開掘記念ブロンズ像

 俺の視界の中の世界は、蔓延する嫌な話題とは無縁だった。採掘を終えた屈強な男達が、落盤で仲間が生き埋めになって何人も死んだとしても笑って酒をかっ食らう。駅員がこの世の地獄と言われるへミスに転勤になるという、事実上死刑宣告が下されたとて仲間は無事を祈って笑って杯を掲げた。泣いて叫んでも酒のせい。笑い踊れと素面も酔った。それが、この地下賭博場兼酒場だった。
 テレビもラジオもなくなったって、レコードを回せば良い。レコードが回らないなら、そこにあるピアノを弾け。ピアノが弾けないなら歌えば良い。俺達は採掘場ができる前からここにいる。そう下手くそな歌を歌ったものだ。『開掘記念ブロンズ像』なんてものは、存在しないものなんだ。そんなものより俺達が、ここで酒を飲んでいる方が早いんだ、そう気持ちよく歌ったものだ。歌えないなら机を叩いてリズムをとれ。乾杯の声を上げてグラスを当てて響かせろ。
 そこで喧嘩がひとつ起きれば、どちらが勝つか賭ける。あそこでトランプを混ぜればポーカーが始まり、サイコロを振って数を当てた者が酒を奢られる権利を得た。賭けは力がない者でも勝者になれる。運の女神が味方をすれば、この小さい王国の1日国王に就任することだってできた。羨望の眼差しを浴びて、満更な笑みを浮かべない奴はいない。
 疫病がなんだ。この世界が滅亡するだって? 滅ぶってんなら滅んでみやがれ。
 ここを一歩出れば現実が死神の姿で立っていたとしても、ここにいる間だけは忘れられる。そう誰もが思っていた。
「おいおい、ヨハン。お前ほど幸運の女神に見放されている奴は見たことがないぜ」
 俺の言葉にヨハンは露骨なまでの特大のため息を吐いた。最近、この地下賭博場にやってきたヨハンという客は、中年に差し掛かるだろ男性だ。外の極寒ならば仕方がない防寒具の重ね着で、まるで熊のようなシルエットで地下賭博場の入り口を潜る。これがヒゲが大層濃い男で、髭を剃らねば本当に熊のような顔になるのだ。笑いが止まらない。
 ヨハンは中年になるだろう人生で何をして生きていたのか、全くわからない男だ。地下賭博場に来たというのに、ポーカーの役も何一つ知らない。酒を嗜まないので只管に紅茶を啜るヨハンにカードを引かせても、今だにワンペア一つ決まらない。ここにやってきたヨハンに役を教えた俺ですら、意味がないとすら思ってしまう。
『ポーカーが出来なくても、問題ないだろう』
 腹立たしく感じたのか、ヨハンが不機嫌を声色に変えて俺に言い放った。
「男という生き物は服と装飾品で自身を飾るんじゃないんだ。知識や幸運、勇気、そんな形のないもので光り輝くもんなんだぜ」
 はぁー。ヨハンの重い溜息が聞こえる。
 俺から見ればヨハンはつまらない男である。中年ならば仕事や結婚の経験で成熟した雰囲気を醸すものだが、この男はなんとも未熟でガキ。ちょっと突けば風船のようなふくれっ面で、注意一つで面白くないと態度に出る。外の疫病が蔓延して酷いのか、この男は無気力で生気に欠けていた。こいつが言葉を喋らなければ、俺は熊と見間違えて護身用のライフルで撃っただろう。
 俺も長年ここにいて様々な人間を見てきたつもりだ。人を殺してもニコニコと飯を食う犯罪者の隣で、事故で人を殺してしまったと酒に溺れている加害者。男と遊んでその時を謳歌するだけの娘、子供を抱えて日夜働くシングルマザー。乱暴だが人望のある坑夫に、気弱だが知識のある駅員。誰一人同じ奴はいない。
 ヨハンは俺の人生の中で初めて会うタイプだ。俺の好奇心はにんまりと笑みを浮かべて首をもたげる。
「ヨハンはこんな所に何をしにきているんだ?」
『なんだよ、いきなり』
「良いじゃないか。俺が興味があって聞いてるんだよ」
 俺の言葉にヨハンは暖炉の火をかき混ぜに行った。ぱっと広がった暖かい光が、闇に沈んだ地下賭博場を浮かび上がらせる。倒れたテーブルや壊れた椅子、割れた皿やガラス、廃墟としか言いようもないそれらが闇から幾つも浮上したが、ヨハン以外の客は誰一人いない。
『新マルクス採掘場にある、リクシール33を取りに来たんだ』
 へぇ。俺は素直に感嘆の声を上げた。この男、技術者か。
 リクシール33は爆発的なエネルギーを生み出す燃料だ。車から発電所、果てはロケットにも使える素材だろう。だが、リクシール33は採掘してすぐ使える代物じゃない。更に加工して初めて動力に使えるようになるので、一般人がリクシール33を手にするなんて機会はない。俺は物知りだろう? ここに勤める技術者から聞いたんだ。
「何に使うんだ?」
 なかなか返ってこないヨハンの返答の代わりなのか、暖炉の火がパチパチ爆ぜる。
『ロケットを打ち上げるんだ』
「ロケット?」
 首を傾げた俺に、ヨハンは首だけ振り返って言った。
『宇宙葬をするんだよ』
 一瞬、意味が分からなかった。だが、分かったら最後、肺が空っぽになっても息を吸うことすら忘れて笑った。笑って、笑って、ひいひいとカウンターにへばり付いて、涙目を擦って不満げなヨハンを見る。
 ロケットを上げるだって? 宇宙葬をするだって? そんなことを言う奴が、まだこの世界に残ってたんだな!
