むずかしい話じゃない

 賑やかな会話が聞こえる。
 うぅん。それは空気を震わせて響き渡る声ではない。目の前で話されるように明瞭で、声というよりも文字を読むような感覚で伝わって来る。知っている人の言葉だけは、その人の声で再生される。
 『今日は天気がいいわね』『隣の山の桑の実が紫色で食べごろよ』そんな会話を繰り広げるのは、窓辺の枝に留った鳥達。木々はうっとりと日光に身を委ねて彼等の生命の長さの通り、1つの単語を語るのに半日は必要になる。大地なんてもっと気が長い。私は未だに1つの言葉も聞けた事がない。
 川辺に転がる大岩に、ウィスキー・アクアヴィテが釣り糸を垂れて座っている。他には誰の姿も無いが、会話は確かにウィスキーの方から聞こえて来ていた。
『あのね、ウィスキー。ぽかぽか おねんねなの。つりざお うごかしちゃ いや なの』
「うんうん、エア。僕も寝なかったらぁ、釣り竿動かさないからねぇ」
 そう、眠たげな声で答えたウィスキーの釣竿の先に、何かが留まっているようだ。よく目を凝らしても見えないけれど、すぴすぴと寝息が釣竿の先から聞こえてくる。私がおずおずと覗いているのに気がついたのか、ウィスキーが振り返って笑った。空色の大きな帽子は横に脱いで置かれ、太陽の光に照らされた癖毛が種を抱き始めた向日葵みたい。私よりも頭一つ大きい彼は、寝息の主を気遣ってゆっくりと手を振った。
「やぁ、オリーブ。今日は良いお散歩日和だねぇ」
 間延びした穏やかな声色に誘われるように、私はウィスキーの横に歩み寄った。岩は陽の光にじんわりと温かくなっていて、ウィスキーの座っているところはとても心地よい空間になっていた。風は爽やかに温められ火照った体を撫で、水と木の葉が子守唄を奏でる。この場所では全ての声が、荘厳な合唱のよう溶け合っているんだ。
「ウィスキー、とても素敵な場所ね」
「うんうん。僕のお気に入りの場所さぁ」
 お座りよぉ。そう勧められて、隣に腰をかける。
 互いに言葉少なく、たとえ無言で隣り合っていても気まずさを感じずに時が過ぎる。時々、風に乗ってオカリナの音色が耳をかすめ、ガナッシュはオカリナ上手に吹くよなぁとウィスキーは感心した。釣竿に全く魚は引っかからず、ただすぴよすぴよと寝息が先端から聞こえてくるばかりだ。
 眠たくなってきちゃった。そう欠伸が溢れた時だ。
『めーんどくさーいでーす。ウィスキー、助けてくださいよー』
 ウィスキーの双子の妹、ブランデーの声が聞こえた。いつも片時も離れることのないウィスキーとブランデーの兄妹は、見た目も才能も性格も真逆の双子だ。ウィスキーは縮れた癖毛だが、ブランデーはサラサラのストレートをくるりと巻いている。兄は全く魔法が使えないが、妹は生まれた時から魔力に優れ光以外の全ての属性を使うと専らの噂だ。その力量から、彼女が通る場所は全てがざわつく。世界が彼女を恐れている声を、彼女が聞くことがなくて少し安心する。そしてウィスキーはマメで要領が良いのだが、ブランデーはとことん面倒臭がりだった。
 魔法の才能があっても面倒臭がり屋のブランデーは、魔法実践学の補修授業の真っ最中のはずだ。先日、面倒でやる気が出ないと教室の隅に横になって寝てしまったことに、マドレーヌ先生がカンカンになったのは学校新聞の一面を飾れる話題だった。
『駄目だよぉ、ブランデー。ちゃぁんと補修受けないと、ブランデーだけお家に帰らされちゃうよぉ』
『ウィスキーも一緒に帰りましょーよー』
 周囲を見渡してもブランデーの姿はない。こんなにはっきり聞こえるのに、どこにいるんだろう?
『僕はブランデーみたいに才能がないから、勉強しないと駄目なんだなぁ。一人で帰りなぁ』
『嫌ですー! 私一人で帰るの嫌ですー!』
 同年代では最強と名高い魔法使いが、涙声で駄々をこねる。そんなブランデーを宥めるウィスキーの姿は、魔法学園ウィル・オ・ウィプスの生徒ならありありと思い描けるはずだ。でもブランデーの姿はどこにもないし、釣り糸から目を離さないウィスキーの口元はうっすらと微笑んだ形から全く動かない。
 ウィスキーは声を出して喋っていない。じゃあ、どうして声が聞こえるんだろう?
