OPUS工員の胸章

 OPUSのロケット工場の敷地は、空いているところは殆どが駐車場だった。工員の自家用車、工場の部品を運ぶトラックやロケットを移動させる重機が所狭しと放置されている。その殆どが雪に埋もれて、見上げるような雪山になっている。
 そんな雪山の前を魂の光がウロウロとしていた。それは昨日今日の話ではなく、俺がその魂の存在に気がついて一週間は経っている。
 いったい、何なんだろう。
 俺が魂と視認する光は、雪のように緩慢に動き、この薄明るい世界に溶け込むようにぼんやりと光っている。雪の照り返しに気がつかず、うっかりと触れて声と感情が雪崩れ込んで来て困るくらい見分け難い。触れてしまっても寝起きのような主張の少ない感情や、宇宙へ還りたい懇願ばかりで、聞き流すこともできた。
 しかし、魂達の全てがそれに当てはまるわけではない。
 周囲に害意を向ける魂は、その怒りが色に出ているかのような赤い光を放つ。まさに警告灯だ。触れてしまった時は魂の激しい怒りに脳みそを掻き回されたような激痛が走り、その場に倒れ込んでしまう。この極寒の世界で一時間でも気絶していたら凍死してしまうので、滅多に出会さない狼よりも恐ろしい存在だろう。幸いな事に赤い光を放つ魂は、他の魂と同じく動きが緩慢だった。夜に爆発的に増える傾向はあったが、工場に入り込んで来たことは今だにない。この危険な赤い魂は、気をつけさえすれば防げる災害だった。
 目の前の魂は赤くない。色はよく見る乳白色だ。
 しかし、魂にしては機敏だった。あっちへふらふら、こっちへふらふら。敷地の隅の雪山の周囲を徘徊している。大抵の魂はその場に留まっていることが多かったので、動き回るだけでも普通ではない。
 何だろう? 変なのだから、当然疑問に思う。
 フェイに聞いて見るべきだろうか? だが動きがおかしい魂がいるだなんて言って、フェイはどうするだろう? 『そうなんだ』と言われて、おしまいな気がする。フェイと俺とでは魂に対する認識が違うんだ。俺はこんなにも苦痛であるのに、フェイは特に気にしていない様子なのだ。なぜなんだ? 巫女は特別なのかもしれない。俺はそう思うしかない。
 フェイは頼れない。なら、自分でどうにかするしかない。
 魂を無視し続ければ、いつか消えるかもしれない。そんな無難な例え話と、魂が何をしているのか気になっている自分の好奇心がせめぎあっている。
 俺はちらちらと振り続ける粉雪がまとわりついて、氷像のように固まった体を励まして動かす。甲の部分まで埋まった長靴を雪の中から引き抜き、真っ白な誰も踏み込んでいない新雪に埋める。長靴が完全に埋まり膝まで雪が来た。俺は仕方なく背に背負っているスコップを取り出し、杖代わりにしてさらに進む。少しの行進であったが、雪の中を進むのは重労働だ。俺は汗はかかないものの、体が熱さを感じる程度に温まったのを感じた。
 魂は相変わらず、雪の山の手前で右往左往していた。
 やはり、何かを探しているような動きだ。明確な意思と行動が見える魂を、俺は初めてはっきりと認識した。
 赤い魂と違って、触れたとしても少し嫌な思いをするだけだ。俺は、そう自分に言い聞かせて魂に手を伸ばした。光は暖かさも水のような感触も感じさせず、まるで空気のように指先を飲み込んだ。
 頭の中に魂の驚きが流れ込んで来た。にじり寄って来た俺に気がつかなくて、いきなり触れられて弾かれるような強い驚きだった。驚きの声がなかったのは有り難かった。頭の中に大音量の悲鳴が流れ込んだら、頭が割れて死にそうな思いをするからだ。
 まるで熱湯に触れたように下げた手の向こうで、魂は動きをピタリと止めて留まっている。魂には感覚がないので、俺の姿は見えないのだ。触れた奴はどこにいるんだ? 微細な明滅が探るような感情を表しているように見えた。
 ここまで来て、これで終わるわけにはいかない。
