることを覚えました。DQでも、物語を細切れにすると、たくさん通過しなくてはならないチェックポイントですが『今日はチェックポイント1へ向かうまで』『明日はチェックポイント1のイベント』『明後日はチェックポイント2へつながる話』とその細々としたところで起承転結みたいなものが見えるようになりました。
 これらを積み重ね長い一つのイベントを完結させます。
 ただし、稲野は長い話を書くのは好きじゃないです。
 そのため、一つのイベントに対して執筆の範囲を決めることが何よりも大事になっています。
 つまり『町に到着』『町の混乱や問題の認識』『問題への対処』『ボス攻略』『攻略後の町のその後』とざっくり分けられるイベントの流れですが、これのどこから始めるか、もしくは終わるかが大事です。だいたい私は『町の到着』は省き、『問題の対処』をしている流れで読者の皆様に問題を認識していただきつつ、ボスを転がします。
 この範囲が狭ければ狭いほど、チェックポイントは少なくなるのでドラマ性を挟むことができます。
 一番、露骨な例えで見せるならDQ9『切なき想い』は初っ端からボスダンジョンの前からスタートで、サンマロウでのイベントは切捨てです。ただし、誘拐されたお金持ちのお嬢さんがいる、助けに来たという流れを会話から知ることで『問題の認識対処』が提示できています。そしてなんと、この話『ボス攻略』『その後』がないです。ボスは倒されるって流れさえ見せれば、ボス攻略なんて必要ないという稲野のものぐさの集大成です。そのかわり、この話は主人公であるアインツとサンディの会話が中心で、非常に悠久の旅団の話の核心に触れています。つまり冒険譚としては薄いでしょうが、ドラマ性を盛ったお話となるのです。
 二次創作とは原作と、二次創作の執筆者の個性であるドラマ性のバランスが大切だと思っています。どちらに偏ってもイイ作品にはなりません。原作に忠実過ぎれば『プレイ日記と変わらない』、執筆者の個性が強すぎれば『この原作でやる必要はない』となるのです。いかにバランスよくできるかが、難しくも楽しいところでありましょう。

 逆に星のカービィ系はとにかく『ボス攻略』しかないくらいチェックポイントありません。ぶっちゃけ困ります。
 星カビ系で私が重点を置いているのは『物語の要』です。
 全ての話には『物語の要』があるのですが、カービィはチェックポイントの少なさを『要』への布石で補う必要があるので特に重要です。ちなみに完結した初代の話の要は『大王は悪いやつじゃない』です。この要で統一感を出すために、布石や演出を作り出していきます。
 チェックポイントがないので『朝の連続ドラマ方式』が使えません。一気に流れるように完成できるかどうかが、出来具合の良し悪しに直結します。ただし、この星カビ系は細かい設定がないぶん、短い話やオリジナル設定『ポップスターの名所シリーズ』とかに発展できるので、DQにはない世界観を作り出す楽しみがありましょう。

 TOV小説などは逆にチェックポイントがなく、『こんな話が書きたい』という核の部分を中心に物語を構成します。お弁当でいう 卵焼きが好きだから卵焼きしか食べない みたいな感じです。
 『こんな話が書きたい』が思い浮かばないと、全く書けない類の話であります。『こんな話が書きたい』を最大限魅力的にするために、一つの話を構築して行くタイプの執筆を求められます。これが一般的な二次創作の書き方なんだろうなぁ、とか思って楽しく執筆してます。
 発狂するような爆発的執筆はこの形式となることが多く、これらを連ねて世界観を深めていく執筆形態といえましょう。


■ 『新しい小説の常識』について緩く考える ■

2022年末。とある大御所小説家が申された。
『作家志望の若い人が「知識がない方が自由に発想できる」と言いながら、書きたいファンタージーがファミコン(昔なんで)のドラゴンクエストの亜流ばかりということがございましてね。
息の長いファンタジー作家がどれだけ勉強しているかを目の当たりにしている人間としては知識は必要という立場。』