『じゃあ、頑張ろうねぇ。ブランデー。補修が終わったら、美味し物を食べに行こうねぇ』
『あー、うー、ウィスキーがそう言うなら仕方がないですー。頑張りますー』
 そう言葉が途絶えると、ウィスキーが笑顔で私を見た。
「オリーブって本当に心の声が聞こえるんだねぇ!」
 私はびっくりして目を丸くしてしまった。今のウィスキーの言葉を借りるなら、ウィスキーはブランデーと心の声で話し合っているんだ。双子だから心の結びつき方が他人とは違うのかもしれないけれど、そんな事ができるなんて!
 でも、それよりも私が彼らの会話を聞いているって知られてしまった。私は慌てて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい…!聞くつもりはなかったの…!」
「聞いたって構わないさぁ。声を出すか出さないかって違いなだけで、いつもと変わらないことしか喋らないしぃ。学校だと答えとか聞きたがるから喋らないようにしようねぇって約束だけど、ほら、今は補修中だからさぁ」
 そんな会話をしていると『オリーブとお話ししてるんですか? ずるいですよー!』とブランデーの声が聞こえる。ウィスキーはまぁまぁと嗜めながら、釣り糸の先に視線を戻した。釣竿の先は不自然に撓っているけれど、彼は手元を全く動かさずに虚空を見るような定まらない視線を前に投げかけている。
「オリーブって心の声が聞こえるだけで、大変だねぇ」
 唐突にそう言ったウィスキーの言葉に、私は驚いた。人の心が聞こえる、そう知られた時の人は大抵が『気持ちが悪い』と言う。私の心の声も聞こえているんでしょう、気持ちが悪い、どこか行け。そんな言葉がセットになって、私の心を切り刻む。
 だから、私は人の心の声が聞こえることを只管に隠してきた。
 でも、心の声が聞こえる事を知られずに生きていても、他人の心の声は私の心を切り刻んだ。
 誰かの陰口、誰かの悲しむ言葉、恨みの声、憎しみ。恐ろしい謀りごとを聞いたこともある。殺害を仄めかす呟きを心に漏らしたその人は、翌日、何の罪もない幼い子供を殺めていた。心の声が人ではない恐ろしい存在も、ごく普通に人波に紛れていた。
 恐ろしかった。ただ、恐ろしくて、人に近づくのさえ恐ろしかった。
 動物や自然の裏表のない声が、あまりにも優しくて、私は人と関わる事を止めてしまった。それは、とても楽な事だった。
「どうして…大変だと思うの?」
 喉がカラカラに乾く。それは、とても恐ろしい質問だった。ウィスキーは酷い事をしないと分かっていても、心の声が聞こえると知られるだけで、その人と築いた全てがガラガラと音を立てて崩れてしまうと思っていたから。だから、理由を問えば私の心を切り刻む言葉が返ってくると思ってしまう。
 ウィスキーは悩むこともなく、あっさりと答えを返した。
「だって、会話ができないじゃん。人ってさぁ、一方的に話しかけられたり、話されたりすると、相手がわからなくなってしまうものなんだぁ。会話はねぇ、相手を知るための大事な方法なんだよぉ。知らないとさぁ、怖かったりするじゃん。大変だよねぇ」
 目の前に差し出された大きな掌。見上げると、その人は言った。
 『強くなりなさい。強くなれば、恐れずにすむ』
 その手を取って魔法学校に来た。私は心の声が聞こえる関係で獣の魔法の素質があって、テストの問題も頭のいい子の心の声が聞こえてしまうから酷い点数は取らなかった。でも、テストでズルした点数じゃいけない。私だって一生懸命勉強して、頭のいい子の声を聞かないようにしてテストを受けてる。
 家にいる時よりも勉強して成績も悪くはない。でも、私は何一つ変わったとは思えなかった。恐れずに済むなら強くなりたいと思っても、どうしたら強くなれるのか分からない。ただ、学校で日々を過ごして本当に強くなれるのか、あの人の言葉を疑いそうになるときもあった。
「でもねぇ、人は別に心の声なんか聞こえなくたって、人の心が分かったりする事があるんだよぉ」
 ウィスキーは歌うように言う。笑えば嬉しい、泣けば悲しい。怒っているなら、言わずもがな。だからさぁ。そう彼は笑う。
「オリーブは全然変じゃなよぉ。優しすぎて、気を使いすぎなのさぁ」
 もっと気楽に行こうよぉ。そう私を見たウィスキーは、びっくりして釣竿を落としかけた。釣竿の先からぴぃ!と驚いた声が響き渡り、ウィスキーはごめんごめんと私と釣竿の先に交互に謝る。とても驚いているんだろう。彼の心の声は『どうしよう』でいっぱいだ。
「大丈夫」
 私は頬を手の甲で拭った。暖かく濡れた甲が、すっと冷えて行く。
「嬉しくて泣いてしまったの」
 私の言葉に安堵したウィスキーを見て、私はホッとした。そう、彼は私の心の声は聞こえないから、私の気持ちを伝えなくては分からないんだ。こうやって気持ちを伝えるだけで、互いにこんなに穏やかになれるだなんて知らなかった。
 私は『ありがとう』とウィスキーに伝えた。言葉と笑みに、心をこめて。