ダラスの警察バッジ

 粉雪が舞う世界は、白か黒しかない。誰もいないマルクスタウンも例外じゃなかった。
 OPUSロケット工場の麓には、マルクスタウンという小さな町が広がっていた。気象コントロールセンターが機能しなくなって季節が冬しか無くなってからは、烟る雪のスクリーンに昔の記憶を映していた。街路樹の間から見える赤や青の屋根、町の木々の果てに川が流れ、工場から見て右側はロケット発射台や祭壇へ登る整備された道が敷かれていた。幼い頃は晴れた日に人影を見ることすらできた。
 小さい町だった。
 幼い頃の俺を、町の人は『工場のヨハン』と呼んで可愛がってくれた。俺も名前は知らなくても、町の人全員の顔を知っていたと思う。小さい町だからこそ大都会と違って不便で、互いに色々と助け合う必要があったんだろう。町の大人達は皆、誰がどんな名前で、どんな顔なのかも把握していたかもしれない。
 そんな小さい町も疫病と寒さに南還していった。南の方が暖かい。そんな噂と厳しくなる一方の終わらぬ冬に、町の人は一時でも町を離れる覚悟を決めた。移動するルートが話し合われ、日程が決まり、それぞれに最低限の荷物と食料を準備した。そして疫病のせいで小さい町の多くない人口は、1日掛からず居なくなってしまった。
 寂しいとか悲しいとか、そんな感情は湧かなかった気がする。帰ってくる。元に戻るだろうと、必死に自分に言い聞かせていた。子供心にそう思わせたのも、マルクスタウンに残った人がいたからだ。
 俺と、地球教のペーター司祭様、そしてマルクスタウンの警察署のダラス署長。
 ダラス署長は毎日毎日、マルクスタウンを巡回した。1日に2回。南を目指して迷った人を案内するため、留守の家に忍び込んで盗みを働く輩から町の人の財産を守るため、残った司祭様や俺の様子を見るために署長は歩いた。雪の降っていない日は勿論、粉雪の日も、大雪の日も、吹雪の日も、彼は俺を訪ねてくれた。『やあ、ヨハン。調子はどうだい?』そう親しげに挨拶する署長を見ていると、こんな最悪な日々はいつか終わるんだろうと希望が湧く気がした。
 だが、終わらなかった。
 屋根から雪が落ちる音がして振り返ると、どさっと音を立ててレストランだった建物の横に雪の山ができていた。ふわふわと漂うのは舞い上がった粉雪ではなく、マルクスタウンに暮らしていた人の魂だろう。雪の重みと老朽化で潰れかかっている町並みは、記憶の中とは違いすぎて見知らぬ町のよう。叔父が隣にいた時の町も、疫病に混乱していた。
 町は工場にはない、色んな物が残っている。今では役に立たない貨幣。フェイが使い尽くして工場にはないネジ類も、金物屋には沢山残っていた。ロジャーさんの材木店には、薪にできそうな木片だけじゃなく、ちょっとした椅子や小物入れまである。コミュニティーセンターには腐敗していない缶詰や小麦粉の袋がダンボールで山積みにされている。
 まるで、泥棒をしている気分だ。
 排熱ボイラーの爆発から奇跡的に生還できたとはいえ、身体はフェイのロケット作りの材料を集められるほどに回復していない。リハビリを兼ねたマルクスタウンの探索と、使えそうなものの収集だったが、本当に泥棒をしているような感覚だ。
 ダラス署長、すみません。差し掛かった警察署の前で小さく謝罪する。
 ダラス署長は大柄な体を窮屈に丸めて、気さくに話しかけてくれるおじさんだった。紺の制服の胸元のバッジは金色に磨き抜かれていて、俺達も警察ごっこをする時は綺麗なバッジを胸につけたものだった。
 そういえば。足を止め、警察署を見る。じっと見つめると、記憶と重なって黒と白以外の色が重なっていく。
 ダラス署長は警察署の前に立っては、行き交うマルクスタウンの人々に挨拶していた。ぴんと背筋を伸ばし堂々と胸を張るダラス署長は、俺を見て『やあ、ヨハン』と笑いかける壮年の男性のままだ。その胸元が暗いことに気が付いた。
 そうだ、バッジがない。
 俺がダラス署長を埋葬した時も、バッジはしていなかった。
 幼い俺の顔が写りこむ程に磨かれた、警官の証であるバッジ。子供達がカッコイイと喜べば『そうとも、このバッジは私の誇りなんだから…!』と誇らしげに示したバッジ。紺色の制服を着ている時は必ず付けていたそれが、無くなったのは何時の頃からだ?
