奥さんからの小包

 何時になったら終わりが見えるの…。
 暗闇の中でもがくような絶望の中で、ひたすらにそう思っている。日が昇り雪が散らつく雲が明るくなろうと、日が沈み全てが闇に沈み積雪が白く浮かび上がろうとも、疫病は私の元に駆け寄ってくる。日々がこうして過ぎているのに、終わることを知らない絶望の連鎖が深く深く人々を傷つける。
 絶望の始まりは誰だったのかしら。そう、OPUS工場のアレクシスさんだったかしら。彼は初診の患者で、既往歴もない健康そのものの若者だった。真っ白のカルテに書き込んだのは、風邪の症状と、咳止めと解熱剤を処方すること。抗生物質はまだ必要としない程度だった。忙しい時期で仕事を休みたくない。そう訴えるアレクシスさんに、サラが『良いから休みなさい』と優しく窘めていた。私もそんな優しいサラの笑顔を見て微笑みながら、『大したことはない』『すぐに良くなるわ』と告げた。心の底からそう思った。アレクシスさんは健康で、体力のある若者であったから…。
 当時を振り返れば、似たような風邪の症状で受診した患者は多かった。
 ただ、彼は初診でかつ、めったに風邪もひかないという健康な若者だったから記憶に残ったのだ。
 彼の風邪はしつこかった。あまりにも咳が長引くので、肺炎や結核の検査を行った。微熱が続き、最初に出会った頑健な体格が日に日に窶れていくのが分かる。
 幼いヨハンが往診に来た私に尋ねる。
『ねぇ。アレクシスはよくなるの?』
 アレクシスさんの風邪がただの風邪ではない事は、薄々と感じていた。医師達の間ではインフルエンザの流行が囁かれていたが、今回は新型のインフルエンザなのではないかと不吉な噂が混ざっている。予防接種は気象コントロールセンターが、冬の季節に移行する予定日の一月前から始まる。流行る型を外せば爆発的流行は免れない為に、まだ新型の可能性は確定ではなかった。
 あぁ、幼くて我が儘なヨハン。本当のことをお話ししたら、貴方は大声で泣いて『そんなことない! 先生、アレクシスを治してよ!』って叫ぶのでしょう? そしてサラに怒られるのよ? そうしたら、もっと泣いて手がつけられなくなってしまうじゃない。
 でも、私は医者だもの。この小さいマルクスタウンに一つだけの診療所のお医者さん。だから、私が弱気になってはいけない。病気を治せるのは、ここには、私しかいないのだから。
 だから私はヨハンの前にしゃがんで、微笑んだ。
「大丈夫よ。先生が必ず助けてあげるからね」
 ヨハンの顔にぱっと笑みが満ちた。雪のような白髪が跳ね上がる毎にふわふわと浮かび、浅黒い腕は高く上げられる。目は潤んで、きらきらと輝いていた。大きく開けた口から、これまた大きく通る声が響く。
「やったー! せんせい! やくそくだよ!」 
 サラが遠くから『うるさいわよ、ヨハン』と声を掛けてくる。私の顔を見て『あら、ナンシー。わざわざ来てもらって、ごめんね。アレクシスを診たら、お茶でもいかが?』そう言ってくれる。鼻先を掠める焼きたてなのクッキーの香りが、甘い幸せを予感させてくれた。
 これから始まる絶望に比べれば、嵐の静けさのように穏やかな日々だった。病気が私達の真後ろで毒牙を滴らせながら笑っているだなんて、誰も知らなかったでしょうね。
 アレクシスさんが亡くなって間も無く、爆発的に似たような風邪症状の患者が増えた。診療所の待合室は座る場所もない程の患者が押し寄せ、寝床から身を起こせない重篤な患者の元へ往診に行く回数が増える。昼夜を問わず診療所の電話が鳴り響き、容体の急変や、死亡の知らせが飛び込んでくる。
