落描きされたヘルメット

 マルクス新採掘場の巡視員チャールズより通報。重大な漏洩により爆発の危険性があり、緊急招集が掛かった。巡視員から漏洩の可能性があるとの通達は夜間帯からあり、緊急出動の為の人員は既に消防署に待機していた。しかし、巡視員が気がついた時には、初期消火は不可能。もう手遅れなのだろう。
 最悪の状況しか予想できなかった。
 俺は息子の頭を撫で、その顔を目に焼き付けようと見た。マルクス新採掘場の火災は、近隣に立つこの家を揺らすほどの爆発を何度か既に起こしている。家の棚のものは次々と落ち、人々は地震という神話の現象に、この世の終わりを感じて半狂乱になっている。息子なりに察したのか、息子は昔使っていたヘルメットに落書きしたものを差し出した。
 おとうさん ぼく えをかいたの かえってきて って おまもり
 白いヘルメットに、花畑の真ん中で俺と息子が手を繋いでいる。あぁ、こんな世界があるのだろうか。花は俺が幼い頃に見ただけ。妻へのプロポーズの時には花が大変高価な代物で、結婚指輪よりも高かった。結局、造花を送った。その花は今もベッドサイドテーブルの上に飾られている。
 死ぬ場所に、こんな素敵なものを持っていけるのか。死ぬその瞬間まで、息子を感じられる幸せ。俺は尊き地球に感謝した。火を食い止め、息子と、息子を預かってくれる姉の夫婦が生き延びれるよう頑張らないとな…!
 俺は息子を抱きしめた。柔らかくて少し甘い香りがする。
「ありがとう。必ず、帰ってくるからな」
 その言葉は嘘ではなかった。帰ってくるつもりだったんだ。息子に、そう言った時までは。
 子供達を疫病で亡くした姉夫婦は、覚悟を決めた俺の顔を見て表情を引き締めた。必ず、命の限り息子を守ってくれると、真一文字に震える口元が物語ってくれる。姉は涙に潤んだ瞳で、それでも気丈に俺を送り出してくれた。
 玄関の戸を開けてマルクス新採掘場の方角を見て、言葉は嘘になった。炎は周辺の家を黒く塗りつぶし、雲を焦がし忘れられた夕暮れという空の色に塗り替える。凄まじい火災旋風で黒煙は瞬く間に吹き飛ばされ、赤々とした炎が高笑いを上げながら踊り狂っている。あの炎に消化ホースからの放水が、どれほどの効果があるのだろうか? 圧倒的な熱がここまで俺を舐めあげにきた。膝が震える。逃げたい。あそこは火葬場だ。俺の死ぬ場所だ。そう、魂が訴える。
 おとうさん がんばって!
 息子の声が後ろから聞こえた。振り返ったら、息子を抱き上げて炎とは反対方向に駆け出してしまうだろう。俺は震える手を上に伸ばした。俺は息子が誇れる、親でありたい。そうしなければ、この炎は息子に手を伸ばして、ぺろりと飲み込んでしまうだろう。
 手を握り、親指を立てた。大丈夫だ。そう、自分に言い聞かすように、親指は真っ直ぐ銀河へ向けた。
 駆け出した。息子の声を振り払うように、自分の恐怖を踏みつけて、前も見ず耳を塞ぐように走った。普段は賑わっていた採掘場への道は、逃げ惑う人や爆発の瓦礫で全く姿を変えていた。それでも体が覚えてくれていた消防署への道は、爆発で吹き飛んできた瓦礫で車の出入りは既に難しかった。
 慌ただしく消火の準備に追われている仲間の一人が、駆けつけた俺を見つけて叫ぶように言った。
「署長を見なかったか?」
「いや、見ていない」
 マルクス新採掘場の巡視員が、燃料タンクのプレッシャーの値が高い位置を推移していると報告を受けたのは昨日。署長はその報告を受けてから、ずっと消防署に待機していた。署員や近隣の消防団に、万が一の事態のために準備を怠らないようにと、先頭に立って行動していた。
 俺は再び大きな音で爆発を起こした採掘場を見やった。様々な燃料が詰まっている貯蔵庫がビルのように立っている。それが一つでも爆発すれば、消防活動している俺達の命はない。恐ろしかった。息子の顔が過ぎって後悔の念が浮かぶ。まさかな。
「北でも列車が脱線して大騒ぎらしい」
「班を分ける選択肢はない。この採掘場の全ての燃料が爆発して消失したら、へミスは凍りつくぞ」
 俺の言葉に仲間達が頷いた。
 マルクス新採掘場はへミスにとって重要だ。発電所、火力発電を行う燃料、輸送の手段の燃料、人々が暖をとる為の燃料。この極寒の世界を生き延びる為の熱量を生み出す全てが、ここにある。それが失われたら、人々は凍え死ぬしかない。凍死が疫病に比べてマシな死に方であると、言う者は誰もいない。
「待機していた連中は先発で行ってる。俺達も続こう」
