手作りの縫いぐるみ

 『リクシール33』という鉱物は この星由来の燃料として用いる事が出来る鉱物だ。
 この鉱物が取れる採掘場で最も栄えたのが、マルクスタウンの南に位置する『マルクス新採掘場』だ。俺が生まれる少し前に採掘が開始された新しい採掘場で、世界中から人がやってきた。採掘されたリクシール33を加工精製する工場ができ、貯蔵するタンクが製造され、働く鉱夫達が酒を煽り、毎日が祭りのような日々だったそうだ。疫病の中、当時を懐かしむ声を何度も聞いたことがある。
 そんなマルクス新採掘場は、突如、大火災と連鎖大爆発で跡形も無くなった。その時、爆発の地震で棚の物がたくさん落ち、外へ飛び出して南を見れば空を赤く染め爆発する様子を今でもはっきり覚えている。
 距離的にはそこまで離れてはいない。かつては車で片道数時間といった距離ならば、俺の足で1日歩き通せば辿り着けるだろう。着けはする。だが、帰っては来れない。その距離が問題だった。
 気象コントロールセンターが機能しなくなってからというもの、終わらない冬は深まるばかりだ。この寒空の中で野宿なんて、死ぬようなものだ。なぜかは知らないが、夜になると赤い光を放つ、強い悪意を持った魂が急激に増える。夜中にそれらに囲い込まれてしまえば、俺は翌朝には発狂した無残な姿で死んでいるに違いない。狼に出くわせば、人としての形を保っていられるかも謎だ。テントを張ってそれらを凌げたとしても、暖がとれなければ凍え死ぬしかない。
 マルクスタウンの電気屋で充電式の電気ヒータを見つけたが、携帯できるサイズとあって一夜分しかない。
 一夜分。新採掘場に行って戻ってくる、だけなら可能かもしれない。だが、何もない訳がないだろう。新採掘場は大火災と大爆発で、どんな状況になっているか全く分からない。新採掘場の周りには山が多かったから、狼に遭遇する確率は工場周辺よりずっと高い。
 車で数時間の距離が、まるで大海原の向こう側のようだった。
 だが、大海原の向こうだろうが、行かねばならない理由がある。工場に残っていたリクシール33が尽きかけていたのだ。これがなければロケットの打ち上げができない。フェイがますます煩くなるだろう。魂達もかなり煩いのに、フェイが加わったらとても耐えられそうにない。
 そこで、マルクス新採掘場までの間に、いくつもの拠点を作ることにした。雨風凌げる程度に保存状態のいい建物で、さらに暖炉がある場所に薪と食料と寝具を運び込んだ。さらに雪かきの道具やソリ、探索に役立ちそうな工具なども置いておく。人が住まなくなって十年以上の家ばかりで、保存状態のいい家を探すだけで苦労した。
 郵便局近くの建物を拠点にして、さらに東へ向かう。鬱蒼と茂る森が途絶え、視界が開けた時、俺は絶句した。
 広い雪原が大河のように俺の目の前に横たわっている。雪は深く積もっていて、たくさんの何かが埋もれているのが見て取れた。そして、雪の煌めきと錯覚であって欲しいと願う程の、大量の魂達が犇めき合っている。
「ここは…確か、鉄道が走っていた」
 そうだ、へミスシティから南へ下る鉄道が走っていた。新採掘場から貨物便も沢山出ていて、何本も線路が敷かれていた。
 雪に埋もれていた何かの一つは、雪から飛び出て森に突っ込んでいた。列車だ。壮絶な事故だったらしく、車列は蛇腹折りになり、鋼鉄製の列車は見るも無残にひしゃげていた。固定されているはずの座席シートは森の中に投げ出され、窓という窓は粉々になって跡形もない。しかし不思議なことに、列車の残骸には沢山の銃弾の跡が生々しく残されている。
「なんで、銃弾の跡があるんだ?」
 ふらふらと近づいた瞬間、電車の中から沢山の人が飛び出してきた。続いて酷い臭いが脳を貫く。森の木々が音を立てて折れる音が響き、列車が轟々と音を立てて燃えている。熱風が顔を舐める。あまりの恐ろしさに腰を抜かして尻餅を着けば、列車の下敷きになっている男が直ぐ傍にいた。