 医師学会が爆発的流行・パンデミックを宣言した時には、マルクスタウンに疫病が蔓延していた。
 疫病は飛沫感染と接触感染により広まることが確定となり、人々の移動が制限された。特にヘミスは大都市で多くの人がいる為に感染が拡大し、移動制限は厳しくなっているという。これ以上流行が拡大すれば、へミスから出ることも叶わなくなるだろう。
 私はペンを取る。咳でペン先が震える。
 マルクスタウンでただ一人の医師。誰よりも患者との接触が多い私が、病気を発病しないわけがない。常に体温は微熱の値であり、いくら薬を飲んでも咳は続いて胸が苦しい。
 宛先はへミス総合病院のジョージ・スミス。
 あぁ、ジョージ。お願い。帰って来て。もう、私は駄目。この病気に罹って治った人は誰一人いない。この病気に罹ったら、もう死ぬしかないの。例外がないのを、私はよく知っている。だから、私は死んでしまうだろう。ジョージ、貴方は大丈夫なのかしら? もう、感染してしまって、私よりも重篤な症状なのかしら? でも、死んでいないなら、私達の子供を頼めるのは貴方しかいないの。
 手紙を畳み、現在の病気の状況と、診療所がいずれ機能しなくなるための引き継ぎの書類を収める。書類の量が多くて、ちょっとした小包の大きさになってしまったわね。これを、明日郵便局に出しに行こう。
 目を閉じて休んでいても、人々の咳が聞こえる。電話の鳴り響く音が幻聴となって眠りを妨げる。あぁ、今は昼なのかしら? 夜なのかしら? 疲労が蓄積しすぎて、熱に意識が朦朧として、誰を診察しているのか分からなくなる。でも、診察の結果を違えることなんてない。だって、皆、同じ疫病に罹っているんだもの…。
「せん…い…」
 誰? お願い。寝かせてちょうだい。熱と咳に体力が奪われて、気力で動いているようなもの。眠ろうとしても咳で眠りが浅く、熱が寝苦しさを助長した。まるで登校を嫌がる息子のように、体を丸め眠ろうとする。
「先生!」
 女性の声が聞こえる。緊迫した、救急の患者の予感が、私の医師としての使命感を奮い立たせる。
「お願いします! 私の声に応えてください!」
 誰だろう?マルクスタウンの人なら大抵声を覚えているはずなのに、知っている声ではない。私に触れた手はとても冷え切っていて、震える指先から彼女の緊迫した想いが伝わってくる。
『誰か具合が悪いの?』
 私は想像以上に落ち着いた声が出た。彼女が酷く張り詰めていて、彼女の大切な人が危険な状態にあるとわかる。だからこそ、医者である私は冷静でいなくてはならない。人生の半分以上、そんな生き方だったのが身に染み付いた結果だった。
 女性が言葉を詰まらせた。小さい嗚咽と共に大粒の涙を零しているのを感じる。
「ヨハンが…ヨハンが…」
 マルクスタウンでヨハンという名は数名。その中で緊急を要するような事を起こすような人物は、一人しか思い浮かばない。OPUS工場のヨハン。生まれた時から工場で暮らしている子供は、よく危険な場所に忍び込んだりしては怪我をした。材料の下敷きになったり、機械で火傷したり、今思えば五体満足でいるのが不思議な子だ。父親のマシューがヨハンを叱りつける怒鳴り声は、麓のマルクスタウンにまで届いていた。
『ヨハン? 工場の子ね。どうかしたの?』
 否定の声がないなら、ヨハンは工場の子で間違いないらしい。嗚咽で詰まる呼吸に、ヨハンの状況が良くないことが窺える。
「排熱ボイラーが爆発して…」
 排熱ボイラー。爆発。そう呟かれた言葉に、私は絶句する。