 皆が頷いた。震えていた若者はトイレへ行ってくると言って戻ってこなかったが、誰も彼を臆病者だとは言わなかった。皆、あの火災現場が死場所になると分かっている。この防護服は死装束だ。疫病で死ぬよりも、火災を止める英雄として死ねる方が良いと笑う者もいる。それが強がりだと、皆分かっている。鬼気迫る中に不思議な安堵を共有しながら、俺達はホースを担いで駆け出した。
 火災。爆発。倒壊。まさに地獄とはここだ。
 爆発に先発した班が半壊。残り半分は倒壊した瓦礫の下敷きになるか、煙に巻かれて息絶えていた。もう、マルクス新採掘場の大半に火の手が回った。全てが燃えて尽きるまで、火が消えることはないだろう。先発班が到着した時には、既に手遅れたっだ。俺達の班もじりじりと炎の勢いに後退し、リクシール33や精製燃料が貯蔵されている倉庫の前まで来ていた。
「あそこは、地下が防火設備だったな」
「あぁ。マルクスのロケット工場が手掛けた特注の扉と防壁だ。持ち堪えてくれるさ」
 俺はちらりと倉庫を見た。地下に潜るように階段があり、その奥には頑丈そうな無骨な扉が嵌まっている。火気厳禁の文字と記号が、貯蔵庫と書かれたプレートの下に並んでいた。マルクスのロケット工場は実際に宇宙葬のロケットを作る、小さいながらに有名な工場だ。その丁寧で堅実な仕事ぶりは信頼となって、この地獄を乗り越えて中身を守ってくれるだろうと思わせてくれる。
 そして前を向いて、仲間と目があった。
「班長。あんただけでも逃げなよ。俺はみんな疫病で死なれちまったからさ」
 なんで、そんな事を言うんだ? 見回せば仲間達は奇妙な穏やかさで俺に笑いかけている。 その中の一人がヘルメットを叩いた。そうだ、息子のお守り。それを見て、仲間達は俺には帰りを待つ家族がいると、この地獄の中でも分かったのだ。
 背後の防火扉に飛び込めば、生き残れるかもしれない。
 かも。可能性だ。
 この火災はどのくらいの日数燃え続けるだろう。一週間。一月。数ヶ月に及ぶかもしれない。生き延びても飢え死にする可能性だってあった。同じ死ぬなら、仲間を見捨てて炎を恐れた後悔を抱いて死ぬよりか、仲間と共に死ぬさ。
 俺は笑った。息子のお守りを分厚い防護手袋で撫でる。
「逃げないさ。俺は勇敢なおとうさん、だからな」
 仲間達が笑った。笑って、勝ち目のない戦いに身を投じていく。
 燃える。熱い。それでも火の勢いは衰えない。まるで巨大な山のように大きく膨れ上がり、止まない雪のように火の粉を撒き散らす。爆発の音、建物の倒壊する音すら飲み込んで、炎は仲間を飲み込んでいく。煙が俺達を嘲笑うように取り巻いている。仲間達の防護服は内側から黒い煙を吐き出して、倒れて動かなくなる。燃える。熱い。燃える。持つ者が居なくなった消火ホースから、だぼだぼと水が溢れて炎を映す。
 力が入らない。力を入れるべき場所がわからない。俺の体は、どうなっているのだろう。あぁ。俺は…
 おとうさん
 息子の声が聞こえる。あぁ、尊き地球よ。死ぬ間際に息子の声が聞けるなんて、俺は幸せ者だ。次は銀河で再会しよう。
 おとうさん ひを けしてくれて ありがとう!
 何を言っているんだろう? 火は目の前で燃えている。見た事もない程に大きくなって、空を炙って真っ赤に染めている。全てを飲み込んでいった。新マルクス採掘場も、仲間も、俺自身ですら…。
 ふと、誰かが俺に触れた。男の手だと何故か分かる。そして触れた場所からすっと冷たい空気が広がっていく。火の粉が粉雪へ、炎は消えて薄く曇る空が広がり、建物だった影が黒々とした瓦礫になっていく。俺に触れた男は、俺の頭からヘルメットを取って、布で黒く汚れた煤を拭った。
 煤の下から、息子の描いた絵が現れる。男の顔に見覚えがあった。仕事で、どこかで、見たことがある。
『もう、火は消えているんだ』
 声を聞いて思い出す。そうだ、マルクスのロケット工場のメイソンさん。ロケット打ち上げの際は、新マルクス採掘場の消防署も応援で駆けつける。打ち上げに失敗して炎上したら消す為だ。
 俺達が居たんじゃ、縁起が悪いですよね。そう笑った仲間に、メイソンさんは温和な笑みを浮かべて言ったな。
 失敗したら、また作れば良いんですよ。今度は打ち上がるように、改良してね。
 あぁ、メイソンさん。貴方はまだ、ロケットを作ってくれているのか? 俺達を宇宙へ送り出してくれるのか? この全てが燃え尽きてしまった世界で、希望という火を灯してくれるのか。ありがとう。感謝が溢れて胸を熱くする。
 おとうさん むかえに きたんだよ。
 息子の温もりがある場所が、俺の帰る場所。俺は諦めていた約束に手を伸ばす。
 おかえり おとうさん。
 そう返せる喜びに、息子の温もりに、俺は目を閉じた。あぁ、もう、消すべき火はないのだ。幸せな暖かな涙が一雫、曇った世界を洗い流してくれる。息子の顔がはっきりと見える。
 ただいま。