 バールを使って凍りついたドアをこじ開けるのにも、随分と慣れてしまった。コンクリート製の頑丈な警察署は、ダラス署長が最後に出たままなのだろう。カウンターに広げられているのはマルクスタウンの住民の名簿で、赤いペンで線を引かれて消されているもの、緑のペンでマーキングしていあるもの、チェックがされていないもののどれかだ。俺の名前を探してみると、何も書かれていない。死亡者、南へ移住した者で分類しているんだろうとなんとなく察した。
 ふと視線の端で何かが光った。顔を上げると懐中電灯がカウンターの上に置かれている。使い込まれたシルバーのハンディタイプのそれは、グリップ部分のゴムがすり減ってのっぺりと光を反射している。
 ダラス署長が巡回中は必ず持っていたものだ。
 胸が冷える。
 皆が南へ行って三年後、ダラス署長が森の中で冷たくなっていた。俺は巡回中に凍死したんだろうと思っていたが、ここに懐中電灯が残されているという事は死ぬつもりだったんだ。誰よりもこの町を愛していた署長が、この町が壊れていくことに絶望して自ら命を絶った。そう思わせる事実が、カウンターの上に残された懐中電灯にあった。
『誰か…いるの?』
 カウンターの内側に魂が居たのに気がつけなかったらしい。知らずに触れた魂だったが、女性で弱々しいものだ。
『私の主人ね…いつも誰かの為にあっちへこっちへ…。あの日は特に忙しい日で…警察バッジすら忘れちゃって…』
 警察バッジ。主人。ダラス署長の奥さんってことは、シエラおばさん? 母さんが『シエラに、イタズラはしてはいけないわよ』と、口酸っぱく言われた記憶が脳裏に蘇る。なぜ、イタズラしてはいけないのか、幼い俺には分からなかったな。
『あの日…旅館の女将さんが様子を見にきてくれて…。ベッドから動けない私の代わりに…主人に渡すようお願いしたの。結局…どうなったのかしら…?』
 ベッドから動けない。元々病弱だったか、それとも疫病に侵されていたか。
 どちらにしろ署長の奥さんが旅館の奥さんに渡したバッジは、ダラス署長に渡せなかったのだ。だから、ダラス署長はバッジを付けずにいた、そうとしか思えない。
 俺は懐中電灯を手にした。グリップの凹凸が全て擦れて無くなったが、署長の手らしい目に見えない凹凸が感じられた。手に吸い付くような握り心地に目を見張りながら、スイッチを入れてみる。一瞬ちかりとライトが光ったが、すぐに消えてしまう。電池がないのか、電球が寿命なのか。
 明かりさえあれば、建物の中を探索できる。
「ダラス署長。少し、借ります」

 フェイがトランシーバーを直すのに一月掛かったが、俺も懐中電灯を直すのには5日掛かった。電球と電池を手に入れるのに4日。修理に1日。簡単な修理だから出来るというのに、フェイが後ろから『手伝おうか?』と出てくる手を防ぐのが大変な5日間だった。
 旅館はマルクスタウンで一番大きな建物だ。宇宙葬が開催された時は、遠方から来たマルクスタウンの人口に匹敵する程の観光客を泊めたって話だ。雪に建物が傾いではいるが、頑丈に作ってあるのか立ち入りできそうだ。入り口を塞いでいた板を外し、直したライトで中を照らす。
 旅館の中に雪は入り込んでいなかったが、荒れ果ててはいた。疫病が流行った時、臨時の病院として使われたのか床に布団が乱雑に敷かれている。枕や衣類が乱雑と広がるエントランスには埃が積もっていて、椅子やテーブルが転がったりしている。歩く度にライトの光を白く濁し、舞い上がる埃と一緒に魂達もふわふわと漂っている。
