ミンダス土産 鳩饅頭

 初老の魔道士は中肉中背で、年齢にふさわしい銀髪は伸び放題で緩く三つ編みにしてある。白地に派手に縫い込まれた文様はいかにも魔法使いの出で立ちだ。それだけだったならば、誰も気には止めはしない。
 魔道士は背丈と同じ大きさのポトの人形を担いでいた。
 魔道士はミンダス遺跡に最も近い街の、最も小さい教会の扉をくぐった。ポトの人形を物珍しげに見にやってくる子供達に微笑みかけながら祭壇に一番近い席に腰掛ける。隣で熱心に祈りを捧げている青年に一瞥もくれず手帳を取り出す。
 魔道士は歪んだ口元を初めて開いた。乾いた笑いが小さく漏れる。
「楽しいなぁ…」
「何が楽しいんですか?」
 間髪入れずに青年が答えた。
 魔道士以外の者がこのやり取りを見ていたならば、青年が初老の魔道士と語らう和やかな様子に見えただろう。実際教会内にいる子供達はそう見ていた。しかし魔道士だけは青年の不機嫌さを押し隠した答えを見抜いていた。それどころか教会の中に入った瞬間から突き刺すような警戒心を持たれている事を感じていた。
「いつまで『お友達』が危険にさらされているのを見ていられるか。黙って耐えていられるか。君のその笑み一枚下の荒ぶる感情を観察できるのは楽しいものだ」
「……俺を怒らせたって良い事無いでしょう?」
「そうだね。そうだね」
 魔道士は火のついていない煙草をくわえてステンドグラスを見上げた。
 翼あるものの父フラミーが描かれた美しいステンドグラスが優しく光を通している。ここいらでしか信仰されていない珍しいフラミー信仰は、かつて栄えたミンダスの風の信仰が由来とされている。魔道士は手帳を開いてゆっくりと眺める。
「君の噂を聞いていたよ。なんでもここいら一帯で起きてる家畜の大量行方不明事件の被害者らしいね」
「そんな事をお聞きして、アンタは警察ですか?」
「我が輩は見た通り魔道士だよ。興味があるだけさ。どんな動物が、どんな目に会っていようが、我が輩には関係ない」
 魔道士はちらりと青年を窺う。
「感心するね。君は、今、我が輩と諍いを起こしても何の利益にならないと分かっている」
「だから先手を打って話しに来たんだろ?用意周到に言葉を用意して、俺の所に来たんだろ?」
「正解。大正解だ。君は賢い」
 魔道士はポンと手帳を閉じて立ち上がった。
「君との駆け引きが今回のもう1つの醍醐味。おつりが来る程良い仕事を我が輩は引き当てたようだね」
 ポトの人形を持ち上げたところで、魔道士は青年に改めて向き直った。
「我が輩はシブメント。まぁ、付き合いが短かろうと長かろうと、一期一会と思ってよろしく頼むよ」
「セレスタインだ」
「ではセレスタイン君。訪ねてくればいくらでも語らおうじゃないか。むしろ訪ねて貰わねば我が輩はちっとも楽しめない」
 教会の扉が閉じられると、ようやくセレスタインは息を吐いた。
「……イン君?」
 袖を引っ張られてセレスタインは慌てて顔を上げた。神父の装束を纏った男は獣人の混血らしく、猫っぽい顔立ちと飛ぶには小さすぎる翼が背中から生えている。神父の名はボーグノン。セレスタインの事情を知って教会の住み込みの手伝いをさせてくれている人物だ。
「すみません。ボーグノンさん」
 魔道士とセレスタインのやり取りは教会の誰もが気に止めなかった。それくらい自然で、穏やかで、堂々としていて、短時間の内に交わされた会話に、セレスタインは寒気のような懐かしい感情をゆっくりと反芻した。
「メガロード君の事を心配しているんですね?」
「ええ…」
 セレスタインの主メガロードは2週間程前に、ほんの、ほんの一瞬目を離した隙にいなくなっていた。
 ミンダスには保存食と調味料の補充の為だけに寄った。数時間もいるつもりも無いし、盗賊や事件があるような場所でもないと勝手に思い込んで、油断してしまった。見渡しの良い開けた場所、どんな健脚でも隠れる場所に駆け込むまでには気が付くはずなのに、メガロードは連れ攫われてしまった。
 以前からこの辺りでは家畜が突然行方不明になる事件が頻発していたという。
 そんな時に現れた怪しい魔道士。
 非情の中に埋め込まれた卓抜とした話術。気を許す事のできない張りつめた空気から、シブメントは油断ならない人種だと確信する。むしろ今回の件に深く関わっていると思って間違いない。
 セレスタインは冷ややかな視線を扉に向けた。


