ロケットの模型

 雪雲は重く垂れ込め、視界を白く染めるほどの雪が降り注いでいる。牡丹雪が俺の上に否応無く降り積もり、ニット帽やコートに取り付いては伸し掛かる。疲れた、止めたいなんて何度思ったことか。だが、無情にも雪は降る。要らない程に降ってくれる。だから雪掻きの手を止めてはならない。雪掻きをせねば家が雪の重みに倒壊し、死が待ち構えている。
 俺は懸命にスコップを動かし屋根から雪を下ろす。重労働で体が温まってきたようで、顔に巻いたマフラーを緩める。口元をひやりと冷たい空気が愛撫した。
 世界は純白と例える程に白く、家の真裏に広がる森でさえ黒い靄のように霞んでいる。眼下に見えるはずの風力発電機の影すら、白に飲み込まれて見えない。
 肺の奥が凍り付いてしまう気温ではなかったが、空気を直に吸い込めば瞬く間に体が冷えていく。俺はマフラーを直して、屋根の上を歩いた。最後にもう一度だけ、暖炉の煙突の雪だけ払って降りねばならない。煙突を雪が覆ってしまわないように屋根をつけているが、屋根ごと雪に覆われてしまいそうな降りかたなのだ。なにせ、建物の暖房は薪ストーブなので、一酸化炭素中毒で死なない為にはきちんと払っておくに限る。
 スコップで丁寧に煙突周囲の雪を掻き、大丈夫であることを確認して俺は梯子を降りた。
 地面は建物の周囲が最低限回れる程度の通路のように雪が掻かれているだけで、自分の身長よりも高く雪が積もっていた。俺は倉庫の扉を開けて、雪に塗れたコートとニット帽を外し、部屋着用のコートとニット帽を被った。室内であっても吐く息が白いので、防寒着は必須だった。
 倉庫の隣である自分の部屋を開けると、ぱちぱちと薪が爆ぜる音が響いた。息の白くない温い空気を閉じ込める壁は剥き出しのコンクリートであるが、床は断熱を分厚く敷いたフローリングである。長年ワックスもせず三和土に見えなくもないが、テーブルや椅子、ベッドなど生活感はあった。やや高い天井からは、俺の洗濯物が吊るされている。
 部屋唯一のテーブルで何か作業していただろう同居人が、ぱっと顔を上げた。
「ヨハン! 雪掻きお疲れ様! 暖かい飲み物入れるね!」
 そう言って身軽に席を立ち、薪ストーブの側で温められたカップを手にする。インスタントコーヒーとクリームパウダーをカップに入れ、薪ストーブに掛かった薬缶からお湯を注ぐ。同居人が持ってきてくれた、器まで暖かい珈琲を一口啜る。喉まで熱い液体が通過して胃に落ちていくのを感じながら、俺は息を吐く。
「悪いな。飲み物を用意してもらって…」
「雪掻きしてもらったんだもの! このくらい、当然よ!」
 そう明るい声色で言い放ったのは、若い女性だ。俺よりもひと回りは年下に見える彼女は、綺麗に梳いた黒髪を後ろに結い、オレンジと白の動きやすい服を着ている。しかし、最も印象に残るのは、まだ希望に輝く瞳だ。表情は使命に燃え、生き生きとしている。そんな彼女に俺は丁寧に頭を下げた。
「巫女様に淹れて頂いた珈琲が、染み渡ります」
「また、そういうこと言う!」
 頬を膨らませて怒りを露わにする彼女に、俺は『はいはい。フェイ。ありがとう』と言った。投げやりだったが感謝の言葉に悪い印象は受けなかったようで、彼女…フェイは『そう言えば良いの!』と年上ぶった口調を言いながら窓の外を見る。
「雪は止みそうに無いわね。折角、ヨハンにロケットエンジンの材料を取ってきて貰おうと思ったのに…」
「あのなぁ。工場手前の駐車場でも遭難できるぞ?」