これを読んで、稲野は思いました。
確かに、異世界転生系はステータスウィンドウが出てきて、ステータスが見れる。全ての世界観の根底にあるのは、ドラゴンクエスト的な日本製RPGなのだ。
しかし、名前の上がったドラゴンクエストの二次創作において、ステータスウィンドウが登場するものは見える限りない。キャラ紹介などで出てきたり、公式では蒼天のソウラ内でゲーム要素が出てきた時にステータスというかキャラクリエイト的なゲーム的表現がありました。
ちなみにドラゴンクエスト二次創作をする人々が、ステータスを含むゲーム的表現を認識していなかったと言うとそうではない。某盟主殿が『ステータス画面や値を物語で実際に出したら負けだと思っていた』と言っていたので、二次創作内でゲーム的表現を出すことは、二次創作をする人々の中には選択肢として確かに存在していたと言うことになります。
ただし、ドラゴンクエストの公式小説が先駆者として後に続く同人物書き達を牽引したとすれば、公式小説でステータスなどが出なかったことから、ステータスを含むゲーム要素を物書き達が使用しなかったとも言えます。ちなみに稲野は公式小説DQ5が初めてのドラクエ小説だったんですが、その完成された世界観や表現から、自分が二次創作する上でステータス的な要素を使おうなど想定すらしていなかった。逆にDQ7の土門氏がゲーム要素を、歴代の公式執筆者に比べ盛り込んだことに新鮮さすら感じています。
この風潮は電撃系にも伝わり、テイルズなどの公式小説もステータス数値などは出ていません。ただ小説ドラゴンクエストと異なり、かなり詰めてはいるもののゲームストーリーを忠実になぞる小説を書いている印象です。

ゲームの中の物語を語るドラゴンクエスト。
ゲームのシステムを組み込んで物語を語る最近の小説。
これは何が違うのか。
私は、ドラゴンクエストを筆頭としたRPGが常識として浸透したことが原因だと思います。

特にドラゴンクエストは日本製RPGの基礎を作り上げたと言って過言ではない。人と話して情報を集める。武器を装備する。魔物と戦い経験値を貯める。宝箱の取り方、階段の上り下り、全てのRPGの基本がここにあります。
これらが数十年の年月を経て、日本人の常識となった。
常識となると何が起きるのか。
説明しなくても理解してくれるようになります。
防御がカンストどころか枠を超えたあり得ない桁数になっていると表現するとして、読んだ読者は『防御力がとんでもない=攻撃が入らない』と理解してくれるようになるのです。そこに説明は一切ないとは言い切れませんが、かなり省かれていくことでしょう。
さらに異世界転生者がほとんど混乱しない原因が、この浸透した日本製RPGの常識。武器と魔法を難なく理解し使う。ステータスと唱えてステータス閲覧できるの、毎回笑ってます。採取した草が薬草であると認識できるとか、トルネコの大冒険におけるトルネコすら凌駕しています(トルネコの大冒険の高難易度ダンジョンでは、草を食うなどして鑑定する必要があったりします)
とにかく、この常識に依存し、世界を描いているのが異世界転生モノには多い。
正直、ドラゴンクエストの二次創作よりもドラゴンクエストしてると言って良い。

しかし、最近の小説はなぜ、このようなゲームシステムを小説に組み込み出したのか。
私は、小説のゲーム化と考えています。
小説のゲームと言えば、ゲームブックが存在しますが、それとは全く異なります。まず、ゲームブックは『読み手が遊ぶ小説』です。選択肢を選んでページに飛んで先へ進み、獲得した道具やレベルによってストーリーが変わる。
最近の小説はゲームシステムを組み込むことで、読者も攻略法を考えて楽しむことができます。そしてゲームという娯楽性を増すために、チート系と相性がいい。無双やざまぁ系で、読者が快感を感じることは、ゲームの特性と相性がいいのです。
しかし、これでは読み手は小説で遊ぶことはできません。小説のゲーム化という表現は弱い。
私はさらにこれに、最近のゲームの楽しみ方が加わったことで、ゲーム化という表現に足り得ると考えています。

ゲーム配信です。

配信者がゲームをプレイするのを見て楽しむ。

筆者が生み出したゲーム性の高い小説において、なぜ読者がゲームとして楽しめるのかというのが、このゲーム配信による楽しみが浸透したために広く受け入れられるようになったと考えております。
稲野個人としては、小説のゲーム化は難しいのですることはないでしょう。
少し前にeスポーツの漫画は読まれないという呟きを拝見しましたが、実際のスポーツ漫画にすらファンタジー要素があるのにeスポーツにそれらを盛り込むことは難しく、外せば確実に白けてしまう。eスポーツよりもRTAのドラマ性が分かりやすいので、そちらの方が漫画としては描きやすいかもしれません。これと近しいものが小説のゲーム化には潜んでいると思っています。