■ □ ■ □


 シブメントは宿屋から毎日のようにミンダス遺跡に足を運んでいる。
 宿帳には名前しか書かれていないし、宿の主人も魔道士の装束から遺跡の研究者と思ったらしい。人間の大人サイズの人形さえ担いでいなければ、気にも留めない、珍しくもない客であると主人は言う。教会の神父であり村の悩みの聞き手であるボーグノンも、シブメントについて村人が不安に思っているようなことはないそうだ。
「ですが、私は気になりますよ」
 ボーグノンが記憶をたぐりながらセレスタインに囁く。
「家畜がいなくなり始めてすぐの頃に、あの魔道士はやって来ました。個人的な遺跡観察の魔道士は珍しくもないのですが、時期的にぴたりと一致するんです」
「あ〜んな怪しさ大爆発な魔道士なんですから、なにかやらかしてるでしょう。ボーグノンさん、教会にいて良いんですよ?」
 ミンダスの崩れかけた壁に隠れるセレスタインの横で、ボーグノンが杖を弄んでいる。
「僕は子供の頃から遺跡で遊んでいた身ですからね。地元住人でも知らない近道や地下神殿の入り口とか、結構知っているつもりなんですよ?それに初めて訪れる人は必ずと言っても良いくらい迷いますからね。先導は必要でしょ?」
「そりゃいてくれれば助かりますが…危険なことに変わりはありませんよ?」
「補助魔法は全て心得ていますし、攻撃魔法もたしなんでいます。御心配なく」
「左様ですか」
 やけに楽しそうなボーグノンを差し置いて、壁から少しだけ身を乗り出す。視線の先にはシブメントが壁画を眺めている姿。
 張り付いて3日目になるが、日がな一日ああして壁画を眺めている。
「……」
 シブメントは全くの無警戒と言っても良いのに、何故か気付かれている気がしてならない。
 あの担いでいるポトの人形の作り物の瞳が、こっちを見ているような気がして落ち着かない。ボーグノンの気配の消し方を知らないとは言えこれだけの距離が離れていれば、セレスタインでさえおいそれと気付けない。宣戦布告みたいな行為をしたから追跡者の存在は予測できるとしても、後ろも気にせずぷらぷらと歩く姿に警戒心なんか感じない。
 それでも不安がぬぐいきれず、協力者のボーグノンに悟られないように連日シブメントに張り付いているセレスタインであった。
「あの壁画には何が書かれているんですか?」
「フラミーの伝説が刻まれています。マナの女神が世界を創造し、月神が生まれ、フラミーが天駆ける星となるまでの伝説が刻まれています。しかし…それだけで魔道士が知りたがるような、魔法陣や式がかかれていなかったと思うのですが…」
「実は秘密の入り口があるとか?」
「さあ…。それは分かりませんね」
 ボーグノンは首を傾げる。ミンダスは神話の時代に栄えた都市であり、その建築技術は現代の最高技術でも作れないとされるほど高度である。しかも遺跡と呼ばれているほど時代が経ち、あちこち崩れたりして調査は遅々として進まず、全貌は一向に明るみに出ない。ミンダス育ちのボーグノンですら知らない入り口があったとて不思議じゃない。
 セレスタインは少し疲れたようにため息を付いた。
「また今日も何にもしないで帰っちまうのかな〜? ……!!っと隠れて!!」
 シブメントがこちらに向かって歩いて来る。いつも日暮れ時になると帰ってしまうのだが、その時間がやって来たようだ。
 息を殺して壁にへばりついていると、シブメントの足音が壁の1つ向こうで止まる。
「もうじき目覚めるか…。さぁ〜て…、どうしようかね? 様子を見に行ってしまうかな?それとも帰ってしまおうかな?」
 その場をいったり来たりしているせわしない足音が、冷え始めた空気に響く。
「やはり我が輩は魔道士。思ったが吉日。行くとしよう」
 独り言をぶつぶつ呟き壁画に戻って行く背中を見ながら、セレスタインはボーグノンに囁いた。
「アイツ…おかしいな」
「精神異常があるようには十分見受けられるでしょう」
 呆れ顔で答えるボーグノンは次の瞬間目を見張った。
「あぁ!?みみみ見て下さい!!あれ!」
 壁画にシブメントが吸い込まれるように消えて行ったのだ!慌てて壁画の前に駆け寄る2人もドンドン壁画を叩いてみせる。
「何の変哲も無い壁画だぞ?何処に消えちまったんだ?」
「セレスタインさん!こっち、こっち!」
 ボーグノンが右腕を壁画に突っ込んだ姿勢でセレスタインを手招く。
「ここから入れるみたいです」
 そうボーグノンが言った頃には、背中と背中から生える小さい翼だけしか見えなくなっていた。

