黄金のカブトムシ

 夏の強い日差しが日向を白く炙る。木陰は深い緑色に沈み、そのコントラストが如何にも夏らしさを目に訴える。蝉の鳴き声は少年の足音を消すほどにけたたましく、少年の耳に冬だったら届くだろう小川のせせらぎも打ち消す。これが早朝のことなのだから、夏の山の民は皆早起きである。夏の山を訪れる少年もまた、大人達が眠っている時間からやって来ていた。
 少年の訪れている山は、子供達からは『カブトクワガタ山』と呼ばれている。ここはカブトムシやクワガタなどの虫の楽園で、とある大学の私有地なのだ。勝手な乱獲は許されず、密猟者がセレクト隊に摘発されるのは夏の風物詩。だが、個人で楽しむ程度なら目を瞑ってくれていた。
 それでも山は深く、熊も出る。子供だけで行くことは大人達から固く禁じられていた。
 だから少年は後ろに友を連れている。少年が生まれた時にはすでに家族だったメダロットだ。メダロットは昔発掘された六角貨幣石が高機能な演算処理能力を持っていると判明し、それを知能として動くロボットことだ。大きさはメダロット社の素体のサイズで小学校低学年程度の大きさ。頭部、左右の腕、脚の四つのパーツを組み合わせ、今の時代では様々な活躍の場を持っている。
 いつもは家にいるメダロットは、今日の少年にとって頼もしい護衛だ。今は索敵パーツと草刈り用のソードパーツ、山道に強い多脚パーツに変えている。顔だけは見慣れたパーツのままだが、顔から下が違うのだからヨウと名を呼ぶのもちょっと躊躇う。
 少年は虫取り網とカゴを持ち直した。彼が夜中に罠を仕掛けた場所に到着したのだ。
「あんまり、集まってないなぁ」
 がっかりを言葉にしたように、少年は呟いた。背後からも『そうですねぇ』と同意される。
 彼らの前の木には3匹ほどの小ぶりのメスのカブトムシが集まっていた。いつの世も少年の憧れは、立派な角を持つオスのカブトムシである。小さいメスを持って帰っても、子供達のヒーローにはなれないのだ。
「そんな罠の仕掛け方では当然だな」
 気難しい嗄れた声が背後からかかって来た。振り返ると、手ぬぐいで頭を巻いた老人が立っている。近所の頑固ジジイでもこんな厳しい顔にはならないだろう、恐ろしい顔つきである。背はピンと伸び、口元はへの字、目はジト目で少年を睨んでくる。老人も背後にメダロットを連れていたが、パーツは純正の白と黒の見慣れないシリーズだ。
 来なさい。そう短く言い捨てた老人は足早に先に進んで行く。老人のメダロットも続く。
 少年はヨウと顔を見合わせて、一つ頷いてから老人の後を追った。老人の足取りはとても早く、少年が老人について行くためには小走りになる必要があった。日差しの熱に体が炙られ体が燃えるようだったが、足を止めて水分を取っていては老人を見失いそうでできなかった。老人は待っていてくれそうな優しげな雰囲気が欠片もなかったからだ。
 老人がようやく足を止め、少年が膝に手をつき息を整えて顔を上げると思わず感嘆の声を上げた。
 そこには少年が手を広げても腕が回せないほどの大木があった。鬱蒼と茂り薄暗いところに幹を曲げながら成長した大木には、多くの昆虫が集まっていた。長い立派な角のカブトムシ、美しく湾曲した角を持つクワガタ、鮮やかな色の揚羽蝶が集まっている。その数は、少年の小さいカゴに入りきらない程だ。
「しかるべき場所に仕掛ければ、虫達は自ずと集まってくる」
 老人がそう言うと、罠を仕掛ける木の選び方、罠のために用意する果物、その果物に一手間を加えさらに魅力的な餌にする方法をぶっきらぼうだが詳しく教えてくれた。一頻り教えた後は、意地悪そうな笑みを浮かべて少年に言うのだ。
「今日、ここに集まった虫達を採って行くか、明日、この方法で捕まえるか程度のことは自分で選ぶのだな」
 言い終えるよりも少年に背を向けて歩き出す方が早かった。少年は老人と老人のメダロットが立ち去るのを呆然と見送ると、振り返る。少年が見たこともない大きさのカブトムシがいる。これを持って帰ったら、絶対に少年は新学期のヒーローになれるだろう。友達に自慢しても、老人が今教えてくれた知識があれば、自分の罠で捕まえたわけではないことはバレない。
 少年はカブトムシを見る。蝉の鳴き声が耳に痛いほどに迫る。

 少年はとぼとぼと『カブトクワガタ山』を下る。日は高く昇り出し、早朝の肌寒さを黄金色の日差しが拭い去って行く。蝉の声はさらに騒がしさを増し、少年は額から滝のように流れる汗を首にかけたタオルで拭いた。そこでふと足を止める。
 舗装された道路が見える入り口から、老人が一人山道を登ってくる。
 先ほど出会った無愛想な老人ではない。洒落た形の麦わら帽子に、サングラスをかけている。ネクタイをしていない首元が空いたYシャツに、パンツ姿というとても登山に向かない格好である。しかも、この老人はメダロットを連れていない。その代わり、老人の肩にはオウムが乗っていた。