「ひっ!」
 男は顔にびっしりと窓ガラスの破片が突き刺さっていた。固く閉じた瞼から血の涙を流し、口から血を吐き散らしながら男は言う。
「俺だ…。俺が、疫病に罹っているのを秘密にして…乗ったから…」
 疫病。パンデミックが宣言されてから、疫病に罹った患者には厳しい移動制限が課せられた。病気の進行の度合いによって隔離区間が決まっていて、最終的にはへミスシティ全体が閉鎖されてしまった。罹患者が許可なく隔離区間から出る事は、許されない。罹患者には進行の度合いを識別する目印の着用が義務付けられ、それを外すだけで警告なく警察に銃殺されてしまうと噂されていた。この男は逃げ出そうとしたのだ。病で死ぬとしても、少しでもマシな場所へ行こうと、この列車に乗り込んだのだろう。
 列車からは人々が次々と飛び出してきた。奇跡的に五体満足だった者が飛び出し、次に怪我はしているが動けなくはない者が体を引きつらせながら歩いて、次第にもう助からないが炎に焼かれ死ぬ恐怖から逃れるために這い出てくる者と続いた。背後の森では銃撃が土砂降りの雨のように続いている。
「おい」
 肩を叩かれると、そこには中年に差し掛かる男がいた。ダウンジャケットで着膨れ、防寒用のマフラーが首を幾重に巻いている。口ひげを蓄え、くっきりとした黒い眉。目の前を横切った沢山の人に比べ、彼の瞳は何もない雪原のような冷静さがあった。
 男は片手に女の子を引いていた。列車内にいたからか、長い茶髪はぐちゃぐちゃで、服は真っ赤に染まっている。しかし、彼女自身の怪我の血ではないのか、痛そうな顔はしていない。ただ事故のショックからか、泣きながらクマの縫いぐるみをきつく抱きしめている。
「殺されたいのか? 急いで逃げろ」
 多くの人が森の中に兵士が潜んでいて殺されると察してか、南に向かい始めていた。もう目の前の列車は火に飲み込まれつつあった。熱い。痛い。苦しい。それらが燃える事で呻き声に変わって、炎に喰われていく。
 恐ろしい。なんでこんな事になっているんだ。叫んで、この胸に閊えた感情を吐き出してしまいたかった。しかし銃声が大きな音を轟かせて迫ってくる。ここにいれば殺されてしまう。先ほどの親子が逃げた方向に、俺は転がるように駆け出した。
 女の子の手を引いているからか、先ほど声を掛けてくれた男に直ぐに追いついた。
「な、何が起きて…」
「疫病に罹った奴を一斉に処分するつもりなんだろう。この列車は移動制限の対象が微妙に緩かったことを、疑うべきだった。だが、誰もがあの地獄から逃げ出せると飛び乗ったんだ。そして列車は爆発し脱線。こうして兵士に待ち伏せされて、皆殺しにされつつある」
 男の言葉に俺は頭を殴られたような衝撃を受けた。
 処分。人を?
 マルクスタウンという小さい町では、入ってはいけない場所は増え、人々は不安な顔をしていたが、それでも人は病気で死んでいっただけだった。静かに滅んでいくあの町は、平和だったのだ。少なくとも、マルクスタウンの外よりもずっと。
 男が女の子と草むらに隠れた。慌てて倣った俺の目の前で、先を走っていた女性が射殺される。
「この子の母親は今の事故で死んだ。俺は父親じゃない」
 男が俺に女の子を押し付けてきた。母親の死を思い出したのか、びくりと大きく体が跳ね小刻みに震えだす。
「南へ逃げろ」
 急に男は立ち上がると、がさがさと大きな音を立てて草むらを掻き分けてマルクスタウンの方角へ走っていく。男の物音に周囲に潜んでいた兵士達が立ち上がり向かっていく。逃すなという鋭い声に続いて、銃声が響く。
 俺は泣きそうだった。俺にマルクスタウンの方へ行けば逃げられるかもしれないと言って行かせれば、少なくとも男は殺されずに済んだだろう。自ら囮になるような真似をしたのは何故なのか、もう知ることすらできない。
 女の子の腕を引いて走る。沢山の人だったものを跨ぎ、雪の中に飛び散った血を踏みしめて進む。