 壁画を抜けた先はとんでもない腐敗臭で満ちていた。
 セレスタインが携帯カンテラの光を掲げる。壁が見えなくなる程動物達の死骸がうずたかく積まれ、動物達の血やら何かが床に広がって光を返す。ボーグノンが震えるような声を絞り出した。
「これは…まさか、いなくなった村人達の家畜……?」
「だろうな。魔物もかなり混ざってるけど」
 セレスタインはボーグノンの傍らに立って目の前の死骸を見つめた。鮮やかな金色の羽や翼が生えている箇所から血が流れ、失血死という所だと見てとれる。
「しかし、なんだろうなこの羽。ニードルバード…コカトリス…チョコボ…プチガルーダ……う〜ん、見たこと無い羽だ。合成獣の研究にしてはこの金色の羽が生えてる奴らばっかだし…」
「おやおや、随分と早く入り口を見つけましたね」
『!?』
 魔法の光を掲げてシブメントが立っている。
「貴様がこんなことをしやがったのか!?俺の主、メガロードをどうした!?」
「美しいでしょ。古に伝わるフラミーの羽だ」
 シブメントが動物の死骸から生える一本の羽を取り出してみせる。
「言うつもりが無きゃ、言いたくさせてやるよ!ボーグノンさん、隠れるか外に出るかしてて下さい」
「しかし…」
「足手まといだから、何も手伝う必要はありません」
「……分かりました」
 ボーグノンが下がったのを確認して、セレスタインはシブメントとの間合いを一瞬でつめる。
 振り下ろされた槍が、シブメントが明かりとして使っていた魔法の光で防がれ絡めとられる。武器もろとも放り出されることを想定して、簡単に手放したセレスタインはシブメントの顔面に向けて蹴りを放つ!蹴りは人形の持っていない右腕でシブメントの右頬をかすめる。右腕を上げて開いた胴に打ち込む拳は、とっさに魔道士の盾にした人形で防がれてしまう。動きは素人のものではなかった。
 にやりと笑う視線の先に嬉しそうに歪んだ口元が見える。
「魔道士のくせにやるじゃないか」
「我が輩の技量など、本業の戦士と比べれば騙し騙しだろう」
 セレスタインが間合いを再び開けた瞬間に、シブメントは無数の光弾を打ち出す。余裕でかわすセレスタインは背中に激痛を感じた。
 振り返るとかわしたはずの光弾が曲線を描いて再びセレスタインめがけて飛んで来る!
「!?」
「避けただけで油断してはならんよ。……さあ、我が輩の光と思う存分踊ってくれたまえ」
 変幻自在縦横無尽の光弾の猛攻に、避けるのが精一杯のセレスタインはシブメントに近付けない。これ以上の数を増やしたり速度を上げたりすれば、さすがに避けることはできない。
 遊ばれている。セレスタインはそう思うと、目の前で槍を拾い上げて弄ぶ魔道士を睨む。
「……良くできた槍だ。現代の匠でもこれだけの代物は用意できん。ふむふむ、杖としても十分機能できるだけの、風のマナを感じる」
 槍を鑑定し、意識を集中しているにも関わらず攻撃の手は緩まない。
「メガロードのドラグーンを舐めるなよ!!」
 セレスタインは光弾を顧みずシブメントの前に踊り出た!
 光弾に焼かれて爛れた腕がシブメントの首に食い込む。
 殺意も殺気もない冷たい視線が、シブメントの楽しそうな視線と合わさる。
「お遊びはここまでだ!さぁ、メガロードの所に案内してもらおうか!」
「油断してはならんよ、と言ったばかりであろう?」
 セレスタインは突然の強風に弾き飛ばされた!
 死骸がクッションになったとはいえ、衝撃にセレスタインは息苦しく息を吐く。
「今さっき言ったであろう?君の槍は、杖としても十分機能できるだけの風のマナを備えていると」
 シブメントがゆっくりと槍を構える。
「だから君のような戦士であっても、我が輩のように相性が良くなくとも、このような使い方が可能なのだね」
 無造作に振るうと、強風が風の刃となってセレスタインの遥か上を揺るがした。
「うえっ!?」
 駆け出そうとしたが遅い。遺跡に重い音が響いた。
 セレスタインは崩れた死骸の下に埋もれてしまった。
「殺すつもりでかかって来られたら死んでおったな。我が輩から情報を引き出そうと手加減したのが間違いよ。しかし…ドラグーン…ドラグーン…主…メガロード……。どこかで聞いた気がする。さて何であったか?」
 思案するように顎に手を添えて考えていると、奥の空間が黄金色の輝きが見える。それを認めるとシブメントは嬉々とした表情を隠さず笑う。
 槍を床に突き刺してシブメントは熱っぽく独り言を呟いた。
「そろそろ目覚める頃か。楽しみだ。とても楽しみだ。ここまで待った甲斐がある」
 崩れた死骸と槍を残しシブメントはさらに奥へ進んで行った。