 俺は再び魂に触れた。驚かされた相手が俺である事を理解した安堵が、暖かい空気を認識するように柔らかく伝わって来る。そして俺を認識した事で、喜びが魂から湧き出た。
『ヨハンか?』
 懐かしい声だった。誰だったか名前まではわからないが、聞き覚えが確かにある若い男の声だった。
『なぁ、ヨハン。俺の工員バッジ知らないか?』
 工員バッジ。その言葉に俺の胸にひやりとしたものが流れた。工員バッジとは、OPUS工場の関係者に支給される胸章の事だ。作業をする工員、事務をする事務員、配送を担当する配送担当員、賄いを作ってくれるコックまで、全員が付けていた。そのバッジを持っていたという事は、この魂はOPUS工場の関係者であり俺の知り合いなのだ。
『あぁ、無くした事がバレちゃったら、メイソンさんに怒られちゃうよ。メイソンさん、怒ると怖いんだよなぁ』
 言葉の割には魂から嘆きの感情は流れてこない。メイソンさん、つまり俺の父親に怒られる事は、それ程恐ろしい事ではないようだ。しかし、指先を氷に付けているように、じわじわと痛みを伴うような後悔の念が押し寄せてくる。
『俺さ、体調崩しちゃってから迷惑かけっぱなしじゃん。最初はちょっとした風邪だと思ったんだけど、ちっとも良くならないんだよ。早く現場に復帰して頑張らないといけないのに『バッジ無くしたんで、もう一回貰えませんか?』から始めなきゃいけないなんて恥ずかしいだろ?』
 俺は目を見開いた。
 この魂は疫病の事を知らない。OPUS工場の関係者でも、かなり最初の頃に疫病で死んだ人なのだ。
「あ、あのさ…」
 声が掠れている。空気が乾燥しているからだけではない。目の前の魂が誰だか分かる事、それ自体が、俺が長年目を逸らし続けていた記憶の蓋を開ける行為に違いないという恐れもあった。
「俺も、ちょっと心当たりを探してくるよ」
『あぁ。頼むぜ、ヨハン。工場の中でお前が知らない所なんて無いもんな…!』
 ぱっと魂の光が明るくなった。工員達は、皆、俺に優しかった。俺に向ける笑みのように輝いた光は、俺の胸を抉った。

 まず始めたのは、工場の物置と化していた空間の荷物を退ける事だった。ダンボールに押し込まれた、一人の人間の一生には多すぎる配給された缶詰や乾物を退ける。あまり必要じゃなくなった調理器具、衣類や毛布の類が入った箱を動かす。書類の束がまとめられた箱、見覚えのある誰かの私物が詰め込まれた箱、奥へ行く程に過去へ遡るように懐かしいものが現れてくる。
 そしてついに手を止めて見上げたのは、俺の背丈ほどはある大きな金属の板だった。
「何、これ?」
 騒ぎを聞きつけ見にきたのだろう。振り返るとフェイが板を物珍しげに見ていた。
 余り物の材料で出来ているのが傍目から分かるほどに歪な形。長年放置されて埃だらけで、点々と蝕む錆が歪さを更に際立たせた。板はしっかりした土台に溶接されている。濡らした布でざっと埃を払うと、そこには沢山の何かが刻まれていた。
「これは、OPUS工場の従業員の追悼碑だ」
 フェイは名前を覗き込むように板の前に歩み寄った。
「宇宙葬が出来なくなって宇宙に還れなくなったから、せめて生きた証を残そうって作られたんだ」
 名前は細かい文字で、名前と生まれた日と死んだ日が刻まれている。その人数は俺の背丈もある板の上から下までびっしりと書き連ねられていた。最初は従業員だけが刻まれていた名前が、いつしか従業員の身内にまで及んで増えに増えたのだ。最後の方は名前と生まれた日付だけ刻まれて、死んだ日は刻まれていないものが並んでいる。
 フェイは刻まれた名前を慈しむように撫でて行く。目を閉じ、祈るように静かに呟いた。
「尊き地球よ。魂達に安らぎを与え給え…」
 俺は板の一番上の名前の埃を払った。祈っている最中のフェイに埃が降り注ぐ。
「こら! ヨハン! お祈りの最中でしょ!」
「祈るなら外で漂ってる魂達にしてやれよ」
 怒って背中を叩いてくるフェイを無視して、俺は一番上に刻まれた名前を見た。『アレクシス』と刻まれた文字が、俺の記憶の蓋に掛けた鍵を外したらしい。かちゃり と、音すら聞こえそうだった。溢れだした記憶に、俺は呻くように呟いた。