 新採掘場で働く人々が暮らす住宅街は雑然として入り組んでいる。突然発展したために増築を繰り返して、家と家がくっついたような、巨大な何かの生物のような複雑怪奇な場所だった。階段が縦横無尽に走り、玄関の横に隣の家の二階の窓があり、窓が向き合う場所は板が渡されて廊下になっている。常識が狂いそうな場所だ。その住宅街の家の一つに飛び込んだ。
 途端に悲鳴が上がった。先に逃げ込んだ人々が兵士が来たのかと驚いたのだ。だが、俺達が兵士でないと分かれば、部屋の隅に身を寄せて震えだす。
 兵士達に直ぐ見つかるような場所では殺されてしまう。
 隠れる場所を探して部屋を見回すと、まずそれが目に入った。
 暖炉だ。まだ燃え止しが暖かいが、火傷する程度ではない。俺は暖炉の上の煙突部へ続く金網を外し、まず女の子とクマのぬいぐるみを押し込んだ。燃え止しに刻まれた足跡を足の裏で払うように消してから、女の子を押し上げるように俺も入り込む。小柄な人が入り込んで掃除できる程度の広さなので、俺が入り込むと窮屈で身動きすら取れなかった。足で金網を嵌め戻すと同時に、兵士達が家の中になだれ込んできた。
 悲鳴が、銃声が立て続いた。扉が開け放たれる音、耳を裂くような悲鳴、物が壊される音が響く度に、銃声が獣のように食らいつく。巨人が地面を踏み鳴らすかのような、兵士の足音が響き続けた。どかどか、どかどか、家中を走り回る。恐ろしい。体の震えが止まらない。見つかればどうなるか。暗闇で鋭くなった感覚が全て教えてくれたからだ。
 がさりと真下で音がした。かちゃりと、銃器を吊るす金具が擦れる音を鮮明に捉える。心臓が速なり、目を真下へ凝らす。
 ヘルメットが見えた。暖炉の中を右へ左へと一瞥する。
 上を見るな。俺は願う。見られたら、殺される。体は鉛玉が体に食い込むかもしれないと、固く強張った。
 ヘルメットが少しだけ上を向いた。
 もっと上を向いてきたら、目が合う。金網の奥は暗闇だが、目を凝らしている俺の目が星のように見えてしまうかもしれない。それでも、目を逸らさずにはいられなかった。頬を汗が伝う。ヘルメットに飛び散った鮮血の数を覚えてしまうほどに、長い長い一瞬。
 兵士が下がった。
 ぞろぞろと硬い靴底が家から出ていくと、家の中は恐ろしいほどに静かになった。まるで嵐が過ぎ去ったようで、先ほどの虐殺は嘘だったのではないかと思うほどだった。遠くではまだ銃声が微かに響いている。それも、どれくらいそうしていたか分からない程に時間が過ぎると聞こえなくなった。
 俺は金網を蹴り壊し、煙突部から暖炉へ出た。もう燃え止しは冷え切っていて、外は真っ暗になっていた。血の匂いが満ちていて、闇の向こうがどうなっているか知りたくもなかった。
 女の子を暖炉の前に座らせ、俺は壊れた椅子の足を薪にして暖炉に火をつけた。暖かい光が柔らかく広がって、俺と女の子を包み込んだ。
「ママがね」
 女の子がぬいぐるみを抱きしめて呟いた。
「宇宙でまた会えるからねって言ったの」
 どう慰めてやれば良いか、俺には分からなかった。ただ、僅かに触れる部分から、温もりを分かち合うことしかできない。今夜も随分と冷え込みそうで、目の前の暖炉の火は命綱としては頼りなく思えた。
 女の子が静かに泣く。じっと、耐えるように聞いていた。

 気が付いた時には、明け方だった。隣で泣いていたはずの女の子はおらず、彼女が抱きしめていたクマのぬいぐるみが落ちていた。部屋には惨劇の跡は何も残っていないが、部屋の隅に魂が固まっているのが見えた。死ぬ間際の恐怖が魂達に刻み付けられて、今も苦しんでいるのだろう。それをわざわざ知らせなくていい。良い迷惑だ。
 所々解れ煤で汚れていたクマのぬいぐるみを抱き上げ、俺は立ち上がる。タグには何か刺繍がしてあった。『エマ、愛している』と指の腹で読み取る。女の子は殺されなかったのだろうか。それは、もう、誰にも分からない。
 燃え止しは赤く燻っていた。