『絵と文章』について緩く考える

□ 絵とは特別な人が描ける、特別な表現方法なのか

 絵は線一つ、色一つ、どれをとってもセンスに依存します。
 描き手によって、如何に似ようと同じものは決してありません。どんなに似ていようと間違い探しのように、間違いを見つけられ違いを共有しやすい。それが絵の特別感を生み出しています。
 また、絵は上達にあたっては情熱と努力と果てしない時間が必要になります。これを費やせる人物はそう多くありません。それを認識するのは大変容易い為に、多くの人々が『絵が上手な人は多くの練習を積み重ねた。才能がある』という事を理解する事が出来るのです。
 結論を申せば、絵は特別な人が描く、特別でかつ共有認識し易い表現方法と言えましょう。
 それが特別な人が描けるという認識につながっていくのだと思います。


□ 文章とは誰でも書ける表現方法

 文章を構築しているのは、誰もが日常的に用いている言語です。日本人なら日本語を使って、文章を構築しています。
 文章は誰でも書けるのです。むしろ書けないと困ります。脳内で文章を構築できなければ会話ができませんし、外部に書き出すという行為は仕事の業務などで必須の技術と言えましょう。文章は誰でも書ける。それがセンスに依存し、上達に努力や情熱が必要な絵とは明らかに違う事なのです。<
 その為に誰もができるからこそ、文章を軽られるのでしょう。
 しかし、実際に書いた方々は分かると思いますが、文章と小説は別物です。
 絵のように立ち絵だけでも様になるものでは、文章はありません。俳句のように短ければ簡単という訳ではない。短ければ短いほど奥深く、長ければ長いほど空のように広がるのです。そう、文章から一つ上の段階に進んだ先には、ただ言語を繰り業務や会話をするのとは別の世界があるのです。
 しかも、世の中というものは狭いもので、テンプレートというものがあるのです。
 結婚式の時はこう言うものだ、と狭められた表現。二次創作なら原作の流れを踏襲する。報告は5W1H。小学生の時に書いた感想文、こう書けって感じがありましたでしょう? 文章というのは誰でも書ける上に、テンプレートまであるのでそれなりの形にできてしまうのです。
 こんなんで文章の特別感を感じろとか、無理でしょう。


□ 文章の特異性

 しかし、特別でないのなら、何故支持され人々の娯楽として成り立つのか。
 一つの部屋を描写するにあたって、その着眼点は十人十色同じ人などおりません。好きなジャンルによっては推理ものなら細々とした事が、恋愛等なら部屋に入った時の心理描写と枚挙に暇がありません。たとえ兄弟でも、双子でも、違うのです。
 文章その人だけが持つ、らしさを描く事が出来ると思っています。そして、それは絵のセンスよりも容易く実現できるのです。
 しかし、受け取り方は読み手の想像力に依存します。仮に山の絵が目の前にあったら、新緑の山か紅葉の時期かなんて見えれば誰もが共有できます。しかし文章は違います。山の高さ、緑が豊かか紅葉してるか実は禿山か、どんなに事細かに書いても読み手の頭にはどれ一つ同じものは浮かびません。
 裏技的な存在として、挿絵や二次創作があります。それは絵や原作という補完があって、読み手の情報を統一することができるのです。
 絵のようにぱっと一目で全部わかるものではなく、文章は読むという手段を経なくてはなりません。
 文章は絵のように誰もが理解してくれません。故に軽んじられるのです。
 しかし、文章は絵には無い深さがある。その深さが生み出す感動は、書き手と読み手の共同作業となる事でしょう。


□ 文章の特別感とは

 小説を書き、その奥深さを知った方々は戦慄する事でしょう。文字の羅列と組み合わせ、物語の生み出す迷宮のごとき世界。誰もが踏破することのできぬ、果てしない旅のようです。書いても書いても答えなどない、上達ってなに美味しいのって思う事もある事でしょう。絵のように見本なんてありませんし、手本にするべき偉大なる小説家は自分とは違う人生を歩んだ方、当然先生の言葉を借りたってしっくりする筈がありません。さぁ、どうする。あがくしかねぇ!と自分との果てしない戦いが始まるわけです。
 文章とは拙かろうが、上手かろうが、その人らしさが現れるのです。
 文章はその人の人生を紡いでいると言えるでしょう。筆者の価値観、考え方、捉え方、その千差万別さが文章に現れるのです。
「この文の感じは○○さんだ」
 そう感じさせる、力があるのです。
 凄いですよね。誰もが使う、ごくごく一般的な日本語に、個人の雰囲気や感じが乗っちゃうんですよ。タダゴトじゃあないですよ。
 ここまでくると、皆さんも文章って小説ってやっぱ特別なんだなって思うんじゃないですかね?