 爆発したということは熱波による重度の火傷、爆発して飛び散った金属片による裂傷、爆風に叩きつけられたことによる打撲が想定できる。排熱ボイラーにどれだけ近いかが問題ではあるが、女性の反応を見るに至近距離、状況は最悪と仮定して間違いはないだろう。工場にも応急処置の薬品や道具はあるが、あくまで医師が到着するまでの応急処置。事態は緊急を要するだろう。
 彼女は重傷を負ったヨハンを見てしまっているかもしれない。衝撃と混乱を鎮める為に、私はわざと口調を明るめに言う。
『また、工場でいたずらをしたのね。メイソンさんに、しっかり叱ってもらわなくちゃ』
「違うんです。私が…。私が悪いんです…」
 女性が己を責める声色で言う。深い後悔、ヨハンが死んでしまうかもしれぬ恐怖に苦しんでいる。今回ばかりはヨハンが全面的に悪い訳ではないらしい。
 私は話題を変える意味でも、女性に一番初めに聞くべき問いを口にした。
『貴女、お名前は?』
「フェイです」
 しっかりした、凛とした声。自分の名前に誇りを持っていて、多くの人に愛されているのが分かる。『良い名前ね』私はそう呟いて、診療所の奥に意識を向けた。そう、不思議と今いる場所は、診療所の診察室で、私は何時もの通りに椅子に腰掛けている気がするのだ。
『爆発があったということは、火傷と破片による裂傷が考えられるわね。奥の薬品庫の上から二段目の箱に、大きな容器があるわ。それは皮膚の乾燥を防ぐ保湿軟膏。火傷が深ければ乾燥させてはいけない。薬を切らさないよう、持てるだけ持って行きなさい。それから、一つ下の左に…』
 フェイが私の指示でいくつもの薬を薬品庫から取り出す。持てるだけ持っていくよう言った保湿軟膏だけでも、ずっしりと重いのか、小さく呻く声が聞こえた。ガーゼや包帯は工場に在庫があるらしい。アルミ製のチューブで密閉されていた薬品は、まだ使えそうだとフェイは応えた。
 指示を細かに伝え、フェイはそれをメモする。とても賢い人なのだろう。質問は医療従事者かと思うほどに的確で、熱心さは若き日のジョージを彷彿とさせる。フェイが書き込んだメモは何枚にも及び、互いに疲労感すら感じてしまった。
 それらを小包にまとめてフェイが立ち上がると、私に話しかけて来た。
「ありがとうございます。先生。私、必ずヨハンを助けてみせます」
 そう言われて、初めて私は椅子から立ち上がれない事に気がついた。足も手もない。どうなってしまったのか? 答えはずっと昔、ある瞬間から目の前にあった。私はとうに疫病によって死んでしまったのだ。
 死んだ後、魂と会話することの出来る存在がいる。
 巫女。魂を宇宙へ導く、尊き地球からの使者。
『フェイ。貴女なら、ヨハンを救えるわ』
 私は彼女の手に触れようと、手を伸ばそうとする。彼女が私に触れてくれた。
 大丈夫よ。先生が必ず助けてあげるからね。
 やったー! せんせい! やくそくだよ!
 昔交わした約束が蘇る。それが彼女にも伝わっていくのが分かる。私はフェイの手を包み込み願いを込めて告げた。
『医師としての知識が必要なら、何度でも質問しにいらっしゃい』
 不思議ね。死んだ後でも、こうして人の役に立てる事がある。それは人と魂を、地と宇宙を繋いでくださる尊き巫女の存在があるから。大いなる奇跡がそうしてくれているのだと、尊き地球への感謝で魂が満たされていく。
『ありがとう。フェイ。私達の声を聞いてくれて…』
 そして、ヨハン。
 あの地獄を生き延びたなんて、奇跡に他ならない。生き延びた貴方には辛い事だけれど、生きてくれてありがとう。
 尊き地球よ。フェイと、ヨハンに、ご加護を。