ラジオ

 最初に映らなくなったのはテレビだった。
 停波して映らなくなったテレビは、社員食堂や休憩室を兼ねた空間の特等席に鎮座したままだ。かつては工場の従業員とその家族が囲んだテーブルは雑然とした物置になっていて、その奥にひっそりと埋もれている。
 その次に消えたのはラジオが先だったか、新聞が先だったかは覚えていない。当時、もう情報は無意味なものだったからだ。小高い山の中腹にあった工場から、人々が少ない情報から導き出した憶測に縋って南下する様子を俺は日々眺めていた。雪が舞う中でも厚着をした人々が黒く見え、まるで死者の葬列のようだったのを覚えている。
 世界がどうなってしまったのか。それは、もう、誰にもわからない。
 俺は空を見上げた。薄暗い曇り空から止め処もなく雪が舞い降りてくる。今日は先日の大雪に比べればマシだが、最高気温でも氷点下を脱することができないの世界で長く野外活動はできない。夜になれば更に冷え込み狼が出るので、野宿など考えられなかった。雪は常に降り続け、世界は白く霞んでいて、俺の知る限りの世界は生まれ育った工場の敷地くらいになっていた。
 ざざっ…。
 雑音が腰のあたりから響いた。懐かしいラジオの音を思い出す。
『もしもしー。ヨハンー。聞こえるー?』
 俺は防寒用のコートの裾を捲り、腰のベルトに固定したトランシーバーを取り出した。フェイが一月をかけて直したトランシーバーは、工場で使っていたものだった。記憶の中では両手で持たなくてはならぬほどに大きかったのに、今はしっくりと手に馴染む。
 雑音から飛び出してくるフェイの声は、壊れたレコードのように俺の名を呼んでいる。応じなければいつまでも呼ぶのだ。
「聞こえてる。どうかしたか?」
『お昼、どれくらいに食べれそう?』
 フェイは工場で先日外した車のエンジンを、ロケットのエンジンに改良している。俺が外に材料を集めに出かけているのを気遣ってか、フェイは食事の支度をしてくれる。手の込んだ料理が作れるわけではないが、暖かいご飯が食べれるというのは嬉しいことだ。
 懐中時計を取り出して見ると、時刻は早い昼食という頃合いだ。山の斜面に倒れている風力発電の風車を解体し始めて、今1枚目の羽根を外し終えそうなところだ。フェイの話ではロケットの尾翼に最低2枚は必要らしいが、今後もロケットを作り続けるのであればあるだけ良いとのお達しだ。昨日は1枚を1日がかりで外したばかり。ノルマのもう1枚を外すのにも、要領を得たとはいえ早朝から今まで4時間は掛かっている。欲を出して、もう1枚を外し始めるのは得策ではない。
「あと2時間ほどしたら戻る」
『分かったわ。作業、気をつけてね』
 雑音がぶつりと途切れると、再び耳が痛くなりそうな沈黙が包み込む。俺は作業を再開し、1枚をようやく外すことができた。風車には3枚の羽根が付いて、残り2枚は倒れた時に破損したのか大きくひしゃげていた。この風車からは素材を得ることは難しいだろう。
 鋼鉄製だろう羽根は、長年雪や風に晒されながらも塗料が剥がれることも錆びることもなく良好な状態だった。ずっしりと重く、かなりの厚みを持った頑丈な羽根だ。昨日持ち帰った時、フェイは大満足と飛び跳ねていたな。
 魂がふわりと俺の傍にやってきた。運搬用のソリに羽根を固定するのを見守るように、ふわふわとそこにいる。『ロケットを作るのに必要なのかい?』聞き覚えのある声が、俺に触れて訊いてきた。
 ロケットを作る。フェイが言い出したことを手伝っているに過ぎない俺は、なんとも言いようがなかった。ロケットなんか、大嫌いだ。しかし、この雪に閉ざされた世界で、することはなにもない。暇だから、ロケット作りを手伝っている。
 ただ、それだけのことだった。

 フェイは風車の羽根を手に入れた後、ロケットを完成させるのに3日を費やした。小柄な少女がちょっとした貨物自動車サイズのロケットを作り上げる後ろ姿は、誰もが驚くだろう。だが、驚いてばかりはいられない。フェイがロケットの製作に集中できるよう、雪かきや、飲み水や食事の用意、暖炉の火の面倒といった家事全般を俺が引き受けねばならない。下手をすると徹夜で作業することもあるので、寝るよう声をかける余計な仕事まであった。