 この工場の手前には何台もの車が放置されているというのに、豪雪とも言えそうな雪のヴェールに遮られ影すら見えない。極寒の気温に雪。遭難したら待っているのは死しかない。この世界に、助けてくれる他人など存在しないのだ。
 俺は暖炉の薪を足す。もともと燃えていた薪が、飛び込んだ新入りを受け止めてぐずりと崩れた。
「今日はロケットの材料集めは休みだ。フェイだって俺が死んで、人手が足りなくなるのは嫌だろう?」
 フェイが非難の声を背中に投げてきたが、俺は意に介さず私物が積み重なった棚に向かう。フェイが来てからというもの、整理をする暇がなかったので棚から物が溢れて雑然としていた。どれもこれもが正常に動かないガラクタであったり、酷く汚れた何かであったり、誰が見てもゴミとしか思えないようなものばかりだ。
 ふわりと野球ボールほどの大きさの光が、手元を横切った。指先が触れてしまうと " 宇宙へ還りたい " と女性の声が脳を貫いた。ぐらりと傾いだ体を支えるために慌てて箱に手をかけるが、ただ置いてあるだけの箱。俺の体重を支えられるわけがなく、倒れた俺の上に容赦なくガラクタの詰まった箱がひっくり返った。もうもうと上がる埃と共に、光がワッと舞い上がる。
 " まだ、ロケットは上がらないのか? " " ヨハン、慌てるんじゃない " 次から次に声が脳天を揺さぶって、俺の頭の中に何十人もの人間が入り込んだような言いようのない不快感がこみ上げてくる。グラグラする世界に、ガラクタの下敷きになった不甲斐なさが不機嫌さに変わって、俺は声を荒げた。
「うるさい! あっちにいけ!」
 光の玉は散っていく。別に光の玉は振り上げた手に、逃げていくわけではない。触れた感触はなく、触れた瞬間に触れた光の玉の声が頭の中に流れ込んでくるだけ。光の玉はどんな罵詈雑言にも反応せず、同じ言葉を吐き続ける。まるで壊れた音楽プレイヤーのようだった。
「また、魂達に怒鳴っているの? 懲りないわねぇ」
 フェイの呆れた声が降ってくる。大丈夫? と差し出された手を取らず、俺は体を起こした。
 本当に恐ろしいことで、腹の底からこみ上げてくる怒りだというのに、フェイの呆れた様子には頭が冷えるほどの理解があった。フェイも光の玉として周囲を漂う魂たちの声が聞こえる。いや、本来ならば『宇宙教の巫女』こそが、魂が見え声が聞こえるのであって、俺みたいな一般人の男が魂が見聞きできることが普通ではないのだ。
 生まれた時から魂達が見えていたわけでも、声が聞こえていたわけでもない。最初は気のせいと思うような雑音であったり、ランプの光に照らされた埃の類かと思う程度の些細な変化だった。それが、日を追うごとに鮮明になって今に至る。
 気が狂いそうだ。
 このカッと体の奥底から沸き上がる怒りに癇癪を起こす様は、発狂と言って良いと思う。いっそ狂って何もかもわからなくなってしまえば良いのにと思ったこともあったが、魂達の声が頭に流れ込んでくる不快と苦痛は耐え難いものだった。非常に強い悪意のある霊魂に晒されると、気を失うことはあっても死ねはしなかった。
 俺は狂って死ぬこともできず、ただこうして魂達を追い払いながら生きている。
「うるさいんだ。ただただ、うるさいんだ…!」
 俺は椅子に座り、耳を塞ぎ、頭を抱えるように蹲った。親父が工場が爆発した時はこうやって身を守るんだぞって、教えた仕草に似ている。フェイが傍に歩み寄って何かを言っていたが、いつも言っている言葉と変わりないだろうと思って耳を塞ぐ手を外さなかった。
 フェイの手が背中を撫でた。防寒着の上から小さい手の感触が、ゆっくりと上下する。冷たいフェイの手が温まってくると、俺の気持ちも落ち着いてきた。顔を上げると、フェイの心配している瞳と目があった。
