疫病後記録写真集

 板を打ちつけ南京錠と鎖で厳重に封鎖されていた扉は、つい最近に破られたと分かる。雪焼けしている所とそうでない所の差が、鎖の錆が一つの模様みたいに扉に刻まれている。フェイが防寒具で着膨れた体で俺を押しながら、扉を見た。
「ここがそうなの?」
 そうだと答える前に、フェイはダラス署長の懐中電灯を奪い取って扉を開け放った。なんて品のない巫女なんだろうと思うが、フェイだから仕方がない。
 扉の内側はこの周辺の中では、奇跡的と言えるほどの状態の良さだった。雪が染み込んでカビが生えていることもなく、壁や天井が崩れて雪塗れでも、避難民が居ついた形跡もない。そこは俺が見てきた限り人が生活していた跡が、一番色濃く残った場所だった。
 壁という壁は全て棚が作り付けられていて、その棚が撓むほどにファイルが詰め込まれている。天井からロープが渡され、たくさんの写真が吊るされていた。机の上には大きな使い込まれた鞄が置かれ、中にはまるで望遠鏡のようなレンズのついたカメラやレンズケースやフィルムケースが乱雑に詰め込まれている。鞄の傍に置かれたアルコールで灯るランプに火を入れると、暖かい光が狭苦しい空間を照らした。
『ようこそ、私の最後のアトリエへ』
 そう椅子の上に漂う魂が俺達に言う。この部屋の主人ウェイバーンさんだ。
『ここを離れる時は、毎回入り口を塞ぐのを手間だと思ったものだよ。誰も腹の足しにもならない写真を漁る泥棒なんて、居ないだろうに、何をやっているんだってね…。お陰様で、こうして綺麗な状態で残ったんだ。やっておくものだね』
 火種の代わりにはなるかもしれないから、封鎖しといて正解だったとは思う。
 優しい人好きしそうな声色は、なにも変わらない。写真家ウェイバーンは、疫病が流行り出した頃からマルクスタウンやOPUS工場に足繁く通ってきた。全ての家の扉を叩き、貴方の写真を取らせてくださいと頭を下げていた。聞き上手で、人々の話に耳を傾け、写真を撮らずに帰ってしまうこともあったとか。疫病に怯える人々の心を、和ませる穏やかな雰囲気を持った人だった。
 フェイはウェイバーンさんの魂に触れて、地球教の巫女がする優雅な挨拶をする。そしてフェイはゆっくりと魂から離れて、棚のファイルの背を舐めるように見た。ファイルの背には全て写真を撮った場所や日時がラベルで表示され、新聞や雑誌、感染予防のチラシに至るまでとても綺麗な状態で保存され整理されている。その一つを取り出して開けば、感動のため息を零す。
「なんて貴重な資料なの…。疫病で失われた時代の全てが詰まっているよう…」
 呟きが終わる頃には、まるでロケットの図面を引いている時の集中力で読み始める。放っておこう。
『疫病に関わる事は出来る限り集めたつもりだ。置き場がないからと、ロミ=フランツが提供してくれたものも多い』
 俺は荷物から電気ヒーターを取り出す。部屋には小さい薪ストーブが設置されているが、排煙菅の状態が確認できていないので使えない。疫病後も使われていたのか、床は厚くカーペットが敷かれ防寒対策はされてはいるが寒いものは寒い。扉を閉じて外気よりかはマシだったとしても、暖房を点けなければ凍死できる。
 稼働させて暖かい空気がヒーターから感じられるようになると、ウェイバーンさんの魂が呼んでいるように瞬いているのに気付く。魂に触れると『こっちへ』と、椅子からふわりと魂が移動する。
『ここにヘミス近郊の地図が入っている。ヨハン君、君の役に立つだろう』