 テーブルの上にはフェイが製作したロケットの図面が広がっている。ロケットエンジンは車のエンジンを代用し、風車の羽根を改造した翼が風を捉えて浮力につなげる。計算ではこのロケットで大気圏をギリギリ超えるか超えないかあたりを目指すことが出来るはず、そうフェイのメモが貼り付けられている。
 この世界には『地球教』という宗教がある。そして地球教の葬儀は特別なものだった。死して魂となったものは、宇宙へ還り、銀河で再会する。『宇宙葬』と呼ばれた葬儀は定期的に行われ、多くのロケットが魂を宇宙へ送るために舞い上がった。
 その『宇宙葬』を取り仕切るのが『巫女』と呼ばれる女性達。巫女は魂を視認し、その声を聞くことができる特別な存在だ。巫女は魂を宇宙に送り届け、地上で生きる者の魂を慰める。俺も遠巻きに見たことがある。年上だったが、ごく普通の女性だった。そう言って、親父にこっぴどく叱られたな。
 そんな巫女の一人であるフェイだが、まさかロケットを作れるとは思わなかった。
 フェイ曰く。『技術と礼儀作法を身に付けた者だけが巫女と呼ばれる』のだそうだ。
 完成したロケットを、工場の中央にある発射台に取り付けるのに丸1日。発射できる天候になるのに2日待たなくてはならなかった。
 そうして迎えた発射当日。雪は珍しく止んでいて、風は凪いで穏やかな日だった。だが、俺の心は全く穏やかではない。ロケットが発射されることを察したのか、大量の魂達が工場周辺に集まってきていた。俺が知る最後の宇宙葬もお祭りのようだったが、今、工場に集まっている魂の密度は当時集まった人々を軽く超えている。
 多くの魂がロケットを見上げ、自分達がついに宇宙へ還れるのだと喜ぶ声がずっと脳髄を揺さぶっている。
「あぁ! うるさい! あっちへいってくれ!」
 いつもならパッと散って消えてしまう光だが、それは少し離れた所で止まる。暫くすると発射塔ににじり寄り群がるのだから、イタチごっこもいいところだ。その様子をフェイが呆れた顔で見下ろしている。
「ロケットが打ち上がりそうだって、集まってきているのよ」
「もう3日間はこれだ! 頭がおかしくなってしまいそうだ!」
 子供の頃には見えなかった魂が見えるようになった時から、とっくに頭がおかしくなっているとは思う。だがロケットを発射台に取り付けた頃から集まりだした魂達は、常に体のどこかに接触する程の密度になっていた。眠ることすら出来ない俺は、追い詰められていた。
 俺はニット帽を外して、頭を掻きむしった。頭の中に入り込んだ魂をそれで取り出せるとは思えないが、それでも掻きむしった痛覚と氷点下の空気は気分転換になる。
「ごめんね、ヨハン。まだ、貴方の苦しみを取り除くことはできないの」
 フェイの声に見上げれば、フェイは発射台の上から工場の敷地を見下ろしていた。魂達が彼女にも纏わり付いているが、表情一つ変えないところが巫女らしく神秘的に映った。
「でも、これは大事な一歩。このロケットは秒速8kmを突破できるはず。打ち上がって目標高度である上空120kmに届けば、次はいよいよ宇宙葬をするためのロケット製作を行えるわ」
 梯子を降り、フェイに促されて発射台から離れる。発射台がよく見える位置にある物置小屋には、発射ボタンをはじめ、観測に必要な機材やロケットの状態を映したディスプレイが所狭しと置かれている。ここにも、先客である魂達が犇めき合っていた。
「うぅ…。奴らが騒ぎ出したぞ。…わっ!近寄るな!!」
「ほらほら、ヨハン! 彼らの声が暫く聞こえなくなるかもしれないのよ! 楽しみでしょう! 辛抱辛抱!」
 よしよしと言いたげに、俺の肩をフェイがポンポンと叩いた。この小柄で、絶対に年下だろう少女に子供扱いされるのは、なんとなく納得がいかない。巫女様には子供から老人まで幼く見えるのだろうか? 俺には良く分からない。
 フェイは手を組み、祈りを捧げる。彼女の賑やかな声は、静かな祈りの声に変わる。
「…貴方達を銀河へ送ることは、まだ私達にはできません。でも、この打ち上げは貴方達を銀河へ送るために必要なのです。どうか…それを理解してください」
 微動だにせず祈りを捧げる手がようやく離れると、その指は軽快にコンソールを叩く。ディスプレイに映る様々な情報が、フェイの黒い瞳の上を目まぐるしく滑っていく。
「燃料…OK。機動角度調整…OK。尾翼方向板テスト…OK」様々な確認事項に、フェイがOKを下していく。