「温かい飲み物、入れようか?」
「いや、いい」
 俺は重い息を吐き出してゆっくり手を外した。
「ねぇ、ヨハン。これなぁに?」
 床に落ちていた木で出来たロケットの模型を持ち上げて、フェイは子供のように手に持って飛ばしてみせる。おそらく、棚のどこかにあったのが、今の騒動で転がり出たのだろう。懐かしい気持ちがこみ上げてきて、俺は暖炉の明かりに照らされたそれを見上げて答えた。
「それは材木加工場のロジャーさんの作りかけのロケットだ」
「へぇー。よく出来てる。素敵なフォルムね」
 フェイはロケットの形にこだわりがある。フェイ曰く、『素敵な形のロケットは、空を超えて宇宙へ届く』のだそうだ。
「これで作りかけなの?」
 あぁ。俺は曖昧に答えて、棚の中をぶち撒けた時に見つけた薄いアルミニウムシートや小さい釘、木槌を広げた。ふわりと俺の背後に懐かしい気配が近寄った。
"ヨハン。俺の作りかけのロケットを仕上げてくれるのか? ありがとう…"
 声と共に鼻腔に広がるのは、あの木材加工場の木々の香り。天井にまで届く長く大きな角材、落ち葉のように積もったたくさんの木屑達。それらが織りなす木々の香りは、子供の頃には良い香りに思えなかったが、今では懐かしく心地よく感じた。寒くなって薪ストーブを使うようになったからだろう。
"ジェイソンにはピカピカのロケットを作ってやりたかったんだ"
 知ってる。幼馴染のジェイソンは、この前誕生日パーティをしたばっかりだっていうのに来年のプレゼントの話をしていた。ぴかぴかで、皆の顔が映って、すげーかっこいいロケットを作ってもらうんだって、それは楽しげに話していた。顔を赤くして目を輝かせて語るジェイソンからも、今思えば木の香りがしていた。
 馴染みのない木槌が、もう何十年も持っていたように手にしっくりと馴染む。アルミニウムシートをロケットに巻きつけ、木槌を当ててシワを伸ばしていく。何度も何度も打ち付け巻きつけていくと、木の凹凸にアルミニウムが滑り込み光沢を増していく。仕上げに小さい釘を打ってぐっとロケットらしく仕上がった。
 あぁ。俺の声とロジャーさんの声が重なった。
 目の前にはこの部屋の全てを映し込んだ、歪みもシワひとつない鏡のようなボディをもったロケットがそこにあった。暖炉の光がまるで夕焼けのようだ。昔、発射台にセットされたロケットを毎日のように見上げていたな。星がぽつぽつと現れだす空の下、最後の日の光を反射する姿が鮮やかに脳裏に蘇った。
「綺麗ね。今すぐ飛んでいけそうよ」
 フェイの声が遠い。ロケットの前に噎せ返るような木の香りがする。
"あぁ、ジェイソン。ロケットだよ。俺とヨハンが作ったんだ。世界で一つのOPUS製のロケットだよ"
 小さな光がロケットの周りをくるくると回る。光が喜びにわっと膨らむと、光から手が出てロケットに触れた。懐かしい顔だった。どうして忘れていたんだろうと思うほどに、その笑顔を見ると懐かしさがこみ上げてくる。木屑をよく髪にくっつけていたよなと思えば、その頭は木屑だらけだった。
"すげー! 流石、工場の子だよな! ありがとう! ヨハン! 俺、このロケット宇宙まで持って行って、大事にするからな!"
 ロケットを持ったジェイソンを、ロジャーさんが抱き上げる。『ロケット発射ー!』とはしゃぐ息子を肩車して、父親が笑った。膨らんだ喜びが弾けると、幾千もの光の粒になってやがて寒々しい暗がりに溶けていく。
 ぽつんと残ったロケットから、微かに木の香りがした。