 箱が積み重なった、部屋の片隅に魂が留まる。箱には棚に収まる決まった形から外れた印刷物が収まっているらしく、その一つに地図と書かれた箱がある。蓋を開けて取り出して広げれば、疫病の大流行が宣言される少し前の年に発行された使い込まれた地図だ。分かる所だと、マルクスタウン、ヘミス、新マルクス採掘場もある。採掘場は発行されていなかったのか手書きで、丁寧でわかりやすく詳細に書かれていた。『疫病前は興味のため、疫病後は記録を留めるため ロミ=フランツ』と走り書かれている。
 ヘミス近郊と市街地が詳細に載っている地図をテーブルに広げた。擦り切れ破けた場所はセロハンテープで補修されていたが、そのセロハン自体が劣化してぱりぱりと崩れて行く。大都市ヘミスを囲むように赤いペンが走り、封鎖ラインと書かれている。通れなくなった場所は黒くバツ印が書き込まれ、封鎖、倒壊、雪崩や崖崩れと封鎖の理由が書かれていた。
 もちろん、疫病後から何年も経っている。この地図通りではないが、概ねは合っているだろう。椅子に座って、地図をじっくりと見る。ここからヘミスまでまだまだ距離がある。天候次第では1日でヘミスに到着することも難しいだろう。まずは拠点にできそうな場所を探すための目星を、地図を見ながら付けて行く。
『ここに一泊して行くのかね?』
「元々そのつもりだった。あれじゃあ、動く気配ないからな」
 フェイは凄まじい集中力でずっとファイルを捲っている。
 ヘミスを目指す道すがら、ウェイバーンさんの魂に再会した。疫病ではなく強盗に殺されたという彼は、盗まれた荷物を探し出して欲しいと頼んできた。高価なカメラも金の価値が失われた世界では何の意味もない。荷物はそのまま近くの家の片隅に放置されているのを見つけ、この最後のアトリエに運び込んだ。たくさんの写真や新聞が保管されたアトリエの話をしたら、フェイは目を輝かせて見に行きたいと言い出したんだ。
 OPUSの工場から歩いて半日の距離だ。たまには外出もしたいんだろうと、連れてきた。
 それにしても見れば見るほどに凄い量だ。適当にファイルを開けば、俺が幼い頃に見た『3密』の印刷物が挟まっている。『密閉』『密集』『密接』という三つの状態を避けることで、疫病に罹らないようにと住民達に求める内容だ。全ての家庭に配られた。さらに配給や商店に張り出されていた紙もある。全世帯一人だけが買い物や配給の受け取りに来ることができ、その時間は住民登録番号の偶数と奇数で割り振られていた。社会的距離を保てと、今日の新規感染者、ラジオでは壊れているかと思うほどに繰り返された言葉が、文字になって紙の上に留まっている。結局、どれだけ有効だったかは知る由もない。結果は、言うまでもない。
 マルクスタウンとラベルが貼ってあるファイルを開けば、懐かしい顔が写真の中に残っている。どれもこれも見覚えのある顔ばかり。仲の良さそうなレストランの老夫婦。誇らしげにトロフィーを胸に抱く町長。工場の集合写真もある。幼い俺はなんだか他人のようだ。懐かしい。誰もが笑顔で、思わず涙が出そうになる。二度と見れないと思った顔が、写真の中に残っている。
 泣いていたらフェイに笑われる。俺は徐に立ち上がって、外へ出た。
 外は想像以上に風の凪いだ穏やかな天気だ。うっすらと粉雪が舞っているが、比較的暖かい。もう少ししたら日没だろう。
 来る途中で拾ってきた枝を使って小さい焚き火を起こし、雪を鍋に掬ってお湯を作る。雪を溶かして真空処理されたソーセージを、缶から小分けにしたコーンや豆類とともに放り込む。パンの缶詰を開けてスライスして炙ると、良い香りが広がって行く。皿の代わりにもなる小さいフライパンを二つ取り出し、パンとソーセージと彩りの野菜を載せる。最後に野菜とソーセジに塩と胡椒を振れば出来上がりだ。焚き火の上から火消し壺で蓋をして、火を消す。