 鉄格子の扉をくぐると七色に輝く魔法陣に、金色の羽毛と4つの翼を持つ獣がうずくまっている。
「もうすぐだ。もうすぐフラミー様が復活なされる。天に昇られた存在が再びこの地に戻られる」
 その獣は竜のようで竜ではなく、鳥のようで鳥ではない。金色の羽毛の背からのびる4枚の翼は神々しく、黄金から深海の碧に移ろう美しさがあった。竜のようにたくましい四肢には金色の羽毛が覆い、華やかさと気品すら感じる。
 祈るように手を組んで見つめた。神が目の前にいる。もうじき目覚めると思うと、期待で感極まりそうであった。
「興醒めだ」
「……!?」
 見上げれば足場のない虚空に悠然と魔道士が立っている。その表情は明らかな侮蔑と落胆で、ニヤついていた口元は嫌悪が目に見える形に歪んでいる。
「材料が由緒正しい『知恵のドラゴン』とはな…。これがそこら辺にいる家畜や魔物であったと思い込んでいたのが悪いが、千秋一日の想いで結果を待っていたのに……。全くの期待外れ。興醒めも良い所だ。あ〜あ、とんだ時間の無駄であった」
 シブメントがゆっくりとメガロードのうずくまっている魔法陣の傍らに降り立つと、どんどん魔法陣の光が色褪せていく。慌てて駆け寄るボーグノンにシブメントの担いでいたポトの人形が生きているように動き立ちふさがる。
「貴様!何をする!!」
「まさか我が輩が何者か知らんのかね?…天才とナントカは髪一重と言われているが、君はどうやら後方の方であったようだな」
 シブメントが大げさな身ぶりで、良く言えば古風にボーグノンに頭を下げる。
「我が輩はファ・ディール警察、魔法対策部のシブメント警部だ。君がしていた『翼あるものの父』フラミーを蘇らせる研究を阻止する為に来たのだよ。まぁ、狂信者の研究にしては上出来であったよ。ボイド君とは違い仕事を楽しむ我が輩が、久々に期待に胸踊らせていたのだから。だがフタを開ければ、我が輩の好奇心を満たすにはあまりにも不十分だったね」
 シブメントが饒舌に語っている間に、ボーグノンの魔法がポトの人形に炸裂!ポトの人形が粉々に砕け、おびただしい血が血だまりを作る。シブメントが意外そうに目を見はって微笑んだ。
「素晴らしい。我が輩のポトを退けるとは、なかなかやる」
 血だまりを踏み越えボーグノンがシブメントの前に進み出る。
「フラミー様は素晴らしいお力をお持ちです。なぜ妨害するのです?セレスタイン君もメガロード君が、神であるフラミー様に生まれ変わったと知れば諸手を挙げて喜ぶでしょうに…」
 乾いた拍手が色味を失い始めた空間に響く。
「さすが神父様の御高説。我が輩のような卑しい魔道士が賜るにはもったいなさすぎる。つまり君はフラミーのようになりたい訳だ。その飛べない飾りの翼とは違う高みを羽ばたく翼と復活の暁に向けられる尊敬の眼差し、そんなものを求めている。違うのなら、君はフラミーを想う余り狂ったのだよ」
「違う!私はこの世界の為にフラミー様を蘇らせたいだけだ!女神の居られぬこの不浄なる世界には、女神に並ぶ存在が必要なのだ!」
 ボーグノンの言葉にシブメントはただ嬉しそうに頷いた。
「そうかね。そうかね。 で、気付いたかね? 我が輩のポトは血を流しただろう?あれは特殊な鉱物で出来ておってな。”血”の意味を持つヘマタイトという鉱物で出来ているのだが、特殊な所はそれだけではない。とある魔道士は人々の印象を高め、結晶化、具現化させ、珠魅の核を変質させる事に成功したのだ。君がそのドラゴンでしようとしている事と大差あるまい」
 初老の魔道士が、つ、と一点を指し示す。
「ほら、見て御覧。狂った魔道士に生み出された、珠魅の成れの果てをその目に焼きつけたまえ」
 ボーグノンは見た。ポトの破片が水に溶けたかのような赤銅色の液体になり、血だまりは沸騰する湯のように泡立ち、一か所に集まって行くのを…。そして一か所に集まったと同時にポトの形に戻ろうと、うごめき始める。
「う…あぁあぁあぁぁぁぁっ!!ば、ばけものっ!!」
「純正な生き物を他の生き物に変える君のしようとした事と、我が輩の研究の成果は全く同じ事なのだよ」
 魔法を連発しても液体は集い、ポトの形を成してボーグノンに取り付く。
「よるなぁぁああぁ!!く…くるなぁあっっ!!」
「安心したまえ。君の生半可な知識はもう二度と表に出る事は無い」
 そして、ボーグノンを飲み込んだ。
 先ほどまでの悲鳴まで闇に飲み込まれ、物音一つ立たない空間で魔道士は肩を震わした。低く細く笑う声が水滴の音に消される。
「ふふ…、呆気無いものだ。もう少しセレスタイン君と遊んでくれば良かったな」
 室内の魔法陣は輝きを失い、徐々に暗くなってきている。その中でシブメントの瞳が気絶したメガロードを眺める。
「流石は生きた伝説『知恵のドラゴン』。フラミーのひな型的存在であると実証された訳か…。それとも高貴なる存在に惹かれたボーグノンの思いが姿を変化させたのかな? 実に興味深い」
 独り言が囁かれる間にも、目の前の獣は見る見る変わって行く。輝く色は金から空色に変わり、大きさも大人が3、4人余裕で乗れる大きさからみるみる縮んでいく。魔法陣に一歩踏み込もうとした足を止める。
「ボーグノンの研究を引き継いでも良いが、あのセレスタインに殺されてしまいかねんな。……ふむ、行くとするか」
 シブメントが床に残ったボーグノンの杖を拾うと、さっさと鉄格子の闇に姿を溶かす。ポトがシブメントを追うと、その場で何が起きたのか知る者は1人もいなくなったのだった。