「そうか…彼はアレクシスだったのか…」


 □ ■ □ ■


 OPUS工場の敷地を出たのは、何年振りだろう? かつてはマルクスタウンの誇りとすら言われたロケットの発射台は、もう倒壊していて影も形もない。ロケットを運搬する為の大きな道の雪は吹き払われており、長年誰も使ってないにも関わらず驚くほど歩きやすかった。スノーブーツに自作したアイゼンを取り付けて歩き続ける。ザクザクとアイゼンが凍った雪を掻く音が、耳が痛いほどに静かな世界に響いている。雪は世界の音を覆い尽くす。風が吹いても木々が騒めく事もなく、寒さは動物達の活気を封じ込めた。
 俺はアレクシスのOPUS工員のバッジを探しに、教会を目指していた。
 アレクシスのロッカーには、私物が残っていた。彼が亡くなった時に家族に連絡を試みたが、彼には身内らしい身内がいなかった。宇宙へ還る前に執り行う地上での葬儀に参加したのは、ようやく連絡のついた数名の旧友だけだった。結局、彼の私物は引き取られることなく工場に残っている。
 その私物の中にアレクシスが探している、OPUS工員のバッジはなかった。工場の職員全員に配布されるバッジだ。捨てられるとはとても思えない。私物と一緒に無いなら、別の所にあるはず。そこで思い当たったのは、アレクシスを火葬した火葬場だった。火葬場は引き取り手のない遺骨を保管する場所があり、その棚から宇宙に還れない幽霊の手が出てくると子供達の間で実しやかに囁かれていた。
 私物すら引き取られなかったのだ。遺骨と共にバッジがあるかもしれない。
 ふと、風が弱まった。見上げれば鬱蒼と茂った森に足を踏み入れつつあり、見覚えのある建物が目に入った。
 森に埋もれるようにある平家を3つ連ねたような教会の入り口には、朽ちかけた『22』の板が掛けられていた。真ん中の礼拝堂は天井が崩れ落ちていて、祭壇のあたりはうっすらと雪が積もっていた。寒さは無理だが、周囲の森のおかげで雪と風は凌げて、倒壊を心配する必要はなさそうだ。祈りを捧げる為か多くの魂が集まっていたが、心静かに祈っているのか触れても言葉にならない微かな感情が撫でるだけ。休憩をするつもりだったので助かる。
 俺は目の前の朽ちかけた礼拝堂を見た。今でも、整然と並べられた椅子と、綺麗に磨かれた床板を重ねることができる。祭壇は司祭様が綺麗にしていて、美しい生花が飾られていた。寒くなり花が手に入らなくなっても、造花が飾られて華やかだった。
「もう、来る事もないと思ってたんだがなぁ…」
 アレクシスは、OPUSの工場で最初に疫病で死んだ人だった。昨日の事のようにアレクシスの葬儀を思い出せる。
 黒い余所行きの服を着た幼い俺は、ひたすらに泣いていた。
 OPUSの工場で生まれ育った幼い俺には、まだ工員と家族の区別がつかなくて、アレクシスの死は衝撃だった。配送の仕事に携わっていたアレクシスは、外で遊んでいる俺を見かけると車の窓をわざわざ開けて手を振ってくれていた。笑顔が眩しくて快活で、絵に描いたような兄貴分だったろう。ちょっと詰めが甘いのか、父さんによく怒られていたので余計に兄と当時の俺は感じたのだろう。
 アレクシスは健康な男だった。重い箱を二つ同時に運んで見せ、夜遅くに戻って早朝に出ていく時も不平不満ひとつ零さない。俺が知る限り、アレクシスは病欠したのは死ぬ時の病気の時だけだった。
 元気だったアレクシスが病気で床に伏せるようになって、職員達は代わる代わる看病した。俺も食べ物や飲み物を持って行き、元気な時はボードゲームをして遊んだりしたものだ。しかし、病気は一向に良くならない。咳はどんどん酷くなり、熱は下がらない。食べ物を受け付けなくなり、見る見る痩せていく。マルクスタウンの診療所の女医さんに何度も往診に来てもらったが、首を傾げている間にアレクシスは死んでしまった。