 署長のバッジは旅館の女将さんが持っていたようだから、スタッフが出入りするだろう場所を探す。そうして行き着いたのは、事務所らしき空間。他のスペースと違って整然と並んだ机には、こぼれ落ちそうな程のファイルが残されている。壁に掛かったホワイトボードには『再び皆でお客様をお迎えしよう! 15326』と油性マジックで書き残されていた。
 女将さんが座りそうな机。大事なものが仕舞われているだろう場所。まるで泥棒のようだと思いながら、目星を付けた引き出しを開けてみる。引き出しの中は外とは違って整理されていて、ホワイトボードの言葉通りここに再び戻ってくるつもりだった気持ちが伝わってくる。ペンや定規、輪ゴムやクリップが綺麗に収まっている。いくつか引き出しを開け続けると、文具とは違ったものが視界に飛び込んできた。
「これか…?」
 それは柔らかい布に包まれていて、少し奥の方に仕舞われていた。指先に触れてはするりと抜けるような質感の布は、包んでいるものを傷つけないようにする気遣いを感じる。広げてみれば綺麗な柄のハンカチの中央に、鈍い輝きを放つ一つのバッジが収まっていた。
 あった。記憶の中にあった形が、目の前の物とぴたりと重なる。
 ダラス署長のバッジ。子供の頃は磨かれて光っていたそれは、磨かれずに放置されてくすんでいる。だが、錆びは見当たらない。綺麗に磨けばきっと綺麗になるだろう。そう思いながら裏返す。
 『貴方は永遠に私の誇りよ』
 刻まれた文字を覗き込むように懐中電灯から魂の光が溢れる。まるで息を飲むように、魂は動かず硬質な光を放ち続けている。なぜか動く気になれず、どれくらい じっとしていただろう。寒さが気持ちの中に忍び込んでくる頃、魂から声が伝わってきた。
『シエラはこうやって隠れて悪戯書きをしするのが、大好きでな…』
 ダラス署長。彼が愛用していた懐中電灯に宿っていたのかもしれない。
『ようやく見つけることが出来た。わしの誇りを…。シエラの想いを…』
 ようやく。その言葉の重みに俺は息を飲んだ。
 疫病と寒波で人が死にすぎていたあの時、誰もが心が引き裂かれそうだった。愛する妻を、胸に光る誇りを失っても、署長には悲しみに暮れる時間はなかっただろう。両親がヘミスに行って帰らない事を不安がっていた俺に、あの人は『大丈夫。帰ってくるさ』と力強く励ましてくれた。自分より他人を気遣い希望を与えて、誰が署長に返してやれただろう?
 愛した町の人々は南へ避難した。帰ってくる町を守るという使命に、署長は縋る思いで生きてきただろう。
 だが、帰ってこない。人々がどうなったか、想像するまでも無かっただろう。町が壊れていく。署長が愛した町が。
「署長。俺…署長の気持ちを分かってやれなくて…」
 署長が死んでしまったのは、俺にも責任があるんだろう。もっと話を聞いてやれれば、家族のように寄り添えれば、死ななかったかもしれない。
 すみません。消え入りそうな情けない謝罪の言葉。雪が深々と積もった森の中に続いた足跡の先で、倒れている黒い影を見た時、俺はその影が俺自身だと思った。足跡を辿って、うつ伏せの体を抱き起こした時、署長であったことに驚いた。俺が死んだと思った。もう死んでいると思った。皆がもう死んでいると思った。
 ふと頭を撫でられている感覚があった。
『今日という日を、ありがとう、ヨハン』
 俺は何もしていない。けれど、署長の暖かい声が、『ありがとう』をすんなりと胸に収めてくれた。
 バッジを磨いて、宇宙に還そう。署長と奥さんが宇宙で再会できるように。署長が宇宙に還ってもマルクスタウンの警察官であれるように。