■ □ ■ □


「ボーグノンさん、本当に有り難う御座います。俺達はそろそろ、ここを発とうと思います」
「いえいえ、メガロード君も調子を取り戻したみたいだし、良かったですよ」
 メガロードは救出されてから、医療知識のあるボーグノンの所で治療していたのだ。セレスタインが発見した頃にはメガロードから羽や羽毛はなくなりいつもの空色の鱗のプチドラゴン姿だったので、セレスタインはメガロードがどんな状況にあったか知らずにいる。
「あぁ、そうだ。餞別と言っては何ですが、銘菓『鳩饅頭』を差し上げましょう」
 ボーグノンがファンシーっぽい魔族イラストの描かれた箱を差し出す。なんでも最近魔界に帰られた鳩血鬼にちなんだ、鳩形の饅頭らしい。どうやら味は苺ジャムとあんことクリームの三種類が入ってるようだ。
「何から何まで有り難う御座います」
「何のお役に立てず、こちらこそすみませんでした。遺跡の外でバードフラワーに巻き付かれていたなんて…はは、自信があると豪語したのに情けない限りです」
 頭を下げ合うさらに奥の扉から空色のプチドラゴンが顔をだす。
「お待たせ」
「身支度とかする事なんか何も無いくせに、時間かかり過ぎ」
「私はお前と違ってデリケートなんだもん」
「ど・こ・がデリケートなんだ?お前がデリケートなら俺の心は硝子のハートだ。ラビの尾一振りでブレイクしちまうわ」
「つまらん事ばっかり言うなお前は。だから私は……」

 教会の入り口でぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるのを遥か遠くから見つめる初老の魔道士。
 右手にポトのぬいぐるみを大事そうに抱え、左手に開封済みの銘菓『鳩饅頭』を持っている。鳩饅頭を頬張って、食べながら喋るという行儀良くない事をしながら独り言を呟く。
「かくして事件の犯人は知識と記憶を失いて再犯の可能性を失った。全ての真相は私とポトの腹の中。まことに平和な事だ」
 小さく笑うと、森の奥に消えていった。
「さて、本部に何て報告してやろうかな?」という言葉は空気に溶けた。誰にも聞き取られることなく…。

 そして真相が1つ歪められて世間に伝わった。
 だが、間違った情報であってもなんら問題はなかった。
 世間が平和であればなんら問題はない。鳩が平和の象徴であるのも、平和であれば疑問に感じる事がないように…。