 まだ、疫病であると知らない頃で、治り難い風邪を拗らせて死んでしまったと誰もが思っていた。
 葬儀が終わって周囲を見回した時、誰もが驚いた。アレクシスと同じ症状の病気が流行っていたのだ。教会では地球教の礼拝の集会よりも、葬儀の回数が多くなった。そのうち、人が何人も死にすぎて葬儀自体か行われなくなった。
 疫病大流行。パンデミック。そんな言葉が新聞の一面に大きく書き出された頃には、全てが手遅れだった。街の大小に関わらず、病気は世界中に拡散して行った。人から人へ感染するのだと知れ渡れば、互いに疑心が芽生えた。感染している人が列車に乗れば、その列車に乗っている人全員が隔離処置される。医師は倒れ、助かる見込みのない疫病は世界中の人々を呑みこむ勢いだった。
 ………。
 少し、疲れが取れた気がする。俺は立ち上がり、何億、何兆と祈りを受け止めてきただろう祭壇を見上げた。
「尊き地球よ…」
 祭壇は雪を被り、うっすらと輝いてすらいた。
「魂は…いつになったら救われるんだ?」
 死んだ後も工場の職員の証を探し求めているアレクシスが、俺は哀れでならなかった。地球は、俺達に何もしてくれない。フェイの手前では言えないが、なぜこんな宗教が存在し、誰もが信じていたのか、俺には全く理解できなかった。

 教会に併設されるように、火葬場はあった。
 魂達の気配がする。啜り泣く声と嘆きが、さざ波のように満ちている。
 火葬場は煉瓦造りの頑丈な建物だった。屋根にかなりの雪が積もって半分は倒壊しているが、火葬場の形はまだ留めていた。最後に燃やされたのは誰だっただろうか? 焼却炉はひしゃげているものの、瓦礫の隙間から燃える炎が覗ける鋼鉄製の蓋が形をとどめていた。あの地球教を象徴する紋章を、俺はよく覚えてる。
 残された壁には沢山の戸棚が据え付けれられていた。燻されているのか真っ黒になっている。『ここは地獄に繋がってるんだぜー!』幼馴染のティムの声が聞こえた気がした。そんなはずないのに、恐ろしくて入って来れなかった気がする。
 棚の一つを開けると、名前と日付が書かれた軽い箱がたくさん入っている。一つ持ち上げると、カラカラと軽い音がした。戸棚は良く整頓されていて、俺は焚き火を起こす必要性を感じる前に目的の箱を見つける事ができた。
「アレクシス」
 ラベルの文字を読む。死んだ日付は工場の石碑で確認した日と同じだ。
 軽かった。
 見上げるほど大きかったアレクシスが、片手で持てる程の大きさと軽さである事がとても不思議でならなかった。病気で死んだアレクシスは眠るようだった。火葬場の扉を開けて嘘でしたと笑うかもしれないと、期待した当時の気持ちが湧き上がって来る。
 俺もよく泣いた。なぜ死んだ人を燃やすのか、分からなかった。だが、何度も何度も繰り返すうちに、感覚は麻痺し涙も流れなくなった。それは俺だけでなく残されていく人々の誰もがそうだった。皆が乾いた瞳で、炎を見つめていた。近いうちに、自分も燃やされるのだろうと心の何処かで思っていた。皆、死ぬのだ。明日は自分だ。そんな諦めに似た気持ちが、凪いだ水面のように心を満たしていた。
 死んで、しまったんだ。
 アレクシスの重さが、今更に実感させてくれる。
「どうして、こんなことになってしまったんだろうな?」
 言葉を紡いだ拍子に箱が傾いたらしい。軽い物の他に、重い物がごろりと動く手応えがあった。箱を開けると、白い様々な形の底に、黒い塊が見えた。煤にまみれ黒焦げていたが、指で擦るとOPUSの社章がかすかに見える。
 OPUS工員のバッジは、ロケット工場らしくロケットと同じ素材を使っている。大気圏に突入しても燃え尽きない、頑丈な金属板を加工しているのだ。人を骨にするような火力で溶け落ちるような、柔な代物ではいのだろう。綺麗にして、アレクシスに返してやろう。
 黒焦げのバッジを胸のポケットに落とし込む。
 バッジを渡した時のアレクシスの反応が、今からとても楽しみだ。