「やぁ、君。何か採れたかね?」
 歯を見せて笑う笑顔が似合う、弾けるような明るい声。そのあまりの好意的な声色に、少年は自分が如何にも虫取り少年であるという出で立ちであったことを思いだす。ずんずんと見た目以上に慣れた足取りで登ってくるが、やはり老人は見知らぬ他人だ。しかし、悪い人ではないだろう。少年はおずおずと虫カゴを差し出して見せた。
 少年の虫カゴを見て、老人がフムと唸った。
「採れんかったか。そんなこともある。次、頑張れば良いじゃろう」
『ツギ ガンバレバ イイ』
 老人とオウムの励ましに、少年は小さく頷いた。
「ワシらが師事していた教授は昆虫学の先生でな、朝に出かけたらカゴがいくつあっても足りんくらいに、昆虫を捕まえてみせたもんじゃ。本当はワシが少年に学んだことを教えてやりたいのだが、生憎ワシは下手っぴでの。同門の友人の方が不本意そうじゃが上手じゃったなぁ」
 老人は懐かしむように口元を持ち上げ、少年に道を譲るように脇に避けた。
「朝から虫取りに行ったのなら、相当腹も空いておろう。老人の長話に付き合わせて悪かったのぉ」
 老人にそう言われ、急に空腹であることを思い出したのかお腹が返事をした。その音に顔を赤くしお腹を押さえた少年を見て、老人は笑い声を響かせながら山道を登って行った。振り返ったオウムが『キヲ ツケテ カエレヨ!』と言う。
 少年は老人達の背が山に飲み込まれて行くまで見送り、そっと帰路に着いた。舗装された道は歩きやすかったが、太陽がじりじりと熱していて山よりも暑く感じる。山を見上げながら道路を歩いていると、軽トラに乗った近所のおじさんがおはようと挨拶して追い抜いて行く。
 眼下の光景に伸し掛かるように枝を伸ばしていた木が途切れたの所に、少年の視線は吸い込まれる。そこは家がなくただの広場があるだけなのは誰もが知っている。昔、その広間にはこの山の持ち主であるエライ先生が住んでいたが、火事で燃えおち先生も死んでしまったらしい。少年も少し前に肝試しで来たが、幽霊なんか現れなかった。それはそうだ、拓けて陽が燦々と差し込む畑にはもってこいの土地だ。幽霊なんか出るわけがない。
 なんとなく少年はそこを突っ切って近道をしようと思った。
 登りきった先の拓けた場所は、時折近所の人が草を刈りに来てくれる。しかし、それはまだ先らしく、少年の膝丈くらいの草が一面に生えている。半分炭化していびつな形になった大木が風を受けてさやさやと木の葉が擦れる音を奏でている。その根元に老人が立っていて、少年に気がついてこちらを向いた。
 その老人は温和という言葉を人の形にしたような、とても優しそうな人だった。フサフサの眉も口元のヒゲも真っ白で、やや曲がった腰をいたわるように手を後ろ手に組んでいる。
「やぁ、何か捕まえたかね?」
 本日二度目の問いに少年は黙って虫カゴを差し出す。空の虫カゴを見て、老人は朗らかに笑った。
「少年は優しいのぉ。その通り、虫はカゴの中よりも自然の中に生きることこそ相応しい」
 本当は捕まえることすらできなかったのに、捕まえた虫を逃したと思われている。その誤解に少年は恥ずかしさのあまりそっぽを向いた。太陽に熱され空気が熱を帯びてくる。老人も今日は暑くなりそうだねぇと呟いた。
「私は世界中の虫を追いかけ、カゴの中や写真の中や映像、様々な情報に様々な虫を収めたものだ。だが、その中にいる虫よりも、外で自由に動き飛び営む姿ほど美しいものはなかった。ほら、ごらん」
 そう言った老人を見上げた時、少年は強い風が山から丁度吹き下ろして来たため目を瞑った。ふっと目を開けた時、風に乗って金色の何かが空へ舞い上がった。そのシルエットに、少年は目を丸くする。
「金色のカブトムシ」
 それはとても美しい黄金色のカブトムシだった。無愛想な老人が仕掛けた罠の中で一番大きなカブトムシよりもひと回りは大きく、ツノは見たこともないほどに立派だった。まるで太陽のように青空の中に輪郭を溶かし、羽ばたく翅は光の加減で虹を帯びている。瞳だけが黒々としていて、少年を見下ろしていた。
「おじいさん、あれって…!」
 あまりにもすごいものを見て、捕まえるだなんてとても思えなかった。ただ、がなりたてる心臓に息苦しさも感じながら、あの金色のカブトムシのことをもっと知りたくて仕方がなかった。少年が老人に興奮した面持ちで振り返る。そして息をするのも忘れるほどに驚いた。
『さっきから、誰もいないよ』
 連れのヨウが言う通り、誰もそこにはいなかった。
 青々とした山から煙るように香る緑と、蝉の音が少年を包み込むだけ。どんなに目を凝らしても、もう金色の光一つ見つけられなかった。