 アトリエの中に入ると、フェイは変わらぬ位置で変わらぬ姿勢のままだ。目を何度も何度も瞬かせて、唇を噛み締めて、涙を堪えているように見えた。俺が近づくと、地球教の長老が亡くなった一面記事を見ているようだ。フェイが驚いて、さっとファイルを閉じると俺の胸を叩いた。
「驚かせないでよ。熊かと思ったじゃない」
 熊じゃないし。冷めぬうちにテーブルの上に鍋敷きを敷いて、料理を盛ったフライパンを乗せ、暖かい飲み物を添える。スプーンを互いに渡せば、この世界で贅沢な暖かい食卓がそこにある。フェイがご満悦な様子でパンに齧り付いた。美味しいと嬉しそうに笑う。
「ヨハン、料理が上手になってるんじゃない? パンがトーストされてカリカリしてるの美味しいわ」
「我が儘な奴と暮らしてると、上手になるみたいだ」
 もう! 白い頬が膨れる。
 昔は腹が膨れれば良いと思った。じっと工場の中で息を潜めるように生きてきた日々は、生きているか死んでいるかなんか分からない。南へ行こうと煩かった叔父さんが、二ヶ月経って迎えに来ると叫んだが迎えに来なかった。マルクスタウンに残った神父様も、ダラス署長も居なくなれば、話す相手もいない。何のために生きているのか分からない。ただ、腹が減って、眠くなって、寒いのが耐え難い。死ぬのが怖かった。缶を開けて食べる。缶にスプーンを突っ込んで、冷たい何かでお腹を満たしていた。
 フェイが来てからだ。フェイがやり始めたんだ。半ば冷凍保存された食料を、温めて調理して、それがなかなか美味しいのだと知った。外に出てロケットの部品を探し始めれば、工場の外で夜を明かさねばならなくなれば、暖かい食事は命綱だ。冷たい食事を摂って体の芯から冷えてしまえば、凍死しかねない。アルコールランプを荷物に入れて、時には焚き火を起こして食材を温めて星空を見上げて食事をする。体の内から温まる事は、幸せだった。
 凝り性の魂と出会うと、聞いてもいないのにお勧めのレシピも教えてくれる。
 工場から出たら、死ぬと思った。死んで何もかもが終われることは魅力だったが、死ぬのは怖かった。今でも工場の外は恐ろしい。獣も出るし、何より寒さが死神のように傍に立っている。それでも、工場の中であのまま過ごしていたら絶対に感じられない世界を見ている気がする。
 良いかどうかと言われたら、最悪だ。それでも魂達の声で発狂して死ぬよりかはマシかもしれない。いや、どっちも最悪だ。
「ヨハン」
 フェイの声に顔を上げた。フェイは嬉しそうに俺を見ている。なんで、嬉しそうなんだろう?
「ここに連れてきてくれて、ありがとう」
 何て返せば良いか、分からなかった。巫女様の気晴らしになって良かったです、とでも言えば良かったかもしれないが、俺は丁度ソーセージを口の中に入れたばかりだった。
「私、コールドスリープを施されている間のことは、何も知らない。何も知らないうちに、何もかもが無くなってしまった。でも、ここには残ってる。私が宇宙に還すべき人々が、写真の中に残ってる。私、絶対に宇宙葬を成功させるわ!」
 キラキラと光っているようだった。最近はロケットも失敗続きで、沈んでいた彼女が光って見える。
 暖かいし、ご飯はまあまあだし、フェイは嬉しそうだし、なんだか、気分がいい。
 ぱしゃりとカメラが動いた。テーブルの上に置かれた鞄からこちらを向いているカメラの傍で、ウェイバーンさんの魂だろう光がふわふわと浮いている。
『ウェイバーンの最後の写真は、最高の一枚になりそうだ』
 あとで現像しよう。手伝っておくれよ、ヨハン君。そう言われて、さっきまでの気分が瞬く間に色褪せる。
「私とヨハンの写真だって! 楽しみだね!」
 たぶん、この世界で一番明るい笑い声が弾けた。