「フライトレコーダー機動」フェイの声にフライトレコーダーを起動させる。ディスプレイのフライトレコーダーの項目が『OFF』から『ON』に変わる。「確認」と応じる。
「アクチュエーター」ロケットに血が通うように、ディスプレイに様々な情報が映し出される。確認に必要な項目は動いているので「確認」と答える。
「天候状況」天候は素晴らしいロケット打ち上げ日和だ。珍しく晴れた空には、月だけでなく星も見える。風は凪いでいて、粉雪ひとつ舞い上がらない。「確認」と伝える。
「イグニッション」無音の空間にエンジン音が響き始めた。その音は雑音がなく力強く響く。「確認」と返す。
「荒涼とした地に祝福を。銀河に留まる幸福を。尊き地球よ! 発射!」
 ボタンが押され、ロケットを固定する部品が瞬く間に外れていく。それは月の光を受け、飛び上がる光の鳥のようにまっすぐ天へ向かって舞い上がった。今までの失敗したロケットとは異なり、途中でぐにゃりと軌道を変えたりも、変な黒煙を出すことも、空中で分解することもなく、何の迷いもないように遥か彼方を目指していく。隣でフェイが高度の数字を歓喜の声で読み上げるが、その数字は大きくなるばかり。ついに100を超える。
「ヨハン! メーターを見て! ヨハン! ヨハンったら!」
 ガクガクと俺を揺らすフェイに、いつもだったら怒るだろう。だが、俺はそれどころではなかった。
 先ほどまで眩しいとすら思っていた、視界にいる夥しい魂達がいなくなっている。触れるだけで脳髄を揺さぶる声が、今は一切聞こえなくなっていた。声が聞こえるようになって、魂の気配を感じるようになって、初めての感覚だった。
 俺は魂を宇宙へ還す『宇宙葬』の存在を疑っていた。
 なにせ、魂とは見えないものだ。ロケットが魂を連れて宇宙へ行くなんて、宗教上都合のいい脚色なのだと思った。ふわふわして重みのない連中だ。宇宙へ勝手に舞い上がってしまえるだろうと、俺は心の中で思っていた。
 だが、目の前でロケットは宇宙に向かい舞い上がった。
 そして魂が見える今だからこそ、分かるのだ。そのロケットが輝いて見えるのは、数えきれぬ魂達がロケットに乗っているからだ。軌道が輝いているのは、魂が今まで生きた大地を名残惜しむ残滓だった。彼らの別れの想いは、粉雪のように大地に降り注ぎ消えて行く。
「本当に消えた! 声が、聞こえなくなった! 尊き地球よ! 感謝します!」
 まるで何もない雪原に一人立っているような清々しさが、一抹に残った寂しさを吹き消した。魂達から解放されたという事実が、代え難い喜びになって体を駆け巡った。
「そんなに喜んじゃ失礼だって…」
 フェイの呆れた声が空中に溶けた頃、『あ』と声が漏れた。
 それは大粒の雪のように、星がこぼれ落ちてくるように、無数の魂が落ちてくる。なぜ、落ちてくる。どうして、戻ってくる。宇宙にあれほど行きたがっていたじゃないか。
「なんで…。なんで、戻ってくるんだ!? フェイ!」
「成層圏を抜けられないのに気がついたのよ。ま、今回は送り届けることが出来ないってわかってたから、戻ってくるのも分かりきっていたけどね」
 魂が戻ってくる。魂の感情が、暴力のように脳に直接訴える。帰りたい。還りたい。その想いが、深い絶望になって膝が折れそうになった。
 倒れそうな体を支えるためにとっさに掴んだキーボードが、甲高い音と破片を撒き散らす。フェイが驚いて俺の肩に手を置き、俺の顔を覗き込んだ。夜の闇のような美しい黒に、白髪の中年の男が映り込む。
「…フェイ。ロケットを作ろう。この魂達を宇宙へ送れば、俺は、俺は解放される…」
 ラジオを手に、俺は両親を待っていた。まだ生きているかもしれない電波から、両親の情報が流れ込むと信じていた。
 だが、いつまで待っていても両親は戻ってこなかった。
 世界がどうなってしまったのか。それは、もう、誰にもわからない。
 だが、この夥しい魂達を見て感じていると、どうなってしまったのかは何と無く分かってしまうのだ。もう、待つことに意味なんかない。俺は、俺が最も苦しんでいることから解放されることを優先して良いと思うのだ。
 一瞬見開かれた瞳は、ふと細められた。紡がれた言葉とは裏腹に、その表情は硬かった。
「ありがとう。ヨハン」