忘れられない君の歌

 オイラは耳が良いっぴ。
 だから教室の隅から隅、廊下の端から端までの声が、大森林の木の葉が擦れる音のように耳に押し寄せる。甲高い女子のお喋り、声変わり前の無邪気な男子の歓声、何故か生徒以上に元気な先生達の注意。魔バスが正門に突っ込んだ音と、誰かが失敗した魔法薬の爆発音は耳元でシンバルを鳴らされたみたいっぴ。
 だけど、一番嫌なのは、オイラへの悪口っぴ。
 耳を澄まさなくたって、嫌でも滑り込んでくるっぴ。
 落第寸前の落ちこぼれのピスタチオだぜ。この前の魔法実習テストの成績、学校最下位だったんだって? いや、最下位はウィスキーだけど、アイツはしょうがねぇよ。それよりも故郷じゃ神童なんて呼ばれてたのに、恥ずかしいよなぁ。
 視界がぐにゃりと歪んで、身体の奥底から悔しくて悲しくてぐちゃぐちゃしたものが溢れ出てくるっぴ!
 運命が変わったと思って描いた人生は、薔薇色じゃなくて泥みたいな酷さだっぴ!
 あの日の事を、オイラは今でも覚えてるっぴ。大地が喜びのあまりに木に呼びかけ、木々が大地の力を黄金色の光に変えて空に解き放った。森はまるで紅葉したかのように美しく輝き、水の精霊達は住み慣れた水から離れて鳥のように空を飛んだ。魔法学校ウィル・オ・ウィプスの校長にして、世界最高の魔法使いと呼ばれたグラン・ドラジェがわざわざ村を訪ねて来たからだったっぴ。
 オイラはその時、森で一番大きな樹の根元で校長先生を見てたけど、まるでお日様が降りて来たようだったっぴ。眩しくて大きくて、それは本当にヒトなのか分からないくらいだったっぴ。そんな校長先生から『魔法学校に来ないかい?』と誘われた時は、吃驚して腰が抜けてしまったっぴ。
 その後、学校から入学への案内の手紙が届いた時、村の人達も両親も、諸手を挙げて喜んでくれたっぴ。
 この子は世界に名立たる魔法使いになれる。この村の誉れだ!私達の誇りだ!泣いて言葉にならないご近所さんもいっぱい居た。村の子供達は、皆の子供も同然だったから。オイラは世界で一番幸せ者だって思ったっぴ。
 学校に来ても、グラン・ドラジェが自ら足を運んでスカウトした生徒達は注目されていたっぴ。オイラの同級生達っぴ。
 そこから天国から地獄に突き落とされた感じだったっぴ。
 皆、凄く優秀だっぴ。
 そして、皆に比べれば、オイラなんて全然凄くなかった。それを知るのに時間は要らなかったんだっぴ。ドジで馬鹿なピスタチオ。万年落第生、そう直ぐ呼ばれてしまったっぴ。
 帰りたかったっぴ。あの豊かな大自然に抱かれた小さな村に戻って、皆の声から逃げたかったっぴ。でも、逃げようとしなくたって落第してしまえば帰されてしまうっぴ。家族の村の皆の、落胆する顔を想い描くだけで毛皮が剥がされるような痛みを感じるっぴ。
 声が迫る。声が押し包んでくる。
 生徒の声。先生の声。家族の声。村の人達の声。遠くから潮騒のように授業の本鈴が鳴り響く。オイラの一番苦手な、大嫌いな魔法実習の授業の始まりを告げる音が響いてくる。耳を塞ぎたかったけど出来ない。どうして出来ないっぴ? 全ての音が聞こえなくなってしまえば、ずっとずっと楽なのに…。
「ピスタチオ!」
 まるで鳥が肩に留るように、肩を勢い良く手が叩いた。
「なぁんだ! サボるなら言ってくれよぉ。一緒にサボろう!」
 振り返ったオイラににっこりと微笑んだのは、同級生のウィスキー・アクアヴィテだっぴ。ぽんぽんと背中を押してオイラを促すと、一歩先に進んで人気の無い廊下を進み出した。青空から燦々と降り注ぐ黄金色の太陽の光が、窓という型枠からところてんの様に割り込んで光の大洪水だ。唐辛子のように真っ赤な絨毯の草原からぽわぽわと蒲公英の綿毛のように巻き上がる埃が、きらきらと美しい。まるで流れる水を凍らせたような流線型の美しい建物は、建物の中なのにまるで森林の中に居るかのようだった。