 昔は近くのマルクスタウンのロケット工場が、宇宙葬をするロケットを作って打ち上げていた。地下賭博場から日の光がわずかに拝める階段から、四角く切り取られた青空を一直線に駆け上る光を昔見たことがあった。轟音が響いて、衝撃が風と共に木の葉を賭博場の入り口に流し込んでくれたものよ。それでも見ていて気持ちがよかった。まっすぐに空に昇る光に、目が釘付けになった。俺の足りない語彙力じゃ表現できない感情が、じんわりと胸を熱くさせたものだ。
 だが、絶望が疫病という病として世界中に満ちてしまってから、ロケットは一度も上がらなかった。
 マルクスタウンで宇宙葬をするって噂はあったが、ついぞロケットは打ち上がらなかった。もう、ここではリクシール33は採掘できない。精密機械を作る会社がたくさんあるへミスは、地獄だって言うんだから笑えねえよ。ロケットを作ることから不可能じゃねぇか!
 ヨハンは溜息を一つ吐いて、寝袋に入って眠り始めた。朝になれば外へ行き、その日のうちに戻ってくることもあれば、何日も戻ってこない時もあった。俺はこのカウンターで客が来るのを待っている。この店から出た人間の心配はしない主義だ。
 それでも、結局、あの日から誰も来ない。
 新マルクス採掘場が燃えた日。
 あの日を境に客足はぱったりと途絶えた。常連客は死んだか、厳しくなる寒さに南へ行った。わかっている。わかっているんだ。皆、とっくの昔に死んでしまっている。ここに客などという奴が訪ねてくることなどない。カウンターに立ってグラスを磨いている俺ですら、死んでいるんだろう。死んだ時の記憶はない。だが、生きる為に必要な何もかもがごっそりと抜け落ちている。ただ、立ち続けて客を待っている。
 ヨハンが出かけて行ったのだろう。記憶の中では店内の隅々に響いた澄んだ鈴の音は、もう鳴らぬ。
 あぁ。どこへ行けと言うのだろう。どこへだったら行けるのだろう。
 俺はここに立ち続けることしかできない。
 宇宙葬をするんだよ。ヨハンの声が焼き付いたかのようで、痛みすら感じる。死んだら銀河へ還って、皆と再会できる。そんなしみったれた古臭い地球教の教えが、あのロケットが駆けていく光のように心を捉えて離さない。
 あぁ、俺は銀河へ行きたい。その願望が、喉の渇きのように苦しませる。喉がカラカラに乾き、舌はひび割れたかのように硬く痛み、口の中は石のように全てを拒絶する。寝ても覚めても苦しさが責めるように続く。耐えがたい。グラスの中を満たす液体はどこにもない。背後に並んでいたボトルを掴む手は、もうなかった。
 狂いそうだ。好奇心は猫をも殺すという諺は、神話の時代からもあっただろうか。
 怒りがこみ上げて、自分が壊れてしまいそうだ。
 澄んだ鈴の音が響いた。
 賭博場の床に、次々と足音が雪崩れ込んでくる。懐かしい声が、歓声を上げる。ロミ・フランツが見つけられないと嘆いた『開掘記念ブロンズ像』を探しに行ってそれっきりの男は、カウンターの上にいつの間にか置かれたそれを見て感激している。採掘場で働く者達が交わす専門用語、駅舎で働く者達の生真面目な言葉遣い、消防署で働く者達の響く声。懐かしい。懐かしい。心が、満たされていく。
『あぁ、入り口の鈴は直した。常連っぽい奴らが探索で憑いてきたから、ここに置いていく』
 ヨハンの声だ。目の前にヨハンがいる。相変わらず熊みたいに着膨れして、こんなに寒いのに髭を剃ることはマメにする変な奴。そいつがコインを持っているのに気がついた。政治と宗教が一体となった証として、議長と地球教の長老の顔が描かれている硬貨だ。
「ヨハン。コイントスくらいはできるだろう?」
 俺は言った。賭けよう、と。
『俺もあんたも賭けるものなんか、何も持っていないだろう?』
「俺が勝ったら、お前は俺達を銀河へ連れていくんだ」
 俺は笑った。もう戻ることのない日々が帰ってきた。ここは銀河への待合室だ。なんて素敵なんだろう。ヨハン。お前をつまらない男と思って悪かった。今でも、つまらない奴だとは思っている。だが、お前は俺達には出来ない事ができるだろう。そう、俺達を銀河へ連れていくんだ。そうする為に、頑張ってるんだろう?
 雪焼けした指がコインを弾く。上へ駆け上がる光は、ロケットのそれを思わせる。
 ヨハン、知っているか? 賭博場の主人ってもんは、賭けに負けないんだぜ。今までも、これからも。