 皆が教室に吸い込まれてしまった無人の空間で、ウィスキーは楽しそうにくるくると踊る。
 魔法実習の授業は、魔法学校の全ての学科で最も高い成績が出る授業だったっぴ。その授業をサボるという事は、落第が目の前にぶら下がるのと同じ事だっぴ。
「ウィスキーは成績大丈夫なんだっぴ?」
「全然大丈夫じゃないなぁ」
 くるんと空中一回転。頭からぽてっと空中に残された帽子を掴んで、鳥の巣のような金髪に被せる。
「僕は魔法が使えないからね。魔法実習以外で平均以上取らないと、落第さぁ!」
 魔法学校で唯一魔法が使えない生徒、それがウィスキーだったっぴ。双子の妹のブランデーが『ウィスキーが一緒じゃないと入学なんかしない』と言ったとか、校長先生が二人に対して入学案内を送ったとか噂は様々だっぴ。でも魔法使いの名門ウィル・オ・ウィプスに入学するだけはあって、魔法実習以外は何でも出来るっぴ。武術演習は首席だし、魔法歴史学や魔法道具学なんかはブルーベリーと競い合うくらいだっぴ。
 魔法は使えないけど、頭は良い。
 オイラと違ってウィスキーは魔法が使えなくても、落ちこぼれなんて言われないっぴ。
「ほーら、ピスタチオ! サボりに最高の天気だぁ! 授業なんて勿体ないよぉ!」
 目の前の窓が開け放たれ、一気に外から風が流れ込む。ウィスキーは外から差し込む光に解けて、そのまま外に駆出して行ったっぴ。オイラも慌てて後に続く。学校の裏庭は鬱蒼とした木々が生い茂り、小川が流れ、鳥が飛び交い動物達が微睡んでいる。小さいながらに故郷の森を思い出すような、素敵な素敵な小さな森っぴ。
 芝生を駆けて、ふと、オイラは足を止めた。
 なんで足を止めたのか、オイラですらわからないっぴ。きょろきょろ見回してるオイラに、ウィスキーが笑ったっぴ。
「やっぱぁ、ピスタチオは聞こえてるんだね。耳、良いもんねぇ!」
 聞こえてる?
 オイラはすっと耳を澄ましたっぴ。耳に触れる優しい風の音、木の葉の囁き、水が流れて紡ぐ永遠の音楽、獣と虫の声、太陽の熱の下でじりじりと焦がれる石。今まで半ば塞いでいた聴覚を研ぎ澄ます。
 ぽん!
 目の前で光が弾けて、凄く強い森の匂いが包み込んだっぴ!
「ぴいいいいいっ!?」
『やっと気が付いたぐりー!』
 それはどんぐりっぽいけど、なんだか分かるっぴ!木の精霊スティックだっぴ!
 見回せば、様々な精霊達がオイラ達を取り囲んでいるっぴ! 教科書で見た絵とは全然違って、その力が精霊達から迸っているっぴ! この裏庭の狭い空間に、ぎゅぎゅっと世界が凝縮されているような気がしてしまうっぴ!
 そして、耳に触れる音でもない不思議な音楽。
 魔法そのものを耳から頭に流し込まれているようで、目から星が飛び出してしまいそうだっぴ!
 そんなオイラの様子に、ウィスキーが大笑い!
「ピスタチオが目を回してらぁ! さぁさぁ、皆、歌おうぜぇ!」
 ウィスキーが大きく口を開いて楽し気に歌い出した。でも、口から出てくる声は、オイラ達が発する言葉と声じゃない。声じゃない声。精霊達と同じ魔法の声色に、精霊達も声を合わす。世界が一気に明るく輝いて、光の中の何もかもを幸福感で満たして行く。
 ぴ。
 オイラはふと思い出した。
 最初に触れた魔法は、本当に不思議だったって事。名声を得る為の手段じゃない、強くなる力じゃない、守ったり救ったりなんて大それたものじゃない、ただただ、そこにあったちょっと不思議で素敵なものだったっぴ。余りにも綺麗だから、余りにも素敵だから、もっと知りたいと思ったんだっぴ。
 オイラは学校の生徒達の悪口も忘れて、落第寸前の絶望感も、故郷の落胆に憂鬱になる気持ちも、全部空っぽになっているのに気が付いたっぴ。
 なんだか嬉しくなって笑うと、ウィスキーが幸せそうに飛び跳ねた。